ボクシング黄金時代がいつだったのか?

ーーー過去記事を焼き直して、あらためて考えてみます。

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「日本プロ野球の黄金時代はいつか?」。

MLBで神がかり的な活躍を続ける大谷翔平を代表に、最高峰の舞台で通用するプレイヤーを輩出し続けている現代なのか?

それとも、日本列島の熱狂を独占した長嶋茂雄の時代なのか?

これが、ボクシングになると、さらに訳がわからなくなります。

「世界王者の数」というなら、4団体17階級、尚且つ、同一団体の同一階級に複数の王者を抱える環境の現代が〝黄金時代〟。

「タイトルの権威」なら、間違いなく1950〜60年代の1団体8階級時代が〝黄金時代〟で誰も異論はないでしょう。

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⬆︎ファイティング原田がバンタム級のUndisputed champion に君臨していた時代は、8ではなく10の階級が存在しました。

しかし、現在では六つに細分化・水増しされたジュニアフェザー級以下はフライ、バンタム級の二つだけ、オリジナル8のままでした。



2022年11月、自民党の議員連盟が「プロボクシングの発展を応援する国会議員の会」を立ち上げました。

競技人口の減少やジムの経営難、ファイトマネーの低下、引退後のセカンドキャリア構築の難しさといった難局に直面しているプロボクシングをなんとか盛り上げようと〝黄金時代〟を知るオールドファンの議員たちが立ち上がったムーブメントです。

少なくとも彼らの目からすると、プロボクシングの現状は黄金時代などには到底、映っていないということです。

会長をつとめる加藤勝信厚労相(当時)は「小さい頃はファイティング原田さんをテレビで見ていた。60%を超える視聴率で日本中がくぎ付けになって、夢を共有できた。最近は地上波で見る機会が少なくなり、ボクシングをされる方も少なくなって、ジムも減って経営も大変厳しくなっている」と〝黄金時代〟を懐かしみました。

加藤会長は1955年11月22日生まれの66歳(当時)。

原田が矢尾板貞雄のピンチヒッターとして、世界フライ級王者ポーン・キングピッチに挑戦、見事にタイトルを奪取した1962年には7歳、1965年にリング誌の回顧的PFPで60年代1位の世界バンタム級王者エデル・ジョフレを破ったときは10歳だったことになります。

1950年代の終わりから1960年代にかけて、NHKと民放各局は競い合うようにボクシング番組を作り、毎日ゴールデンタイムにボクシングがテレビ中継されていたそうです。 どっからどう見てもメジャースポーツでした。

そんなレギュラーなスポーツは、読売ジャイアンツのプロ野球の試合しかありませんでした。

そして〝世界〟で戦う日本人を応援できるのは、ボクシングのリングだだだのですから、世界タイトルマッチはあらゆるスポーツの中でも別格だったことは容易に想像できるでしょう。

加藤会長が幼かった頃、地球上に8人しか存在しない世界チャンピオンは、一人残らず本物でした。 サッカーW杯も、メジャーリーグも憧れの舞台ですらなかった時代。 プロボクシングだけが、日本人が活躍できる国際試合だったのです。


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1954年(昭和29年)11月26日、後楽園球場をホームとする世界フライ級王者・白井義男がパスカル・ペレスに敗れて5度目の防衛に失敗。

再び日本に世界タイトルがもたらされるのは1962年(昭和37年)10月10日。ファイティング原田が白井が失った世界フライ級のタイトルをポーン・キングピッチから奪還しました。

白井から原田まで、なんと約8年間も世界タイトルは日本から遠ざかっていたのです。

オリジナル8の時代に世界王者になった白井から、原田の時代は10階級になっていましたが、それでも認定団体はNBA一つだけ。世界王者は地球上に10人しかいない、PFPのような妄想がつけ入る隙の無い時代でした。

「世界王者の数」を〝黄金時代〟のモノサシにすると、王者不在の8年間は、日本ボクシング史における大暗黒時代だったかというと、あながちそうとは言い切れません。

パスカル・ペレスのフライ級には米倉健志、矢尾板貞雄が挑み、ホセ・べセラのバンタム級にはやはり米倉が、さらにはフェザー級の歴史的強豪王者デイビー・ムーアには高山一夫が2度挑戦。

そして、ペレスからタイトルを奪ったキングピッチには関光徳、野口恭がチャレンジ。

8年間で5人の日本人が7度、世界の頂点にアタックを試みたのでした。

4団体17階級時代、地域タイトルも溢れている現代では想像もできませんが、世界と名の付くタイトルマッチは一大イベントであり、国民的関心事。

毎日のようにゴールデンタイムで中継されるボクシングの試合は、東洋はもちろん日本タイトルマッチ、新人戦までながされていたというのですから、この5人は東洋レベルで圧倒的な強さを見せつけ、世界に挑戦しました。

今のMLBや欧州リーグに挑戦する、日本を代表する野球やサッカー選手よりも、彼らの方が認知され、人気があったかもしれません。

八尾板は世界王者にはなれなかったものの「現役時代はボクシングというジャンルを超えて日本中に知られた存在だった」(前田衷)なんて、もはや私には想像できません。

ノンタイトル戦でペレスに勝利した矢尾板が「日本の切り札」として1959年(昭和34年)11月5日、殿堂入りのアルゼンチン人に挑戦した試合は視聴率90%超え、リングが特設された大阪の扇町プールには2万5000人の観客が詰めかけ、「日本中の男湯に誰もいなくなった」という伝説が語り継がれています。

〝暗黒時代〟の8年間で行われた世界戦7試合はいずれも50%を超えるテレビ視聴率をマーク。

世界挑戦はいずれも実りませんでしたが、会場はもちろん、テレビの前でも悔し泣きする人が当たり前にいたそうです。

矢尾板のピンチヒッターで急遽リングに上がったわすか19歳の原田が、世界王者を圧倒し11ラウンドでノックアウト、8年間の長いトンネルを抜けて見せたとき、日本列島はどれほどの熱狂に沸騰したのでしょうか。

私の知らない本物の黄金時代が、確かにそこにありました。

もちろん、時代が違い過ぎます。

原田と井上は、二つの時代の〝黄金時代〟を牽引するフロントランナーでしたが、2人の黄金時代は言葉こそ同じでも、その内容はあまりにも違い過ぎました…。