カテゴリ: さよならは別れの言葉じゃなくて。

門田博光は本塁打教の狂信的な信者でした。

「完璧なヒットが本塁打。だったら完璧を目指すのはプロとして当然」と信じ、アキレス腱断裂の重症を負って、選手生命絶望と診断されても「まともに走れなくなったから、これからは心置きなく本塁打だけを狙って打席に入れる」と言い放ちました。

門田よりも多くの本塁打を放ったのは、王貞治と野村克也の2人だけ。

その2人が「そんなに振り回すな。ヒットの延長がホームランだ」と諭しても、「あんなの本心じゃない。口裏合わせしてたんだろう」と、意に介しませんでした。

おそらく、門田の感覚は正しく、王も野村も〝隠れ〟本塁打教の信者でした。

かつて、本塁打は狙って打っているのか?と聞かれた落合博満は、断言しました。

「ホームランなんて狙ってなきゃ(あんな数)打てません。王さんに聞いてみなよ。絶対狙って打ってたから。…狙ってないと言ってた?だったら王さん、嘘ついてるよ。偉い人だからいろいろあるんでしょ」。

落合も門田と同じく、本塁打教の信者であることを隠そうとはしませんでした。

それでも…。

落合と門田、「どちらが敬虔な信者だったか?」と問われたら、誰も答えに迷わないでしょう。



伝説のエピソードに満ちた人生でしたが、私が一番好きなのは、南海時代の投手たちの言葉です。

「打線の援護なく敗れたら『すまんなあ。俺があと1本、打ってたら』と、謝りに来てくれるんです。ちゃんと投手も見てくれている人でした」。
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一昨日の「3150FIGFT vol.4」は、随所に挟まれる亀田興毅ファウンダーのたどたどしい挨拶も新鮮でした。

一番盛り上がったのは、ファウンダーがリングサイドにサイバーエージェントの藤田晋社長と並んで座る島田紳助を紹介したときだったでしょう。

というわけで、正月気分の抜けない1月8日、日曜日の朝はボクシングマガジン1989年8月号から。

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表紙は今なお「ボクシング史上最高試合」と謳われる、1981年のシュガー・レイ・レナードとトーマス・ハーンズの「THE SHOW DOWN」から、8年越しの再戦。試合内容から判定まで何もかもが「幻滅」のメガファイト、あまりにも遅すぎた再戦でした。 

当時、米国ボクシングは〝消灯〟寸前でしたが、クローズドサーキットからPPVへと一握りのスター選手がより巨額のファイトマネーを手にするシステムが構築されつつありました。

日本でもNHKがBSで「世界のボクシング」の放送開始、特別なメガファイトは地上波のNHK総合へ28年ぶりの復活も噂されるなど、新しい局面を迎えていました。

この頃は、私にとっても想い出がいっぱい。

まずは「ファン登場 I love Boxing」のコーナーに島田紳助が登場。

カラーページでも取り上げられた日本フェザー級タイトルマッチで1位の福田健吾を2ラウンドKOで初防衛に成功した王者・浅川誠二が「勝ったら」という条件付きでのインタビューでした。

紳助は「大場政夫に憧れ」プロを目指した高校時代や、ジムでは「シャドーの鬼と呼ばれていた」と持ち前のシャレっ気も披露。 

そういえば、セコンドから福田を思いっきりヤジっていました。 

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私も後楽園ホールによく通っていたボクシングファンとして優等生だった時代。

世界王者は不在、世界戦の連敗記録を更新中だった暗黒時代ですが、私の観戦歴では黄金時代だったのかもしれません。

レパード玉熊や畑中清詞、平仲明信、ストロー級で再起の大橋秀行らが世界へスタンバイしていました。

彼らだけでなく、私は後楽園ホールのリングで個性的なファイターが放つ妙な磁力にも惹き寄せられていました。

ホープ時代のピューマ渡久地や川島郭志、日本タイトル3階級制覇のライト級王者の五代登、ジュニアフェザー級でますます〝磨きがかかった〟逆転の貴公子・高橋ナオト、ジュニアライト級の赤城武幸、ウェルター級の吉野弘幸にジュニアミドル級の上山仁…。

そして、五代に日本タイトルを追われた大友巌が朴奉春から一発KOでOPBF王座を奪取した試合も、この8月号に掲載されています。

当時のライト級はフリオ・セサール・チャベスがWBAとWBCを統一、IBF王者はパーネル・ウイテカーと、あらゆる意味で大友(大川ジム)がどうにかできる世界ではありませんでした。

それでも、大友の巌という名前そのままの無骨で不器用で力任せのファイトには異様な魅力がありました。「こいつとは絶対ケンカしたくないな」という。

引退試合では、あのオルズベック・ナザロフを相手に最後まで倒れず戦い抜いたど根性に、後楽園ホールの片隅で感動に震えていました。

その大友は、大動脈解離という病気で今年10月に突然死を迎えてしまいます。まだ59歳の若さでした。



そして、この号の世界の情報を伝える「トピックウォッチング」では「リング誌の廃刊」も伝えられています。

1922年の創刊から67年。この当時も、米国ボクシングの没落から廃刊が噂されており、最期の4月号の発行部数はわずか2万5000部(実際はもっと少なかったと思われます)でした。

モハメド・アリが活躍していた70年代の全盛期には60万部を発行していたと〝自称〟していた、〝自称〟「ボクシングの聖書」ですが、実際には12〜13万部で、信用が失墜したランキング操作のスキャンダルと同じく、5倍もサバを読む〝詐称〟でした。

このときは、なんとか翌年に復刊を遂げたリング誌でしたが、その後も米国ボクシングの凋落は全く歯止めがかからず、今年で廃刊。今回は復活の目処が全く立たない、完全カウントアウトです。

当時の私の読者歴は長くはなかったものの「長い間ずっとお世話になった」と感慨深かったのを覚えています。スキャンダルに経営難と「権威ある」とは素直にいえないリング誌でしたが、面白い記事が多かったのです。私にとっては世界のボクシングと英語のテキストでした。

高校の図書館で貪り読み、大学では自分でも購入するようになって、人生の楽しみの一部だったリング誌、若く多感な時期に愛した雑誌との時間はとてつもなく長く感じたのでした。


そして、通算40年以上になるリング誌とのお付き合いが今年、ついに終わってしまいました。
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一般紙が外国で行われる外国人による世界タイトルマッチを、ほとんど報道しなくなったのは、いつからでしょうか?

先日の「カネロ・アルバレスvsゲンナジー・ゴロフキン」のスーパーミドル級Undisputed championship fightは、さすがに少しは記事にする、少なくとも結果は載せると思っていましたが、読売新聞をはじめほとんどの一般紙が触れませんでした。

私が世界のボクシングに夢中になっていた80年代はマービン・ハグラーの時代。マーベラスの試合は日本の一般紙でも写真付きで報道されたばかりか、トーマス・ハーンズやシュガー・レイ・レナードらとの一戦の前には、対戦の背景や試合展望が夕刊でも詳報されたほどの過熱ぶりでした。

当時は、夕刊にはスポーツ面が無い時代、社会面での扱いでした。

それを目にして「よくわからないけどとんでもないボクシングの試合があるようだ」と多くの人が感じたはずです。

今は4団体17階級が乱立、スーパーやらダイアモンドやらフランチャイズやらが石コロ混交するプロボクシングの世界戦、日本人が絡まない試合まで取り上げてしまうと、毎日のように記事にしなければなりません。

週末明けの月曜日の新聞は、結果だけでもちょっとしたコーナーを割くことになります。

日本人の世界戦でも地上波生中継が珍しくなってしまった時代です。




そんな時代のいま。

今朝の読売新聞で、13日に亡くなった矢尾板貞雄の記事が、パスカル・ペレス戦のモノクロ写真付きで載っていました。

ご存知の通り、矢尾板は世界王者になっていません。

私にとっては解説者のイメージしかありませんが「現役時代はボクシングというジャンルを超えて日本中に知られた存在だった」(前田衷)という一文が、矢尾板と当時の日本ボクシングの熱気を分かりやすく伝えてくれています。

白井義男がタイトルを失ってから何年もが過ぎ、日本人2人目の世界王者がなかなか生まれない中でも、列島のボクシングブームは衰えることを知りませんでした。

1959年、史上最強の呼び声高いパスカル・ペレスにノンタイトルながら勝利した矢尾板にかけられた期待と興奮はどれほどのものだったのか、想像も出来ません。

矢尾板は、1962年10月に世界フライ級王者ポーン・キングピッチに挑戦することが決定していましたが、ジムの会長との軋轢から引退。

矢尾板の代役に選ばれたのが、ファイティング原田でした。

もし、矢尾板が引退せずにキングピッチと戦っていたなら、白井の陥落から8年間も続いた大空位時代を打ち破るのは原田ではなかったかもしれません。

当時は1団体8階級、世界王者が世界に8人しかいない時代です。世界挑戦なんて、簡単に出来る時代ではありません。

原田が世界挑戦するのが大幅に遅れて、19歳の世界王者誕生とはならなかったことが確実です。

そして、もしかしたら原田が挙げた日本史上最も価値のある勝利、エデル・ジョフレ戦も無かったかもしれません。

あるいは超絶のテクニシャンだった矢尾板はジョフレもジョニー・ファメションも攻略していたかもしれません。

そして、国際ボクシング名誉の殿堂にモダン部門で選ばれたのは原田ともう1人、矢尾板貞雄という別の未来があったかもしれません…。
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私は、アーニー・シェーバースをリアルタイムで知りません。

正確には、全盛期の〝Black Destroyer〟を知りません。

しかし「世界最強のパンチャー」が語られるとき、必ずその俎上に登場するハードヒッターです。

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最近でも、リング誌6月号「THE 100 BEST PUNCHERS OF THE PAST 100 YEARS(過去100年の最強パンチャー100人)」(1922年創刊のリング誌が100周年を記念して企画した特集)で、なんと6位にランク。

世界王者になれなかったにもかかわらずトップ40に入ったのは、シェーバースだけです。しかも堂々の6位。

シェーバースは飛び抜けたハードパンチャーというだけでなく、世界王者になれなかった、最も有名なファイター、いいえ、ほとんどの世界王者よりも有名だったと言い切っても間違いではありません。

網膜剥離を患ってしまったラリー・ホームズとの再戦、そのリングに上がるまでの戦績は59勝7敗1分。59の勝利のうち何と57でKOをマークしていました。



ボクシングを始めたのは22歳と遅く、短いアマチュア経験のあと25歳でプロ転向。

スタミナと顎に不安を持つシェーバースのスタイルは、天性の強打を前面に出す〝攻撃こそ防御〟。その左右の強打は、ヘビー級が最も輝いた70年代でトップ選手たちを何度も戦慄させました。

シェーバースのパンチ力は、ロン・ライルが「ジョージ・フォアマンより上」と断言。あのモハメド・アリにも「ジョー・フレイジャーとフォアマンも強打者だったが、シェーバースは別格」とまで言わしめます。

アリ、ケン・ノートン、ホームズと拳を交え、その強打を世界に轟かせた漆黒の破壊者。

He never won the heavyweight championship, but he sure as hell earned the champions’ respect.

世界のボクシングを彩ったスター選手が天国に召されました。


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日本人にとっては、にっくきジョニー・ファメション。

実際に憎いのは不当判定をしたウィリー・ペップでしたが。

ジャン・ピエール・ファメションは1945年、フランス・パリ生まれ。5歳のときに家族と豪州へ移住しました。

バンタム級でプロデビューしたのは1961年、16歳のとき。

原田と争ったタイトルは、キューバの強豪ホセ・レグラから奪ったもので、ファメションも評価の高い王者でした。

原田とファメション、ビセンテ・サルディバル、柴田国明、レグラ、そしてエデル・ジョフレ…日本人も強烈に絡んだバンタム級からフェザー級にかけての一大叙事詩。

レグラを引退に追い込んだのは、全く無名だったやせっぽっちのニカラグア人。

アレクシス・アルゲリョでした。

ファメションもアルゲリョのようにスラっとした長身のボクサーだと長いこと思ってましたが、身長166㎝、リーチ165㎝とフェザー級ではけして大柄ではありませんでした。

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原田との初戦は、地元の観衆も足を踏み鳴らして抗議の意を示したと言われていますが、敵地・東京に乗り込んでの再戦は原田を引退に追い込むKO勝利。

史上初の軽量級二階級制覇を成し遂げた原田に勝ったライオネル・ローズとともに、偉大な王者として豪州ボクシング史にその名を刻んでいます。

豪州のボクサーといえば、私にとってはジェフ・フェネック。いかにもオージーというフィジカルが 抜群に強いファイターでした。

ラグビーは言うに及ばず、サッカーでもなんでも彼らのスタイルはパワフルで勇敢です。

ローズやファメションはその印象が薄く、むしろ原田の方が豪州スタイルな気もします。

私にとっては、リアルタイムで知らない正真正銘の伝説がまた一人、天国に招かれたことは寂く思います。

原田のキャリアを終わらせたボクサーでしたが、リング誌をはじめ多くのメディアが原田を「事実上の3階級制覇」と認めています。

海外の報道に触れると「原田のことを持ち出せば日本人に受ける」と考えているフシがあります。

実際には、日本人はそこまで過去を尊重しない気質です。

日本のファンの中では、井上尚弥はもちろん、長谷川穂積や具志堅用高の方が評価が高いかもしれません。

交通事故で脳挫傷、心臓病にも悩まされていたというファメション。77歳、まだ早いです。

ファメション、安らかに。
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藤子不二雄の作品が2人の共同作業ではない、と知ったのはいつの頃だったでしょうか。

私が小学生になって漫画と出会った頃、週刊少年チャンピオンの黄金時代でした。

ずっとあとになって、藤子不二雄の偉大な作品群が「藤子不二雄A」と「藤子F不二雄」の2人による完全分業で生み出されていたことを知ったとき、大きな衝撃を受けました。

普通に考えると「ドラえもん」と「魔太郎がくる‼︎」の作者が同じであるわけがありません。

それでも、どちらかがイニシアティブを取りながら、互いの意見を取り入れながら作品を作り上げていたと考えていました。

共同作業だという思い込みが間違いだったというよりも、完全分業なら「藤子不二雄」は全く意味のない存在に思えたことが衝撃でした。

一体、どんな関係だったんだ、という衝撃です。

親友とか盟友とか戦友とか、わたしの周りにある言葉では全く説明できない関係であったのは明らかで、それが衝撃でした。

多くの作品で楽しませていただいた私にとって、初めて買った漫画週刊誌・少年チャンピオンで既に連載中だった「魔太郎がくる‼︎」と、そのあと連載が始まった「ブラック商会変奇郎」が印象に残っている作品ベスト2です。

二つの作品とも、正義観や価値観に鋭角的に斬り込んだ傑作でした。

大きな影響を受けた先生がお亡くなりになるというニュースは悲しいものです。

しかし、私は藤子不二雄A先生にお会いしたことなど一度もありません。

藤子不二雄A先生は、今までと何も変わることなく、私の中で生き続け、私や私の子どもたち、そしてこれから生まれてくるそのまた子どもたちの中でもずっと、ずっと、ずっと永遠に生き続けるのです。


そんなふうに思っても、それでも、やっぱり寂しいです。
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高校時代。

友達も学校も世の中も全部が全部、嫌で嫌でたまらなくて、不登校になって引きこもった私が逃げ込んだのは読書と映画鑑賞でした。

高校の図書館と、場末の名画座。そこだけが、社会に適合できない私の居場所になってくれました。

現実逃避だけに、そこで気に入った書籍や映画は〝洋モノ〟が少なくありません。

新聞やニュース誌はもちろん、リング誌やスポーツイラストレイテッド誌も読み耽り、幸運にも結構大きな図書館だったこともありバックナンバーも豊富に抱えていました。

映画については自分で選んで観に行くわけではなく、さびれた名画座で上映している古い作品ばかりでしたが、落ちこぼれの落伍者という深い劣等感を忘れさせてくれるほど映画の世界に引き込まれていました。

お気に入りは、高校生が興味を持ちそうにないフランスの古典や、ヌーヴェル・ヴァーグ、その影響を受けたアメリカのニュー・ウェーブの作品。

今でも、こうした映画やロードムービーをこよなく愛しているのは、社会不適合者時代の名残りであるのは間違いありません…といっても、いまだに社会不適合者ですから名残とは言いませんね。


前置きが長くなりました。

そんなボロくてカビ臭い名画座のスクリーンに映し出された、私にとって大切な〝現実逃避の案内人〟の一人、ジャン=ポール・ベルモンドが9月6日、天国に招かれました。
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【9月10日 AFP】戦後のフランス映画界を代表するスター俳優の一人で今月88歳で亡くなったジャン=ポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo)さんの追悼式が9日、パリで営まれた。

大勢のファンのほか、エマニュエル・マクロン(Emmanuel Macron)大統領をはじめ政治家、俳優、スポーツ選手ら各界の著名人が参列し、別れを告げた。

パリの廃兵院(アンバリッド、Les Invalides)で行われた追悼式でマクロン氏は「あなたを失うことは、私たちにとって自分の一部を失うことだ」と述べた。

ベルモンドさんは、ジャンリュック・ゴダール(Jean-Luc Godard)監督の『勝手にしやがれ(Breathless)』などに出演し、仏映画運動「ヌーベルバーグ(New Wave)」を代表する俳優として知られている。

政府主催の追悼式が営まれるのは、2019年のジャック・シラク(Jacques Chirac)元大統領以来。

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映画に興味がない方でも「勝手にしやがれ」「リオの男」「気狂いピエロ」「ある晴れた朝突然に」といった映画タイトルは聞いたことがあるのではないでしょうか?

そして、ジャン=ポール・ベルモンドという俳優の名前もきっと耳にしたことがあるでしょう。

何かから逃げている、そんな筋書きが多かったと記憶しているのは、実際にいろんなものから逃げていた私の思い込みもあるでしょう。

私は惨めな逃亡者、落伍者でしたが、ベルモンドの演じる逃亡者はとにかくお洒落で格好が良いんです。

現実の逃亡者にお洒落する余裕なんてないはずですが、そんな無粋なことは全く思いつかないまま映画の世界に引きずり込まれていました。

スタントマンをほとんど使わないことでも有名で、その気概はジャッキー・チェンやハリソン・フォード、トム・クルーズ、そして千葉真一にも影響を与えました。

そういえばトム・クルーズが最初のミッション・インポッシブルで共演したエマヌエル・ベアールは最も好きな女優でしたが、なぜか引退同然、最近見かけません。

ベアールとベルモンドは共演とかなかったのかな。

この二人ともと共演、他にもいろんな映画に出演しているカトリーヌ・ドヌーブって、こりゃバケモンです。

ジャン=ポール・ベルモンド。

実質、アクション俳優なのに、そうは感じさせない何か、芸術的とかそんな小難しいことじゃなく、洒落っ気がありました。フランスだからエスプリが効いてたっていうのが良いのかもしれません。

ルパン三世のモデルはベルモンド、その初代声優の山田康雄は「リオの男」などでベルモンドの吹き替えもしていました。

ああ、そうです。ルパン三世のイメージが近い。

そして、このブログで忘れちゃいけないのは、ベルモンドは15歳でプロボクサーを志したことです。

父親の猛反対にあって夢を断念するのですが、ボクサーになっていたら、あれだけ華のある人です、大成功していたでしょう。とぼけた動きで相手を挑発しながら、一撃で試合を終わらせる…そんなスタイルが目に浮かびます。

ジャン=リュック・ゴダールらは「ベルモンドのアクションには絶妙の気品と美しいリズムがある」と感心し、彼がボクシングをやっていたと聞くと「なるほど、それなら納得だ」と頷いたといいます。

ボクヲタにはたまらないエピソードです。

そうです。ボクシングには「絶妙の気品と美しいリズムがある」のです。

文豪や映画俳優、そして社会が普通にボクサーをプロのスポーツ選手として大きなリスペクトを寄せていた時代。そんな時代を代表する名優が天国に召されました。

いま、私たちが見ているボクシングに「絶妙の気品と美しいリズム」はあるでしょうか…?
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“YOU’RE not welcome in here,”

お前の居場所はここにはない。

アラバマ州ムーディのダウンタウン。バーテンダーは静かに、しかし強く言い放った。

1983年の夏のことだった。

蒸し暑い空気の中で、あちこちに掲げられている南郡旗は垂れ下がっていたが、その町は人口の98.8%が白人で、漆黒の肌を持つ彼は畜生と同じ扱いだった。

彼の背後には二人の白人が従っていたが、それもバーテンダーには気に食わなかったようだ。

「黒人が主人ヅラするなんて、この世の終わりだ」。

177㎝の身長はとりたてて大きいわけではないが、その胸板の厚さに二の腕の太さ、そして何よりも全身から只者ではないオーラを発散させていた黒人は「チリドッグ2つとハイネケン2本、私の部下に」と注文した。


その迫力は蒙昧なバーテンダーにも伝わっていたが、骨の髄から人種差別の思想に取り憑かれていた彼は声を震わせながら叫んだ。

「汚らわしい黒人め!俺の店から出て行け!」。

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その3年前の1980年。彼はロンドンのウェンブリーアリーナで大仕事をやってのけていた。

今ほど酷くはないものの、当時もボクシングの世界タイトルは、WBAとWBCの二つのピースに引き裂かれ、混沌としていた。

当時は13階級だったから、26人の世界チャンピオンが乱立していたはずだが、現実には一人少ない25人だった。

60年代末に2団体時代を迎えて10年以上が経っていても、人気と伝統のあるミドル級はUndispued Champion=議論する余地のない王者=完全統一王者が、その玉座に就いていたからだ。

その至宝のタイトルを彼、マービン・ハグラーは英国の英雄アラン・ミンターを破壊して強奪した。

入場から激しいブーイングを浴びながら、彼は自分の仕事を完遂したが、勝利の瞬間にはビールなどの飲み物や瓶が雨のようにリングに投げ込まれた。

なすすべもなく粉砕された英雄の姿に戸惑った卑劣な人種差別主義者たちは発狂、アリーナの駐車場に停めてあったハグラーのリムジンにも石や瓶を投げつけた。

待機していた運転手は、生命の危険を感じて逃げ出した。
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普通の人間ではハグラーの運転手は務まらない。

マネージャーのパット・ペトロネリは、ボストンでもタフで有名な運転手に白刃の矢を立てた。

ジャッキー・ハーリーだ。

あのバーでチリドッグとハイネケンにありつけなかった一人がハーリーだった。

ボストンではハーリーよりもはるかに有名人だったハグラーのことは、ハーリーもよく知っていた。

1967年の人種暴動で、母と兄弟とともにニューアークから命からがら、ボストンまで逃亡してきたこと。

ドーネル・ウィグフォールという名の街の喧嘩自慢の不良からつけ狙われ、暴力や陰湿ないじめを受け続けていたこと。

母子家庭で貧しさに耐えながらペトロネリ兄弟のジムで、黙々と練習を重ねて世界王者になったこと。

He's a man of honor.

そして、人情に厚いペトロネリ兄弟にとってはさも自慢の世界王者だろうと思っていたが、兄弟は「若いが仁義を通す男だ」と、その飛び抜けた強さよりも人格をまず認めていたこと。

確かにハグラーは借りを返す男だった。

デビュ−4戦目で8戦全勝6KO無敗のホープをストップ、再戦でもノックアウトして見せた。

そのホープが、ウィグフォールだった。

“This one was personal,”  個人的な感情が絡む、そんな試合もあるもんさ。

フィラデルフィア遠征ではボビー・ワッツとウィリー・モンローに判定負け、黒星をなすりつけられてしまった。

しかし、二人とも再戦で凄惨なノックアウトでリングに沈めた。



ハグラーは、どんな借りであれ、必ずそいつを返す男なのだ。


今では完全に死語になった「無冠の帝王」の快進撃が始まった。

サイクロン・ハート、ベニー・ブリスコ、マイク・コルバート、ケビン・フィネガン…ミドル級の猛者を次々に撃破した。多くの強豪が顔面を切り裂かれ、顎を割られてマサチューセッツ総合病院に運び込まれた。

ハグラーと戦ったのは不運だったかもしれないが、幸運なこともあった。

ハグラーの試合では、開始前からマサチューセッツ総合病院の救急車が会場に横付けされたから、彼らは待ち時間ゼロで担架に寝かされ、すぐに救急車に乗ることができたのだ。

しかし、無冠の帝王ハグラーの快進撃は、皮肉なことに彼をタイトルマッチから遠ざけることになる。

ハーリーは「誰だって救急車が横付けされた会場で戦いたくないさ。救急車の待機が無駄になったことはなかったんじゃないか。ただ、世界挑戦はもう時間の問題だったよ」と笑う。

ペトロネリ兄弟は「私たちの力が弱いからお前を世界王者にしてやれない。トップランクにマネジメント権を譲ろうと思う」と提案しますが、ハグラーは拒みます。

「あなたたちには絶対に返さなきゃいけない恩義がある。それに、私が避けられているのはあなたたちのせいじゃない」。

灼熱の夏も極寒の冬も、雨の日も雪の日も、夜明け前に起きてコンバットブーツを履いてロードワークに出かけた。

今も昔もボクシング界は腐りきっている。

ドン・キングは傘下の選手とハグラーを絶対に戦わそうとしなかった。

ボブ・アラムは口約束ばかりで何も実行しなかった。

ハグラーの人気に懐疑的なテレビ局も、ハグラーが世界王者になることを求めていなかった。

そして、世界中のメディア(リング誌では20ヶ月以上も1位)とファンが階級最強と考えていたにもかかわらず、どんなに勝ち続けてもハグラーのランキングはWBAで8位、WBCで9位とセメントで固めたように動かなかった。
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事態を重く見たマサチューセッツ州ボクシング協会のコミッショナー、ジョー・ライトはトーマス・オニール下院議員に掛け合った。

「ボクシングファンの誰に聞いてもいい。ミドル級最強は誰だ?と。一人残らず全員がマービン・ハグラーと答えるだろう。それなのに、なぜ彼にタイトルマッチの機会が与えられないんだ?!」。

グッディ・ペトロネリもオニール議員に嘆願した。

「すべての人がハグラーを最強と認めているのにWBAとWBCは下位にランキングしてタイトル戦を組めないようにしている」。

オニール議員はボクシングファンの息子に聞いた。彼は迷うことなく即答した。

「ミドル級最強?マービン・ハグラーに決まってるじゃないか」。

公正な取引とランキング作成がされていない疑いが濃厚だとして、オニールは「承認団体とプロモーターを対象に大規模な調査を実施する」と通達。

すると、通達の翌日にWBAとWBCはハグラーを指名挑戦者の1位に昇格させた。

やはり、オニール議員から電話でトップランクの家宅捜査を告げられたボブ・アラムは大汗をかきながら記者会見に応じた。

ペトロネリ兄弟相手には「次の試合」「この試合に勝ったら」とはぐらかしてきたアラムだったが「ハグラーが世界挑戦できるかって?当たり前じゃないか!当たり前!当たり前!」と連呼。「妨害するやつがいたら、私だって許さない!」と、記者から失笑が漏れるほど手の平を返した。

"Definitely, definitely, definitely, definitely" 


ハグラーは恩義を忘れない。

念願の世界王者になってから、最後の試合となったシュガー・レイ・レナード戦まで全ての試合のチケットを自分で確保してオニール議員の家族に送り続けた。

それは、いずれも世界で最も手に入りにくい、プラチナチケットだった。

あるパーティで、ボブ・アラムはオニール議員の息子を見つけて声をかけた。

「私がマービン・ハグラーを作ったんだよ」。

息子は笑った。

「知ってるよ、お父さんがあなたに電話したら世界タイトルマッチが組まれたんでしょ」。



そう。ボクシングの世界は確かに腐っている。

しかし。全部が全部腐りきっているわけではない。
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リーロ・レジャバは非常に優れたボクサーだったにもかかわらず、多くの人にはマニー・パッキャオが衝撃的な米国デビューを果たした相手として記憶されています。

南アフリカ、ソウェト出身のレジャバは、1999年から2006年までプロとして活躍、1999年から2001年までIBFジュニアフェザー級タイトルを保持、Hands of Stone=石の拳の異名を与えられていました。

ボクシングは公平なスポーツではありません。しかし、それを言い出すと、この世の中に公平など存在しません。

生まれたときからの金持ちもいれば貧乏人もいます。何万人に一人の大病に悩む人もいます。


この星では干ばつや飢饉が起こり、多くの罪のない人々が命を落としています。その一方で、専制君主は人民から搾取した金品を貯め込んでのうのうと暮らしているのです。

不公平や運は、地球上のどこにでも渦巻いているのです。

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世界的なパンデミックは1年半経った今でも深刻な猛威を振るっています。

そして、誰からも尊敬され愛された人物を私たちからまた一人、奪ってしまいました。

日本時間の7月3日、土曜日にレジャバはCOVD-19のために49歳の若さで天国に昇りました。


少年時代のレジャバは、南アフリカのソウェトにあるメドウランズで貧困と戦いながら暮らし、シングルマザーの母が疲れを知らずに働く姿をずっと見てきました。

レジャバもまた、不公平な地球の片隅で必死に生きていたのです。

ボクサーとして成功したレジャバはアンソン・ウェインライトに「私も生活のために懸命に働いた。弟、妹、そしてとにかく母を助けたかったから。いつか母に家を買ってあげるのが夢だった」と語っていました。

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優秀なアマチュアからプロへ。

そして、その瞬間が訪れます。

1999年5月29日、南アフリカのハウテン州で行われたジョン・マイケル・ジョンソンとの試合では、明白な判定勝利。空位のIBFジュニアフェザー級のストラップを手に入れます。

アパルトヘイト(人種隔離政策)によって、南アフリカの黒人の誇りと尊厳が日々失われていく中、ハムマンスクラールのカルーセル・カジノに特設されたリングで、世界タイトルのストラップを手にしたとき、はにかんだ笑顔を浮かべたレジャバはついに約束の場所に辿り着いたことを実感しました。

レジャバは、エジソン・バレンシア・ディアス、エルネスト・グレイ、エドゥアルド・アルバレス、アーネル・バロティージョ、カルロス・コントレラスを下し、防衛のテープを伸ばします。

名医が寸分の狂いもなくメスを入れるように、彼のパンチも正確無比でした。しかも、そのパンチを効果的に組み合わせるコンビネーションまで体得していたのです。

滑らかさと鋭利さを両立させただけでなく、スピードと強打も兼ね備えたレジャバは、一つ上のフェザー級に君臨するスーパースター、マルコ・アントニオ・バレラにとって未来の脅威になるとまで考えられていたのです。

当然のことながら、最高評価に浴していた29歳は、多くの強豪が対戦を回避する存在になります。

その頃には、ソウェトに誰もが仰ぎ見る豪邸を建て、母にプレゼントしていました。

そして、2001年6月23日。ラスベガスMGMグランドガーデンアリーナ。

対戦相手が試合直前でキャンセル、髪を金色に染めた無名のフィリピン人がピンチヒッターで登場するこの日の防衛戦が〝南アの石の拳〟のキャリアにとって重大な一戦になるなんて、誰も想像できませんでした。

マニーは22歳(※)で元世界王者でしたが、それはジュニアフェザーよりも10ポンドも軽い元フライ級の話。

※リング誌などは24歳と伝えていますが22歳の間違いです。年齢制限で逆サバ読んだデビューの記録を鵜呑みにしていた当時の記事を修正していなかったのでしょう。

常識的に考えて、フィリピン人に勝ち目はありませんでしたが、それは私たちの常識です。

その無名のフィリピン人は、私たちとは違う別の常識を持っていました。


このPacq...???どう綴るのか、どう発音するのかすらもわからない全く無名の挑戦者が「バレラの脅威」に対して出来ることなど何もないはずでした。

しかも、試合11日前に急遽オファーを受けたPacq...???が米国入りしたのは、わずか4日前。

「どうしてこんなオファーを受けたんだ?」と笑う記者に、22歳のフィリピン人は「オスカー・デラホーヤのセミファイナルで世界タイトルもかかる。断る理由なんてどこにもない」と即答しました。

レジャバは「パッキャオは米国では誰も知らなかった。当時の私は絶頂期。派手な試合で会場を盛り上げ、デラホーヤのメインにつなぐのが 仕事だった」と昨年、ウェインライトのインタビューで回想していました。

「予定されてた勝敗が入れ替わっただけで、確かにあの試合はド派手な試合になった。つまり、米国にパッキャオをこれ以上ない最高の形でお披露目したのはこの私なんだ」。

「あれからいつもパッキャオを応援してた。パッキャオのメガファイトの前、HBOの短編ドキュメンタリーやPVでは必ず私が登場して、数え切れない取材を受けてきた」。

「パッキャオのことばかり聞かれて本当は嫌じゃないか?ってよく聞かれたけど、そんなことは全くない。バレラやモラレス、マルケス、デラホーヤまで倒しちゃったんだから、私は強い奴に負けたんだ。恥ずかしいことじゃない」。

しかし、レジャバはパッキャオ戦が精神に影響を与えたことも認めています。

電撃的な番狂わせを起こされたことで、ボクシングへの情熱が薄れ、自分の限界に気づいたレジャバにそれまで対戦を回避していたファイターたちが死肉を漁るようにオファーを突きつけてきたのです。

未来のフィリピン上院議員に敗れてから1年余り後、同じ南アフリカのブヤニ・ブングを破り、WBU世界フェザー級王者に就き、30歳の誕生日お祝いとしました。

南アの石の拳は、ソウェトの英雄でした。

レジャバはその後、6試合を戦い、最後にリングに立ったのは2006年。

グローブは吊るしても、ソウェトにあるジムに資金を提供、プロモーション活動も行い、ボクシング界への恩返しに身を捧げてきました。


彼はときどき、もしもあの夜、全てが予定通りに進みパッキャオに勝っていたらどんな未来が待っていたのだろうと考えることがあると告白します。

しかし、彼がパッキャオの踏み台などではないことは、石の拳の渾名に対してロベルト・デュランへの冒涜だと嘲笑する人がほとんどいなかったことからも明らかです。

ソウェトのファイティング・プライドであるリーロ・レジャバは、パッキャオを世界に知らしめたことと、非常に優秀な122パウンダーだったこと、母国のボクシング界に大きな恩返しをした偉人ということ…十分すぎるグレートなのです。

リーロ・レジャバは、多くの功績によって南アフリカだけでなく、世界中のボクシングファンに永遠に記憶され続けるでしょう。
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B・J・トーマスさんが29日、テキサス州アーリントンの自宅で天国に招かれました。78歳。肺がんでした。
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高校時代によく引きこもっていた、じめじめしてカビ臭い、これぞ「場末」という本当に小さな映画館。

学生500円でオールナイト、「ギャング」「歴史大作」といったジャンルや監督などでくくったテーマで4〜5本の映画を夜通し映写してくれるのが、大好きでした。

特に惹きつけられたのが「ロードムービー」。

中でもアメリカン・ニューシネマに分類されるロードムービーは、ハリウッド的ハッピーエンドとは無縁、反体制の色彩が濃く、それでいてすごく魅力的なヒロインが登場、退廃的な音楽も素敵すぎて「クレオパトラ」や「十戒」のように寝落ちすることは、どんなに疲れていてもありませんでした。

学校大嫌い、社会不適合者の私にとって、居場所のない自分を肯定してくれているように感じていた気がします。

「俺たちに明日はない」(67年)のウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイのフェロモンといったら!

「イージー★ライダー」(68年)のデニス・ホッパーが見せた迫真の狂気!

「ペーパームーン」(73年)のテイタム・オニールの聡明な愛くるしさ。

「スケアクロウ」(73年)でアル・パチーノから滲み出した哀愁…。

…そんな大好きなアメリカン・ニューシネマのロードムービー、中でも特にお気に入りが「明日に向かって撃て」(69年)でした。

ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードのセクシーさといったら!そしてなんといってもキャサリン・ロス!
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主題歌の「雨に濡れても」を歌っていたのが、B・J・トーマス。

あの映画はニューマンとレッドフォード、ロス、トーマスの映画でした。

But there's one thing I know
The blues they send to meet me
Won't defeat me
It won't be long till happiness
steps up to greet me

たった一つだけ分かってることがある。この憂鬱な毎日がいつまでも続かないってことだ。止まない雨なんてあるもんか。
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