カテゴリ: 恥さらしの人生でした。


元大阪府知事で弁護士の橋下徹が大阪府知事時代に岸和田市のだんじりで事故があったため「刑事事件になったら祭りは終わる」という通知を出したと話しました。

橋本の「命が犠牲になっても祭りの伝統守るのは違う」は、議論する余地のない正論です。



今年だけでも危険な祭りで犠牲者が相次いでいます。


⚫︎10月3日…大阪・堺市の交差点で、だんじり関係者の10代から60代の男性11人がけが。

⚫︎10月10 日…大阪・泉佐野市で、だんじりが横転する事故。倒れただんじりと道路の間に挟まれ、51 歳の男性が死亡。

⚫︎10月10日…大阪・泉大津市で、だんじりと接触した48 歳の男性が死亡。

⚫︎10月17日…愛媛・西条市で行われた秋祭りで、担ぎ手として参加していた西条市の副市長が太鼓台の下敷きとなり死亡。


3年前に岸和田で事件があったとき、ここで「だんじりは、もう要らない」と書きました。「そろそろ、行政が大きな決断をするべきときでしょう」と結びましたが、野放しにされたままです。

https://fushiananome.superknova.org/archives/33472173.html


大阪のだんじりは、電柱や商店・住宅などと激突することを恐れずに勢いよく曲がるヤリマワシが見所です。どこの地域でもだんじりの担ぎ手は、季節のヒーロー。

しかし、私が中高生の頃の40年以上前で、だんじりで死人が出るのは驚くことではなくなっていました。

「死人が出ても仕方がない」。そんな祭りは、存在してはいけません。

今春から大阪勤務になって、人づてに「ずーっとお前に会いたがってるヤツがいる」と言われて何人かと酒を飲みました。全員、中高時代の野球のライバルたちです。

だんじりの担ぎ手もいて「お前がおった頃から、ちょっと進化してる」と言うのです。最近の上のレベルの子の体格の向上、投手の速球のスピードが進化してるという話からでした。

ニュース映像などでは昔のままにしか見えなかった私は「ちょっと進化した?」と聞くと、彼は「ちょっとやないなぁ。めっちゃやな」と言うと「ヤリマワシがどんどん速なっとんねん」と教えてくれました。

少子化の影響もあってだんじりの担ぎ手の若者が少なくなり、若者を惹きつけるために高速化しているというのです。

私は「最近の子の体格やスピードみたいに数値で測ってるわけちゃうやろ?」と言うと、「そんなん、はっきりわかるって。最近の子でも身長やスピードガンで測らんでも見たらわかる、一緒や」。

だんじり祭りには、行政ではなく地域ごとの有志による自主運営。安全や事故の反省よりも、担ぎ手不足や隣町への競争心が優先されるのは不思議ではありません。なにしろ、どこの町も喧嘩に寛容すぎる〝無法地帯〟。

これまでの事故は、全てが運営側にだんじりやヤリマワシに安全面で問題があったと思われますが、一度も刑事事件に発展していないのは、悪い意味でだんじりに愛着がある土地柄、もっと極限すると「だんじりってそういうもんやろ!」という異常な考え方です。

そして「刑事事件にして祭りが無くなることは、亡くなった人が望んでいない」という思いが、最も大きな理由かもしれません。

しかし、もう野放しにする段階はとっくの昔に過ぎ去っています。対応が、遅すぎます。

寺山修司は「公園で野球をしてても何も言われないが、ボクシングをしてたら警察が飛んでくる」と言いました。もし、だんじりが平成や令和の時代に新設された祭りなら、刑事事件になって即刻禁止です。

刑事事件になって、逮捕者が出て、祭りは廃止…そうなる前に自分たちで幕を引きましょう。「そうなっても構わん!」という輩が多そうですが…。


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大阪の会社では、どういうわけだか東京本社よりも多くの新聞雑誌を定期購読しています。紙媒体大好きな私にとっては嬉しい限りなのです。

ところが、大阪に赴任してから市立図書館の新聞・雑誌の品揃えの方がはるかに厚いことに今更ながら思い知らされています。自宅からも会社からも近くにあり、横浜の自宅の近くにもあります。

フランス語やスペイン語、中国語は読めないのは残念ですが、英国The Guardian紙などもたいてい誰も読んでいないので贅沢な時間を楽しめます。

とはいえ、人気の新書となるとなかなか競争率が高くて「獄に暮らせば 21年7カ月の獄中日記から」(重信房子)は検索すると100人以上待ち…購入しました。


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「獄に暮らせば 21年7カ月の獄中日記から」はアウトローのコーナーに。

「アウトロー」ってそんなジャンルがあるのか?

Outlaw【アウトロー】無法者、法から外れた人。

反対語は「良き市民」のグッドシチズン(good citizen)か、「コンプライアンスを遵守する人」のコンプライアント(compliant)か?

しかし、そっちのコーナーはない。良き市民はいないが、アウトローはいるってことか、なかなか奥深いのう…。

TIME誌なんかは会社で定期購読していますが、意外と人気があって行方不明になってたりして、マガジンラックにないことも。

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タイム誌が大好きな「THE 100 MOST INFLUENTIAL PEOPLE」のスポーツ編。

「今世紀最高のアスリート」レブロンがカバーですがロジャー・グッデル(NFLコミッショナー)やリオネル・メッシらを差し置いて大谷翔平もペロンと表紙右下に活字で登場。


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「地球上で最もスペクタルな野球選手」。

明日からLAに戻ってのリーグ優勝決定シリーズ。スタメン落ちも囁かれる絶不調のユニコーンですが、どでかい花火の打ち上げを期待しています。

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「ボクシングからはゼロの可能性も」と心配してましたが、女子ボクサーでマディソン・スクエアをフルハウスにした7階級制覇のアマンダ・セラノ、ウクライナの祖国防衛隊として銃を握って戦ったヘビー級の完全統一王者オレクサンデル・ウシクの2人が紹介されました。


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国の呼称は独特です。

特に日本においてはイギリス、オランダなど世界的には使われていない独自の呼称が定着しています。


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さて、名古屋・愛知アジア大会でも9月25日の野球(中国vs台湾)で「Taiwan」とプリントされたタオルでの応援が大会スタッフによって制止される〝事件〟が起きてしまいました。

これは、2024年のパリ五輪でも見られた光景で、国際大会では珍しい〝事件〟ではありません。

ほぼ全てのスポーツの国際大会において「中華民国」「台湾」としての参加は認められていません。「Taiwan タオル」は政治的主張にあたります。

〝コト〟の発端は66年前に「台湾は中国の一部」という立場の中華人民共和国(中国)が、「台湾」「中華民国」と一つの国の如く参加するのを強硬に非難、IOCを離脱した1958年に遡ります。

同じ年に、名古屋で開催されたIOC理事会で「チャイニーズ・タイペイ(中華台北)」への改称を求め〝台湾〟もこれを受け入れました。

有名な「名古屋決議」です。

Flag_of_the_Republic_of_China.svgのコピー

⬆︎中華民国(独立国)の国旗はダメだけど、⬇︎これ(中国の一地域)ならOK

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66年前に決着していることですが、まだその火種は完全に消えていません。

現在の台湾でも「明確な独立」か「(独立でもない、中国に吸収されるでもない)現状維持」か「中国へ完全帰属」か3つの主張が入り乱れていますが、私の狭い付き合いでの〝台湾〟の友だち・知人のスタンスは「現状維持」が圧倒的多数です。

本音、机上の空論的理想では「独立」ですが、彼らの思考回路は「共産主義に取り込まれることは絶対にNO」だけど「中国と〝コト〟を荒らげるのは得策ではない」。

「外交関係」という表層的な存在感では、日本や米国が1972年以降、中国を唯一の中国として認め、中華民国を切り捨てまいました。いまでもアフリカや南米で台湾を認めず中国を認める動きが広まっており、彼らは孤立しています。

しかし、深層的には半導体など世界的に必要とされる産業を育成、国家として認めていない日本や米国の大企業を買収するなど、地球規模で影響力を強めています。

シャープを買収した鴻海科技集団や台湾積体電路製造股份有限公司(TSMC)は、日本の社会人なら誰でも知っているでしょう。

彼らと付き合っていると、その思考の異常なまでの柔軟性に驚かされます。

日本人によくある「台湾は親日的」という認識もまたきわめて表層的で、誤解と言っても差し支えありません。もし、彼らが1972年に切り捨てられなければ、韓国や中国と同じように日本政府・企業に「賠償金」を請求、反日教育を実施していたであろうことは疑いようもありません。

1972年以前に設置された史跡の案内プレートには大日本帝国を侵略者として糾弾、それ以降は日本寄りにシフト、多くのプレートでその部分が黒塗りされています。

いまでは、そのプレートや博物館等の案内の多くは差し替えが進んでいます。10年後、彼らに黒塗りの話をしたら「え?何を勘違いしてるの?大昔から変わってないよ」と笑うでしょう。まあ、さすがに、一緒に見ていた私と二人きりになれば、そんなことは言わないでしょうが。

長いこと生きてると色んな人と触れ合います。色んな人と仕事します。嘘みたいに清廉な人もいれば、人としての付き合いから逸脱した仕事をする奴もいます。

そこにあるのは、私の狭い交友や仕事の中でも「韓国人だから」「中国人だから」「米国人だから」みたいな括り方は全くできません。

嫌な奴は、日本人と同じか、はるかに少ない割合で外国人にも存在しますが、逆もそうです。

卑近な例では、多くの日本企業で東南アジアに赴任すると必ずメイドさんを雇わなければなりません。そして、バンコクとジャカルタでそれぞれ1年という短い私の経験でも、あらかじめ注告されていた通りにキッチンからカレーのルウが必ず無くなります、これ必ずです。「あいつらは泥棒」と怒り、疑いを深める人もいますが、これは簡単に解決できます。

常温長期保存できるカレールウや即席麺などは、専用のテーブルの上で保管・管理して「持って帰ったノート」を置いておくのです。そして、どのカレールウがどんなふうに美味しかったか?それとも期待外れだったか?なんかもそこに書いてもらいます。

実際に食べた家族や知人らも呼んでもらって、その感想を詳しく聞いたりするのは、これはとんでもないマーケティングリサーチです。その動画やサマリーをメーカーに見せてあげると…ロングセラーや新商品だけでなく、ときにはありえないはずのテスト品まで送ってくれるようになりました。

「バンコクやジャカルタのアシスタントやメイドは最悪」という括り方は「日本の駐在員は最悪」への裏返しでもあります。

「最悪」と呼ばれたメイドや助手でも、10人が10人彼らなりの言い分を持っています。そして、その中には「最初に悪かったのはこっち」というのも少なくありません。



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1981年公開 米国MGM 上映時間113分

監督:ロバート・アルドリッチ
出演:ピーター・フォーク ミミ萩原 ジャンボ堀


ロードショウは米国で1981年、日本では1982年。

この作品は、高校時代に通い詰めていた場末の映画館「神戸座」で見た記憶がはっきりとあるのですが…。しかし、もしそこで見たのなら1982年でしかありえないのに、神戸座が新作映画を公開することはなかったはずです。

見たのは間違いないので、勘違いがあるとしたら神戸座とは全く別の封切館で見たのかもしれません。あるいは、神戸座では極めて異例なことに「カリフォルニア・ドールズ」をロードショウで上映していたのかもしれません。

NHKプレミアムシネマで録画していたので、45年ぶりくらいに見ました。

ああ、こんな作品だったと懐かしく楽しめましたが、初見の人にはどう映るのか、あまりお薦めではありません。

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日系のプロモーター、クライド・ヤマシト(インターネットもAIもない時代の映画、この人の名刺が面白い)がマネージャーのハリー・シアーズ(ピーター・フォーク)を「カリフォルニア・ドールズは華がある。日本に来ないか?」と誘う〝伏線〟が張られているように、日本のマットを舞台にした続編が予定されていましたが…。

アルドリッチ監督は1983年に65歳で死去。続編は作られず、この作品が遺作となってしまいました。

「...All the Marbles2」、見たかったな。


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高校を卒業してからというもの、周囲とのつながりがどんどん強くなる一方の生き方をしてきました。

学校をサボって本を読んだり、映画を見たり。極端に友だちが少ない高校時代でした。

大学に入ってからは、社会不適合なんていっても通用しないほどに周囲からの刺激を受けて「はしゃいで生きる青春は俺にはないと思ってた」(石川さゆり「転がる石」)生活が一変してしまいます。

それは、社会人になってさらに加速。インターネットの発達によって、日本時間の真夜中に開催される海外の会議にも参加できるようにまでなりましたが、そんなことがあるたびに「俺は一体、何をしてるんだ?」という馬鹿馬鹿しさに身悶えしてきました。

それは、高校時代の授業中、教室の窓から気持ち良く晴れた空を見て「俺は一体、何をしてるんだ?」と感じたのとはまた違う「もうこんな年になったのに、相変わらず俺は」という、自分への幻滅も含まれていました。


大きな水害が相次いだ、今年の大型連休。

スマホの電源を落として、緊急連絡先は宿泊施設だけにして家族と親しい友だちだけに伝えました。

よくよく考えると、海外へ一人旅というのは意外にも初めての経験。

帰国の折にはスマホを開いて大量の留守電やらメールやらを処理することになり、やっぱり「俺は一体、何をしてるんだ?」となるのですが、まーいい息抜きにはなりました。

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高校時代、普段の行動範囲は半径10キロくらいで車や電車の乗らないことを考えるとなかなか広かった。

もちろん、その多くは歩いたり走ったりしていたわけじゃない。自転車に乗っていた。

自転車に特別なこだわりはなかったが、愛車と呼んで差し支えなかった。

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こんなんだったかなあ?もうほとんど記憶にない…


ブリヂストンのロードマン・スカラである。

場末の小さな映画館には、ほとんどこの愛車で乗り付けた。

後輪の泥除けにベターッと貼り付けられていた高校のシールを見られるのが嫌で、映画館から少し離れたスーパーマーケットの駐輪場に停めていた。

映画館で顔馴染みだった三井さん(当時は名前も知らなかった)と社会人になってから偶然再開、年に一度とかのペースで会うようになって、ある日に「三島くんって◉◉高校やったやん。映画館まで10キロはあるやろ、遠いとこから来てるなあって感心しててん」と言われ、びっくりしました。

彼女がタクシーからスーパーの駐輪場に私が入るのを見られてしまっていたのです。「運転手さん、ここで降ろして」と刑事みたいにタクシーを降りて、私の自転車を確認したと言うのです。

三井さんは私の高校を知っていたと言うことです…そんなん、こっちは知らなんだ。

三井さんは「高校生か大学生にしか見えなかったけど、友だち連れてきたことないし。怪しさ満点で興味津々やってん」と言うのですが「怪しさ満点」って、どの口でゆうとんねんと、私は私で彼女のことをヤクザの情夫や覚醒剤の売人、とにかく関わってはいけない人だと確信していました。

ちなみに、この人はCIAかモサドな情報収集能力で、高3の私が出場した駅伝大会に応援に来てたのです。

我が校はずっと入賞もできなかった大会で、1年と2年のときは最長1区を走った私はチームメイトがどんどん抜かれるのをなんとも言えない複雑な気持ちで見ていました。主将はよく知らないくせに、中長距離ブロックにいつもブチ切れていました。

3年の時はチームメイトから距離が短い最終区を走って欲しいとお願いされ優勝できた、思い出深い大会でした。

ゴール付近は関係者が集まってそれなりに賑わっていましたが、OLファッションですらっとした美人でヤクザの情婦か覚醒剤の売人な三井さんは場違いに目立っていて「誰だ?誰だ?誰の知り合いだ?」となって、なぜか私の知り合いだと決めつけられ(いや、まあそうなのだが、この時は名前も知らない)、私が高校に来ないのは「塚口の格安ソープのブローカーをしてるから」という根も歯もない噂に変な説得力を持たれてしまったのでした。

高校生で駅伝大会のアンカー走って、なんでソープのブローカーやねん?それになんで格安がつくねん?とも思いましたが、そんな無責任な噂を知ったのは30年以上後のつい最近のことでした…。

それにしても、三井さんのモサディックなまでの情報収集能力が、なんの手がかりもないはずのおっちゃんの居場所を突き止めるのです。




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同級生と比べて自分がかなり幼稚だと最初に感じたのは中学校の頃だったでしょうか。

ハタチの頃には、きっと俺は一生幼稚だと確信しました。

そんな私の周りには示し合わせたわけもないのに、同じようなヤカラが寄ってきます。いや、私もまた彼らに寄っていっているのかもしれません。

中学校の頃、仁徳天皇陵に人頭ほどもあるダイアモンドがゴロゴロ転がっているという都市伝説を確かめようと、幼稚な数人で体育倉庫の奥深くにあったゴムボートを引っ張り出して夜中に壕を渡りました。

ダイアモンドなどあるわけないと思っていたかどうかは、自分でも定かじやありません。よしんば、そんなものがあったとして、ゴムボートに乗せたら沈没です。

高校時代には外国学校の〝品の良いお友達〟と大乱闘を繰り広げ、病院送りにされました。あー、はるか昔の話なのに思い出したら腹立ってきた。

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高校時代、場末の小さな映画館前の国道で元ミス近代の綺麗なお姉さんと、道端に置かれていた誘導灯でチャンバラしたこともありました。

さらに、私みたいなヤツを「ずっと好きだった」と伝えてくれたキトクな女の子に誘われるままに廃線になったばかり崖っぷちを歩いて、怖い思いをしました。

社会人になって、北アフリカに赴任したときはアシスタントのホモセクシャルの男性から「松茸山が山脈となって連なってる」と聞いて採りに行くと、山賊みたいなのに襲われて人生最大の生命の危機に迫りました。

そして、いまでも旧友の超幼稚バカ医者から「南極に人類がまだ知らないレアメタルが眠ってる」と大冒険に誘われています。



他にもそんなヤツらが俺の人生に蠢き続けています。

彼らとの付き合いの中では、1件の重大事故の背後に29件の軽微な事故と300件のヒヤリハットがあるとするハインリッヒの法則が確実に横たわっています。

そんな「29件の軽微な事故や300件のヒヤリハット」のお話。

私に愛を告白したというイカれた女、晴田さやかさんがこの春に「映画の試写会に行かないか?」と誘ってくれたのです。

崖からパラパラ小石が落ちてくる崖っぷち廃線を踏破するとか、反政府ゲリラが跋扈しているエリアに松茸を採りに行くとかじゃありません。

大阪駅近くのちゃんとしたホールで開催される映画の試写会です。巨大な落石の轟音に鼓膜が破れそうになったり、ゲリラにカラシニコフを突きつけられることもあり得ません。

しかし、しかし、晴田は晴田。たかが晴田、されど晴田、こいつは持っているのです。持ってはいけない何かを、加齢でたれ気味の乳房の中あたりに持っているのです(こんなことを言うからセクハラだパワハラだと会社でも叩かれるのです、可哀想な俺)。

それにしても。なんで「ヒンド・ラジャブの声( صوت هند رجب )」やねん。お前、どこでその試写会券もらってん?!

「マンダロリアン」とか「ちいかわ」とかにせいよ…。

誘った晴田が途中から周囲に迷惑にならないように声を殺して泣いていました。まあ、晴田だけでなく他にも鼻をすする声が聞こえる、そういう映画なのですが」。



大阪勤務になってから、映画サークルみたいなのを結成されてたびたび映画館に繰り出すことになってしまいましたが、私の映画原体験は常に一人です。

高校時代に通っていた場末の小さな映画館の狭いロビーではーーー

チャンバラした例のお姉さんに手招きされて、高校生の私はドキドキしながら近づくと、吸ってた煙草の煙をふわ〜っと顔にかけられました。

「この女性は絶対恐ろしい人だから関わってはいけない」と思っていながらも「煙草の臭いは嫌いだけど、この綺麗な女の人が吐いた息は全部吸い込みたい!!!」と心の底では変態的に絶叫していました。

「この煙を缶詰につめて持って帰りたい」というくらいに、とにかく飛び抜けて人生最大、超絶爆発的なエロティックな感動に震えていたくせに…あのときは、わざと咳払いして、あのエロ煙を手で払ってしまったのでした。

お姉さんが「可愛いなぁ」とクスクス笑ってくれても、迷惑そうなポーズをとった気がします。心の底では「可愛いのはそっちじゃー!!!」と、変態男子高校生は叫んでいたはずです。

変態、もちろんこの「変態」はパッキャオや大谷とは全く違う、モテない気色悪い男子高校生の屈折した性欲です。帰宅した私は、カッターシャツの匂いを嗅ぎまくりましたが、タバコの匂いが全くしなかったのでがっかりしました。

「こんな姿を同級生に見られたらますます気持ち悪いやつだと思われるだろうなあ。それ以前に、あのお姉さんにも気持ち悪いと思われるだろうなあ」と思うとやるせなかったです。

そんな自己嫌悪の真夜中に「大学への数学」の応募問題とかと格闘、夜明けあたりに「これは美しい解答や!俺は天才ではないか!」と自分の中だけで変態から天才になるのでした。

それにしても、あのお姉さんの名前も知らないことがもどかしくて仕方がありませんでした。それなのに名前を聞く勇気がないまま、高校を卒業してしまうのです。

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そして、あのミニシアター、あれをそう呼ぶとしたら今の若い映画ファンは度肝を抜かれるでしょう。

座席の2割はスプリングが壊れてる、壊れてない座席にも変な液体だか体液だかで汚れてることがある、ちゃんと掃除してないから変なゴミが残ってる(飲み残し・食べ残しならまだしも…注射器やら粉薬やら)。まあ、映画館の外はもっとひどかったですが。

あの映画館の常連どもは、みんな頭の中に「座席ハザードマップ」を持っていました。

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 ⇧これは日本が誇るミニシアター「岩波ホール」の在りし日の勇姿。


あのときは大嫌いだった夏でもスーツを着ていた〝見るからに〟なオッサン。

私がスプリングが壊れてる座席に座ってしまって「うー!」とか「おー!」とか小さな悲鳴をあげると、そいつは「おこちゃまやのう」と、ものすごく低い声で笑うのです。

当時は私もとんがってた10代、綺麗なお姉さんに「可愛いなぁ」と笑われたら心の中ではゾクゾクするほど嬉しくても、だいぶ年上でも男に笑われたら「おっさん、ちょっと外出よか?」くらい言いそうなのですが、高校生の喧嘩とは明らかに違う、1億ヘクトパスカルの空気圧があの人にはありました。

そのオッサンは敵意剥き出しの朝鮮高校の〝お友達〟とは違って、私が軽くメンチ切っても軽くベロ出して笑いかけたり、私が嫌ってるのを知っててもいつも優しい視線を送ってくれたり、ときにはビールの小瓶を渡してくれたり、次第に「この人は何者なのだろう?」と興味津々でした。

全部、後から思えばですが、あのとき「おっさん、ちょっと外でよか?」と言ったらどうなってたのか…。「大学への数学」どころではない、とんでもない勉強になった気もします。

実は、何十年ぶりに再開したのですが「おっさん、ボコボコにしたろと思ってた」と半分冗談で言うと、90近くなってもまだ変な空気圧を残してるおっさんは「あなたはおれには絶対喧嘩を売らない、それははっきりわかってた」と、ふふふと笑うのです。

おっさんへの腹立ちはかなり早い段階でなくなり、映画館に行ってお姉さんとおっさんがいなかったら寂しいな、と思うようにまでなっていました。


今日はいろいろあって、もう4時やないか!!!!!!!

もはや、何の話かわからなくなってきましたが、10代の私にとって欠かせない、当時は素性も名前すらも知らない二人でも隣の席で映画を見たことは一度もありませんでした。

映画って、ニュートラルで席について見るものであって、隣に映画よりも気になるやつがいたらダメなのです。

元ミス近大とか元大物幹部とかが隣に座ってたら、元でも物語が入ってこない。



もちろん、映画よりもはるかに気になる幼い娘なんかを隣にして見るのは、1番の幸せ映画です。

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2回目なのに、ヱビスとホットドッグ食いながら観てたと言ったら晴田は怒るかもしれないが、これはまさしく「イラン戦争」「ウクライナ戦争」から日本の「クマ問題」に至るまで〝弱肉強食〟のお話です。



「ヒンド・ラジャブの声」。

晴田のせいでちゃんと見れなかったので昨日、ロードショーを観に行きました。

「映画」と呼べるかどうかは別にして、多くの人にぜひ観てもらいたいと感じる作品でした。

89分間、その舞台はヨルダン川西岸地区というとんでもないエリアにある、人道支援組織「パレスチナ赤新月社」の緊急通報センターだけ。

映画タイトルにもなっているヒンド・ラジャブは6歳の少女。スタッフの「小学生か?」という問いかけに「ちょうちょ(組)」と答える。「幼稚園か…」。緊急通報センターに「この少女を見殺しにしてはいけない」という感情がほとばしります。

そして「ヒンド・ラジャブの声」は全て、実際の音声。

〝事後〟に世界中に拡散され、大きなうねりとなったとはいえ、想像力が欠如した私はそれをニュースの活字としてしかとらえていませんでした。

主人公のヒンド・ラジャブは音声以外では、一度も登場しません。イスラエルの無慈悲な攻撃シーンもありません。6歳の幼女の助けを求める声、その背後から聞こえる銃声。

幼女の「せんしゃがくる」の声。

映画なのに、全ては終わった事件なのに、観るものを「同じ人間として何としても助けなければならない」という強烈な衝動に自然と駆り立てる、ヒンド・ラジャブの震える声。



弱肉強食、正論ではなく力だけが優先する秩序。

ヒンド・ラジャブのいたいけな声は〝弱〟に何が出来るか?という虚しい問いに、もしかしたら力強い答えを示してくれたメッセージかもしれません。




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前回「大学への数学」誌の話をしてしまって、高校3年生の頃をいろいろ思い出しました。


「丹波篠山に左上弦の月。」シリーズは、高校時代に入り浸った廃屋寸前の神戸座という小さな映画館、当時は現実から逃げまくってた自己嫌悪の場所、今思い出すととんでもなく貴重で勉強していた時間でした。

米国での〝粗相〟からFBIに拘束されたこともある波瀾万丈の人生を経て、50代でそれまでの生き方と綺麗に決別した映画マニアの任侠さん。

絵に描いたような上流家庭で三流大学出身でもコネで一流総合商社に就職、そこでまさかの大出世を果たした、やはり映画マニアの絶世の美女。

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 ⬆︎これは横浜の有名なミニシアター。おしゃれです。


「ミニシアター」なんて呼んでしまうと、今の人は「おしゃれな場所」だと勘違いしてしまうでしょう。

「覚醒剤、やるのも売るのも買うのも、全部犯罪!」みたいな看板があちこちに立っていて、ゴミ集積所に注射器が散らばっていたり、ビジネスホテル前にパトカーや救急車が停まっているなんてこともビックリすることじゃない、上京して人に話しても「今の日本にそんなとこはない」と笑われるような周囲の空気にしっかり馴染んで存在していたのが神戸座でした。


そんな神戸座に、私が通っていたのは高校3年間。私が受験しようと思い立ったのは高2の夏頃。寂れた小さな映画館も含めて、この行き詰まった世界から脱出する口実に大学受験は絶好の通行手形になると考えました。

だから…あの場所にとどまるという選択肢は、最初からなかったのです。それでも、何かの間違いで滑り止めにもならない、予備校の報奨金目当てに受けた関西の私立大学に行かざるを得ない展開になっていたら、神戸座にも足を運んでいたはずです。

そんなアナザー・ワールドなら、神戸座の常連さんたちにも自分から声をかけて仲良くなるなんて交友もあったかもしれません。

しかし、現実はあの場所から離れてしまいました。

そして、大学時代に車で友だちと帰省したときに、神戸座があった場所に家電量販店の建物が建設されているのを目にして、あれが無くなったことに気づきました。自然と涙がこぼれてしまいました。

あのときは、好きか嫌いかと聞かれたら、嫌いな場所だったはずなのに。

高校の良くしてくれた先生から「図書室が大幅に縮小されて、お前が読んでた洋雑誌も処分される。欲しかったら取っとくぞ」と言われましたが、断ってしまいました。どうして断ったのか、今でもわかりません。

私の本性は、冷たい恩知らずなのです。

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前置きが長くなりました。

神戸座や図書室、居場所のなかった私の逃避の場所。そして、受験を決めてからいただいたトロフィーやメダルの類、そんなものを全部捨てて東京に行きました。

あのときは要らなかったし、なんなら忘れてしまいたいもの、思い出だったのかもしれません。


今思えば…私を形成した養分は神戸座や図書室でした。

そして、普通の高校生とつながる予備校の夏期講習や模試は、神戸座で見た映画や図書室で読んだ本のように感動することはありませんでしたが、無意味な時間ではなかったのかもしれません。

普通の高校生が読むかどうかは別にして「大学への数学」誌のヨハン・クライフが言ったのか?というような「正解でも美しくなければ評価しない」という哲学は、まさにスポーツでした。そして、自分よりも美しい答えが賞賛されているのを見ることは、スポーツの試合で負けたのと同じ感覚で悔しかったのを思い出します。

そして、無意味な時間を過ごしていた講習で、いまも名前を記憶している講師は一人もいません。もちろん、当時は覚えていたと思います。

模試だか講習の成績優秀者で表彰で、ある有名な英語講師からメダルだか賞状をもらったとき「現役生か?講習しか受けてないのか?」「面白い英文和訳だけど、これを入試でやるのは控えた方がいい」と助言され、そのあとの短い懇親の席でも世間話や「僕は学生運動の闘士だった」という話まで聞かされました。

その講師の教え方は、私が培ったタイム誌からリング誌までの英文活字丸呑みの英語力とは相容れない、唯物主義者らしい構文で英語を解釈する受験英語でした。

自分とは対極のスタイルに、青い私は「アホがおるな。お前には俺みたいな和訳はできまい。英語力も俺の方が上や」と思っても仕方がないところでしたが、私は嫌いではありませんでした。そこにはブレない信念が見えたからです。

先日、高校時代の友人たちとお酒を飲んだときに、その講師の話題が出て「最近、亡くなった」ということを知りました。

表三郎さんという人で、その酒席で名前を思い出しました。

表さんが、甲南大学という全国的には全く無名の三流大学に2浪の末に入学したということも知って驚きました。「やっぱりアホやん」ということではなく「そこからよくあれだけの受験英語の体形を作り上げたな」という尊敬でした。

あの表彰式の後でも、おそらく私に興味を持ってくれた表さんがいろいろ話しかけてくるのを真剣に聞くことなく受け流していたのは失礼だったし、後悔もしています。

やはり、あのときは「アホがおるな。お前には俺みたいな和訳はできまい。英語力も俺の方が上や」と思っていたのかもしれません。



私の本性は、冷たい恩知らずなのです。




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自分に正直に生きている人が、今も昔も眩しいです。まあ、そんな幸せな人はめったにいないし、自分がそうではなかったと思ってるからですが。



高校時代は私よりも野球が下手だったくせに、大好きな野球にしがみつき、関西2部の大学から実業団に進んで都市対抗にも出場、現役引退しても高校で野球部の顧問をしている先輩。

大学時代に国家公務員や高待遇の民間企業への就職に全く興味を見せずに、大学に残って大好きな研究を続けている友だち。

あるいは知り合いではありませんが、芸能界という最も自分に嘘をつかなければならない世界で、正直なまま活躍しているさかなクン。彼が自宅に帰って「こんなのやってられるかッ!」とハコフグ帽子を叩きつけることなんて一度も無い気がします。

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高2のときに、学校始まって以来といわれたほど勉強ができる一つ上の先輩から「受けてみ」と言われた模試で、先輩よりも順位は下でしたが、大阪地区の上位に入りました。

「2年で数Ⅲが満点ってどうなっとんねん?受験の型に慣れたら、私なんか問題ちゃうやん」と褒められたのが、受験することになったきっかけでした。

共通一次の社会2科目で「世界史」「日本史」を選んだのも先生方に「イレギュラーや」と驚かれましたが「倫理社会」や「地理」などと違って、十分に予備知識があるのがこの2科目だったので、私にとっては当然すぎるレギュラーでした。

タイム誌などの洋雑誌も含めた膨大な読書量で国語や英語、世界史と日本史ですでに大学受験のレベルはゲームオーバー、数学も応募問題が面白かった雑誌で鍛えられ、受験ごときレベルとは違う水準にありました。

この雑誌の応募問題が「数学は暗記」なんて言いかねないバカ受験とは対極にある、ヨハン・クライフみたいな「どれだけ美しい解答を導き出すか」に絶対的価値を置いていて、非常に面白いのです。正解であっても美しくなければ評価されない〝クライフの世界〟がそこにありました。

受験ファーストの講習や模試などで成績優秀だと報奨金や立派なメダルがもらえましたが、この雑誌の入賞者に送られるのは、お金はなくて質素なオリジナルバインダーだけ。それでも、自分よりも美しい解答を目にしたときは落差の大きいカーブで見逃し三振に打ち取られたような「こいつ、やるな」という清々しいライバル心を楽しめました。

英文和訳のセンスや、数学の美しい解答は受験ではプラスには働きませんから、無駄と言えば無駄なんですが、そこだけは楽しんで取り組めました。

受験では無駄…ということは無駄ではないということですね。

あとは理科の2科目だけ。こんなのは、もうどうにでもなりました。

2次試験は、私の完全Aサイド。

当時の受験英語ではヒアリングなどの実践的な問題は稀れでしたが、もしあったなら映画や洋楽で鍛えられていた私には圧倒的なアドバンテージがあったと思います。

まあ、結局、受験勉強には「くだらないことに時間を浪費してるなあ」という残念な感覚が拭えませんでした。

私に模試を薦めた先輩が「余計なことしたかもなあ」みたいなことを言ったり、映画友達の三井さんからも「つまらん男になったなあ」と言われたのは「〝あの頃の生き方〟とは違っちゃったね」という意味が込められていた気がします。

そういえば…模試や講習の成績優秀者でもらったメダルやトロフィーの類は今でもあちこちから出てくるのですが、数学雑誌から送られたバインダーや、深夜ラジオ・ヤングタウンでハガキがウケると送られるステッカー…母親に捨てられたらしく、一つも見当たりません。

メダル類は重量感があって捨てにくいこともあるのでしょうが、私的にはバインダーやステッカーの方が比較にならないくらいに誇らしかったです。



3月まで住んでいた横浜で野球と一部の子に勉強を教えていましたが「何になりたいとかがなくても、自分らしい生き方を優先して進路を決める、そういうこと大切だよ」ということを伝えていましたが、どこまで響いていたのかわかりません。



なんだか自慢話みたいになりましたが、受験しなかったら?というのは今でもときどき思うことです。まあ、受験しなかったらいまの家族はいなかったし、多くの友だちも別の友だちに入れ替わってたはずで、これはこれで良かったんだと思っています。



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♪はしゃいで生きる青春は 俺にはないと 思ってた。

「転がる石」(石川さゆり)





授業をサボって手当たり次第に本を貪り読み、場末の映画館で古い映画を夜を明かして観て、高校生らしいことといえば、野球や陸上の練習したり試合に出たりはしてましたが、90%以上の高校の先生方からは「他の生徒の邪魔や、消えろ。とっとと自分から退学しろ」とか…かなり酷い言葉も浴びせられました。

たださえ社会不適合者なのに、大人の先生から罵詈雑言を浴びると、ますます学校にいる時間が苦痛になりました。

私が生き返るのは、学校から離れた球場やグラウンドで練習試合や試合をするときです。

そして、もう一つ、野球部や陸上部の仲間も、私をなぜか評価してくれていた残り10%弱の先生も知らない、私が生き返る場所がありました。

学校から40分近く自転車をこぎまくり、10キロ以上は離れた国道沿いの寂れた区画にあった小さな古い映画館です。

そこは、知ってる人のいない隠れ家。見かけのボロさに輪をかけて館内はさらにボロボロで、いくつかのシートはスプリングが壊れてて、迂闊に「よっこらしょ」と腰を下ろすと、ズブズブズブと沈み込むばかりか、折れたスプリングが剣山のように尻を突いて「いてぇーーー!」と悲鳴をあげてしまう〝地雷〟なのでした。

その掘立て小屋みたいな小さな映画館のロビーでは、ずっとラジオが流れていました。

夜の11時になると「ヤングリクエスト」が始まり、国内外の流行曲が聞こえてきました。私の洋楽体験の始まりは、そんな深夜ラジオからです。

1981年にニューヨークで開局したMTVはすでに存在していましたが、民度が低空飛行する阪神エリアでそんなことは知る由もありません。

「転がる石」は石川さゆりデビュー30周年を記念して2002年にリリースされた曲なので、オンボロ名画座のロビーで聞いたわけではありませんが、この歌を聴くと、なぜかあの頃を思い出します。

社会不適合、屈折した毎日を送っていた私は暗い青春時代を送っていた、少なくとも当時はそう思っていました。

ところが、ずーーっと後になって振り返ると、友達は少なく、彼女もいなかったものの、恐ろしく明るくて、キラキラといろんなものが乱反射しまくっていた、間違いなく青春時代でした。

今思えば、あれは間違いなく青春でした。



小さな古い名画座には、私も含めて怪しい常連客が巣食っていました。

私も学校からの逃げ場所だと自覚して、当時はけして前向きに大好きではなかった場所なのに、いまではまぶしすぎる青春の記憶になっているなんて、とんでもない人生の不思議です。

「こんな毎日は嫌だ」。

それくらい後ろ向きな気持ちに沈んでいたはずなのに、もしいまあの頃に戻ったら、間違いなくまた、授業をサボって図書室にこもり、つぶれかけの名画座に通うはずです。

絶対に。

でも、もうあの頃に戻れるわけがありません。

高校としては巨大な図書室のあった古い校舎はとっくの昔に取り壊されてしまい、映画館のあった場所には大きな家電量販店が建ってしまいました。

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⬆︎これは新横浜の「ラーメン博物館」。私の行きつけの名画座にあったのも、このタイプの瓶の自販機でしたが、コカ・コーラではなくペプシでした。



映画館では誰も友達がいないと思っていましたが、数人の常連さんとは目で挨拶する関係だったし、中には古い自販機の瓶のコーラや、塩加減に許容範囲を超えたバラツキのある自販機のポップコーンをおごってくれたり、軽い会話を交わす人もいました。

もぎりのおばちゃんは、多めに渡された回数券を「これちゃうで」と返すと「どうせいつも空いてるから、学割や」と、戻してくれました。

今思えば、私の周囲の大人はみんな優しかった…大多数の高校の先生方は除いて。

上映する作品はテーマも時代も製作国もてんでバラバラでしたが、今思えば抜群のセンスでした。

「今思えば…」。せつない言葉です。当時は、その貴重な魅力に全く気づいていなかったのですから。

それなのに、彼らのことを社会に馴染めない自分を棚に上げて、粗末な名画座に集う行き場を失った人々だと、あんな大人になりたくないとまで考えていた気もします。若さとは、身勝手でもあります。

ただ、当時は彼らがどういう人なのか全く知らなかったから、冷えたコーラの瓶を後ろからそっと首筋に当ててびっくりさせる三井紀子さんはおそろしく綺麗なお姉さんで、それがまた怪しさを増幅し「この人はヤクザの情婦とかで、非常にやばい人に違いない」と思ってました。

体格が良くて場違いにおしゃれなおっちゃんは、私を見つけたときだけ妙に明るくなって声をかけてきました。私が〝地雷シート〟に座ろうとしてバインッ!と沈み込むと、「そこは一番アカンとこや」と手を叩いて笑われました。このおっちゃんは怪しいとかは通り越して、もう絶対その筋の人でした。

こんな人たちに気に入られるなんて、やっぱり俺はダメ人間なんだ…そんな風に思う一方で、三井さんもその筋さんも、自分に素直に生きてる感じが滲み出ていたのでした。

特に、その筋の人は、私を追いかけ回していたガラの悪い外国学校の不良集団でもこのおっちゃんを前にしたらビビりまくるだろうなという、普段は静かに映画を見ているだけでもオーラを発散させていたのです。


もし、あのおっちゃんと再会できたなら…40年ぶりとかのレベルです。

どうやって見つけたのか想像もつかなかったけど、三井さんは、あのおっちゃんを見つけたのです。


私は30代になるかならないかの頃に沖縄出張で仕事先で三井さんと全く偶然に〝再会〟。

そこで初めてお互いの名前やら素性がわかったのでした。もしかしたらあのときも「このレポート、面白いなあ」と予定になかった沖縄行きを決めた三井さんが私を見つけたのかもしれません。

あのときは、これぞ南国なホテルの開放的な会議室で「見ぃつけた。しかし、つまらん大人になってもうたなぁ」。そんなことを言われた記憶があります。

当時、まだ40前の三井さんは沖縄進出を考えるコンビニの大株主の会社の偉いさんに大出世していて、夜の懇親会で私が「まさか、まともな人だったとは。ヤクザの情婦と思ってて申し訳ありませんでした」と正直に言うと、よく冷えた瓶ビールを首筋に当てるのではなく、頭の上からドボドボぶっかけてきたのでした。

驚いたのは同行していた会社の人たちで「こいつが何か粗相しましたか?すみません、すみません!」と大慌て。常識的には、どう見ても三井さんが私に粗相を働いていたのですが…。

三井さんの部下たちも気色ばみましたが、三井さんが「この男、とんでもない粗相を働きましたが、二人だけの問題なので気にしないで」と、周囲からますます怪しがられることをのたまうのでした。


そんな、三井さんが名前も素性も知らないあのおっちゃんを見つけたのです。…どんな情報通やねん。

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待ち合わせ場所の伊丹空港⬆︎で、先に着いていた三井さんが「ちょっとここで待ってて」と言われて、もう絶対あのおっちゃん連れて来るんやんと確信しました。

「じゃじゃ〜ん!ちょうど卒寿(90歳)になられました〜」と、あのおっちゃんが座った車椅子を押してきて「おっちゃん、覚えてるでしょ、いっつも壊れたシートでひっくり返ってた高校生」と笑って私を指さします。

「三井さん、さすがやなー、おっちゃん見つけ出すなんてCIAでも無理ですよ。しかし、もう少し発見が遅れてたら死んでましたね、おっちゃん」というと、おっちゃんは「40年ぶりに会って最初にそれかいな?CIAもインターポールも全く関係ないわ。真面目な話すると、FBIに調書取られたことはあるけどな」と、それ以上詳しい話は聞きたくないことを口にするのでした。


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