カテゴリ: プロボクシングが好きなのである。

【あしたはあの日】。あれから、26年が経ちました。

1990年10月25日、木曜日の後楽園ホール。


Thursday, 25 October 1990
Korakuen Hall
Tokyo, Japan
commission:Japan Boxing Commission 
media:テレビ朝日系列で生中継

◾️WBCストロー級12回戦◾️

©︎大橋秀行
vs
リカルド・ロペス


WBCストロー級王者の大橋秀行は2度目の防衛戦に、自ら選んだランキング4位のリカルド・ロペスと3分4ラウンドと2分、ちょうど14分間、拳を交えました。

当時のWBCランキング1位は李敬淵でしたが、ビッグマウスの王者は「初防衛戦がナパ・キャットワンチャイで次が李じゃ、井岡(弘樹)くんのあとを追いかけてる感じで嫌じゃないですか。それに、せっかくの世界なんだからアジア以外の選手とも戦いたいし」という、なんとも悠長な理由で、Finito(素晴らしい)の異名を持つランキング4位のロペスを選んでしまいます。

まさか、このとき大橋と戦ったメキシカンがのちの一発殿堂、この年からスタートしたリング誌PFPに9年以上も回遊することになるとは誰が想像したでしょうか?

ストロー級は新設されて4年、歴史も層も薄く競技レベルも低いクラス。厳しい言い方をすると、ジュニアフライ級で世界挑戦を2度失敗している大橋が逃げ込んだのがストロー級でした。

そんな〝吹き溜まり階級〟にメキシコメディアが「全階級を通じて最もスタイリッシュなボクサー」と評価していると聞いても誰もピンときませんでした。

ましてや「(ルーベン・オリバレス、アルフォンソ・サモラ、カルロス・サラテを作り上げた)名匠クーヨ・エルナンデスの最後にして最高傑作」なんて言われても「いくらなんでもそれはない」(大橋)と笑うしかありません。

直前の試合で咬ませ犬のフランシスコ・モンティエルと10ラウンド判定までも連れ込んでいることも「ロペスは過大評価」という声を大きくしてしまいました。


計量は大橋がリミットいっぱいの105ポンド、103¾ポンドのロペスは「試合前にはこれくらいの体重に自然と絞られる。ベストウエイト」と余裕でしたが、日本のファンが心配になるような見るからに小さな体躯でした。

そして…オープニングラウンドに大橋の右フックでロペスが一瞬後退しますが、見せ場はこれだけ。

常に上体を揺らして的を絞らせないロペスの滑らかなフットワークと、上下に突き刺す多彩なパンチに対して、ボディワークの乏しい大橋はいつものように手数が少なく待ちの姿勢。

そして「ロペスのセコンドは全く静かで何も指示を出していない」という、背筋がゾッとする現場からのレポート。

そんなボクサーが、この世にいるのか?

恐るべき精度で大橋の顔面とボディに放たれるロペスの拳に、大橋は何事もなかったように懸命に耐え続けます。

しかし、第4ラウンド。王者のプライドで懸命に固めてきた我慢のダムが、ついに決壊してしまいます。ロペスが放った電光石火のワンツーで大橋が最初のダウン。

そして迎えた第5ラウンド、デジャブのようなワンツーが炸裂して2度目のダウン。なんとか立ち上がった大橋ですが、フィニッシュモードに入ったロペスの強烈な左フックをカウンターで受けて万事休す。

この日から、最も安易に獲れるはずのストロー級のタイトルが、ロペスのWBCに限っては17階級を通じて最も難攻不落のタイトルになってしまうのでした。







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そもそも、テレビを見なくなっている。

野球WBCなど価値の高いコンテンツは、ネット配信の巨人に太刀打ちできない。

WOWOWに逆風が吹き荒れ、業績がどんどん下がっているのは今に始まったことではありません。

フジ・メディア・ホールディングスとTBSホールディングスの持分法適用関連会社という地盤の固さ、無借金経営という〝良家の血筋〟ではあるものの、業界を取り巻く環境はマイナスばかり。このままでは倒産、身売りは確実です。

象徴的なのが「WOWOWエキサイトマッチ」。マイク・タイソンやオスカー・デラホーヤ、フロイド・メイウェザー、マニー・パッキャオのメガファイトを私たちに届けてくれた、ボクシングファンにとっては夢の番組でした。

しかし、いまでは世界が注目する試合の放映権を勝ち取れるわけもなく、日本の試合でもネット配信に負け続けています。

「日本人が活躍する世界のスポーツ」の筆頭だったボクシングの地位も、野茂英雄や中田英寿の登場からジリ貧に後退。

日本人の世界王者が何人もいる、よく知らない王者や挑戦者との試合、なによりも〝世界〟が付いているのに舞台はほとんど全てが日本ーーー21世紀が進むと、ボクシング界が見られたくなかった暗部がどんどん明るみにされてしまいました。

タイソンやシュガー・レイ・レナード、マービン・ハグラーを表紙に起用、世界のボクシングを紹介してきたNumber誌も、世界の紹介は野球とサッカーが大きな割合を占め、ボクシングが取り上げられることはついに消滅してしまいました。

1990年代まで一定数存在した世界のボクシングの新規ファンは激減。ボクシング・マガジンは廃刊、残ったボクシング・ビートも井上尚弥や那須川天心を中心とした日本人ボクサーを毎号追いかけるありさまで、新規ファンが増える要素はどんどん減ってしまっています。



スタートから30年あまり、ボクシングファンにとって空気や水のように必要だったエキマですが、この10年で魅力度は底をついた、というと言い過ぎでしょうか?

もちろん、マニアにとっては今週末のナバレッテの試合のように嬉しい配信もしてくれて、いまなお空気であり水、解約することはあり得ませんが…。





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ボクシング・マガジン1976年12月号に「具志堅用高の〝天才ボクシング〟研究〜新チャンピオンは本当に『百年に1人出るか出ないか』の天才なのだろうか。未知の部分の多い具志堅のボクシングにメスを入れるとー。」という特集記事が掲載されました。

当時の具志堅は「王貞治のベーブ・ルースやハンク・アーロンの本塁打世界記録」と同次元で、ウィルフレド・ゴメスの「現役最多防衛記録」に追いつけ、追い越せと熱い視線を集めていました。

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1975年11月初めに日大病院の吉田幸夫博士が考案したパンチ力測定機(サンドバッグに放たれたパンチの衝撃を電流に変えてオシロ・グラフで読み取る)のよると、具志堅の左ストレートは132〜134kgを記録したそうです。

ただ、海老原博幸は136kgをマークしたといいますから、110ポンド前後のボクサーとして具志堅は空前絶後の強打者ではありませんでした。

また、この記事は「パンチ力とKO率は比例しない。輪島功一のパンチ力は(具志堅以上で)測定器が壊れるほどだったが、彼はけして一打必殺のKOパンチャーではない」と、154パウンダーと同列に並べる無茶苦茶さを晒け出していますが「一般青年男子の利き手の平均が約64kgということを考えると、具志堅のパンチ力は破格」というのも当たり前です。

あるバラエティ番組でCHAGE and ASKA のASKAは具志堅とパンチングマシーン対決、150キロをマークしましたが、具志堅は100キロ前後にとどまり、全く勝負になりませんでした。

MLBで2010年にアロルディス・チャップマンが記録した105.8mph(170.3km/h)は16年経ったいまも更新されていません。「速い球は慣れたら問題ない」という落合博満の言葉を聞くまでもなく、ジェイコブ・ミジオロウスキーや佐々木朗希の速球はバットに当てることのできない魔球ではありません。

ボクシングでも、絶妙のタイミングで急所にジャストミートすることが全て。井上尚弥が放った肝臓を抉ったように見えてもタイミングのずれたボディショットでは、アラン・ピカソでも耐えることができます。しかし、触っただけにすら見えるジャブクロスでも、ファン・カルロス・パヤノは背中からキャンバスに墜落してしまうのです。

輪島の例を出すまでもなく「パンチの強さは体重に正比例します」。試合になると後ろ重心で羽毛のようなパンチしか打てない亀田和毅や井上拓真でもサンドバッグには尚弥のような強烈なパンチをめり込ませています。

パンチ力は体重ーーーだからボクシングの階級は体重で分けられているのです。

尚弥の強打はどこから生まれるのか?CompuBoxなどのスタッツで尚弥はどうして被弾が多いのか?どちらの理由も同じです。体重を乗せてパンチを打つからです。相手の射程距離を厭わないからです。とどのつまりは、勇気があるからです

和毅はサンドバッグ相手なら、父親が絶賛する強打を叩き込みますが、実戦では「女子ボクサー」と揶揄されても手打ちのペチペチしか打てません。

拓真は兄弟の意地がある尚弥とのスパーリングなら危険な距離にも飛び込めますが、実戦ではそこに踏み込む勇気は1ミリもありません。

和毅や拓真が羽毛パンチなのは物理的にはメカニクスの問題ですが、それ以前に心理的な問題です。彼らには踏み込む勇気が絶望的に欠落しているのです。

それを不治の病気、疾患と呼ぶこともできるかもしれませんが、それをいうなら尚弥の勇気もまた、綺麗事ではなく病気なのかもしれません(こっちの病気は治癒の兆候があるので残念ですが)。

もちろん、野球で「内角高めの速球が得意の打者はいない」というように、デンジャラスゾーンはどんなスポーツでも誰もが苦手としています。尚弥ですら、格下に転がらされているように。

もちろん、稀有ですがクロスレンジを好む変態は、います。

ロベルト・デュランやマニー・パッキャオが、そんな突然変異です。彼らを目の前にすると、グラディエイターとしての矜持がくすぐられてしまいますが、マービン・ハグラーやフロイド・メイウェザーのようにビジネスに徹するのが賢明です。

先週、69歳で天国へ旅立ったウィルフレド・ゴメスは1発の破壊力も秘めたナチュラル・ボーンでしたが、クロスレンジでの巧さも際立つテクニシャンでした。

同じジュニアフェザー級で、パンチ力もあった技巧派のギレルモ・リゴンドーがKOしても「退屈」と非難されたのはファンベースが薄い軽量級や出身がキューバだからではありません。

バズーカにあってジャッカルに欠落していたもの…破壊へ向かう確かな予感、スペクタクルへの導火線でした。




あなたが考えるハードパンチャーとは誰でしょうか?

パンチ力とは何なのか?まだまだ続きます。










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日本タイトルマッチでも注目のカードなら大きな注目を集めていた時代がありました。

いまからちょうど25年前の1991年10月14日。ところは水道橋、後楽園ホールで行われた日本ジュニアライト級タイトルマッチも日本中のボクシングファンが涎を垂らしながらその日を待つ、そんな試合でした。

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当時、世界のジュニアライト級はWBAでは南アの伝説ブライアン・ミッチェルがIBFに鞍替え、空位の王座を埋めたジョーイ・ガマチェは減量苦からすぐにタイトル返上。IBFではWBAから鞍替えしたミッチェルがトニー・ロペスを下して引退宣言と、液状化。

日本のコンテンダーたちにとってチャンスに溢れた階級でした。

WBCに君臨していたアズマー〝プロフェッサー〟ネルソンをターゲットにする発想は、日本の選手やジムにはありません。高額のファイトマネーを差し出して、ジムのホープが潰されるなんて、ビジネス(興行)として考えられないのは当然です。

そもそも、WBCジュニアライト級はライト級に進出したフリオ・セサール・チャベスのあとをガーナのプロフェッサーが継承した、日本からは見えないふりをするのも仕方がない階級でした。

〝ネルソン抜き〟が大前提ですから、で狙うのはWBA1本(当時のJBCが加盟していたのはWBAとWBCだけ)。

そして、この空位のWBA王座は11月に帝拳のヘナロ・エルナンデスが決定戦に出場することが決定、日本で好き勝手できる状況が整っていました。

さて、25年前のきょう、後楽園ホールで行われた日本ジュニアライト級タイトルマッチです。


Monday, 14 October 1991  
Korakuen Hall Tokyo, Japan

commission:Japan Boxing Commission 

media:FUJI -TV DIAMOND GROVE


王者は赤城武幸、29歳。アマチュアで3年連続で日本ライト級王者から、A級(8回戦)でプロデビュー。15戦14勝8KO1敗。プロ7戦目で日本王者に。〝曲者〟古城賢一郎に僅差で敗れたのが唯一の黒星ですが、リベンジに成功して、これが第二次政権の3度目の防衛戦。

すでにWBAで7位にランキングされていた赤城は、タイトル挑戦へ秒読み段階。

そして、挑戦者の渡辺雄二は前年5月にデビューしたばかりの21歳。元世界ランカーの植田龍太郎を壮絶な打撃戦の末に4ラウンドKOして、日本タイトル挑戦の切符を手に入れましたが、プロキャリアはわずか6戦。

渡辺にとって百戦錬磨の赤城は「早すぎる」と見られていました。

渡辺の持ち味は爆発力。プロで6試合しか戦っていませんでしたが、全勝。しかも全てKOでケリをつけてきた〝お江戸のタイソン〟。

この二人は何度かスパーリングを重ねてきた、互いに手の内を知っている間柄。練習では渡辺は子供扱いされていたという背景も王者が有利という見方を後押ししていました。

試合は大方の予想通りの立ち上がり。赤城がジャブとフットワークで渡辺の全身をさばきます。

第2ラウンド、赤城は左ボディから右ストレートをクリーンヒット、渡辺を仰け反らせます。コーナーに下がる挑戦者を王者が追った次の瞬間、渡辺の左フックが炸裂。赤城は両膝から崩れ落ちる、痛烈なダウン。

試合後に赤城が絞り出した「何をもらったのか、分からない」という言葉が、ダメージの深さを物語っていました。なんとか立ち上がった王者に、インタバルに逃げ込む足もエネルギーも残っていませんでした。

渡辺は3度、キャンバスに沈めて番狂わせの戴冠。

逆転の一撃は「狙ったパンチじゃない。それまでは狙いすぎていたけど」(渡辺)という、追い詰められて無心になったから打てた1発でした。



後楽園ホールのスターになった渡辺は10戦全勝10KO、WBA1位まで数字を伸ばし、翌1992年11月20日に悲願の世界タイトルへアタックします。

相手は予定通りのヘナロ・エルナンデス。「技術と経験では勝ち目はない」「打撃戦に引き摺り込めば勝てる」…渡辺の大勝負で聞き慣れた予想です。そして、技術と経験で上回る相手をパワーでねじ伏せ、ことごとく沈めてきたのが渡辺雄二でした。

そして、土砂降りの千駄ヶ谷・東京体育館であろうことか、ヘナロは打撃戦に応じてくれるのです…。




この試合で最も印象的だったのは、試合後の王者のコメントでした。

「次は誰と戦いたいか?」という日本人の名前をあげてくれるのを期待した質問に、26歳の王者は「もちろん、アズマー・ネルソンだ」とサラリと答えたのです。

そして、日本ボクシング界の視界から外されたエルナンデスは米国へ戻り、2度と日本に呼ばれることはありませんでした。

それが何を意味するのかは、誰にでもわかります。へナロは念願のネルソン戦を勝利で飾り(この試合はフロイド・メイウェザーも泣いた感動の名勝負ですが、そのお話はまた別のときに)、1998年10月3日にそのメイウェザーに敗れて引退しますが、敗れたのはこの全盛期のメイウェザーとオスカー・デラホーヤの2人だけ!

日本の視界から外して大正解のグレートでした(2010年にモダン部門で国際ボクシング名誉の殿堂入り)。




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今から46年前の明日、1980年10月12日。

当時の為替は1ドル249円。10月12日は具志堅用高と並ぶ国民的英雄、王貞治が最後のホームラン868号を放った日でもありました。

今日のお話の舞台は、ビッグOがアーチを架けた後楽園球場ではなく、カンムリワシが登った石川県金沢市の実践倫理記念館の特設リングです。




Gushiken Vs Flores Bout
Jissen Rinri Hall, Kanazawa, Ishikawa, Japan
Sunday, 12 October 1980
promoter:Kyoei promotions
media:
TOKYO BROADCASTING SYSTEM TELEVISION

WBA ジュニアフライ級15回戦



具志堅は、自らの日本記録のテープを伸ばす12連続防衛中の25歳。

日曜日のゴールデンタイムに地上波生中継される具志堅用高の試合は、当時の巨人戦なども上回る30〜40%台の視聴率を叩き出していました。

具志堅は王貞治と並ぶ国民的英雄でした。

13度目の防衛戦に選ばれたフローレスは、本業が月給8000ペソ(当時のレートで約8万円)の安定した公務員というパートタイム・ボクサー。4ヶ月前にメキシコのフライ級王者になったばかりの29歳。

戦前予想は「具志堅がいつKOするか」でしたが、フローレスのコーナーにはルペ・サンチェス控えていました。ジョー・メデル、ピピノ・クエバスらをマネジメント、アレクシス・アルゲリョも指導したメキシコ史上屈指の名伯楽です。

サンチェスは4年前の1976年10月にも来日、この日と同じ実践倫理記念館で辻本章次を第6ラウンドKOで屠ったWBAウエルター級王者クエバスのコーナーも守るなど、たびたび来日しています。

さらにさかのぼって、1967年1月にはファイティング原田の世界バンタム級タイトルを狙ってメデルを率いて愛知県立体育館に乗り込みましたが「息もつかせぬラッシュ戦法で技術勝負をさせてもらえなかった」と押し切られてしまいます。

サンチェスはフローレスを「メデルのようなテクニシャン」と表現しましたが、実際の試合では原田のような無尽蔵のスタミナで攻勢を仕掛けるファイターとしてカンムリワシの前に立ち塞がりました。


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試合は王者のペースでスタート。

第3ラウンドには右リードから左フックがヒット、フローレスをカンバスに沈めました。会場からは「まだ早い!」と余裕の応援。

しかし、具志堅の見せ場かここまで。第4ラウンドからフローレスのアタックに苦しむ大苦戦。



再戦は翌1981年3月8日、チャンピオンになって初めて沖縄に帰ってのタイトルマッチ。

「普通に戦えば勝てる相手」という予想が正しい見方だったのかどうかはわかりませんが、世界戦15度目という消耗、プロモーターへの不信感は25歳の肉体と心を蝕んでいました。




具志堅はプロ9戦目でのタイトル奪取、13連続防衛という二つの記録を残してグローブを吊るします。

最短記録の「9」戦目は、田中恒成と吉良大弥が「5」まで更新。

同一階級での「13連続防衛」はいまだに破られていませんが、階級またぎの連続防衛では井岡一翔が「18」(ストロー級「3」/ジュニアフライ級「3」/フライ級「5」/ジュニアバンタム級「7」)、そして井上尚弥によって「24」(ジュニアフライ級「1」/ジュニアバンタム級「7」/バンタム級「8」/ジュニアフェザー級「8」)まで伸ばされています。

もちろん、この手の記録は日本が好き勝手できる度合いが強まっている現代のボクサーに有利に働くのは当然で、このままタイトルの価値が暴落を続けるなら、最短記録も連続防衛記録もさらに更新されるでしょう。

バンタム級では、歴代最高論争で井上の対抗馬とされるファイティング原田の連続防衛の数字はわずか「4」でしかありません。亀田興毅の「8」の半分に過ぎませんが、原田と興毅の評価を真剣に議論するボクシングマニアは地球上に一人もいないでしょう。

ボクシングの数字的価値はとんでもないレベルで暴落しているのです。


具志堅の最短「9」と連続防衛「13」。ジュニアフライ級で記録されたこの数字にどこまでの価値があるのかは…わかりません。

しかし、1976年10月10日から1981年3月8日までのわずか4年と5ヶ月足らずの時間、具志堅用高は紛うことなき国民的英雄でした。あの時代、日曜日のゴールデンタイムに日本中のスポーツファンが固唾を飲んでブラウン管の前に座り、ワセリンに顔を光らせながら君が代を歌う具志堅を全身全霊で応援していたのです。


70年代PFP

具志堅が日本列島を沸かせたあの頃、定期的にPFPランキングを発表するメディアはありませんでした。

リング誌が年間表彰の一つにBEST FIGHTER POLLを創設したのが1980年。事実上の年間PFPでしたが、当時は「PFPといえばシュガー・レイ・ロビンソン」という認識が今以上に強く、この表彰の説明にもPound For Poundの文字は見当たりませんでした。

もし、具志堅が5年遅く生まれていたなら?おそらく、BEST FIGHTER POLLにも登場、事実上、日本人初のPFPファイターになっていたでしょう。

インターネットが普及した2012年、リング誌が発表した各ディケイドのPFPトップ10の1970年代で具志堅は10位にランクイン。70年代の10年間の10位です。

もし、インターネットが成熟し、従来以上に軽量級びいきになっている現代のPFPランキングなら、具志堅の瞬間最大風速は何位になっていたでしょうか?


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どんな雑誌であれ、紙媒体1本で生き残るのは至難の業です。

しかし、リング誌がデジタルバージョン(RingTV.com)を立ち上げたのは、2008年。他のスポーツ専門メディアと比較しても大きく遅れをとったわけではありませんでした。

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リング誌のデジタル元年は2008年。普通はそこからレイアウトも記事も進化していくはずなのですが、喜劇的にどんどん面白くなくなっていきました。「貧すれば鈍する」とはよく言ったものです。リング誌はプリント(紙)でもデジタルでも惨敗しました。



当時の米国ボクシング市場はヘビー級こそ閉塞していましたが、ウエルター級を軸にした中量級ではオスカー・デラホーヤからフロイド・メイウェザー、マニー・パッキャオへとスターのトーチがきれいにリレーされ、歪な地域タイトルや上位・下位タイトル、不条理なランキングは現在ほどではありませんでした。

当時を代表するメガファイトの一つ「THE DREAM MATCH」(2008年12月:デラホーヤvsパッキャオ)が完全ノンタイトルで何のベルトも用意されていなかったことからも、現在との大きな違いが想像できるでしょう。

今なら、WBCがあらゆる王者を超越したドリーム・チャンピオンを新設、高額なドリーム・ベルトを用意するなど、認定団体は色めきだっていたはずです。

もちろん、ボクシング市場全体が没落の底なし沼に沈み続けている状況は変わりませんでした。それでも、翌2009年の「FIRE POWER」(ミゲール・コットvsパッキャオ)に、WBOウエルター級タイトルマッチだったにもかかわらず、WBCがダイアモンド王座を創設。ここからWBCの〝多宝塔〟ビジネスが始まりました。

パッキャオとメイウェザーが100万件レベルのPPVを連発、記録的なファイトマネーを手にする一方で、リング誌の販売不振は相変わらず。RingTV.comは米国Yahoo!Sportsと短期の業務契約を結び、生き残りを図りますが、閲覧数は低迷。ヤフーから三行半を叩きつけられ、リング誌の経営状況はさらに悪化。

1970年代までの黄金時代を知る資産家らから支援を受けながら命脈をつなぎますが、販売不振に歯止めはかかりません。2010年代にはページ数は激減(定価も変更=値下げ)、月刊体制も崩壊。

定期購読していた私の元にも、値下げと月刊から年9回発行に変更したことに伴う返金のお知らせが届きました。

「存続できるかどうか」ではなく「いつ廃刊になるのか」という段階に突入していました。そして、創刊100周年となる2022年、ついに延命装置が外されてしまいます。

ところが、2023年にはサウジアラビア・総合娯楽庁が買収を発表。プリントバージョンも復活させました。

しかし、デジタルもプリントもサウジの飼い犬雑誌に転落。誰も買わないゴミ雑誌になってしまい、サウジですら扱いに困っている状況で、DAZNへの売却も噂されています。


日本では「権威がある」と思い込んでくれているファンもいるリング誌ですが、いまさら「日本語版」を発行しても、サウジやDAZNの広報誌を誰が読みたいと思うでしょうか?



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持続可能性という観点では難しいとは思いますが、デアゴスティーニみたいなパッチワーク・マガジンはある程度売れるんじゃないでしょうか?。

「原寸大 リング誌ベルトを組み立てよう!」なんてどうでしょうか?なにしろリング誌です、宣伝にもなるし、ロイヤルティも安いはず。

私なら買っちゃうけどなあ…。

チャンピオンベルトをはじめ、ボクシングの歴史や現在の世界勢力地図とか。

「権威がある」と言ってるファンでも買ったことも見たこともない人がほとんどの状況ですから、誰も見向きしないかなぁ。

「原寸大 リング誌ベルトを組み立てよう!」も、俺くらいしか買わないか…。


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【本文とは関係ありません】土曜日のお昼。まずは、つぶ貝のバター焼き。ビールが進みます。




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新聞・雑誌の販売不振が深刻です。

出版科学研究所によると、2025年の紙の出版物(書籍・雑誌)の販売金額は推定9647億円。1975年以来、1兆円を割り込みました。物価の上昇を考慮すると「50年前の水準に戻った」わけではなく、泥沼の市場縮小に悶え苦しみ続けているのです。

ピークの1996年と比べると、市場は4割弱まで縮小。特に雑誌は前年比17.9%減、返品率は5割を上回っています。

雑誌の凋落で象徴的なのは、ボクシング専門誌。21世紀になってからは日本でもマイナースポーツに転落、ボクシング・ビートが廃刊を繰り返しているように、もともとニッチな雑誌でしたが、インターネットの発達の中で速報性の弱い雑誌の存在意義はますます小さくなりました。

ボクシング・マガジンも、極度の販売不振と深刻な返品率に挟まれて2022年に廃刊に追い込まれてしまいました。ボクマガは返品の心配がないムック本を年に1〜2回発行していますが、全く売れずに在庫を抱える書店から非難の声まであがっています。

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海外に目を移しても、ボクシング市場の低迷に歯止めがかかっていません。特に米国では、タイトルと階級の増殖、茶番劇が最も大きな興味をひく状況からスポーツとしての地位まで怪しくなっている始末です。

雑誌メディアでもKOマガジンやボクシング・イラストレイテッドに続いて、リング誌までが廃刊。英国でもボクシング・マンスリーが廃刊、世界でも珍しい週刊専門誌だったボクシングニューズも月刊に移行するなど販売不振は底なし沼。

専門誌は試合展開・結果の速報性で致命的な遅れをとってしまう。しかも、ネットでは無料で情報が手に入る。購読者がいなくなるのは仕方がない…。よく耳にする敗者の言い訳です。

「紙媒体は速報性で劣る」「ネットでは情報が無料で手に入る」というのは事実ですが、「購読者がいなくなるのは仕方がない」のは本当でしょうか?

そしてーーー離れているのは購読者の方だけでしょうか?

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なぜ〝紙のボクシング〟は売れないのか?

せっかくの月刊なのに、表紙は毎月のように井上尚弥。「井上尚を表紙にすると売れ行きが上がるから」というのは目先の話ではありませんか?新規のファンでその雑誌を手にした人がどれだけいましたか?

「市場を支えているのは井上信者のような特定の選手を応援するマニア層だから、井上尚を全面に出すのは間違っていない」…本当にそうでしょうか?


また、せっかくのムック本なのにニュース性に軸足を置いた編集ではネットに太刀打ちできるわけがありません。既存のボクシングファンだけでなく、興味を抱いている潜在的なファンも明らかに存在します。

このスポーツで非常に特徴的なのが、既存のファンの無知っぷりです。「ボクシングは世界的なメジャースポーツ」「リング誌には権威がある」と思い込んでいる長年のファンの多くは、Fighter Of The Year の存在も知らず、PFPに歴史があるとすら勘違いしています。

海外に疎いだけではありません。ボクシングの採点基準すら知らず「ラウンドマスト(どんな微妙なラウンドも10−9に振らなければならない)」とまで思い込んでいるのです。

「耳障りの悪い本当のことよりも、気持ちの良い嘘を聞きたい」というファンを相手にしていては、長期的な発展はありません。

もちろん「ボクシングはほとんどの先進国で超マイナー」「リング誌は万年販売不振でサウジに拾われたゴミ雑誌」なんて事実をいきなり説明する必要はありません。

しかし、長年のファンの間ですら横行しているとんでもない浅はかな勘違いや、染み付いたネット的に短絡的なものの見方を是正して、もっと思索に富んだ世界へ案内することは無意味ではないでしょう。



プロボクシングがWBAなどのサンクショニング・ボディ(認定団体)ではなく、各国(米国では各州)のローカルコミッションが統括している仕組みや、そこに至った歴史を辿るのは、多くのボクシングファンにとって非常に興味深いものがあるはずです。

英国で盛り上がるヘビー、カネロ・アルバレスの人気、井上や西岡らのラスベガスはことごとく失敗…日本のボクシングファンには受け入れ難い事象の背景には、このスポーツがあらゆる側面がローカルという形状をしていることを明確に示しています。

亀田騒動を〝犯罪〟としてとらえて裁判を起こした場合、十分に社会的制裁を受けた亀田一家が主犯だったのでしょうか?亀田一家の単独犯と考える人は、おそらく皆無でしょう。では共同正犯としたら、TBSなどのメディアは教唆犯にとどまるでしょうか?すでに、現実の裁判で結審している事例もありますが、ファンが〝訴訟〟を起こした仮想裁判も、日本のファンには興味深いと思います。

10ポイントマスト・システム(ラウンドマストではありません)のレギュレーションや、10−9ジャッジの弊害、議論を呼ぶ判定の数々、さらに当日計量と前日計量、減量方法の変遷などの紹介も、簡単な経緯と結果だけをチャチャっと知りたいネットが満たしてくれる簡易ニーズへの強烈なカウンターになるはずです。


ワシントン・ポストやロスアンゼルス・タイムスがデジタル化に大苦戦する中で、どうしてニューヨークタイムズ(NYT)は大きな成長を続けているのでしょうか?

リング誌の不振はプリント(紙)だけでなくネットでも深刻でしたが、どうしてTHE ATHLETIC(NYTが買収)は読者から圧倒的な信頼を得たのでしょうか?

読売新聞や朝日新聞が没落一方なのに、日本経済新聞の大健闘はどう説明したら良いのでしょうか?


井上尚が表紙の雑誌が毎月並んで「今月はどんな記事が載ってるのだろう」と楽しみに手に取るファンが何人いるでしょうか?


ボクシングなど雑誌の購読者が離れていったのは、時代が悪かったのでしょうか?

「最初」に〝リング誌〟から、時代と購読者が離れていったのでしょうか?つまり、時代と購読者が〝リング誌〟を嫌ったのでしょうか?


順番が間違っています。

取引先を失った担当者がよく口にすることです。「最初」はそこではありません。


〝リング誌〟が時代と購読者を嫌い、そこから離れていったのが「最初」です。



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サウジアラビア総合娯楽庁のボクシング事業からの撤退が噂される中、米国では超巨大メディアが誕生しました。

パラマウント・スカイダンスがワーナー・ブラザース・ディスカバリーを買収する約1,100億ドル(約17兆円)の大型取引を完了したのです。

大谷翔平がドジャースと結んだ10年契約が7億ドル。今回のメガディールは、大谷157人分です…変な例を出してしまったので、巨額なのかたいしたことないのかよくわからなくなりますが、途轍もない金額です、1,100億ドル。

新会社「スカイダンス」はハリウッドの映画スタジオ(パラマウント・ピクチャーズ、ワーナー・ブラサース、ニュー・ライン・シネマなど)や動画配信サービス(パラマウント+、HBOマックス、プルートTV)、報道(CNN、CBSニュース)、数多くのコンテンツ・IP(知的財産)その他のテレビ(TNT、TBS、ディスカバリー、MTVなど)を傘下に収めることになります。

パラマウント+(ズッファ・ボクシングなど)、TNT(17日のブランドン・フィゲロアvs亀田和毅のイベントを配信)はボクシングでもよく耳にするプラットフォーム。

この世紀の買収劇が想像以上に長期化したのは、ネットフリックスとの争奪戦が加熱したことだけでなく、反トラスト法(独占禁止法)に抵触しないよう各国の規制当局の審査・訴訟などの取りまとめに時間がかかったからでした。



リング誌の赤字ですら気になって仕方がないサウジアラビアでは手も足もでないガリバーの誕生です。

トランプが支持していたスカイダンスの勝利によって、CNNの報道姿勢も変わってしまうのでしょう。

ネットフリクスにアマゾン、そしてスカイダンス。世界のメディアはこの3社のどれかに飲み込まれていくことになります。

巨大なパワーは単純に多数決になびきます。ややこしい真実よりも、わかりやすい茶番劇。米国ボクシングは一足早く、そのブラックホールに吸い込まれてしまいました…。




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WBAバンタム級タイトルが揺れています。

6月13日にアントニオ・バルガスを屠って王座に就いたばかりのバム・ロドリゲスが、6月30日のランキングでスーパー王者に昇格。スーパー王者の設定で空位となったセカンド王者の決定戦を増田陸と比嘉大吾が7月20日に争い、増田が競り勝ちました。

そして、7月31日、WBAはランキングを更新、バンタム級の休養王者・堤聖也を1位へ降格。休養王者からタイトル剥奪したことで「休養王者でもうかうか休んでられない」という倒錯ワールドを見事に現出させました。


次に何が起きるのか?堤の降格で空位となった休養王者決定戦をオーダーするなら、呆れるのを通り越してもはやマンマミーア!の世界です。

そして、WBA /WBOジュニアフライ級王者レネ・サンティアゴが予定されていた吉良大弥との防衛戦について「ヒジの負傷でスケジュールが後ろ倒しになるが、今年中には対戦可能」とWBAに報告していたにもかかわらず、休養王者に降格されてしまいます。

さらに、9月2日に吉良とカルロス・カニサレスで暫定では無くレギュラー王者決定戦を組んだことに、サンティアゴは弁護士を通して正式に異議申し立てしました。

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【あしたはあの日】。今回は、2021年8月25日です。

あしたでちょうど5年前となるこの日、WBAのヒルベルト・メンドサ会長が「選手ファーストの考えから多くのチャンスを与えたいとタイトルを増やしてきたが、ファンの意見も反映させることが大切」と、11人の暫定王者のタイトルを剥奪、王者よりも上に聞こえるゴールド王者も廃止する」と、発表しました。

まさか、選手のことを第一に考えていたとは…さすが思慮深い人です、メンドサ。

これまでも「タイトル削減、世界チャンピオンは17人が理想」と繰り返し主張していたWBAですが、ここまでの大鉈を振るったのは初めて。

それでも、世界中のボクシングファンとメディアが「絶対ウソやん」と冷ややかに受け止めたものです。

17階級にまで膨れ上がったクラスに最大で40人を超える〝世界チャンピオン〟を設けていたWBAに対するファンとメディアの非難は大きく、メンドサは〝とりあえずは改心の姿勢を見せる必要〟に迫られていました。

そうです、これはあくまで、ほとぼりが冷めるまでの〝とりあえず〟。

認定料を生業とする認定団体は、あくまで「タイトル・メーカー」。ここは忘れてはいけません。

認定団体に「タイトルを増やすな」というのは、トヨタ自動車に「これ以上、車を作るな」と言うのと同じです。

認定料の源泉である階級とタイトルを増やそうとするのは、彼らにとって極めて自然な営みなのです。そこを非難しても、彼らには何も響きません。

「無意味に細分化された軽量級にメスを入れ、ジュニア階級を廃止、8階級に戻す」とド正論を展開しているズッファ・ボクシングにしても、その後ろ盾となっているサウジアラビア総合娯楽庁とその機関誌The Ring がオレクサンデル・ウシクvsリコ・バーホーベンを事実上プロモートしたように、エンタメ路線を受け入れています。

プロボクシングの統括団体は英国ボクシング管理委員会やネバダ州アスレティック・コミッション、日本ボクシングコミッションなどのローカル団体。

そして、(自称)世界タイトルを認定する認定団体もローカル色が濃厚な組織です。米国のNBAから発展したWBAはパナマシティに本部を持ち、ベネスエラ人による家族経営。メキシコ人に機会を与えるべくWBAから分離独立したWBC、米国への復権を目指してやはりWBAから独立したIBF、やはりWBAから独立したWBOもボクシング大国でありながらその恩恵を十分に受けていないプエルトリコが拠点。

すでに、WBOレベルの勢力になっているIBOが4大メジャー(マイナースポーツの認定団体にメジャーというのもこれまた倒錯です)に続く団体と認められないのは「いくらなんでもこれ以上はタイトルを増やせない」という意識と、「WBAから分離独立」という血筋がないからとされています。

WBAと対立して分離独立した新団体は、ある程度認めざるを得ないという理屈です。

WBAとしては「〝暖簾分け〟した覚えはない!」でしょうが。

「昔はWBCはまともだった」「IBFやWBOはまだマシ」…そんな根本から間違っている意見もときどき耳にしますが、どれもが「タイトル・メーカー」を生業としていることに変わりはありません。

IBFやWBOは後発で勢力も弱いため、大きな声をあげにくいだけで、彼らも「タイトル・メーカー」であることに何ら変わりはありません。










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ボクシングを題材にした小説、漫画、音楽、映画は名作にあふれています。

その中でも「一瞬の夏」(沢木耕太郎:1981年 新潮社)はノンフィクションという〝フィルター〟を通して〝創作〟された特別な名作です。

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沢木耕太郎は、ボクシングファンではない読者も抱える(非ボクシングファンの方が圧倒的に多いでしょう)人気作家ですが、多くの人はこの作品を通して彼の存在を知りました。

そして、沢木が題材にしたモハメド・アリやジョージ・フォアマン、マイク・タイソン、輪島功一…彼らを、ボクシングファンの私は沢木作品の登場人物としてよりも、プロボクサーとして見てきました。

しかし、カシアス内藤はアリや輪島と同じリアルタイムで知らないプロボクサーですが、世界タイトルマッチの舞台で眩しすぎる輝きを放つことが出来なかったという点で、アリや輪島とは全く違います。

リング上のパフォーマンスで語られることが圧倒的に少ない、沢木の作品の中の登場人物としての色彩が濃厚なキャラクターなのです。



Wednesday, 22 August 1979 
Munhwa Gymnasium
Seoul, South Korea

commission:Korea Boxing Commission
inspector:Jung Kyoo Yang

vacant OPBF Middle -weight

1位:朴鐘八 vs  2位:カシアス内藤

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【あしたはあの日】。今から47年前の「あした」、1979年8月22日は、一瞬の夏が通り過ぎた日でした。

灼熱のソウル・文化体育館でカシアス内藤が朴鐘八と空位のOPBFミドル級王座を争い、2ラウンドで失神KO負けに散ったとき、内藤のコーナーにいた沢木は当たり前の話、まだ「一瞬の夏」を生み出していません。

そこに立ち、そこで倒されたのは、沢木作品の登場人物ではなく、生身のカシアス内藤でした。


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