カテゴリ: がんばれニッポン!

アンディ平岡が挑むジュニアウエルター級は世界的にも人気階級、つまりレベルの高いクラスです。

この牙城を崩したのは藤猛、浜田剛史、平仲明信の3人だけ。

南海の島で生まれ育った口髭をたくわえたパンチャー、世界奪取は衝撃的な序盤KO…共通点の多い3人ですが、私が受けた印象はそれぞれ全く違うものでした。


IMG_1288

【1967年4月30日:国技館】藤猛は、私の知らない時代にタイトルを奪ったまさに伝説。五輪銀メダリストのサンドロ・ロポポロを2ラウンドで轟沈させました。

勝利インタビューで叫んだ「岡山のおばあちゃん見てる?」「ヤマトダマシイ」「勝ってもかぶってもオシメよ」は今なら間違いなく流行語大賞、藤は国民栄誉賞に選ばれていたかもしれません。

ジュニアウエルター級Undisputed champion の藤猛の全ては、ずぅ〜っとあとになってから読んだり見たり聞いたりした伝説でした。



IMG_1417

【1986年7月24日:両国国技館】そして、浜田剛史。

国技館には行けませんでしたが、浜田のことはほとんどデビューから応援していました。

私が〝デビューから〟チェックしていた最初のファイターでした。

その強打ゆえに何度も左拳を骨折、その踏み込みの強さゆえに半月板も損傷。

当時の帝拳は、今のようなパワーハウスではありませんでした。老舗ジムの年季を重ねたフロアリング、大場政夫に続く二人目の世界チャンピオンの期待がかけられた満身創痍の浜田剛史…帝拳にはクラシックなムードが奏でられていましたが、当時は悲劇的な旋律も聴こえてきました。

主戦場のライト級からジュニアウエルター級は世界の激戦区なのに、浜田剛史は、万全の状態でリングに上がることは出来ない。

やっと辿り着いた世界の舞台。両国国技館に流れた「ヒーロー」のメロディが鎮魂歌に聞こえたのは私だけではなかったでしょう。

みんな、男の散り際を見届けに来たのです。

浜田は意識を失うまで戦うだろう。長くて辛い夜になる、そう覚悟していました。

試合は初回、2分59秒、浜田が王者レネ・アルレドンドを痛烈に沈めました。直後に1ラウンド終了のゴング。

王者が立ち上がれば、インタバルに逃げ込めましたが、アルレドンドは完全失神。主審のジョー・コルテスがテンカウントが数えてもピクリとも動きませんでした。




【1992年4月10日:メキシコシチー エル・トレオ闘牛場】あれほど強かった平仲明信なのに、日本人ファイターの恩恵にあずかることはほとんどありませんでした。

それは、日本で好き勝手できないジュニアウエルター級という人気階級だったことだけでなく、彼が東京や大阪、名古屋の大手ジムの所属ではなく、沖縄ジムに所属していたからでした。

熊谷ジム(埼玉)の工藤政志を例外にすると、地方ジムが生み出した世界王者は平仲が初めて。

練習相手を探すのも大変な苦労、しかも全国的に層の薄い(日本では)重量級。さらに、当然ながら報酬も〝沖縄価格〟。東京遠征では赤字になったことまであったと聞きます。

しかし、それは彼が自分で選んだ道、THIS IS THE WAY でした。

プロ26戦目で辿り着いた初挑戦は1989年4月29日、WBA王者ファン・マルチン・コッジに挑戦します。当たり前のように舞台は敵地イタリア、地中海をのぞむ港町バスト。2度ずつダウンを奪い合う激戦は大差判定負け。

その3年後に巡ってきた再びのチャンスもメキシコでしたが、そこは敵地ではありませんでした。世界が注目するトリプルタイトルマッチのメインはWBCジュニアウエルター級王者フリオ・セサール・チャベス、セミはWBCミドル級王者ジュリアン・ジャクソンの防衛戦。主役はもちろん、チャベス。

平仲が挑戦するWBAジュニアウエルター級王者エドウィン・ロサリオはかつてはチャベスのライバル、メキシコでは〝悪役〟でした。

平仲にとってはニュートラル、プエルトリカンのロサリオにとってはアウエーという珍しい構図のタイトルマッチ。

IMG_3552


地方の弱小ジムゆえに、長い時間をかけて遠回りを重ねた平仲が、リングサイドに陣取ったドン・キングの度肝を抜くのに要した時間は、わずか92秒。



「うちのジムは日本一貧乏だけど、スタッフは日本一。ぼくは沖縄が大好きだから」(ボクシング・マガジン1992年6月号)。

のちに殿堂入りするロサリオを電光石火のTKOで仕留めた平仲は、1週間後には沖縄の実家で養豚業を手伝っていました。





このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ジュニアウエルター級がいつ始まったのか、正確には誰も知りません。

140ポンドとキレの良い数字は、英国で馴染みのあるストーン(1ストーンは14ポンド)単位でも10ストーンと区切りのウエイトでした。

1920年代、ミネソタ州ミネアポリスで発行されていた週刊のボクシング・ブレードで行われた初代王者はファン投票で行われ、ピンキー・ミッチェルが〝当選〟。

ミッチェルはこの専門誌のオーナーであるマイク・コリングスがプロモートするファイターで、投票は出来レースだったと考えられます。

「区切りの良い数字だから」という勝手な理由で新設階級が認められるわけもなく、当時のタイトル認定の最高権威だったニューヨーク州世界タイトルを管理していたニューヨーク州コミッションは1930年にジュニアウエルター級を廃止。

全米ボクシング協会(NBA)はジュニアウエルター級王者を認め続けますが、ストーン単位の母国である英国のボクシング管理委員会(BBBofC)ですら、この階級を「タイトルの権威を貶める」と認めませんでした。

GettyImages-158471319-copy

1930年代にはトニー・カンゾネリとバーニー・ロスが活躍、ジュニアウェルター級の他にカンゾネリはフェザー級とライト級、ロスはライト級、ジュニアウエルター級、ウエルター級でNBAのタイトルホルダーとなりましたが、彼らを3階級制覇と認めるのはきわめて少数派です。


https://fushiananome.superknova.org/archives/13327941.html

https://fushiananome.superknova.org/archives/13455342.html


同時代の傑物、ヘンリー・アームストロングが史上初の3階級制覇と認められているのは、彼がフェザー級、ライト級、ウエルター級の〝水増し無し〟のクラスで覇権を握ったからでした。

この記録は、約50年後にトーマス・ハーンズが「4」に更新しますが、ハーンズの4にはジュニアミドル級が含まれ、3団体時代であったこともありアームストロングとハーンズを同列に語る人はどこにもいません。

マニー・パッキャオの8階級制覇もジュニアフェザー、ジュニアライト、ジュニアウエルター、ジュニアミドルとその半数がオリジナル8ではなく、認定団体も4まで拡大、タイトルの価値は暴落していた時代でした。

IMG_6359

この紆余曲折の140ポンド、10ストーン、ジュニアウエルター級、いやさスーパーライト級???のオールタイムグレートはどんなランキングになるのか?

リング誌の「+DIVISION BY DIVISION:THE GREATEST FIGHTERS OF ALL TIME」を覗いてみると…。

①フリオ・セサール・チャベス
②アーロン・プライアー
③コンスタンチン・チュー
④バーニー・ロス
⑤アントニオ・セルバンテス


それこそファン投票ならプライアーになりそうな気もしますが、いやファン投票ならますますチャベスか?

英国の酔っ払いは「チューに勝ってるリッキー・ハットンが1位だ!」と大騒ぎしそうですが、そんなの「ホームズやスピンクスに勝ったタイソンが彼らより下なんてありえない!」とわめくタイソン信者と同じです。

次点としてニコリノ・ローチェ、ジャック〝キッド〟バーグ(ミッチェルに勝ったマッシー・キャラハンをTKO、安定王者になるもカンゾネリにKOされて陥落)、オスカー・デラホーヤの3人があげられています。


さて。この蠱惑的なジュニアウエルター級に日本から4人目のタイトルホルダーが誕生しようとしています。

これまで頂点を極めた3人は藤猛、浜田剛史、平仲明信。

島で育った無類の強打者、そして口髭という共通点を持つ140パウンダーは3人とも、あっという間にタイトルを奪い獲ってみせました。

3人との共通点を見出すのが難しい平岡アンディですが、2月21日は同じスタイルでタイトル奪取といきましょうかな。









このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ボクシング黄金時代がいつだったのか?

ーーー過去記事を焼き直して、あらためて考えてみます。

IMG_4553 (1)


「日本プロ野球の黄金時代はいつか?」。

MLBで神がかり的な活躍を続ける大谷翔平を代表に、最高峰の舞台で通用するプレイヤーを輩出し続けている現代なのか?

それとも、日本列島の熱狂を独占した長嶋茂雄の時代なのか?

これが、ボクシングになると、さらに訳がわからなくなります。

「世界王者の数」というなら、4団体17階級、尚且つ、同一団体の同一階級に複数の王者を抱える環境の現代が〝黄金時代〟。

「タイトルの権威」なら、間違いなく1950〜60年代の1団体8階級時代が〝黄金時代〟で誰も異論はないでしょう。

IMG_1255

⬆︎ファイティング原田がバンタム級のUndisputed champion に君臨していた時代は、8ではなく10の階級が存在しました。

しかし、現在では六つに細分化・水増しされたジュニアフェザー級以下はフライ、バンタム級の二つだけ、オリジナル8のままでした。



2022年11月、自民党の議員連盟が「プロボクシングの発展を応援する国会議員の会」を立ち上げました。

競技人口の減少やジムの経営難、ファイトマネーの低下、引退後のセカンドキャリア構築の難しさといった難局に直面しているプロボクシングをなんとか盛り上げようと〝黄金時代〟を知るオールドファンの議員たちが立ち上がったムーブメントです。

少なくとも彼らの目からすると、プロボクシングの現状は黄金時代などには到底、映っていないということです。

会長をつとめる加藤勝信厚労相(当時)は「小さい頃はファイティング原田さんをテレビで見ていた。60%を超える視聴率で日本中がくぎ付けになって、夢を共有できた。最近は地上波で見る機会が少なくなり、ボクシングをされる方も少なくなって、ジムも減って経営も大変厳しくなっている」と〝黄金時代〟を懐かしみました。

加藤会長は1955年11月22日生まれの66歳(当時)。

原田が矢尾板貞雄のピンチヒッターとして、世界フライ級王者ポーン・キングピッチに挑戦、見事にタイトルを奪取した1962年には7歳、1965年にリング誌の回顧的PFPで60年代1位の世界バンタム級王者エデル・ジョフレを破ったときは10歳だったことになります。

1950年代の終わりから1960年代にかけて、NHKと民放各局は競い合うようにボクシング番組を作り、毎日ゴールデンタイムにボクシングがテレビ中継されていたそうです。 どっからどう見てもメジャースポーツでした。

そんなレギュラーなスポーツは、読売ジャイアンツのプロ野球の試合しかありませんでした。

そして〝世界〟で戦う日本人を応援できるのは、ボクシングのリングだだだのですから、世界タイトルマッチはあらゆるスポーツの中でも別格だったことは容易に想像できるでしょう。

加藤会長が幼かった頃、地球上に8人しか存在しない世界チャンピオンは、一人残らず本物でした。 サッカーW杯も、メジャーリーグも憧れの舞台ですらなかった時代。 プロボクシングだけが、日本人が活躍できる国際試合だったのです。


FullSizeRender

1954年(昭和29年)11月26日、後楽園球場をホームとする世界フライ級王者・白井義男がパスカル・ペレスに敗れて5度目の防衛に失敗。

再び日本に世界タイトルがもたらされるのは1962年(昭和37年)10月10日。ファイティング原田が白井が失った世界フライ級のタイトルをポーン・キングピッチから奪還しました。

白井から原田まで、なんと約8年間も世界タイトルは日本から遠ざかっていたのです。

オリジナル8の時代に世界王者になった白井から、原田の時代は10階級になっていましたが、それでも認定団体はNBA一つだけ。世界王者は地球上に10人しかいない、PFPのような妄想がつけ入る隙の無い時代でした。

「世界王者の数」を〝黄金時代〟のモノサシにすると、王者不在の8年間は、日本ボクシング史における大暗黒時代だったかというと、あながちそうとは言い切れません。

パスカル・ペレスのフライ級には米倉健志、矢尾板貞雄が挑み、ホセ・べセラのバンタム級にはやはり米倉が、さらにはフェザー級の歴史的強豪王者デイビー・ムーアには高山一夫が2度挑戦。

そして、ペレスからタイトルを奪ったキングピッチには関光徳、野口恭がチャレンジ。

8年間で5人の日本人が7度、世界の頂点にアタックを試みたのでした。

4団体17階級時代、地域タイトルも溢れている現代では想像もできませんが、世界と名の付くタイトルマッチは一大イベントであり、国民的関心事。

毎日のようにゴールデンタイムで中継されるボクシングの試合は、東洋はもちろん日本タイトルマッチ、新人戦までながされていたというのですから、この5人は東洋レベルで圧倒的な強さを見せつけ、世界に挑戦しました。

今のMLBや欧州リーグに挑戦する、日本を代表する野球やサッカー選手よりも、彼らの方が認知され、人気があったかもしれません。

八尾板は世界王者にはなれなかったものの「現役時代はボクシングというジャンルを超えて日本中に知られた存在だった」(前田衷)なんて、もはや私には想像できません。

ノンタイトル戦でペレスに勝利した矢尾板が「日本の切り札」として1959年(昭和34年)11月5日、殿堂入りのアルゼンチン人に挑戦した試合は視聴率90%超え、リングが特設された大阪の扇町プールには2万5000人の観客が詰めかけ、「日本中の男湯に誰もいなくなった」という伝説が語り継がれています。

〝暗黒時代〟の8年間で行われた世界戦7試合はいずれも50%を超えるテレビ視聴率をマーク。

世界挑戦はいずれも実りませんでしたが、会場はもちろん、テレビの前でも悔し泣きする人が当たり前にいたそうです。

矢尾板のピンチヒッターで急遽リングに上がったわすか19歳の原田が、世界王者を圧倒し11ラウンドでノックアウト、8年間の長いトンネルを抜けて見せたとき、日本列島はどれほどの熱狂に沸騰したのでしょうか。

私の知らない本物の黄金時代が、確かにそこにありました。

もちろん、時代が違い過ぎます。

原田と井上は、二つの時代の〝黄金時代〟を牽引するフロントランナーでしたが、2人の黄金時代は言葉こそ同じでも、その内容はあまりにも違い過ぎました…。


 
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

IMG_2952

ボクシングの水増し階級と、球技などのリーグのエキスパンション’。

両者の共通点は…水増し階級が新設されると王者になりやすいということ、そしてMLBのエキスパンションならメジャーリーガーになりやすいということが挙げられます。

しかし、大きな違いもあります。

階級が増えると、ライバルの層も薄くなるので、ますます王者になりやすくなります。

ところが、エキスパンションではタイトル争いをするライバルや球団が増えることで、タイトルやチャンピオンになる難易度は跳ね上がってしまいます。

d0d0hzylvt6ze5em60kk

さて、ボクシングの話に絞ると階級だけでなく認定団体までが増殖するという異常事態が進み、タイトルの価値は暴落しています。

ボクシングがメジャースポーツの一つに数えられていた1960年代は、基本的に一団体オリジナル8。地球上に8人しか王者がいないわけですからタイトルには重い価値がありました。

しかし、ボクシング界の堕落の責任をファイターに押し付けるのは見当違いもいいところです。

もし、ファイティング原田が4団体17階級の時代に生まれていたなら、エデル・ジョフレなんかには絶対挑戦しなかったでしょう。

それどころか、ポーン・キングピッチも避けて、最初のタイトルはジュニアフライ級か無理矢理のストロー級で獲っていたかもしれません。


逆に、井上尚弥が60年代にタイムスリップすると、そこにはジュニアフライ級など影も形もありません。

また、当日計量ですから、そもそもジュニアフライ級まで肉体を削ぎ落とさなかったでしょう。

もしかしたら、プロテストを受けたジュニアフェザー級はともかくバンタム級デビューとなっていたかもしれません。

そして、現代と違って挑戦する王者を選ぶことは出来ません。どっしり構えた王者が1人しかいないのですから、選びようがないのです。

また、団体は一つですから、非スポーツなランキングはなかったとは言いませんが、現在のようなデタラメランキングではありません。防衛の難易度も全く違います。

世界ランカーに弱いやつはいない。世界王者はみんな強い、そんな当たり前が当たり前だった時代です。

現代はジョー・メデルのような無冠の帝王など存在しません。今の時代なら、メデルはタイトルをいくつも獲って、何階級も制覇していたでしょう。

そして、井上のライバル関係は苛烈を極めたでしょう。

それでも、あくまで妄想に過ぎませんが、ファイティング原田が4団体17階級の時代のリングに上がるとして、井上のような圧倒的なパフォーマンスが出来たでしょうか…?

もちろん、水準の低い相手ばかりを薙ぎ倒していると批判されたマイク・タイソンには「いくら弱い相手でもあんなに豪快に倒せない」という擁護もありました。

そういえば、亀田興毅も「相手が弱いゆうならお前が倒してみぃ!」と啖呵切ってましたが…。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

時代を超えたファイターを比較することは、基本的には不可能です。

1970年代末から1980年代初頭に活躍した具志堅用高は国民栄誉賞に最接近したファイターでした。

白井義男やファイティング原田はもちろん、1970年代中盤の輪島功一や大場政夫も、国民栄誉賞があれば受賞していたでしょう。

スポーツ界全体に与える彼らのインパクトは、それほど大きなものでした。

信じられないかもしれませんが「ボクシングの世界チャンピオン」は、スポーツマンの中で最も有名な肩書きだったのです。

当時の人気スポーツは野球と相撲、ボクシングでしたが、君が代と対戦相手の国歌が斉唱される国際大会〝世界と戦う〟日本人を応援できるのはプロボクシングのリングの上だけでした。

IMG_5630

「WBA世界ジュニアフライ級王者の具志堅用高は海外でも認知されているのだろうか?」。

「後楽園球場で王貞治がベーブ・ルースやハンク・アーロンの本塁打記録を更新するって意味があるの?」

ーーーそんな見方はごくごく少数派、日本中が具志堅と王の快挙を素直に受けていた時代です。


しかし、時代は移ろい〝世界と戦う〟意味が変わってしまいます。

「世界」とは最高峰のこと。野球ならメジャーリーグ。サッカーなら欧州のトップリーグ。

そして、そこで活躍するということはすなわち、この島国から旅立つことを意味します。

それを如実に教えてくれたのが、野茂英雄や中田英寿、イチローでした。


ーーーもし、ボクシングを野球やサッカーに当てはめて、米国や英国のメガファイトを「最高峰の舞台」とするなら、ウエルター級以上の人気階級がメジャー、トップリーグということになります。

その理屈なら、ファイティング原田や井上尚弥の活動場所は下部リーグになってしまい、日本史上最高のファイターもトップリーグから選抜すべきという理屈になってしまいます。

カネのあるやつが対戦相手をホームに引っ張り込んで、自分の有利な環境で戦うーーーそんなスポーツの原理に反することが当たり前に行われてきたのがボクシングです。

ボクシングは少なくとも、リングに上がるまではスポーツではありません。

ウィンブルドンが苦手な大坂なおみは人気がある、彼女の勝利を願っている人が多いから、芝を刈ってハードコートに張り替える…スポーツならそんなことは許されませんが、ボクシングではホームでしか戦わないなんて当たり前です。

それどころか、キャッチウエイトなんていう理不尽も罷り通っています。

そう考えると、原田がバカ高い評価を集めていたエデル・ジョフレを2戦とも日本のリングに引っ張り上げたことは当然です。

興行として考えると、ボクシング不毛の地、ブラジルでやる選択肢などありません。

T-モバイル・アリーナでラモン・カルデナスを迎えた井上は「アウエーになるかも」と期待?していましたが、そんなわけありません。

カルデナスはもちろん、セミに登場したラファエル・エスピノサも全く人気のないファイターです。

そして、あんな背筋の凍る恐ろしい興行が打てるのも日本の大エースならではです。


世界レベルでボクシングが最も盛り上がっていた1960年代のディケイドPFP1位のジョフレを2度も呼びつけた原田。

そしてラスベガスに軽量級の最高峰を演出しようとした、砂漠にスキーのゲレンデを作ろうとした井上。

嫌味でもなんでもなく、ボクシング=興行を象徴している2人です。






このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ここ数年、海外のボクシングメディアの記事で気になっていること。

例えば、日本時間の昨夜遅くにリング誌電子版がアップした記事の中に、こんな一文が紛れ込んでいました。

Inoue is one of this generation’s greatest fighters, and perhaps already the finest to ever come out of his country.

井上はこの時代の偉大なファイターの1人であり、もしかしたら日本の歴史上で最も優れているかもしれない。

「パハップス」なんて表現を聞くと、井上信者あたりが怒り狂いそうですが、個人的には井上尚弥はよくここまで登り詰めてくれたと感じています。

世界評価は非常に保守的です。そして、関心の薄い軽量級、アジアに向けるレンズはいつもピンボケ。

何が言いたいかというと、バカな世界評価、特に民度が低い米国、特に米国ボクシング記者協(BWAA)のような単細胞に一旦、刷り込まれた印象を更新するのは至難の業ということ。

さらに具体的にいうと、International BOXING HALL OF FAME(国際ボクシング名誉の殿堂)は、Modern Categoryで〝入神〟(しかも事実上の一発殿堂)している唯一の日本人について、いまだに以下のように説明しています。

He is arguably Japan's greatest fighter ever.〜彼こそが間違いなく日本最高のファイターだ。

かつては「日本」ではなく「アジア」でしたが、頑迷な世界評価でも懐に飛び込んできて大暴れしたマニー・パッキャオを見逃すことはありませんでした。

スクリーンショット 2026-01-18 21.54.42


「彼」。

ファイティング原田です。

かつて、宮田有理子に「バンタム級でUndisputed championになった井上はファイティング原田の領域に入ったと言えるか」と聞かれたフレディ・ローチは「それはまだまだ先だ」と否定したといいます。

https://fushiananome.superknova.org/archives/38904306.html

元WBCフライ級王者でその左強打はアジアのボクシングファンや、米国のコアなマニアは知っていましたが、ローチはパッキャオと初めて会ったとき、彼が誰なのか知りませんでした。

残念ながら、その程度なのです。

これが、メジャースポーツならもっと精密な評価や検証が行われるのでしょうが…BWAAや殿堂のホームページを見て幻滅した人も多いでしょう。本当にショボすぎる…。

Who is the best fighter in Our history?〜日本史上最高のファイターは誰なのか?ーーー個人的にはファイティング原田か井上尚弥かの2択です。

この議論では「軽量級は世界的に人気もなくて層も薄いから井上よりもガッツ石松や竹原慎二、村田諒太の方が上」という、階級難易度は考慮せず、あらゆる階級を公平に見るPFPの観点から見つめてゆきます。

もちろん、柴田国明というジョーカーも無視できないでしょうが、個人的には2択です。


announce_web

この手の話は、このブログでも何度もしてきました。

以前の続きの形で書こうと思いましたが、探し出すのが面倒なので「Who is the best fighter in Our history?〜日本史上最高のファイターは誰なのか?」の新しいシリーズとして仕切直しさせていただきます。





このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

共通テストの初日が終わり、今日が二日目最終日。

大学入試センターによると、1月17、18日に実施される「大学入学共通テスト」の志願
者数は49万6237人で前年から約1千人増。

2年連続で前年を上回ったとはいえ、少子化の影響は深刻で50万人を割り込む低空飛行が続いています。

私立大学の入学者の6割は、学校推薦型選抜、総合型選抜といった「年内入試」で受験を終えることも志願者減の一因ですが瑣末な理由です。

身近に、野球の指導を通して中高生の友だちが多いこともあり、毎週とはいきませんが、月に何度か勉強を教えることもあります。

嬉しいことに、ほとんど全ての子が志望校以上の高校や大学に合格してくれています。

謙遜でもなんでもなく、100%子どもたちの実力です。「飛べない」と思い込んでいる子どもの背中を「押すよ」と言って押すだけです。

教師と生徒、トレーナーとファイターの関係も、基本的に同じことだと思います。

実際「野球でも勉強でも上達する、成績が上がるというけど、何か特別な指導ができるわけじゃなくて、量をこなさせているだけ。そりゃ成績上がるのも当たり前」というような外野の方の声も何度か耳にしました。

何かをやり遂げることを登山に例えると「最短距離」と「よりなだらかな道」のバランスをとって登るのが、その山だけを登るのならベストです。

ただ、私には「最短距離」と「よりなだらかな道」を指し示す能力がありません。

だから、それを無視して麓から山頂まで、縦横無尽にのたうち回って登り切るような教え方しかできません。時間がかかるのは当然です。

ただ、次のより高い山を目指すなら、最初の小さな山を効率だけを考えて登るのはマイナス面も多いと考えています。

https3A2F2Fimgix-proxy.n8s.jp2FDSXZQO2489152017012026000000-1


Quality or Quantity ?


質か量か?

質を伴わない量は意味がない、量を伴わない質は薄弱。バランスが大切とはいえ…何事にも、顔を出す永遠のテーマです。

年末から火がついているFighter Of The Year 論争も、突き詰めるとQuality or Quantity ?の問題です。

「年間1試合しか戦っていないテレンス・クロフォード」、「年間4試合もこなした井上尚弥」「年間2試合で対抗王者を鮮やかに攻略したバム・ロドリゲス」。


スクリーンショット 2025-08-11 14.35.04

◉クロフォードがカネロ・アルバレスを下したのが最も価値ある勝利。

これは多くの人が賛同するかもしれませんが、果たして本当にそうでしょうか?

事実としては「カネロは現在の米国ボクシング界で傑出した人気を誇るスーパースター」でしたが、その裏側には「カネロは4年にわたって劣化症状を深め、PFPファイターに踏みとどまっていたものの、そのランクはジリ貧だった」という、もう一つの事実も横たわっていました。

階級を超えてミッション・インポシブルを成し遂げたシュガー・レイ・レナードやマニー・パッキャオの偉業と明らかに違うのは、戦前予想が一方的ではなかったということです。

人気階級と不人気階級、スーパースターのカネロという色眼鏡を外して見た場合、井上が準完封したムロジョン・アフマダリエフと、カネロの強敵度はどちらが上でしょうか?

D1C5471B-3797-4AC1-A3E0-E90951CD3ECF_1_105_c


◉井上は最もレベルの高いリング誌タイトルを年間4試合も防衛したが、これはラリー・ホームズが1983年に記録した最多記録に並ぶ偉業。

これは…そもそもホームズが記録を持っていたことを知っていたマニアも、下手すると専門家でも少数派だったでしょう。

井上の4試合、その合わせ技一本で、クロフォードの1試合をひっくり返せるか?…これは、質と量のどちらを重視するか、どちらを選んでも間違いとは言えません。


スクリーンショット 2025-08-11 15.25.18


2025年という枠を取っ払うとーーーリング誌は昨夜遅くに「DON'T TAKE NAOYA INOUE'S BRILLIANCE FOR GRANTED(井上尚弥の業績を無視してはいけない)」という記事をアップしました。


***** Let’s not make the same mistake with Inoue. (井上をホームズのように埋もれさせてはならない)。

おそらく、リング誌のFighter Of The Yearはクロフォードになるだろう。1983年と同じように。

1983年にリング誌タイトルを4度守ったホームズではなく、ロベルト・デュランを含む3試合に勝ったマービン・ハグラーがFighter Of The Yearに選ばれ、ハグラーのデュラン戦は後世も語り継がれているのに、ホームズの1983年を振り返る人はいない。

現代のボクシングで複数階級制覇と、一つの階級で防衛回数を重ねること、この二つが偉大になるための道筋になるが、両立するのは難しい。

しかし、井上はジュニアフライ級で1度、ジュニアバンタム級で7度、バンタム級で6度、ジュニアフェザー級で7度も防衛してきた。

Inoue is one of this generation’s greatest fighters, and perhaps already the finest to ever come out of his country.

このタイトルマッチの勝利数は、2010年以降の15年間で最多。井上は時代を代表するファイターの1人であり、もしかしたら日本史上最高のファイターとも言えるだろう。

ボクシングのFighter Of The Yearはグラミー賞とよく似ている。世界最高のミュージシャンが年間最優秀アーティストや年間最高アルバムの賞に輝くとは限らない。

プリンスは38回もノミネートされ、受賞したのは7回。

ボクシング界でも、ある年に爆発的な印象を残すファイターがいる一方で、長期間安定した業績を残し続けるファイターもいる。

ホームズを埋もれさせた間違いを、井上でも繰り返してはいけない。*****



このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


RYO


2026/01/14 14:15


韓国ボクシングの全盛期は頑丈な身体と「日本人には絶対負けない」心を武器に、ストローからSミドルまで満遍なく、韓国選手は日本選手の高い壁として立ちふさがり、強い韓国選手の「雑魚狩り」扱いでしたね。


全盛期でもSミドル級以上の選手はほとんど居なかったと記憶しているし、韓国伝統のJrフライがゼロて・・・韓国の小柄な人はボクサーを目指す人が少なくなったのか、過度な減量をしなくなったのかな❔
いずれにしろ寂しい事です。


元記事:日本vs韓国から何を読むか。〜恩讐の彼方に① (編集)

1986. IBF
 ⬆︎1986年1月のIBFランキング


韓国ボクシングの瓦解、その原因は「ファンが愛想をつかした」という一点に帰結します。

1983年にWBAから分離独立したIBFは、アジアで最初に加盟してくれた韓国をあからさまに優遇します。

新興団体はいつもそうですが「権威を獲得するためのビッグネーム」と「承認料の高い富裕国のファイター」を優遇します。

上の画像でいうと「権威を獲得するためのビッグネーム」はドナルド・カリーやマービン・ハグラー、マイケル・スピンクス(ラリー・ホームズ)。

IBFのアジア戦略、「承認料の高い富裕国」は、軽量級では破格の認定料の期待できる日本を本命としていましたが、JBCが加盟を渋ったことで韓国に軸足を移します。

そして、その韓国で何が起きたのか。

日本が加盟していないこと(IBF日本は存在しましたが主要なジムは無視)から最も盛り上がる日韓対決が提供できないことよりも、IBFタイトル戦での八百長疑惑に替え玉挑戦者、怪しい実力の韓国人王者…逮捕者まで出るスキャンダルもあり、韓国のボクシングファンの信頼を一気に失ってしまいます。

そして、この不信感はIBFだけでなくボクシング界全体に広がります。

当然、タイトルマッチをスポンサードしていた企業は撤退、市場は急速に萎んでしまいました。

もし、日本が1980年代中盤にIBFに加盟していたら…韓国と同じ混乱を招いた可能性は否定できません。


しかし…最近の日本人によるバンタム級独占など、当たり前に〝世界〟王者が乱立する現状に、スポーツファンはどう感じているでしょうか?

「日本はボクシングが強い!」でしょうか?

〝世界〟タイトルマッチが毎月のように行われる違和感に幻滅までいかなくとも戸惑っているひとも多いかもしれません。



それにしても、韓国ボクシングが空中分解してしまったことは本当に残念です。

もし、日韓対決、あのザラザラしてるのに粘着質なライバル対決の連鎖が断ち切れていなければ…私たちはどんなエキサイティングな光景を、どれほど目にすることが出来たでしょうか。


ジュニアフライ級で張正九や柳明佑の薫陶を受けたコリアンファイターに、井上尚弥や寺地拳四朗が時代を超えたリベンジを果たす、そしてまたやり返される…。


そんな素晴らしい、ザラザラしてるのに粘着質なライバル対決が復活してほしい…お前らが弱いと俺らがつまらねぇんだよ! 新シリーズの開幕です。





このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

地元・練馬区の「二十歳のつどい」の会場にいる杉谷拳士さんが成人の日のきょう、Xに20歳の自分へメッセージを送りました。


「20歳の杉谷くんへ。20歳の時に恩師に出会います」「人との繋がりを大切に歩んでいます。明るく、笑顔で大好きな野球をプレーしてるよ」。

「侍JAPAN、MVP…オールスター… 薔薇色の野球人生を夢見てたね。20歳の杉谷くんに届けたい。ごめんね…夢は叶いませんでした… レギュラーにもなれなかったんだから」。

「でも、素敵な出会いがたくさんありました。毎日必死に生きた杉谷くん今だから言える。ありがとう」。




私は杉谷拳士を「杉谷満の次男」として知りました。

杉谷満は、後楽園ホールを沸かせたハンサムな強打者でした。北海道からやって来た実直で物静かな日本フェザー級チャンピオン。

2008年のドラフトで日ハムから6位指名を受けた杉谷拳士のことは、父親がボクシングの元日本チャンピオンということからほんの小さなニュースになっていました。

内外野を任されるユーティリティプレイヤーで、スイッチヒッター。それは、プロ野球選手としては絶望的に小さな174㎝という体格でより多くのチャンスをつかむために必死で形成した個性でした。

2009年から2022年まで、14年間もプロ野球選手の看板を掲げ続けた杉谷でしたが一軍で規定打席に到達したことは一度もなく、出場試合数は2014年の87試合が最多。

実働12年の一軍成績は、打率2割1分2厘、本塁打16本。守備でも走塁でも特別な才能は認められませんでした。

なぜ、14年間も毎年契約更改できたのか、数字の上からは全く理解できません。

そう、数字の上からは。

2022年シーズンで彼が引退したとき、「父親が元日本チャンピオン」という注釈はとっくの昔に不要になっていました。その名残りは、名前に「拳」という文字が込められているだけ。

競技の違いはあれど、もはや拳士の方が有名になりました。

父親が生まれた北海道で選手人生を全うし、ファイターズを超えて日本中の野球ファンから愛されました。

彼がなぜ14年間も、過酷な新陳代謝が繰り返されるプロ野球の世界で現役を張り続けることができたのか?


野暮な説明は不要でしょう。



このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

亀田和毅が「今年がラストイヤー」と宣言しました。

今年の7月12日で35歳になる知毅は、1991年生まれ。

1986年生まれの興毅と、1989年生まれの大毅はともに2015年に引退、それから11年間、亀田の看板を背負ってリングに上がってきました。

父親と2人の兄の暴走とはほとんど関わっていない、むしろ被害者の側面もあった知毅ですが、冷たい世間の逆風を11年間も浴び続けました。

もう一度、世界チャンピオンになってからグローブを吊るすーーー死に場所を探す1年になります。

IMG_5485


試合前の威勢の良さと、リングの上でのフラストレーションのたまるスタイルは、私のような〝擁護派〟でもなかなか思いを込めることが難しいペチペチパンチャーでしたが、最後に派手な散り際を見せて欲しいと応援しています。

知毅に素晴らしいチャンスが訪れますように。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ