カテゴリ: さよならは別れの言葉じゃなくて。

Fallece Wilfredo “Bazooka” Gómez, leyenda del boxeo puertorriqueño


私がボクシングの魅力に惹き込まれた1980年代初め。

複数の認定団体と、新設クラスで水膨れした階級によってタイトルの価値は低落の一途を辿っていました。

当時、水増し階級の槍玉に挙げられていたのはジュニアフライ級と、ジュニアフェザー級。

日本フェザー級で強打を存分に発揮していた〝KO仕掛け人〟ロイヤル小林がWBA王者アレクシス・アルゲリョへの挑戦に失敗(5ラウンドKO負け)、新設のジュニアフェザー級に照準を変えたのは当然でした。

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現在、井上尚弥が席巻するジュニアフェザー級ですが、ゴメスと比較すると対戦相手の質が議論する意味がないほど、あまりにも違いすぎます…。


1976年10月9日、WBCジュニアフェザー級王者リゴベルト・リアスコを蔵前国技館のリングに引っ張り上げて、見事8ラウンドKOでタイトル奪取。この年5月に輪島功一が王座から陥落、世界王者不在の空白にピリオドを打つ貴重な勝利でした(翌日、具志堅用高がプロ9戦目で衝撃のタイトル奪取、ロイヤルの印象は霞んでしまいましたが)。

小林は、敵地韓国で廉東均に判定で敗れて初防衛戦に失敗。新設階級らしく流浪のチャンピオンベルトは、廉に勝ったウィルフレド・ゴメスの腰に巻かれていました。

1972年ミュンヘン五輪でフェザー級ベスト8のロイヤルに対して、ゴメスは同じ五輪にフライ級で15歳で出場、2回戦で敗退。

2年後の1974年世界選手権にゴメスはバンタム級で出場、オールノックアウトで優勝。バスーカの威力を見せつけていましたが、1978年1月19日の小林の挑戦はチャンスありと期待されていました…。

まさか、新設間もない水増し階級に、歴代最強クラスの化け物が潜んでいただなんて、誰が想像できたでしょうか?

「ボクシングはタイミング」という真理を、一瞬でかくもわかりやすく伝えることが出来るのかという左ショート一閃。リアルタイムであれを目撃した人は、どれほど驚いたことでしょう。

このタイトルは17連続防衛、しかもオールKO。

小林を沈めた年の10月28日には、6度目の防衛戦に52戦全勝51KOのバンタム級のカルロス・サラテを迎えます。このとき、ゴメスも無敗で21勝全KO1分。2人合わせて73勝72KO1分という、軽量級史上最高の強打者対決はサラテ有利と見られていましたが、ゴメスが5ラウンドKOで大勝負を制しました。

1981年8月21日、WBCフェザー級王者サルバドル・サンチェスへの挑戦は失敗(8ラウンドKO負け)に終わりますが、プエルトリコのバズーカ砲はボクシングのスペクタクルを見せつけてくれただけでなく、その奥深さも教えてくれました。

ふっくらとなった体をゆすってビッグファイトの会場などに姿を見せてくれることもありましたが、現役時代から悩まされていた外傷性脳損傷に悩まされながら、ドラッグへの依存を深めていってしまいました。

現地時間10月10日、69年の生涯を閉じ、天国に招かれました。







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現役時代にどれほど偉大な選手だったかは、いまさら語る必要はないでしょう。

幼い頃、三輪トラックに激突され、焚き火の中に右手を付いてしまい指が内側に曲がったまま、まっすぐ伸びなくなりました。「棒きれをやっと持てる状態」でした。

1981年に引退、そのことを初めて人に明かしたのは川上哲治。打撃の神様は「うっ、おまえ、こんな手で…」と、涙ぐんだそうです。左利きの張本にとってグローブをはめる手、そして打者としては最も大切な手でした。

大谷翔平の二刀流を「出来るわけがない」と斬り捨てたのは「どちらかにしないともったいない」とその才能を最大級に評価していた裏返しでした。MLBでも大きな花を咲かせた大谷には、一人のファンのように応援していました。

カズの現役にこだわる姿勢を「みっともない」と批判したときも物議を醸しましたが、カズの「偉大な先輩からの貴重な助言。これからも頑張る」という答えに「男らしい。腹がすわっている」と〝あっぱれ〟。あれは老害の手のひら返しなどではなく、二人の偉大なアスリートの世代を超えたエール交換でした。



「原爆」「朝鮮」という戦後の闇を背負い、「力道山」「長嶋茂雄」「王貞治」という光に抱擁されたまさに伝説の86年。


まだまだ、炎上発言をお聞きしたかったです。


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Boxing champ Zolani Tete shot dead in Mdantsane


英国のニュースサイトDaily Dispatchからショッキングなニュースが飛び込んできました。

井上尚弥が優勝したWBSSバンタム級トーナメントで、エマヌエル・ロドリゲスと共に井上に次ぐ優勝候補と目されていたゾラニ・テテが日本時間の今日未明に南アフリカケープ州ダンサネで銃撃に遭い、命を落としてしまいました。

まだ38歳の若さでした。

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 一緒に食事したという井上は「強い奴は紳士だ」と誉めていました。


WBSSは肩の負傷を理由に、準決勝でリタイア。真相はWBSSが当初提示していた報酬が全くのデタラメであまりに低い金額に失望したためでした。このとき、テテと対戦予定だったノニト・ドネアも「報酬は全部ウソ、スケジュールも変更ばかり。主催者が電話に出ない。離脱を考えている」とぶちまけるなど、WBSSはとんでもない詐欺トーナメントでした。

テテは2022年7月にジュニアフェザー級の地域タイトルを獲得、再び井上との対戦に希望が出てきましたが、試合後のドーピング検査で禁止薬物スタノゾロールの陽性反応が検出され、4年間の出場停止処分が下されていました。

4年後は38歳…長いブランクと加齢から「テテのボクシング生命は終わった」と誰もが思いましたが、ようやくペナルティが明けて本格的な練習を開始、11月29日に復帰戦が予定されていたところで、この悲報。

テテはどんなボクサーだったか?そう聞かれたなら、ボクシングファンの10人が10人、こう答えるでしょう。「才能がダダ漏れするサウスポーだった」と。

警察の予備調書によると、自家用車に乗ったテテが自宅前で門が開くのを待っていると、目出し帽をかぶった身元不明の容疑者2人がテテと27歳の女性同乗者に向けて銃を乱射。銃弾の雨から逃れようと、テテは車を庭に突っ込ませましたが、何発もの銃弾を浴びて死亡したということです。

抜群のセンスと、一撃必殺のパワーショットを持ちながらグラスジョー。非常にスリリングなファイターでした。




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「Total Eclipse of the Heart」や 「It's a Heartache」などのヒット曲がすぐに思い浮かぶようで、英国国営放送BBCも「Total Eclipse of the Heart singer Bonnie Tyler dies aged 75」と、ウェールズのアイコン、ボニー・テイラーの死を悼みました。

しかし、日本では「スクール・ウォーズ」のテーマソングの原曲「Holding Out for a Hero 」(ヒーロー)を歌い叫ぶディーバとして強烈な印象を刻み続けています。

そして、テレビドラマに疎かった私にとって「Holding Out for a Hero 」は浜田剛史の入場曲でしかありませんでした。



「サムライ」という言葉がヒラヒラ飛び交う昨今ですが、浜田剛史こそ紛うことなき侍でした。

そんな侍の歌に、テイラーがシャウトするウェールズのパワーバラードがどういうわけだか最高にマッチするのです…私はバカ高校生ながら、ついに辿り着いたその舞台に浜田剛史が入場する、それだけで感極まっていました。

そして、そんな感情が私だけではなく、当時のボクシングファンのほとんどみんなが共有していることがテレビ画面を通してもはっきり伝わってくるのです。

いまから私たちは、侍の玉砕を目にするんだと…。



'Amazing voice' and 'Welsh icon'

さて、ボニー・テイラーです。「グレートブリテン&北アイルランド連合王国=日本でいうイギリス」を構成する4つのcountry(構成国)のひとつであるウェールズが彼女の故郷。独自の議会、行政機関を持っています。

リーン・アプ・ヨルウェルス首相は「彼女は人の心を揺さぶる声の持ち主で、ウェールズの象徴だった。この国はいま、深い悲しみに沈んでいる」と声明を出しました。

スコットランドや北アイルランドと比べると馴染みが薄いかもしれませんが、ボクシングファンなら無敗の王者のまま引退した〝Pride of Wales(ウェールズの誇り)〟ジョー・カルザゲ(生まれはイングランドのロンドン)が愛したホームであることを思い出せるでしょう。

クリス・ユーバンク、ジェフ・レイシー、ミッケル・ケスラーを撃破、アウエーの米国でバーナード・ホプキンス、ロイ・ジョーンズからも勝利を収めたカルザゲも、ボニー・テイラーと同じ情熱の匂いを充満させたファイターでした。



さよなら、パワーバラードの歌姫。


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昨日、福音館書店がXで絵本作家・林明子の訃報を伝えました。


亡くなられたのは1週間前の7月1日、81歳でした。

人気テレビ番組の〝原作〟となった「はじめてのおつかい」(作:筒井頼子)。

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一般的に最も知られているのは「魔女の宅急便」(作:角野栄子)の表紙・挿絵かもしれませんが、私(我が家)にとっては「はっぱのおうち」です。

柔らかく優しい温もりのあるタッチが、子どもたちのお気に入りでした。

私たちの世代にとって、絵本作家は子どもがいないと縁がないかもしれませんが、このブログを読んでくれている若い方には小さい頃にご両親に読んでもらった経験があるかもしれません。




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有名なエピソードが、今朝の読売新聞「編集手帳」で紹介されていました。

わたしは彼のファイターとしての勇姿をリアルタイムでは知りませんか、非常に頭の良い人だと尊敬したのは、このエピソードを聞いたときです。




ーーー素行の悪かった少年は中学2年のとき、家庭裁判所に呼び出されます。厳重注意受けた彼を迎えにきたのは父親の高四郎さん。

父親は少年を責めずに、ラーメンを食べさせます。出されたどんぶりに貪りついて「私はがつがつと全部食べてしまいました。すると、おやじはスープが残った器に水を入れ、指でかき混ぜて飲んだ。なぜ分けてあげられなかったのだろうと思いました」。

父親が注文したのは一杯だけ。貧しさから、でした。

少年は、ついさっき、裁判官にぺこぺこと何度も頭を下げていた父親の姿を思い出し、真面目に人生と向き合うことを誓うのでした。



少年が大人になる物語を、これほど簡潔で贅肉のない語りで伝えることが出来るなんて、私はゾッとしたのを覚えています。

そこには人間・鈴木有二とボクサー・ガッツ石松の〝レシピ〟が凝縮されていました。



蛇足になってしまいますが、1980年代末に「一杯のかけそば」という、お涙頂戴な創作がヒットしましたが、あのお話に素直に入っていけなかったのはそこにリアルな迫力が欠落していたからです。


私ごときに「頭が良い」なんて言われるのは、きっと本意ではないでしょうから、編集手帳にも紹介された、リングの外でも数えきれないほど炸裂させた有名な〝幻の右〟を一つ。

クイズ番組で「太陽はどの方向から昇る?」と出題されて、この男は即答してみせます。

「右から!」。

これこそが〝ド正解〟。

どんなに面白い漫才やコントを見ても、それが天才的であればあるほど、私は笑えない気質ですが、このときも笑えず、ゾッとするだけでした。


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エディ・タウンゼントの薫陶を受け、高山将孝、門田新一、イスマエル・ラグナ、ケン・ブキャナン、ロベルト・デュラン、ロドルフォ・ゴンザレス、エステバン・デ・ヘスス、センサク・ムアンスリンと殴り合った男。

堂々の人気階級で5連続防衛、その絢爛な対戦相手に目が行きがちですが、一番大切なことは、この男がガッツ石松だったということです。

リアルタイムで知らないというのに、引退後も派手なパフォーマンスと旺盛なサービス精神で大活躍されたおかげで、非常に身近に感じさせていただきました。

リングの中でも、リングを降りても、ガッツ石松はガッツ石松でした。

76歳、若すぎるとは思いますが、そこはガッツ石松。なにしろ、ガッツ石松です。

ボクシングを超えて、多くの人が、76年どころか永遠に記憶することになるでしょう。

ありがとう!!!OK牧場!!!



https://fushiananome.superknova.org/archives/7808507.html







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Bob Horner, who never played a game in the Minors and experienced the rare thrill of hitting four home runs in a Major League game, passed away at the age of 68.

アトランタ・ブレーブスは26日(日本時間27日)、公式HPでボブ・ホーナーが死去したと発表しました。68歳。

球団の象徴的存在だった元監督のボビー・コックス、名物オーナーだったテッド・ターナーが亡くなってまだ2週間余りのことでした。

ホーナーは1978年にドラフト1巡目、全体1位指名でブレーブスに入団したその年の世界最高評価ルーキー。さらに「マイナー経験がないままMLBデビュー、MLBで1試合4本塁打をマークした稀有な才能」でした。

怪我に悩まされながらもMLB10シーズンで通算1020試合に出場、打率.277、218本塁打、OPS.839という成績を残します。1978年にはナショナルリーグ新人王。唯一のオールスター選出は、ブレーブスがナショナルリーグ西地区優勝を果たした、栄光の1982年シーズンでした。

彼の最初のメジャーリーグ監督が、後に殿堂入りを果たすことになる監督キャリアの1年目だったコックス。そのときの球団オーナーはターナー。伝説の時代の秘蔵っ子だったのです。

「ターナーとホーナーは何度も衝突しながら、アトランタの三塁手はターナーのWTBS衛星放送を通じて全米に放映された70年代後半から80年代前半のブレーブスで最も有名な選手の1人として、デール・マーフィーやフィル・ニークロと並んで永遠に記憶されるだろう」。

ブレーブスとの契約がもつれた1987年にヤクルト・スワローズに電撃入団。マイナー経験のないエリート、直近シーズンで27本塁打を放った現役バリバリのMLB選手の日本上陸、日本の野球ファンは最近のトレバー・バウアーのベイスターズ入団どころではない騒ぎになりました。

日本では初出場の試合でいきなり本塁打、翌日には3本塁打を放って、本物がどれほど凄いかを小さな神宮球場で見せつけました。このシーズン、規定打席に届かなかったにもかかわらず31本塁打をマーク。

翌年、カージナルスでMLB復帰しますが、この年で引退しました。

ホーナー旋風を巻き起こした一方で、NPBを侮辱するような言動もあり、その著書「地球の裏側にもうひとつの野球があった」は日本のファンは好意的には受け止めませんでした。

来日前の大騒ぎと、実戦でのファーストインパクトでホーナーを上回る選手は2度と出現することはないでしょう。

ブレーブスの発表では死因はわかりませんが、68歳ですか…。

さようなら、ありがとうございます。ホーナー旋風の鮮烈は一生忘れることはできません。



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ブルーな気分で大阪へ。

「アナザーストーリーズ 運命の分岐点『全身俳優 1992年の大原麗子』」を小さなスマホ画面で見ていました。

大原麗子(1946年11月13日生まれ)や吉永小百合(1945年3月13日生まれ)は、私の中高時代はすでに超大御所なポジションの方で、彼女たちの映画をロードショーで見たことは一度もありませんでした。

ただ、大原麗子のCMは「映画のワンシーンだ」とその出来栄えの素晴らしさに感銘したのを覚えています。

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その当時、私は高校生とか大学生の時代で世はバーボンブームやら焼酎ブーム、スコッチも安くなって、彼女の宣伝するサントリーの「ホワイト」と「レッド」は貧乏学生レベルでもけして「あれ飲みたい!」というお酒ではありませんでした。

市川崑が演出するというのに、彼女はこのCMのオファーを「お酒を飲まない」という理由で断りますが、絵コンテを見せられて「俳優」として演じる価値があるを感じて受け入れました。

ステレオタイプな「いい女」のイメージで語られりことに強烈な拒否感を示し「本物が好きです」という叫びはマリリン・モンローのようでした。

2009年8月3日に天国に駆け上がったとき、まだ62歳だったとは…あのCMは30代だったとは…。

彼女が愛した言葉、十字架上のヨハネ(16世紀 スペインの司祭)の「孤独な鳥の5つの条件」は、実は私もお気に入りでしたが、大原麗子もそうだったことを今日初めて知りました。


1.孤独な鳥は高く高く飛ぶ
2.孤独な鳥は仲間を求めない、同類さえ求めない
3.孤独な鳥は嘴を天空へ向ける
4.孤独な鳥は決まった色を持たない
5.孤独な鳥は静かに歌う


これは「カモメのジョナサン」ではないか!と思ったものでしたが、私はアスリートの如く生き抜いたジョナサンをずっと男だと決めつけていました。

女優と呼ばれることを嫌い、俳優だと主張した大原麗子の生き様もまさに挑戦し続けるアスリートでした。

CMの中の大原麗子は、男にも言いたいことは言う都合の良い女ではないかも知れませんが、男性にとってはやっぱり最高の女性です。




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あーーーーー、不快指数の高い空気が澱んだ大阪に戻ってしもうたぁ…。




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ミゲール〝マエストロ〟カントが4月16日(日本時間4月17日)、78歳で天国に旅立ちました。

フライ級史上に残る身長154㎝の名王者が最初にタイトルを獲得した地は宮城県仙台市。1975年1月8日に小熊正二に判定勝ちを収めました。このタイトルは朴賛希に奪われるまで14連続防衛。

王座を失った小熊は1980年、戒厳令下のソウルで大番狂わせで朴をストップ、5年ぶりに返り咲きます。

日本にとってフライ級は、白井義男が初めて獲得した「伝統」。いまでは「伝統のフライ級」という言葉を聞くことは少なくなりましたが、カントはこのクラスで花形進、触沢公男の挑戦も退ける日本人にとって憎っくき壁となりました。

1948年1月30日、メキシコ・ユカタン州メリダで9人兄弟の4番目として生まれたカントは、野球選手を夢見ていましたが、兄に連れられて地元のスター、シベリオ・オルティスとカルロス・ナバレッテの激闘を観戦、プロボクサーを志します。

カントのボクシングは打たせずに打つ、ボクシングの基本を追求したもの。マエストロがプロ74戦(61勝15KO9敗4分)で披露したのは、けして塩気の多い試合ではなくウィリー・ペップやウィルフレド・ベニテスにも通じるディフェンス技術の見本市でした。

1998年に事実上の一発殿堂入り。

1999年にはAP通信がパンチョ・ビラとともに「20世紀最高のフライ級(Flyweight of the Century )」に選出。

1980年代には世界戦戦から後退、1982年に引退したカントの勇姿を、私はリアルタイムでは見ていませんが、フライ級の歴史を語る記事に、必ずその名前を目にしてきました。



さようなら、マエストロ。








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