アンディ平岡が挑むジュニアウエルター級は世界的にも人気階級、つまりレベルの高いクラスです。
この牙城を崩したのは藤猛、浜田剛史、平仲明信の3人だけ。
南海の島で生まれ育った口髭をたくわえたパンチャー、世界奪取は衝撃的な序盤KO…共通点の多い3人ですが、私が受けた印象はそれぞれ全く違うものでした。

【1967年4月30日:国技館】藤猛は、私の知らない時代にタイトルを奪ったまさに伝説。五輪銀メダリストのサンドロ・ロポポロを2ラウンドで轟沈させました。
勝利インタビューで叫んだ「岡山のおばあちゃん見てる?」「ヤマトダマシイ」「勝ってもかぶってもオシメよ」は今なら間違いなく流行語大賞、藤は国民栄誉賞に選ばれていたかもしれません。
ジュニアウエルター級Undisputed champion の藤猛の全ては、ずぅ〜っとあとになってから読んだり見たり聞いたりした伝説でした。

【1986年7月24日:両国国技館】そして、浜田剛史。
国技館には行けませんでしたが、浜田のことはほとんどデビューから応援していました。
私が〝デビューから〟チェックしていた最初のファイターでした。
その強打ゆえに何度も左拳を骨折、その踏み込みの強さゆえに半月板も損傷。
当時の帝拳は、今のようなパワーハウスではありませんでした。老舗ジムの年季を重ねたフロアリング、大場政夫に続く二人目の世界チャンピオンの期待がかけられた満身創痍の浜田剛史…帝拳にはクラシックなムードが奏でられていましたが、当時は悲劇的な旋律も聴こえてきました。
主戦場のライト級からジュニアウエルター級は世界の激戦区なのに、浜田剛史は、万全の状態でリングに上がることは出来ない。
やっと辿り着いた世界の舞台。両国国技館に流れた「ヒーロー」のメロディが鎮魂歌に聞こえたのは私だけではなかったでしょう。
みんな、男の散り際を見届けに来たのです。
浜田は意識を失うまで戦うだろう。長くて辛い夜になる、そう覚悟していました。
試合は初回、2分59秒、浜田が王者レネ・アルレドンドを痛烈に沈めました。直後に1ラウンド終了のゴング。
王者が立ち上がれば、インタバルに逃げ込めましたが、アルレドンドは完全失神。主審のジョー・コルテスがテンカウントが数えてもピクリとも動きませんでした。
【1992年4月10日:メキシコシチー エル・トレオ闘牛場】あれほど強かった平仲明信なのに、日本人ファイターの恩恵にあずかることはほとんどありませんでした。
それは、日本で好き勝手できないジュニアウエルター級という人気階級だったことだけでなく、彼が東京や大阪、名古屋の大手ジムの所属ではなく、沖縄ジムに所属していたからでした。
熊谷ジム(埼玉)の工藤政志を例外にすると、地方ジムが生み出した世界王者は平仲が初めて。
練習相手を探すのも大変な苦労、しかも全国的に層の薄い(日本では)重量級。さらに、当然ながら報酬も〝沖縄価格〟。東京遠征では赤字になったことまであったと聞きます。
しかし、それは彼が自分で選んだ道、THIS IS THE WAY でした。
プロ26戦目で辿り着いた初挑戦は1989年4月29日、WBA王者ファン・マルチン・コッジに挑戦します。当たり前のように舞台は敵地イタリア、地中海をのぞむ港町バスト。2度ずつダウンを奪い合う激戦は大差判定負け。
その3年後に巡ってきた再びのチャンスもメキシコでしたが、そこは敵地ではありませんでした。世界が注目するトリプルタイトルマッチのメインはWBCジュニアウエルター級王者フリオ・セサール・チャベス、セミはWBCミドル級王者ジュリアン・ジャクソンの防衛戦。主役はもちろん、チャベス。
平仲が挑戦するWBAジュニアウエルター級王者エドウィン・ロサリオはかつてはチャベスのライバル、メキシコでは〝悪役〟でした。
平仲にとってはニュートラル、プエルトリカンのロサリオにとってはアウエーという珍しい構図のタイトルマッチ。

地方の弱小ジムゆえに、長い時間をかけて遠回りを重ねた平仲が、リングサイドに陣取ったドン・キングの度肝を抜くのに要した時間は、わずか92秒。
「うちのジムは日本一貧乏だけど、スタッフは日本一。ぼくは沖縄が大好きだから」(ボクシング・マガジン1992年6月号)。
のちに殿堂入りするロサリオを電光石火のTKOで仕留めた平仲は、1週間後には沖縄の実家で養豚業を手伝っていました。
この牙城を崩したのは藤猛、浜田剛史、平仲明信の3人だけ。
南海の島で生まれ育った口髭をたくわえたパンチャー、世界奪取は衝撃的な序盤KO…共通点の多い3人ですが、私が受けた印象はそれぞれ全く違うものでした。

【1967年4月30日:国技館】藤猛は、私の知らない時代にタイトルを奪ったまさに伝説。五輪銀メダリストのサンドロ・ロポポロを2ラウンドで轟沈させました。
勝利インタビューで叫んだ「岡山のおばあちゃん見てる?」「ヤマトダマシイ」「勝ってもかぶってもオシメよ」は今なら間違いなく流行語大賞、藤は国民栄誉賞に選ばれていたかもしれません。
ジュニアウエルター級Undisputed champion の藤猛の全ては、ずぅ〜っとあとになってから読んだり見たり聞いたりした伝説でした。

【1986年7月24日:両国国技館】そして、浜田剛史。
国技館には行けませんでしたが、浜田のことはほとんどデビューから応援していました。
私が〝デビューから〟チェックしていた最初のファイターでした。
その強打ゆえに何度も左拳を骨折、その踏み込みの強さゆえに半月板も損傷。
当時の帝拳は、今のようなパワーハウスではありませんでした。老舗ジムの年季を重ねたフロアリング、大場政夫に続く二人目の世界チャンピオンの期待がかけられた満身創痍の浜田剛史…帝拳にはクラシックなムードが奏でられていましたが、当時は悲劇的な旋律も聴こえてきました。
主戦場のライト級からジュニアウエルター級は世界の激戦区なのに、浜田剛史は、万全の状態でリングに上がることは出来ない。
やっと辿り着いた世界の舞台。両国国技館に流れた「ヒーロー」のメロディが鎮魂歌に聞こえたのは私だけではなかったでしょう。
みんな、男の散り際を見届けに来たのです。
浜田は意識を失うまで戦うだろう。長くて辛い夜になる、そう覚悟していました。
試合は初回、2分59秒、浜田が王者レネ・アルレドンドを痛烈に沈めました。直後に1ラウンド終了のゴング。
王者が立ち上がれば、インタバルに逃げ込めましたが、アルレドンドは完全失神。主審のジョー・コルテスがテンカウントが数えてもピクリとも動きませんでした。
【1992年4月10日:メキシコシチー エル・トレオ闘牛場】あれほど強かった平仲明信なのに、日本人ファイターの恩恵にあずかることはほとんどありませんでした。
それは、日本で好き勝手できないジュニアウエルター級という人気階級だったことだけでなく、彼が東京や大阪、名古屋の大手ジムの所属ではなく、沖縄ジムに所属していたからでした。
熊谷ジム(埼玉)の工藤政志を例外にすると、地方ジムが生み出した世界王者は平仲が初めて。
練習相手を探すのも大変な苦労、しかも全国的に層の薄い(日本では)重量級。さらに、当然ながら報酬も〝沖縄価格〟。東京遠征では赤字になったことまであったと聞きます。
しかし、それは彼が自分で選んだ道、THIS IS THE WAY でした。
プロ26戦目で辿り着いた初挑戦は1989年4月29日、WBA王者ファン・マルチン・コッジに挑戦します。当たり前のように舞台は敵地イタリア、地中海をのぞむ港町バスト。2度ずつダウンを奪い合う激戦は大差判定負け。
その3年後に巡ってきた再びのチャンスもメキシコでしたが、そこは敵地ではありませんでした。世界が注目するトリプルタイトルマッチのメインはWBCジュニアウエルター級王者フリオ・セサール・チャベス、セミはWBCミドル級王者ジュリアン・ジャクソンの防衛戦。主役はもちろん、チャベス。
平仲が挑戦するWBAジュニアウエルター級王者エドウィン・ロサリオはかつてはチャベスのライバル、メキシコでは〝悪役〟でした。
平仲にとってはニュートラル、プエルトリカンのロサリオにとってはアウエーという珍しい構図のタイトルマッチ。

地方の弱小ジムゆえに、長い時間をかけて遠回りを重ねた平仲が、リングサイドに陣取ったドン・キングの度肝を抜くのに要した時間は、わずか92秒。
「うちのジムは日本一貧乏だけど、スタッフは日本一。ぼくは沖縄が大好きだから」(ボクシング・マガジン1992年6月号)。
のちに殿堂入りするロサリオを電光石火のTKOで仕留めた平仲は、1週間後には沖縄の実家で養豚業を手伝っていました。
コメント
コメント一覧 (1)
長身で長いリーチと驚異的なKO率、ロニースミスを一撃で倒したシーン。
レネ・アルレドントの印象は正に怪物でしたね。
純白のガウンの背中には沖縄の守り神シーサー、大手企業からの提供を断り
馴染みの靴職人が大安の日に縫い上げた真っ白のリングシューズ。
リングに向かう浜田剛は神風特攻隊の様に思えました。
数分後国技館に舞った座布団と、淡々とした表情の浜田剛。
サムライを見ました、TV前の私は感動と嬉しさで涙が流れていました。
フシ穴の眼
が
しました