カテゴリ: シネマパラダイス

映画「Disclosure Day(ディスクロージャー・デイ)」は、北朝鮮の核使用への不安が現実になりつつある近未来が舞台です。

いかにも現実的なストーリーですが、映画が未来を見事に切り取っていることが、ときとしてあります。

最も有名なのは「The Silence of the Lambs(羊たちの沈黙)」(1991年:オライオンピクチャーズ)に登場するウサマ・ビン・ラディンでしょう。映画公開の10年後、あの「9.11」が起きてしまうのです。

日本では「ワートレ」と呼ばれていたあの双子の高層ビルには、友人・知人もたくさん勤めていました。




ーーー今回も、映画の本筋から離れるものの、北朝鮮問題が触れられています。

私は国際関係に精通した専門家ではありませんが、高校時代の私は、北も南もどっちの高校のやさぐれた生徒たちとも公平に仲良くお付き合いさせて頂いてました。ほんと、嫌というほど…。

社会人になってからも、直接担当はしてなかったものの、会社的には韓国企業は大きな取引先で、北朝鮮も大きな商売ではないものの貿易のパイプはいまなおあります。




さて、北朝鮮。現在の指導者は金正恩です。

彼が後継者の有力候補とされたとき、中国や韓国、日本のメディアが報じた彼は「キム・ジョンウン」でした。

しかし、それは「金正恩」ではなく「金正〝雲〟」でした。音までは判明していたものの、漢字まで突きとめていなかったのです。

それほど、あの国の情報は外部に対して徹底的に遮断されているのです。

ロシアであれ、中国であれ米国であれイスラエルであれ…諜報部員はどこにでも入り込んでいます。メディアが報じる「消息筋からの情報によれば」というのは、それぞれの政府がメディアにリークしたニュースであることもあります。

金正恩の後継者候補について、最も正確で多くの情報を収集しているのは米国CIAではなく、韓国の国家情報院です。

その情報院がつい最近になって「後継者はキム・ジュエ」とほぼ断定しました。

日本でも3年ほど前から「ほぼ断定」した報道がされていましたが「彼女には兄がいる」という情報が複数寄せられ、東アジアでも特に男尊女卑の習慣が根強い背景からも「キム・ジュエ」は後継者ではないという説も根強かったのです。

しかし、情報院は「性別不明のきょうだいがいる可能性は依然として高いが、それが後継者の有力候補となりうる兄なのかどうかは確認中」と発表、ジュエが後継者として内定しているという見方を固めました。

きょうだいが存在するなら、後継作業の障害とならないように海外留学や中国の北朝鮮企業へ送り込むことになりますが、従来と同様に何人かのダミーを用意するのは確実で、特定するのは難しいでしょう。

そもそも、キム・ジュエの漢字表記すら、まだ判明していないのです。

〝金正雲〟の反省もあってか、キム・ジュエを「金主愛」や「金珠愛」などと表記する、勇気ある(高度な取材能力のある)メディアは見当たりません。これ「ディスクロージャー・デイ」で漢字まで断定してたら面白いんですが…まあ、既存の情報という檻の中でしか吠えることのできないAI時代で、そんな作品は無理でしょう。

しかし、それにしても北朝鮮の秘密厳守には驚かされ続けています。

かつて、ソ連はバルト海からアドリア海までを「鉄のカーテン」で遮断しましたが、あれは共産主義の絶対的盟主だから可能だったと考えられていました。

しかし…単独国家としては強力なパワーを持たない北朝鮮ですが、中国とロシアという険悪な関係の大国を天秤に乗せるバランスゲームを見事に切り抜けています。

それが、深い洞察力に基づくものならほんの少しだけ安心ですが、単なる幸運や偶然であって金正恩が短絡的で暴発する低脳であるなら、きょう公開された映画のような最悪の未来がすぐそこに迫っています。







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Disclosure Day
(ディスクロージャー・デイ)

監督 スティーヴン・スピルバーグ

出演者
エミリー・ブラント
ジョシュ・オコナー
コリン・ファース
イヴ・ヒューソン
コールマン・ドミンゴ

音楽 ジョン・ウィリアムズ

製作:アンブリン・エンターテインメント
配給 :ユニバーサル・ピクチャーズ
日本公開:2026年10月1日
上映時間 145分



「未知との遭遇」(1977年)、「E.T.」(1982年)に連なる地球外生命体との接触をテーマにした作品ですが、12月18日で80歳を迎える巨匠に〝焼き直し感〟を拭う期待は重過ぎます。

ステレオタイプな地球外生命体の姿、ラストの地球外生命体の登場シーンも、どうなんでしょうか?

まあ、それでも「未知との遭遇」「E.T.」のストーリーラインをベースに「激突!」のエッセンスもしっかり盛り込んでくれています。

会社の部署でいつの間にやら形成された「封切り初日に見る!映画鑑賞部」の仲間たちと、フレックスタイムにねじ込んで観るのはちょうどいい娯楽作品です。


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(本文とは関係ありません)ひらめとさんま。「天上夢幻  さんまに合うお酒 特別純米酒」(中勇酒造店)でいただきます。

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1981年公開 米国MGM 上映時間113分

監督:ロバート・アルドリッチ
出演:ピーター・フォーク ミミ萩原 ジャンボ堀


ロードショウは米国で1981年、日本では1982年。

この作品は、高校時代に通い詰めていた場末の映画館「神戸座」で見た記憶がはっきりとあるのですが…。しかし、もしそこで見たのなら1982年でしかありえないのに、神戸座が新作映画を公開することはなかったはずです。

見たのは間違いないので、勘違いがあるとしたら神戸座とは全く別の封切館で見たのかもしれません。あるいは、神戸座では極めて異例なことに「カリフォルニア・ドールズ」をロードショウで上映していたのかもしれません。

NHKプレミアムシネマで録画していたので、45年ぶりくらいに見ました。

ああ、こんな作品だったと懐かしく楽しめましたが、初見の人にはどう映るのか、あまりお薦めではありません。

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日系のプロモーター、クライド・ヤマシト(インターネットもAIもない時代の映画、この人の名刺が面白い)がマネージャーのハリー・シアーズ(ピーター・フォーク)を「カリフォルニア・ドールズは華がある。日本に来ないか?」と誘う〝伏線〟が張られているように、日本のマットを舞台にした続編が予定されていましたが…。

アルドリッチ監督は1983年に65歳で死去。続編は作られず、この作品が遺作となってしまいました。

「...All the Marbles2」、見たかったな。


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リング誌2026年10月号(デジタルバージョン)がアップされました。

ボクシングを題材にした名画は多かれど、最も有名で最も成功した作品は「ロッキー」で誰も異論はないでしょう。

ロッキーが公開されてから今年でちょうど50年を記念して大特集が組まれています。完全無料で読めるので、ぜひご覧ください!

サウジに買収されてからのリング誌は面白くなくなったと、私だけでなく世界中のファンが幻滅していますが、今月号はサウジ版で最も楽しく読めました。

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もちろん「最も有名」で「最も成功した」から、「最高のボクシング映画」か?というとそうではありません。

https://fushiananome.superknova.org/archives/12156079.html

https://fushiananome.superknova.org/archives/12194299.html


私の独断と偏見のベスト10⬆︎でも「ロッキー」は10位。このときは「どついたるねん」を失念してしまうというバカっぷりを指摘されましたが、トップ5には入る「どついたるねん」をカウントすると「ロッキー」は10位圏外となってしまいます。



ボクシングファンでなくても誰もが知っている名曲が詰まったサントラだけなら「ロッキー」がNo.1です。

いや、しかし「ロッキー」が10位に入れない(俺が入れてないだけですが)とは、ボクシング映画のなんと豊穣なことよ!!!

メジャースポーツにふんぞりかえってるサッカーやテニス、ゴルフ、英国影響下の国限定ながらクリケット、米国影響下の国限定ながら野球に名作がどれほどあるか?ガラクタ映画ばっかりです。

あらためて考えると、サッカー映画ベスト10なんてやったらとんでもない駄作のオンパレードです。

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高校時代、普段の行動範囲は半径10キロくらいで車や電車の乗らないことを考えるとなかなか広かった。

もちろん、その多くは歩いたり走ったりしていたわけじゃない。自転車に乗っていた。

自転車に特別なこだわりはなかったが、愛車と呼んで差し支えなかった。

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こんなんだったかなあ?もうほとんど記憶にない…


ブリヂストンのロードマン・スカラである。

場末の小さな映画館には、ほとんどこの愛車で乗り付けた。

後輪の泥除けにベターッと貼り付けられていた高校のシールを見られるのが嫌で、映画館から少し離れたスーパーマーケットの駐輪場に停めていた。

映画館で顔馴染みだった三井さん(当時は名前も知らなかった)と社会人になってから偶然再開、年に一度とかのペースで会うようになって、ある日に「三島くんって◉◉高校やったやん。映画館まで10キロはあるやろ、遠いとこから来てるなあって感心しててん」と言われ、びっくりしました。

彼女がタクシーからスーパーの駐輪場に私が入るのを見られてしまっていたのです。「運転手さん、ここで降ろして」と刑事みたいにタクシーを降りて、私の自転車を確認したと言うのです。

三井さんは私の高校を知っていたと言うことです…そんなん、こっちは知らなんだ。

三井さんは「高校生か大学生にしか見えなかったけど、友だち連れてきたことないし。怪しさ満点で興味津々やってん」と言うのですが「怪しさ満点」って、どの口でゆうとんねんと、私は私で彼女のことをヤクザの情夫や覚醒剤の売人、とにかく関わってはいけない人だと確信していました。

ちなみに、この人はCIAかモサドな情報収集能力で、高3の私が出場した駅伝大会に応援に来てたのです。

我が校はずっと入賞もできなかった大会で、1年と2年のときは最長1区を走った私はチームメイトがどんどん抜かれるのをなんとも言えない複雑な気持ちで見ていました。主将はよく知らないくせに、中長距離ブロックにいつもブチ切れていました。

3年の時はチームメイトから距離が短い最終区を走って欲しいとお願いされ優勝できた、思い出深い大会でした。

ゴール付近は関係者が集まってそれなりに賑わっていましたが、OLファッションですらっとした美人でヤクザの情婦か覚醒剤の売人な三井さんは場違いに目立っていて「誰だ?誰だ?誰の知り合いだ?」となって、なぜか私の知り合いだと決めつけられ(いや、まあそうなのだが、この時は名前も知らない)、私が高校に来ないのは「塚口の格安ソープのブローカーをしてるから」という根も歯もない噂に変な説得力を持たれてしまったのでした。

高校生で駅伝大会のアンカー走って、なんでソープのブローカーやねん?それになんで格安がつくねん?とも思いましたが、そんな無責任な噂を知ったのは30年以上後のつい最近のことでした…。

それにしても、三井さんのモサディックなまでの情報収集能力が、なんの手がかりもないはずのおっちゃんの居場所を突き止めるのです。




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同級生と比べて自分がかなり幼稚だと最初に感じたのは中学校の頃だったでしょうか。

ハタチの頃には、きっと俺は一生幼稚だと確信しました。

そんな私の周りには示し合わせたわけもないのに、同じようなヤカラが寄ってきます。いや、私もまた彼らに寄っていっているのかもしれません。

中学校の頃、仁徳天皇陵に人頭ほどもあるダイアモンドがゴロゴロ転がっているという都市伝説を確かめようと、幼稚な数人で体育倉庫の奥深くにあったゴムボートを引っ張り出して夜中に壕を渡りました。

ダイアモンドなどあるわけないと思っていたかどうかは、自分でも定かじやありません。よしんば、そんなものがあったとして、ゴムボートに乗せたら沈没です。

高校時代には外国学校の〝品の良いお友達〟と大乱闘を繰り広げ、病院送りにされました。あー、はるか昔の話なのに思い出したら腹立ってきた。

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高校時代、場末の小さな映画館前の国道で元ミス近代の綺麗なお姉さんと、道端に置かれていた誘導灯でチャンバラしたこともありました。

さらに、私みたいなヤツを「ずっと好きだった」と伝えてくれたキトクな女の子に誘われるままに廃線になったばかり崖っぷちを歩いて、怖い思いをしました。

社会人になって、北アフリカに赴任したときはアシスタントのホモセクシャルの男性から「松茸山が山脈となって連なってる」と聞いて採りに行くと、山賊みたいなのに襲われて人生最大の生命の危機に迫りました。

そして、いまでも旧友の超幼稚バカ医者から「南極に人類がまだ知らないレアメタルが眠ってる」と大冒険に誘われています。



他にもそんなヤツらが俺の人生に蠢き続けています。

彼らとの付き合いの中では、1件の重大事故の背後に29件の軽微な事故と300件のヒヤリハットがあるとするハインリッヒの法則が確実に横たわっています。

そんな「29件の軽微な事故や300件のヒヤリハット」のお話。

私に愛を告白したというイカれた女、晴田さやかさんがこの春に「映画の試写会に行かないか?」と誘ってくれたのです。

崖からパラパラ小石が落ちてくる崖っぷち廃線を踏破するとか、反政府ゲリラが跋扈しているエリアに松茸を採りに行くとかじゃありません。

大阪駅近くのちゃんとしたホールで開催される映画の試写会です。巨大な落石の轟音に鼓膜が破れそうになったり、ゲリラにカラシニコフを突きつけられることもあり得ません。

しかし、しかし、晴田は晴田。たかが晴田、されど晴田、こいつは持っているのです。持ってはいけない何かを、加齢でたれ気味の乳房の中あたりに持っているのです(こんなことを言うからセクハラだパワハラだと会社でも叩かれるのです、可哀想な俺)。

それにしても。なんで「ヒンド・ラジャブの声( صوت هند رجب )」やねん。お前、どこでその試写会券もらってん?!

「マンダロリアン」とか「ちいかわ」とかにせいよ…。

誘った晴田が途中から周囲に迷惑にならないように声を殺して泣いていました。まあ、晴田だけでなく他にも鼻をすする声が聞こえる、そういう映画なのですが」。



大阪勤務になってから、映画サークルみたいなのを結成されてたびたび映画館に繰り出すことになってしまいましたが、私の映画原体験は常に一人です。

高校時代に通っていた場末の小さな映画館の狭いロビーではーーー

チャンバラした例のお姉さんに手招きされて、高校生の私はドキドキしながら近づくと、吸ってた煙草の煙をふわ〜っと顔にかけられました。

「この女性は絶対恐ろしい人だから関わってはいけない」と思っていながらも「煙草の臭いは嫌いだけど、この綺麗な女の人が吐いた息は全部吸い込みたい!!!」と心の底では変態的に絶叫していました。

「この煙を缶詰につめて持って帰りたい」というくらいに、とにかく飛び抜けて人生最大、超絶爆発的なエロティックな感動に震えていたくせに…あのときは、わざと咳払いして、あのエロ煙を手で払ってしまったのでした。

お姉さんが「可愛いなぁ」とクスクス笑ってくれても、迷惑そうなポーズをとった気がします。心の底では「可愛いのはそっちじゃー!!!」と、変態男子高校生は叫んでいたはずです。

変態、もちろんこの「変態」はパッキャオや大谷とは全く違う、モテない気色悪い男子高校生の屈折した性欲です。帰宅した私は、カッターシャツの匂いを嗅ぎまくりましたが、タバコの匂いが全くしなかったのでがっかりしました。

「こんな姿を同級生に見られたらますます気持ち悪いやつだと思われるだろうなあ。それ以前に、あのお姉さんにも気持ち悪いと思われるだろうなあ」と思うとやるせなかったです。

そんな自己嫌悪の真夜中に「大学への数学」の応募問題とかと格闘、夜明けあたりに「これは美しい解答や!俺は天才ではないか!」と自分の中だけで変態から天才になるのでした。

それにしても、あのお姉さんの名前も知らないことがもどかしくて仕方がありませんでした。それなのに名前を聞く勇気がないまま、高校を卒業してしまうのです。

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そして、あのミニシアター、あれをそう呼ぶとしたら今の若い映画ファンは度肝を抜かれるでしょう。

座席の2割はスプリングが壊れてる、壊れてない座席にも変な液体だか体液だかで汚れてることがある、ちゃんと掃除してないから変なゴミが残ってる(飲み残し・食べ残しならまだしも…注射器やら粉薬やら)。まあ、映画館の外はもっとひどかったですが。

あの映画館の常連どもは、みんな頭の中に「座席ハザードマップ」を持っていました。

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 ⇧これは日本が誇るミニシアター「岩波ホール」の在りし日の勇姿。


あのときは大嫌いだった夏でもスーツを着ていた〝見るからに〟なオッサン。

私がスプリングが壊れてる座席に座ってしまって「うー!」とか「おー!」とか小さな悲鳴をあげると、そいつは「おこちゃまやのう」と、ものすごく低い声で笑うのです。

当時は私もとんがってた10代、綺麗なお姉さんに「可愛いなぁ」と笑われたら心の中ではゾクゾクするほど嬉しくても、だいぶ年上でも男に笑われたら「おっさん、ちょっと外出よか?」くらい言いそうなのですが、高校生の喧嘩とは明らかに違う、1億ヘクトパスカルの空気圧があの人にはありました。

そのオッサンは敵意剥き出しの朝鮮高校の〝お友達〟とは違って、私が軽くメンチ切っても軽くベロ出して笑いかけたり、私が嫌ってるのを知っててもいつも優しい視線を送ってくれたり、ときにはビールの小瓶を渡してくれたり、次第に「この人は何者なのだろう?」と興味津々でした。

全部、後から思えばですが、あのとき「おっさん、ちょっと外でよか?」と言ったらどうなってたのか…。「大学への数学」どころではない、とんでもない勉強になった気もします。

実は、何十年ぶりに再開したのですが「おっさん、ボコボコにしたろと思ってた」と半分冗談で言うと、90近くなってもまだ変な空気圧を残してるおっさんは「あなたはおれには絶対喧嘩を売らない、それははっきりわかってた」と、ふふふと笑うのです。

おっさんへの腹立ちはかなり早い段階でなくなり、映画館に行ってお姉さんとおっさんがいなかったら寂しいな、と思うようにまでなっていました。


今日はいろいろあって、もう4時やないか!!!!!!!

もはや、何の話かわからなくなってきましたが、10代の私にとって欠かせない、当時は素性も名前すらも知らない二人でも隣の席で映画を見たことは一度もありませんでした。

映画って、ニュートラルで席について見るものであって、隣に映画よりも気になるやつがいたらダメなのです。

元ミス近大とか元大物幹部とかが隣に座ってたら、元でも物語が入ってこない。



もちろん、映画よりもはるかに気になる幼い娘なんかを隣にして見るのは、1番の幸せ映画です。

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2回目なのに、ヱビスとホットドッグ食いながら観てたと言ったら晴田は怒るかもしれないが、これはまさしく「イラン戦争」「ウクライナ戦争」から日本の「クマ問題」に至るまで〝弱肉強食〟のお話です。



「ヒンド・ラジャブの声」。

晴田のせいでちゃんと見れなかったので昨日、ロードショーを観に行きました。

「映画」と呼べるかどうかは別にして、多くの人にぜひ観てもらいたいと感じる作品でした。

89分間、その舞台はヨルダン川西岸地区というとんでもないエリアにある、人道支援組織「パレスチナ赤新月社」の緊急通報センターだけ。

映画タイトルにもなっているヒンド・ラジャブは6歳の少女。スタッフの「小学生か?」という問いかけに「ちょうちょ(組)」と答える。「幼稚園か…」。緊急通報センターに「この少女を見殺しにしてはいけない」という感情がほとばしります。

そして「ヒンド・ラジャブの声」は全て、実際の音声。

〝事後〟に世界中に拡散され、大きなうねりとなったとはいえ、想像力が欠如した私はそれをニュースの活字としてしかとらえていませんでした。

主人公のヒンド・ラジャブは音声以外では、一度も登場しません。イスラエルの無慈悲な攻撃シーンもありません。6歳の幼女の助けを求める声、その背後から聞こえる銃声。

幼女の「せんしゃがくる」の声。

映画なのに、全ては終わった事件なのに、観るものを「同じ人間として何としても助けなければならない」という強烈な衝動に自然と駆り立てる、ヒンド・ラジャブの震える声。



弱肉強食、正論ではなく力だけが優先する秩序。

ヒンド・ラジャブのいたいけな声は〝弱〟に何が出来るか?という虚しい問いに、もしかしたら力強い答えを示してくれたメッセージかもしれません。




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前回「大学への数学」誌の話をしてしまって、高校3年生の頃をいろいろ思い出しました。


「丹波篠山に左上弦の月。」シリーズは、高校時代に入り浸った廃屋寸前の神戸座という小さな映画館、当時は現実から逃げまくってた自己嫌悪の場所、今思い出すととんでもなく貴重で勉強していた時間でした。

米国での〝粗相〟からFBIに拘束されたこともある波瀾万丈の人生を経て、50代でそれまでの生き方と綺麗に決別した映画マニアの任侠さん。

絵に描いたような上流家庭で三流大学出身でもコネで一流総合商社に就職、そこでまさかの大出世を果たした、やはり映画マニアの絶世の美女。

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 ⬆︎これは横浜の有名なミニシアター。おしゃれです。


「ミニシアター」なんて呼んでしまうと、今の人は「おしゃれな場所」だと勘違いしてしまうでしょう。

「覚醒剤、やるのも売るのも買うのも、全部犯罪!」みたいな看板があちこちに立っていて、ゴミ集積所に注射器が散らばっていたり、ビジネスホテル前にパトカーや救急車が停まっているなんてこともビックリすることじゃない、上京して人に話しても「今の日本にそんなとこはない」と笑われるような周囲の空気にしっかり馴染んで存在していたのが神戸座でした。


そんな神戸座に、私が通っていたのは高校3年間。私が受験しようと思い立ったのは高2の夏頃。寂れた小さな映画館も含めて、この行き詰まった世界から脱出する口実に大学受験は絶好の通行手形になると考えました。

だから…あの場所にとどまるという選択肢は、最初からなかったのです。それでも、何かの間違いで滑り止めにもならない、予備校の報奨金目当てに受けた関西の私立大学に行かざるを得ない展開になっていたら、神戸座にも足を運んでいたはずです。

そんなアナザー・ワールドなら、神戸座の常連さんたちにも自分から声をかけて仲良くなるなんて交友もあったかもしれません。

しかし、現実はあの場所から離れてしまいました。

そして、大学時代に車で友だちと帰省したときに、神戸座があった場所に家電量販店の建物が建設されているのを目にして、あれが無くなったことに気づきました。自然と涙がこぼれてしまいました。

あのときは、好きか嫌いかと聞かれたら、嫌いな場所だったはずなのに。

高校の良くしてくれた先生から「図書室が大幅に縮小されて、お前が読んでた洋雑誌も処分される。欲しかったら取っとくぞ」と言われましたが、断ってしまいました。どうして断ったのか、今でもわかりません。

私の本性は、冷たい恩知らずなのです。

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前置きが長くなりました。

神戸座や図書室、居場所のなかった私の逃避の場所。そして、受験を決めてからいただいたトロフィーやメダルの類、そんなものを全部捨てて東京に行きました。

あのときは要らなかったし、なんなら忘れてしまいたいもの、思い出だったのかもしれません。


今思えば…私を形成した養分は神戸座や図書室でした。

そして、普通の高校生とつながる予備校の夏期講習や模試は、神戸座で見た映画や図書室で読んだ本のように感動することはありませんでしたが、無意味な時間ではなかったのかもしれません。

普通の高校生が読むかどうかは別にして「大学への数学」誌のヨハン・クライフが言ったのか?というような「正解でも美しくなければ評価しない」という哲学は、まさにスポーツでした。そして、自分よりも美しい答えが賞賛されているのを見ることは、スポーツの試合で負けたのと同じ感覚で悔しかったのを思い出します。

そして、無意味な時間を過ごしていた講習で、いまも名前を記憶している講師は一人もいません。もちろん、当時は覚えていたと思います。

模試だか講習の成績優秀者で表彰で、ある有名な英語講師からメダルだか賞状をもらったとき「現役生か?講習しか受けてないのか?」「面白い英文和訳だけど、これを入試でやるのは控えた方がいい」と助言され、そのあとの短い懇親の席でも世間話や「僕は学生運動の闘士だった」という話まで聞かされました。

その講師の教え方は、私が培ったタイム誌からリング誌までの英文活字丸呑みの英語力とは相容れない、唯物主義者らしい構文で英語を解釈する受験英語でした。

自分とは対極のスタイルに、青い私は「アホがおるな。お前には俺みたいな和訳はできまい。英語力も俺の方が上や」と思っても仕方がないところでしたが、私は嫌いではありませんでした。そこにはブレない信念が見えたからです。

先日、高校時代の友人たちとお酒を飲んだときに、その講師の話題が出て「最近、亡くなった」ということを知りました。

表三郎さんという人で、その酒席で名前を思い出しました。

表さんが、甲南大学という全国的には全く無名の三流大学に2浪の末に入学したということも知って驚きました。「やっぱりアホやん」ということではなく「そこからよくあれだけの受験英語の体形を作り上げたな」という尊敬でした。

あの表彰式の後でも、おそらく私に興味を持ってくれた表さんがいろいろ話しかけてくるのを真剣に聞くことなく受け流していたのは失礼だったし、後悔もしています。

やはり、あのときは「アホがおるな。お前には俺みたいな和訳はできまい。英語力も俺の方が上や」と思っていたのかもしれません。



私の本性は、冷たい恩知らずなのです。




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♪はしゃいで生きる青春は 俺にはないと 思ってた。

「転がる石」(石川さゆり)





授業をサボって手当たり次第に本を貪り読み、場末の映画館で古い映画を夜を明かして観て、高校生らしいことといえば、野球や陸上の練習したり試合に出たりはしてましたが、90%以上の高校の先生方からは「他の生徒の邪魔や、消えろ。とっとと自分から退学しろ」とか…かなり酷い言葉も浴びせられました。

たださえ社会不適合者なのに、大人の先生から罵詈雑言を浴びると、ますます学校にいる時間が苦痛になりました。

私が生き返るのは、学校から離れた球場やグラウンドで練習試合や試合をするときです。

そして、もう一つ、野球部や陸上部の仲間も、私をなぜか評価してくれていた残り10%弱の先生も知らない、私が生き返る場所がありました。

学校から40分近く自転車をこぎまくり、10キロ以上は離れた国道沿いの寂れた区画にあった小さな古い映画館です。

そこは、知ってる人のいない隠れ家。見かけのボロさに輪をかけて館内はさらにボロボロで、いくつかのシートはスプリングが壊れてて、迂闊に「よっこらしょ」と腰を下ろすと、ズブズブズブと沈み込むばかりか、折れたスプリングが剣山のように尻を突いて「いてぇーーー!」と悲鳴をあげてしまう〝地雷〟なのでした。

その掘立て小屋みたいな小さな映画館のロビーでは、ずっとラジオが流れていました。

夜の11時になると「ヤングリクエスト」が始まり、国内外の流行曲が聞こえてきました。私の洋楽体験の始まりは、そんな深夜ラジオからです。

1981年にニューヨークで開局したMTVはすでに存在していましたが、民度が低空飛行する阪神エリアでそんなことは知る由もありません。

「転がる石」は石川さゆりデビュー30周年を記念して2002年にリリースされた曲なので、オンボロ名画座のロビーで聞いたわけではありませんが、この歌を聴くと、なぜかあの頃を思い出します。

社会不適合、屈折した毎日を送っていた私は暗い青春時代を送っていた、少なくとも当時はそう思っていました。

ところが、ずーーっと後になって振り返ると、友達は少なく、彼女もいなかったものの、恐ろしく明るくて、キラキラといろんなものが乱反射しまくっていた、間違いなく青春時代でした。

今思えば、あれは間違いなく青春でした。



小さな古い名画座には、私も含めて怪しい常連客が巣食っていました。

私も学校からの逃げ場所だと自覚して、当時はけして前向きに大好きではなかった場所なのに、いまではまぶしすぎる青春の記憶になっているなんて、とんでもない人生の不思議です。

「こんな毎日は嫌だ」。

それくらい後ろ向きな気持ちに沈んでいたはずなのに、もしいまあの頃に戻ったら、間違いなくまた、授業をサボって図書室にこもり、つぶれかけの名画座に通うはずです。

絶対に。

でも、もうあの頃に戻れるわけがありません。

高校としては巨大な図書室のあった古い校舎はとっくの昔に取り壊されてしまい、映画館のあった場所には大きな家電量販店が建ってしまいました。

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⬆︎これは新横浜の「ラーメン博物館」。私の行きつけの名画座にあったのも、このタイプの瓶の自販機でしたが、コカ・コーラではなくペプシでした。



映画館では誰も友達がいないと思っていましたが、数人の常連さんとは目で挨拶する関係だったし、中には古い自販機の瓶のコーラや、塩加減に許容範囲を超えたバラツキのある自販機のポップコーンをおごってくれたり、軽い会話を交わす人もいました。

もぎりのおばちゃんは、多めに渡された回数券を「これちゃうで」と返すと「どうせいつも空いてるから、学割や」と、戻してくれました。

今思えば、私の周囲の大人はみんな優しかった…大多数の高校の先生方は除いて。

上映する作品はテーマも時代も製作国もてんでバラバラでしたが、今思えば抜群のセンスでした。

「今思えば…」。せつない言葉です。当時は、その貴重な魅力に全く気づいていなかったのですから。

それなのに、彼らのことを社会に馴染めない自分を棚に上げて、粗末な名画座に集う行き場を失った人々だと、あんな大人になりたくないとまで考えていた気もします。若さとは、身勝手でもあります。

ただ、当時は彼らがどういう人なのか全く知らなかったから、冷えたコーラの瓶を後ろからそっと首筋に当ててびっくりさせる三井紀子さんはおそろしく綺麗なお姉さんで、それがまた怪しさを増幅し「この人はヤクザの情婦とかで、非常にやばい人に違いない」と思ってました。

体格が良くて場違いにおしゃれなおっちゃんは、私を見つけたときだけ妙に明るくなって声をかけてきました。私が〝地雷シート〟に座ろうとしてバインッ!と沈み込むと、「そこは一番アカンとこや」と手を叩いて笑われました。このおっちゃんは怪しいとかは通り越して、もう絶対その筋の人でした。

こんな人たちに気に入られるなんて、やっぱり俺はダメ人間なんだ…そんな風に思う一方で、三井さんもその筋さんも、自分に素直に生きてる感じが滲み出ていたのでした。

特に、その筋の人は、私を追いかけ回していたガラの悪い外国学校の不良集団でもこのおっちゃんを前にしたらビビりまくるだろうなという、普段は静かに映画を見ているだけでもオーラを発散させていたのです。


もし、あのおっちゃんと再会できたなら…40年ぶりとかのレベルです。

どうやって見つけたのか想像もつかなかったけど、三井さんは、あのおっちゃんを見つけたのです。


私は30代になるかならないかの頃に沖縄出張で仕事先で三井さんと全く偶然に〝再会〟。

そこで初めてお互いの名前やら素性がわかったのでした。もしかしたらあのときも「このレポート、面白いなあ」と予定になかった沖縄行きを決めた三井さんが私を見つけたのかもしれません。

あのときは、これぞ南国なホテルの開放的な会議室で「見ぃつけた。しかし、つまらん大人になってもうたなぁ」。そんなことを言われた記憶があります。

当時、まだ40前の三井さんは沖縄進出を考えるコンビニの大株主の会社の偉いさんに大出世していて、夜の懇親会で私が「まさか、まともな人だったとは。ヤクザの情婦と思ってて申し訳ありませんでした」と正直に言うと、よく冷えた瓶ビールを首筋に当てるのではなく、頭の上からドボドボぶっかけてきたのでした。

驚いたのは同行していた会社の人たちで「こいつが何か粗相しましたか?すみません、すみません!」と大慌て。常識的には、どう見ても三井さんが私に粗相を働いていたのですが…。

三井さんの部下たちも気色ばみましたが、三井さんが「この男、とんでもない粗相を働きましたが、二人だけの問題なので気にしないで」と、周囲からますます怪しがられることをのたまうのでした。


そんな、三井さんが名前も素性も知らないあのおっちゃんを見つけたのです。…どんな情報通やねん。

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待ち合わせ場所の伊丹空港⬆︎で、先に着いていた三井さんが「ちょっとここで待ってて」と言われて、もう絶対あのおっちゃん連れて来るんやんと確信しました。

「じゃじゃ〜ん!ちょうど卒寿(90歳)になられました〜」と、あのおっちゃんが座った車椅子を押してきて「おっちゃん、覚えてるでしょ、いっつも壊れたシートでひっくり返ってた高校生」と笑って私を指さします。

「三井さん、さすがやなー、おっちゃん見つけ出すなんてCIAでも無理ですよ。しかし、もう少し発見が遅れてたら死んでましたね、おっちゃん」というと、おっちゃんは「40年ぶりに会って最初にそれかいな?CIAもインターポールも全く関係ないわ。真面目な話すると、FBIに調書取られたことはあるけどな」と、それ以上詳しい話は聞きたくないことを口にするのでした。


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「上を向いて歩こう」
1962年
監督:舛田利雄 
脚本:山田信夫 
台詞協力:永六輔 
出演:坂本九 浜田光夫 
高橋英樹 吉永小百合 芦田伸介
製作・配給:日活
上映時間:1時間33分

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録画してたNHK BS プレミアムシネマで、この映画を初めて観ました。

東京湾沿いの工業地帯、あちこちにあった空き地、早稲田大学、軽トラックのトヨエース、ペリカンの万年筆、勝鬨橋、築地市場、西銀座デパート、真新しい国立競技場…すっかり姿を変える前の1960年代初めの東京の姿が鮮烈でした。

ノミ屋の白黒テレビに映し出される野球や相撲、そしてボクシングの試合。
そして、不良少年たちを引き取った運送会社にしつらえられたボクシングのリング。

当時、ボクシングがいかに身近でメジャーなスポーツだったのか、あらためて思い知らされました。そういえば、私の親戚のおじさんちの軒下にもサンドバッグが吊るされていました。

この映画が封切られたのが1962年3月4日、ファイティング原田がポーン・キングピッチを破ってNBAフライ級の世界タイトルを奪取するのがこの年の10月10日。

白井義男が1954年11月26日にパスカル・ペレスに敗れて王座から陥落、約8年にも及ぶ世界チャンピオン不在の時代に、「上を向いて歩こう」は製作、上映されていたのでした。

現在、毎月のようにダブル、トリプル世界戦が開催され、正確な数もわからないほど多くの世界チャンピオンを抱えています。

しかし、当時は日本や東洋タイトルの試合がゴールデンタイムで中継され、地球上に8つしかない世界タイトルに挑戦するだけでもとんでもない大ニュースという本物の黄金時代でした。


https://fushiananome.superknova.org/archives/30325376.html


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かつて「スターウォーズなどの大作映画、特にSFはその時代最先端の映画技術の見本市のような側面も持ち合わせていました。

「面白いとか歴史に残る名作とかではなく、この〝側面〟の方に注目が傾いていた感すらありました。

しかし、CGの進化やAIの登場とそれらの動画をサンプル的にネット配信で体験できることから〝最先端の映画技術〟は目新しさの乏しい既視感になってしまいました。

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「スターウォーズ マンダロリアンとグローグー」もまた、この側面での目新しさは無い作品です。

まー、でも会社の面々を引き連れ、平日に午前中フレックスにしてドドドドドッと押しかけるのもなかなかの一興です。


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