カテゴリ: さよならは別れの言葉じゃなくて。

高校時代、最も楽しみにしていたのは、ニューヨークタイムズやタイム誌、スポーツイラストレイテッド誌などが茶色い厚紙に包まれて、半月に一度か10日に一度、高校にドサッと届けられる日でした。

厚紙を大きなハサミでジョギジョギ切り開くと、洋雑誌特有のインクだか紙の匂いがふわっと広がり、日本にはない薄くて頼りない紙質の雑誌がザザッと床まで滑る…そんな光景からも遠いアメリカを体験した気分になってました。

アメリカのスポーツ情報を伝えてくれる雑誌や新聞…〝彼ら〟には、こんな田舎の高校までよく来たなあという愛おしい思いが抑えられませんでした。

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1980年代中盤、プロボクシングは米国スポーツの中で、まだ存在感を保っていました。

モハメド・アリの引退でヘビー級は衰退、中量級にスポーットライトを向けさせたシュガー・レイ・レナードも1981年に引退、ヒーロー不在の米国リングを牽引していたのは、ヒールのオーラを発散させたマーベラス・マービン・ハグラーでした。

無愛想でひたすら強いハグラーは、アリやレナードが身にまとっていた華麗や洗練とは無縁でしたが、強さの塊でした。


世界王者が対戦を避けるUncrowned Monarch(無冠の帝王)が実在すること。

Undisputed Champion(議論する余地のない王者)とは、他の誰にも王者を名乗らせないこと、すなわち完全統一王者を意味すること。

「王者を倒した者だけが王者」。Lineal Championという、チャンピオンシップ制の哲学。

Pound For Poundは意味の無い妄想でも、専門家投票による「満票(全員一致の1位)」にはある程度の価値があること。

…私に虚々実々のボクシングの世界を教えてくれたのは、ハグラーでした。

スポイラ誌の英語を読んで、ボクシングマガジンやナンバー誌の日本語で〝答えあわせ〟をする楽しい作業は、知らないうちに深い英語力を習得させてくれていました。

私にとってハグラーは世界のボクシングの伝道師で、英語の先生でもありました。

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ウィルフォード・シピィオン戦(1983年5月27日:4ラウンドKO勝ち)はIBF初代王者決定戦でした。承認団体の増殖は偽物王者の乱造につながりますが、ハグラーの強さは正真正銘の本物、リングの中には嘘はありません。

1980年にリング誌が 年間Pound For Poundランキング(Best Fighter Poll)を立ち上げ、ハグラーは83年から86年まで4年連続でキングの座を守りました(85年は満票)。

4年連続PFPキングは、のちにフロイド・メイウェザー(2011〜2014年)が並びますが、退屈なタッチボクシングに終始するマネーと、恐怖の絶対王政を敷いたハグラーとではNo.の迫力は比べようもありません。



▶︎▶︎▶︎1954年、ニュージャージー州ニューアークで6人兄弟の長男として生まれたハグラーには父親の記憶がほとんどありません。

父親はハグラーが生まれてまもなく失踪してしまったのです。

母子家庭で生きてゆくには、治安の悪さで有名な黒人ゲットーはあまりにも危険で、過酷な環境でした。

それでも、母親のアイダ・マエ・ハグラーは昼夜を問わず働き詰めて、家族を守りました。

マービンは母親を尊敬し、ドラッグや犯罪には一切手を染めずに成長しましたが、物心ついた頃には「黒い肌を持つ人間はスポーツか音楽で成功しない限りは浮かばれない」ということを骨の髄から理解していました。

少年の目に、MLBのミッキー・マントルやウィリー・メイズ、  NBAのウォルト・フレイジャー…フィールドやコートで躍動する彼らの黒い肌は、どこまでも輝いていました。

もちろん、最もまぶしい光彩を放っていたのはモハメド・アリでした。
 


1960年代になると、ニューアークでは黒人暴動が頻発、アイダは家族の危険が喫緊に迫っていると感じて街を出ます。

1969年、行き着いた先は、マサチューセッツ州ブロックトン。

「この町でも黒人の私はスポーツチームの仲間に入れてもらえないだろう」。そう諦めていたハグラーでしたが、母親がブロックトンを選んだのは神の配剤としか考えようがありません。


様々な偶然と奇蹟が重なり合って、やがて一つの必然に結実してゆくのです。

ハグラーの一家が流れ着いたブロックトンは「The Blockton Blockbuster 」で有名な街でした。

「ブロックトンの高性能爆弾」。そうです、ロッキー・マルシアノのホームです。

ハグラー母子がブロックトンに移り住んだ1969年、49戦全勝43KOで引退したマルシアノは搭乗していたセスナ機が墜落、45歳の短い生涯を閉じました。

弔意に沈むブロックトンの街角で、マービン少年は薄汚く破れたポスターが風になびいているのを手に取ってしまいます。

なぜか剥がし忘れられていたフロイド・パターソンの試合を宣伝するポスターでした。

貧しい母子家庭では学校に通う余裕などなく、皮革工場で働いていたマービン。憧れていた野球やボクシングの選手になる夢は潰えかけていました。

しかし、パターソンのポスターを見て、彼の頭の中で、何かが弾けました。

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実はこの1969年、マルシアノはボクシングを通じて意気投合した同じイタリア系の兄弟とブロックトンでジムを開設する予定でした。

グッディとパットのペトロネリ兄弟です。

彼らの夢は、マルシアノの不慮の事故で散りかけますが、ジムはなんとかオープンに漕ぎ着けます。


古ぼけた金物屋の2階にあるペトロネリ兄弟のささやかなジム。

バス停から家路に付く前にマービン少年は、このジムを覗くのが〝日課〟でした。


サンドバッグを叩く音、リングにきしむシューズの音、アスリートの汗とワセリンの匂い。

練習して、強くなりたかった。自分もやってみたかった。

しかし、ペトロネリ兄弟は、マービンにとって一人も知り合いのいない白人。さらに、自分は貧乏でジムに通うお金なんてありません。


少年は明くる日も、その次の日もジムに来ましたが、黙って座っているだけで、いつも一人でトボトボ帰って行きました。

5日目の夕方、グッディが声をかけました。

このタイプの少年はよくいます。向こうから話しかけてこない限り、最初は無視することにしていました。


5日通ってきたらこっちから声をかける、それがペトロネリ兄弟の流儀でした。
 
「ボクシングをやりたいのか?」 
 
少年はおどおどしながら、必死で言葉を絞り出しました。

「ボクシングを教えて欲しいけど、お金が無い。死にもの狂いで練習してチャンピオンになったらおカネを返すから、それまで教えて下さい」。

少年は、5日間ずっと胸に秘めてきた思いを、ボソボソと小さな声で思いを伝えました。


グッディの答は…「ノー」でした。

「私も貧しい。みんな貧しい。 君だけをタダで教えるわけにはいかない」。 


「お金を貯めてまた来るから、そのときはお願いします」と言って立ち去る少年の背中にグッディが声をかけました。

「どこで働いてるんだ?やる気があるなら、ここで雇うぞ。煉瓦の運搬だ。お前がどこで働いてるか知らないが、そこよりもずっとキツい。給料は同じくらいかそれ以下かもしれないが、ジムのすぐそばだ。仕事が終わったらすぐに練習できる」。 


笑うことなどできないんじゃないか、というくらいにいつも強ばっていた少年の表情がパッと明るくなりました。

「本当ですか?お願いします!」。




痩せっぽっちで内向的な少年は、リングに上がると豹変しました。

アマ戦績は62勝3敗2分、そのうち何と52のストップ勝ち(諸説あり)。

全米ゴールデングローブ大会でも優勝、モントリール五輪を狙える逸材でしたが、家計を助けるため、そして1日でも早くペトロネリ兄弟に恩返しをするために、迷わずプロに進みます。

1973年3月18日、ブロックトンで2回KOデビュー。ファイトマネーはわずか50㌦でしたが、マービンは全額、ペトロネリ兄弟に渡します。

「少ない金額だけど、今までお世話になった分を、これから返して行きます」。 


ペトロネリ兄弟は笑った。「誰がデビュー戦の50㌦をネコババするものか。記念のデビューだ、全部君のものだ。お母さんに渡してあげなさい」。

それではマービンも気が済みません。

「お世話になりっぱなしだ、はした金なのはわかる。でも私の気持ちを受け取って欲しい。二人への感謝を形にしたいんだ」。

兄弟はまた笑った。

「だから、気持ちをもらうと言ってるじゃないか。君が100万㌦ファイターになったら、きっちりネコババしてやるから、それまで今日のことをよく覚えておけよ」。 


マービンは「100万㌦は稼げないかもしれないけど、死ぬ気で頑張る。次の試合からマージンを引いて下さい」とお願いすると、心の中で「ペトロネリの恩は一生忘れない」と自分に誓いました。



ペトロネリ兄弟は「器用じゃないが飲み込みが早くて、何よりも体が強い、しかもサウスポー。世界王者になるかもしれない」と直感していましたが、だからといってハグラーを特別扱いはしませんでした。

「私たちが教えた1000人以上の大切な選手たちの中の一人がハグラーだっただけ。それ以上でもそれ以下でもない 。私にとってゴールデングローブの予選を目指す10歳の選手も、世界統一ミドル級王者も全く同じ大切な教え子だ」。 

その姿勢を間近で見てきたハグラーは、有力プロモーターから殺到する誘いを断り続け、ぺトロネリ兄弟とのマネジメント契約を生涯貫きます。

ハグラーの強さは、信念の強さでした。

裏切りと欲望が渦巻くボクシングビジネスの世界で、弱小のペトロネリ兄弟とのマネジメントを引退するまで貫いた仁義は、世界挑戦の機会を遅らせ、ときに不当な判定を突きつけられた原因だったかもしれません。

しかし、トップランクに丸抱えされていたら、あの不撓不屈の、憎たらしいまでに強いハグラーが出来上がっていたでしょうか?



ああ、でもそんなことは、きっとどうでも良いことです。


ペトロネリ兄弟との仁義を貫くことで、ハグラーのボクシングキャリア、いいえ66年間の人生は間違いなく幸せだったはずなのですから。
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ファン・ドミンゴ・ロルダン。


世界のボクシングファンは、このミドル級のアルゼンティーナの名前を忘れることはありません。

生涯戦績67勝47KO5敗2分。

酒樽のような分厚い胸板と、タフで無骨な戦闘スタイル。そして、リング上での戦いっぷりとは反対の、ハンサムな容姿。

1978年プロデビュー、88年引退。そのキャリアは11年。もう少し長くしぶとくリングで暴れていたと思い込んでしまう、生粋のプライズファイターでした。


しかしながら、当時、南米最強のミドルとはいえ、世界王者には届かず。

本来なら余程のマニアでも、30年前のコンテンダーの名前を記憶に刻むことはなかったでしょう。

本来なら…。

完全統一王者マービン・ハグラーに挑んだ一戦は10ラウンドTKOに散りますが、初回に左フックで史上最強のミドル級王者から生涯唯一のダウンを奪いました。

ハグラーから唯一のダウンを奪った男。そんな、ファイターを誰が忘れますか?!

試合後に、いつも冷静沈着なハグラーが「あれはスリップだ。全く効いていなかった」と激しく抗議する姿に、「あのハグラーが効かされたんだ」と確信、アルゼンチンの〝Hammer〟の威力に戦慄したものでした。

ロルダンはハグラー戦の後、13連勝8KO。アルゼンチンの鋼鉄ハンマーが、再び大旋回します。

そして、トーマス・ハーンズが史上初の4階級制覇を達成した相手もロルダン。

あのロルダンを4ラウンドで仕留めたデトロイトのヒットマンは、シュガー・レイ・レナードとハグラーに喫した二つの敗北を〝贖罪〟することができませんでした。

しかし、4-キングスの大戦が不規則なラウンドロビンソン=総当たりではなく、本当の実力が浮き上がるリーグ戦ならハーンズが〝優勝〟していたかもしれません。

ロルダンも世界タイトルに挑戦したのはハグラーとハーンズという、対戦したことだけで栄光な二人。

1988年11月4日にIBFミドル級王者マイケル・ナンに8ラウンドKO負け、グローブを吊るしました。
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それにしても、ファン・ドミンゴ・ロルダン。彼もまたUndefeated、敗れざる者でした。

しかし、まだ63歳。さよならを言うには早すぎます。

…出先なので、また補足していきますね。
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非常に冷静なものの見方をされる方でした。

「昔の選手の方が凄い」とは短絡的に語らず「史上最高の右打者は落合博満」「史上最高の投手は伊藤智仁」「史上最高のヒットメーカーはイチロー」と目の前のプレーヤーに最大の評価を与えました。

あの時代のグレートとしては非常に珍しい〝冷静な肉眼〟を持っておられた方でした。

張本勲が全力疾走を怠った選手に「喝」を入れると、「張本なんて凡打したら一塁までいっつも歩いとった。どの口でゆうとんや」としっかり批判。

しかし、私がプロ野球を見始めた頃はロッテや西武で〝過去の名前〟のお情けで現役にしがみついている、失礼ですが惨めな姿でした。

それが、惨めに見えてしまったのは私が幼稚だっただけですが。

「生涯一捕手」。

現役選手としては1954年から1980年にかけての26年間しかグラウンドに立てませんでしたが、冷徹な分析眼で野球を見つめるのが「捕手」だとしたら、84歳で亡くなるまでずっと生涯一捕手を貫かれた、偉大としか表現のしようのない人生だったと思います。

「野村スコープ」に「ID野球」。

無機質に聞こえるデータ重視、管理野球を持ち込んだように誤解されがちですが、その本質は江夏豊や門田博光ら唯我独尊のアウトローを操縦してみせた稀代の猛獣使いでした。

スワローズやタイガース、弱小球団をテコ入れし、ロートルと揶揄された選手を再生させた能力に脚光が当てられがちですが、最も優れていたのは〝猛獣使い〟 の才能だったと確信しています。

猛獣も話を聞く耳を持つ、懐の広い人だったのだと思います。

その意味でも、五輪やWBCで指揮を執って欲しかったです。 

さようなら。

これからはあなたが大きく発展させた日本の野球を、大好きな奥様と一緒にしっかり見守って下さい。 
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Remembering Whitaker: 'Sweet Pea' a master of the sweet science



ボクシングを素晴らしき科学と呼ぶのなら、スイートピーこそがその集大成である。


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極真空手時代に“熊殺し”の異名をとった、ウィリー・ウィリアムスが6月7日(金)、天国に召されました。享年67歳。
 

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あらためて見ると明らかに「恐怖新聞」。幻想が否定されない素晴らしい時代でした!



1980年(頃)。中学生の私はプロ野球選手になれると真剣に考えながら、野球部の練習に明け暮れていました。


「江川のストレートなら打てる」と盲信していた私の腐った頭の中では、当然のことながらさまざまな根拠の無い自信と妄想が渦巻いていました。

3年になれば報徳学園や東海大姫路ら名門校のスカウトが我が家に押し寄せる…巨人からドラ1で指名されて東京に行く…。

当時はそんな言葉などありませんでしたが、重度の中二病を小学校5、6年生で発症、中三の阪神大会準決勝で格下と思ってた学校にコールドまがいな惨敗を喫するまで、完治しませんでした…。



アンソニー・ジョシュア!実は俺もお前の気持ちがよくわかるぜ!うまくいかないときって、どんどんドツボにハマってくんだよな…。

レベルが全然違うけど…。


そんな1980年(頃)。

ファイティング原田など名前しか知らなかったくせに「具志堅用高は100年に一度の天才」と信じ「モハメド・アリのザ・グレーテストは史上最強のこと」と信じ…

そして「ウィリー・ウィリアムスはヒグマを倒した」ことも自分の目で見たかのように信じていました。


アドレナリンだだ漏れ状態で映画「空手バカ一代」を観たとき「巨大熊」のあまりの小ささと、貧弱さに「これは何かの間違いだ」と戸惑いながら家に帰りました。

映画代をくれた父親に「面白かったか?」と聞かれて「当たり前やないか」と強がりましたが、「じゃ観に行こうかな」と言われてしまい…。

私はしどろもどろで「いや、やめといた方がいい、全然大人向けやないし」と必死で行かせまいとしたんです…こういう心理は大人になると理解できませんが…。

映画が期待外れに面白くなかったのはホラ山倍達やホラ原一騎のせいで、私のせいではないのに、きっと今なら「ホラーならぬ〝ホラ〟映画」と笑って伝えられるのでしょうが、当時はなぜか自分が作った恥ずかしい駄作を見られるようで、観られちゃいけない感覚に陥っていました。

※ホラ山もホラ原も、私の人生の殿堂入り、グレートやレジェンドを超えた存在です。 パカにしてるわけじゃないです。

さすがにプロレスが八百長であることも、それがどれだけ強いかを競うのではなく「どれだけ強く見せるか」であることもわかっていましたが…。

それでも「プロレスラーは真剣勝負でも強いかもしれない」という幻想は中二病が治癒したあとも長らく引きずっていました…治ってませんね、中二病。

プロレスはほとんどが八百長でも、中には真剣勝負もある…と信じてました。

桜庭和志はもちろん、アレキサンダー大塚や安田忠夫などガチでも強いプロレスラーはいる。

しかし、グレイシー柔術という黒船に蹂躙され、K1やPRIDEとは全く違う純粋なスポーツを目指すUFCという帝国の出現を目の当たりにして、MMAがプロレスとは全く種目が違うものだと思い知らされてしまいます。

極めて短期間に、UFCは米国でボクシングに並ぶ存在になりました。

日本ではK1もPRIDEも一時的な刹那のスターを産み出すことはあっても、その統括団体が発展することはありませんでした。

UFCもジェームズ・トニーらボクシングのピッグネームを招聘はしますが、それは真剣勝負の中の話です。対戦相手はランディ・クートゥア でした。

UFCはあくまで競技路線を貫き、ボクシングよりも厳格にドーピング検査を実施、ボブ・サップと曙を戦わせるようなあそこまで下劣な見世物に走ることはしません。露骨に魔裟斗や那須川天心有利のルールや仕組みを作ったりなんかしません。

日本独特の閉鎖性、既得権益に敏感なボクシング界だけが問題ではないのです。

選手は純粋に競技としてスポーツとして発展して欲しいと希求しても、暗愚な運営者たちは下劣な見世物という麻薬にどっぷり浸かってしまっているのです。

プロレスラーは強い、という幻想はUFC以前の段階で破壊されます。
 

前田日明は「リングスを五輪競技になるまで高めたい」と語りましたが…。

その同じ口で「(対戦相手と事前に打ち合わせしている疑惑について問い詰められて)そんなこと聞いて何がしたいんだ!リングスを壊したいのか!」と激昂。

全く畑違いのカレリンを呼んだ引退試合の後には「カレリンから初めてエスケープを奪った男と書いてください」と真剣な表情で話して、世間から失笑と軽蔑を買いました。

ボクシング会場に姿を現した前田を見たことがあります。「ガチ童貞!(真剣勝負を一度もしたことがない)」と連呼されて「今からお前とガチやったるわ!」とやはり怒り狂い、ものすごく情けないものを見てしまった残念さにこっちまで恥ずかしくなりました。
 

アントニオ猪木の「シングルマッチで決着をつけようじゃないか」」という挑発にジャイアント馬場が笑って答えた言葉が秀悦です。

「所詮はプロレスじゃないか」。


今から15年ほど前、週刊ファイトを発行していた新大阪新聞社から仕事の依頼が舞い込み、プロレスの話を山ほど聞いたことがありました。

虚々実々ではなく、虚々虚々なプロレスの世界は何らかの翻訳、解説が必要なエンターテイメントです。

野球やボクシングの試合はサイレントで見ても楽しめますが、プロレスではあり得ません。

それでも…。

ボクシングや野球はファンがガッカリして帰ることもありますが、プロレスはそれがあっちゃいけないんです。

五輪金メダルで絶対負けない地味なアンドレ・ウォードみたいなのは、プロレスとは対極にあるキャラクターです。

プロレスでは強いヤツは、顔面や肉体だけでなく指先、髪の毛の先からも強さや恐怖を発散しなければならないのです。

アンドレ・ザ・ジャイアントのように。

ブルーザー・ブロディのように。
 

そして、ウィリー・ウィリアムスのように!

ウィリー・ウィリアムス。あなたの戦慄は、あなたの恐怖は死ぬまで忘れません。  


※ウィリーをプロレスラーと見るのは、きっと違和感強い人が多いでしょうが。
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軽量級、フェザー級を語るとき、絶対に欠かせない名前がいくつかあります。

エウゼビオ・ペドロサも間違いなくその一人です。

日本でもロイヤル小林やスパイダー根本を相手に、その技巧とスタミナを披露、日本人の挑戦を阻み、世界のフェザー級がどれほどの高みにあるのかを、極東のファンに思い知らせてくれました。

「パナマのサソリ」と畏怖された、そのグレートが3月1日に膵臓癌のため亡くなりました。

62歳の生涯でした。
 Many fighters earn the “road warrior” tag in their careers, but few wore it as prominently as did Eusebio Pedroza.  ボクシングの世界では「ロードウォリアー」(敵地で戦う勇者)という言葉がよく使われるが、エウセビオ・ペドラサよりもそれが当てはまるボクサーはまずいない。〜リング誌

BoxRecでは1956年3月2日生まれの62歳。ウィキペディアでは1953年3月2日生まれの65歳とボクサーによくある〝生年不明〟ですが、ESPNをはじめ米国の大手メディアが報じている62歳が正解でしょうか。

いずれにしても、明日が誕生日という日に天国に旅立ちました。

通常、年齢をサバ読むのは若く見せるためですが、ボクサーの場合はその逆も多く見られます。

プロ資格の年齢に達していないための方便で、マニー・パッキャオの例が有名です。

青少年の健康と安全がより重視されるようになった現代では、最近でも問題になったムエタイ選手の事故死など絶対にあってはいけない悲劇です。

もっと厳しく取り締まらなければなりません。

それにしても、ペドロサです。

日本では身長177㎝と紹介されることもありましたが、多くのデータでは5フィート9インチ(173㎝)、リーチは174㎝です。

日本のボクシングファンにとっては、本当に気高く厚い壁でした。

殿堂入りのグレートは1973年プロデビュー。それから1992年までの20年間にも及ぶ長い時間を、この過酷な職業に従事したのです。

フェザー級王者としての伝説的な治世は1978年から1985年の8年間に渡り、なんと19連続防衛を成し遂げ、そのうち13度も敵地で戦ったのです。

この栄光に彩られたキャリアですが、前半は必ずしも順風満帆とはいきませんでした。

母国パナマ国内でのみ戦っていたペドロサが、世界初挑戦のチャンスを掴んだのは1976年4月3日。

14勝9KO1敗の好成績を引っ提げて、22歳の若者は初の海外遠征、その舞台メキシコに勇躍乗り込みました。

しかし、相手はWBAバンタム級王座に君臨しているアルフォンソ・サモラ。こちらは20歳の若さで「全階級を通じて最強打者」と言われた稀代のビッグパンチャーです。

経験が乏しく、優しい性根のパナマ人が過酷な減量で衰弱した肉体で戦うには、最も相性の悪い相手でした。

24戦全勝全KO、自信満々のメキシカンが羽織った魔法のガウンを脱がす術など、当時のペドロサは持ち合わせていません。

わずか2ラウンドで世界の夢を木っ端微塵に打ち砕かれてしまいます。

続く復帰戦でも、強打のベネズエラ人、オスカー・アーナルの地元カラカスのリングでKO負け。

長身のフェザーは「グラスジョーの内弁慶」と嘲笑されました。

その後、引退までに3つの敗北を追加してしまいますが、KO・TKO負けは一度もありませんでした。なんという図抜けた学習能力の高さなんでしょう。

引退後は母国での人気と知名度から政界にも進出、ボクサーには珍しい堅実な生き様が印象的なグレートでした。


パナマのサソリが躍動した1978年から1985年は、モハメド・アリが晩年から引退とボクシング界は〝日没〟を迎えていました。

しかし、一方でファンの価値観は多様化、ヘビー級が沈んでも、ヒスパニックのボクシング文化は日の出を迎えていました。

ヒスパニック、つまりは中軽量級の時代です。

ロイヤルとスパイダー、ルーベン・オリバレス、ロッキー・ロックリッジにホルヘ・ルハン、ファン・ラポルテ・・・富裕国や人気者のボクサーが待ち構える敵地でも好んで戦い、世界にその技巧を誇示した〝スコーピオン〟。

その姿からは、かつてのひ弱さはカケラも見つけることは出来ません。

エウセビオ・ペドラサのキャリアは、魅惑的な山岳小説であり、多くの人々を引き込む成長物語でした。


20連続防衛を止められたバリー・マクギガンとの試合では、フェザー級史上最高(当時)報酬の100万ドルを受け取ります。

現在、軽量級きっての高額所得者レオ・サンタクルスも100万ドルプレイヤーですが、ペドラサの100万ドルは、今から30年以上前の話です。
その後、フェザー級ではイエメン王国の庇護と寵愛に後押しされたナジーム・ハメドや、ボクシング大国メキシコのPFPファイター、マルコ・アントニオ・バレラやエリック・モラレスが1試合100万ドルの壁を大きく上回る報酬を手に入れますが、彼らはAサイドのボクサーです。

軽量級のパナマ人であるペドロサは、ある意味で同胞のロベルト・デュランよりも大きな荷物を背負って戦っていたのかもしれません。

中量級のデュランは米国という多国籍国家に歓迎されましたが、軽量級のペドロサは日本や韓国、英国など、開放度という点で米国とは比較にならない国で戦わなければなりませんでした。


62歳。若すぎます。


「ロイヤルのパンチが当たれば倒せる」と応援していた日本のファンを、絶望の谷に突き落とした、ペドロサのしなやかな強さは忘れられません。

It was a pleasure to share the ring with him. ~Barry McGuigan

偉大なペドロサと戦えたことは人生最高の喜びの一つだ。 バリー・マクギガン。

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Admittedly, there have been many great coaches from Britain and Ireland, but Brendan Ingle might have been the best. 英国とアイルランドは数多くの名コーチを輩出してきたが、ベストはブレンダン・イングルである。〜英国ボクシングニューズ誌
ブレンダン・イングルが5月25日、77歳で亡くなりました。

プロボクシングの魅力は、120年に及ぶ歴史と、世界中のどの国でも一定の人気があるスポーツであることです。

そして、トレーナーが他のスポーツ以上に重要な役割を果たすこともこのスポーツの味わいを豊かにしてくれています。

さらに多くの名匠はボクシング技術だけでなく優れたモチベーターの素質も併せ持っているのが常です。

「ブレンダンは偉大な教師だった。彼は自分を信じることの大切さを教えてくれた。そして彼は規律を重んじた。そこがジムであろうが家であろうが、規律のもとでなければ幸せな家庭も、優れたボクサーも存在しえない」(元英連邦ジュニアミドル/ミドル級王者ヘロール・グラハム)。
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1998年、英国ボクシングに多大な貢献をしたことが評価されたイングルは、エリザベス女王から大英帝国勲章MBEを授けられました。いわゆる「ナイト」や「サー」よりも下位の勲章ですが、歌手のアデルやエド・シーランも綬章、とんでもない名誉であることに変わりはありません。

ブレンダン・イングルは、18歳の時にアイルランドから南ヨークシャーに渡りました。

ミドル級のプロボクサーとして拳を振るい、英国8位が最高位。

19勝6KO14敗の戦績を残して1973年に引退したイングルに地元の牧師が思わぬ話を持ちかけます。

「子供たちが非行に走るのをなんとかしたい。社会福祉活動をしてみないか?」。

リズミカルなダンスに詩吟をこよなく愛していたイングルは、聖トーマス教会のホールを借りて週1回日曜日のダンス教室を始めました。

「どうしようもない乱暴者ばかりが集まった。ダンス教室が終わると街に繰り出して喧嘩をおっ始めるんだ。大怪我をする若者までいたよ」。

ある日、イングルはダンス教室が終わると教会に鍵をかけ、彼らを閉じ込め、グローブを投げました。

「そんなエネルギーがあるなら、これで殴り合え。私がレフェリーをしてやる」。

この時、この瞬間、世界で最も有名なボクシングジムの一つが産声をあげたのです。

その語りかけは常に理路整然とし、抑揚はバイタリティに溢れていました。シャドウボクシングするボクサーへの指示も、タイミングよく詩を誦むように投げかけました。

規律を何より大切にしながらも、リズムとタイミングを最優先した指導はタブーのない自由なものでした。

手に負えない不良少年たちがダンス教室に通うなんてにわかに信じられませんが、歌うようなイングルの指導が面白かったのでしょう。反抗的な若者がイングルの言葉には、黙って耳を傾けるのです。

イングルに優秀なボクシングのモチベーター、トレーナーの素質があることは明白でした。

粗暴な若者たちはイングルに心酔し、たちまちボクシングの虜になりました。矛盾と差別が渦巻く社会と大人への不満を鬱積させていた彼らにとって、年齢も社会的地位も関係なく全く同じ情熱で教えてくれるイングルは、初めて出会った信用できる大人だったのです。

ダブリン生まれの名匠は、77年の生涯でナジーム・ハメドやジュニア・ウイッターら個性的な世界王者を育てました。

イングルは晩年、ドミニクとジョンの二人の息子にジムを継がせ、アルツハイマー病と戦いながらも教会の中にこしらえたユニークなジムに通い、若いボクサーへの指導も続けました。

その薫陶を受けて、ケル・ブルックやビリー・ジョー・サンダースも巣立ちました。

世界王者であろうが6歳の子供であろうが、イングルは全く変わらず指導した。そこまで商売っ気のないトレーナーは滅多にいない。しかもその姿勢を生涯貫いたとなると、そんな偉大なトレーナーはイングルだけだ。〜英国公共放送BBC

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リング誌2015年7月号「伝説はまだ続いている」

イングルは晩年、アルツハイマー病と戦いながらもヨークシャーはシェフィールドのウィンコバンクジムで指導を続けました。


その最高傑作はハメドではなく、元WBO世界クルーザー級王者ジョニー〝ザ・エンターテイナー〟ネルソンかもしれません。

1967年にシェフィールドで生まれたネルソンは、スポーツが苦手な引っ込み思案な少年でした。

「ボクシングは、友達に誘われて断れなくて始めたんだ。ボクシングしたい、殴り合いたいなんて思ったことは一度もないよ、そっちの方が普通だろ?友達とジムで一緒にしゃべったり、練習するのは好きだったけど。アマチュアでは13戦して勝ったのは3つだけ。何度負けても悔しくなかった」。

とはいうものの、19歳の時にお金が稼げるとプロボクサーの道に進みます。

ブレンダンは「お前はプロで大成する」とネルソンを励ましますが、周囲は「何を言ってるんだ?ネルソンなんてあんなガラクタ、使い物になるわけがない」と決めつけていました。

当のネルソンも「プロで5試合は戦おう。そこで1勝も出来なかったら、別の仕事を探そう」と、なんだか半端な覚悟でリングに上がっていました。もちろん、ボクシングだけで食っていけるわけはなく、3つのアルバイトを掛け持ちしていました。

大方の予想どおり、デビューから2連敗。3試合目の相手マグネ・ハブナはプロデビュー戦でしたが、アマチュア時代にスカンジナビア半島ヘビー級王者に輝き、1984年ロサンゼルス五輪にも出場したエリートアマ。

要は咬ませ犬です。そして予想通りに敗北、3連敗。

しかし、この敗北で自信が芽生えます。「そんなに悪い試合じゃなかった。俺はガラクタじゃないぞ。ガラクタならもっとコテンパンにやっつけられてるはずだ」。

そこから2連勝して、星勘定は2勝3敗。「よし、あと5試合、自分を試してみよう」。

「どうしてそんなに自信があったのかって?ブレンダンがお前は出来ると言い続けてくれたからだ。世界王者にアドバイスするのと同じように、こんな俺にも時間をかけて面倒を見てくれた。俺は見返そうと誓ったんだ。俺をガラクタ扱いした奴らを、じゃないぜ、実際にガラクタだったよ。だから負けたってバカにされたって平気さ。でも、俺を評価してくれるブレンダンを侮辱する奴らだけは許せなかった。奴らが自分達が間違っていたと思い知るまで、俺は命がけで練習に打ち込んだ。ブレンダンがどれほど優秀な指導者であるかを世界に見せつけてやるんだってね」。

1990年1月27日。23歳の誕生日を迎えたばかりのネルソンに大きなチャンスが訪れました。IBF世界クルーザー級王者カルロス・デレオンへの挑戦です。試合は三者三様のドロー。

「悔しかったけど達成感もあった」というネルソンは、大学に通って体育教育を勉強しており、「そろそろ潮時かな」と感じていました。

そこでもイングルが後ろ髪を引きます。「お前は必ず世界王者になれる」。

その後もキャリアを続け、マイナー団体WBFのクルーザー級王者を獲得、1999年3月27日WBO王座へ挑みます。王者は同じ英国のカール・トンプソン、同国人対決は戦前から大いに盛り上がりました。
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「勝因はブレンダン・イングルに教えてもらったからだ!」

5ラウンド1分46秒、ネルソンがスピーディな連打を集めた場面でレフェリーが試合を止めました。大きなダメージをこうむっていないトンプソンと陣営は「ストップが早すぎる」と猛抗議しますが、判定が覆るわけもありません。

この日から2005年11月26日のキャリア最後の試合までの6年間一度も負けることなく、13度も防衛しました。6年8ヶ月の在位期間は今も残るクルーザー級の最長治世です。

ガラクタはイングルに磨かれ、シェフィールドの宝石になりました。

「最初に見た時から素質があるのはわかっていた。いつもボクシングを辞めて別の仕事に就こうとうわついていたのに、めっぽう速くて、パンチも固かった。ガラクタを宝石にした?私は魔法使いじゃない。宝石にかぶっていたホコリを払ってやっただけさ」(イングル)。

「私は宝石なんかじゃなかった。自分のことだから間違いない。万一、宝石だとしてもホコリをかぶった宝石なんて誰も気づかない」(ネルソン)。

ジョニー・ネルソン。生涯戦績45勝29KO12敗。

51歳になった今もシェフィールドに居を構え、三人の娘と幸せな毎日を送っています。

スカイスポーツのボクシング番組の解説者をつとめながら、シェフィールドでうつ病に悩む人々を支援する福祉活動にも勤しんでいます。また多くの学校を訪問して、子供達に自身の人生経験を語っています。

シェフィールドに人生を捧げたブレンダン・イングルの教えは、ネルソンにも間違いなく引き継がれているのです。 
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レギュラーに定着した1968年頃には、その頑健な肉体と当時の背番号から「鉄人28号」と呼ばれていたそうですが、物心も付いていない私にはその記憶はありません。私が彼を知った時は、すでに偉大なレジェンドでした。


死球にもいろいろあります。

手元が狂った死球。内角を狙って外れた死球。当たっても仕方がないと投げる死球。最初からぶつけるつもりで投げる死球…。

手元が狂ったりコントロールし切れないボールと、意図があって体に向かってくるボール。この二つのボールの違いは、多くの場合、打者にははっきりとわかります。

後者の場合、悪意のある死球を受けた打者のほとんどは、怒りを隠すことは出来ません。

松井秀喜は「そりゃ心の中では腹も立ちますよ。でも、その感情を表に出していいことは何もない」と怒りを完全に隠すことの出来る非常に優れたアスリートでした。

しかし、たとえ手元が狂ったボールでも、石のように固い硬球が体にぶつけられる痛みは尋常ではありません。打者にとっては「コントロール出来ないボールを投げるな!」という怒りが湧き上がります。

突然の死球で引き起こされる怒りの感情をもコントロール出来る松井ら一部の選手は、素晴らしい教育と訓練を受けたアスリートでした。



20世紀のプロ野球。メジャーリーグは遠い別世界のおとぎ話の時代、読売ジャイアンツだけに人気が偏向していた仄暗い時代です。

20世紀、昭和のプロ野球に松井秀喜を凌駕する、おそるべき打者が存在しました。

死球を受けて倒されても、どんなときでもすっくと立ち上がり、ユニフォームについた砂をパッパッと払うと、自分に硬球をぶつけた投手に「気にするな」と軽く手を挙げて一塁に走る男。

そのあまりに自然な所作からは、教育と訓練によって感情をコントロールしているようには到底見えませんでした。どう見ても、心の底から、たった今自分に硬球をぶつけた投手を許しているようにしか思えませんでした。

あらためて紹介するのが恥ずかしくなりますが、1979年8月1日、広島球場で起きた有名なエピソードを書かせて下さい。

7回裏、巨人・西本聖が投じた内角球を素晴らしい反射神経で背中で受けたものの、肩甲骨を亀裂骨折、救急車で病院に搬送されてしまいました。

西本は内角をえぐるシュートが持ち味の投手、この回だけでもすでに二人に死球を与えていました。

そして、連続試合出場を続けていたこの男は、当時でもすでに鉄人と呼ばれ、伝説的なプレーヤーの地位を確立していました。

西本はこのイニングだけで三人目、しかも大きな記録を更新中の伝説に死球を当てたのです。

普通なら乱闘になっても不思議ではありません。広島ベンチが怒りを抑えることができたのは、マウンドの西本に詰めかけることを、当の鉄人が最も忌み嫌うと知っていたからです。

その夜、陳謝の電話をかけた西本は、衣笠から「あの死球のあと二塁打を打たれたな。動揺したのか?君らしくない。7−1で勝ってる試合をあれから引き分けてしまったんだぞ。何をしてるんだ、もったいない」とこんこんと説教されたそうです。

電話で骨折の具合を何度も聞いて心配する西本には「大丈夫だから気にするな」と一喝したそうです。

西本は連続試合出場を止めてしまったと罪悪感に苛まれましたが、翌日、その男は代打でバッターボックスに向かうのです。

そして、江川卓の剛速球を渾身のフルスイングで三球三振。

試合後に報道陣から状態を聞かれた鉄人は「一球目はファンのため、二球目は自分のため。そして三球目は西本君のために振りました」と語りました。

鉄人兼天才詩人か…?

強い広島が憎たらしかった阪神ファンで野球少年だった小学生の私は「こんなセリフを言える人間がいるのか」とひたすら感動しました。

鉄人への尊敬。自分は同じ野球をやっているだけのちっぽけな人間のくせに、野球が大好きな自分が誇らしくてたまりませんでした。

あの日以来、彼のように強くなりたい、彼のように優しくなりたい、そう思って生きてきましたが、強くもなれない、優しくもなれない、情けない人生を歩んでいます。

それでも、本当に優しくて、本当に強い人間を目指して、これからも毎日生きていきます。 
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