“YOU’RE not welcome in here,”

お前の居場所はここにはない。

アラバマ州ムーディのダウンタウン。バーテンダーは静かに、しかし強く言い放った。

1983年の夏のことだった。

蒸し暑い空気の中で、あちこちに掲げられている南郡旗は垂れ下がっていたが、その町は人口の98.8%が白人で、漆黒の肌を持つ彼は畜生と同じ扱いだった。

彼の背後には二人の白人が従っていたが、それもバーテンダーには気に食わなかったようだ。

「黒人が主人ヅラするなんて、この世の終わりだ」。

177㎝の身長はとりたてて大きいわけではないが、その胸板の厚さに二の腕の太さ、そして何よりも全身から只者ではないオーラを発散させていた黒人は「チリドッグ2つとハイネケン2本、私の部下に」と注文した。


その迫力は蒙昧なバーテンダーにも伝わっていたが、骨の髄から人種差別の思想に取り憑かれていた彼は声を震わせながら叫んだ。

「汚らわしい黒人め!俺の店から出て行け!」。

******
Hagler-1-1024x711

その3年前の1980年。彼はロンドンのウェンブリーアリーナで大仕事をやってのけていた。

今ほど酷くはないものの、当時もボクシングの世界タイトルは、WBAとWBCの二つのピースに引き裂かれ、混沌としていた。

当時は13階級だったから、26人の世界チャンピオンが乱立していたはずだが、現実には一人少ない25人だった。

60年代末に2団体時代を迎えて10年以上が経っていても、人気と伝統のあるミドル級はUndispued Champion=議論する余地のない王者=完全統一王者が、その玉座に就いていたからだ。

その至宝のタイトルを彼、マービン・ハグラーは英国の英雄アラン・ミンターを破壊して強奪した。

入場から激しいブーイングを浴びながら、彼は自分の仕事を完遂したが、勝利の瞬間にはビールなどの飲み物や瓶が雨のようにリングに投げ込まれた。

なすすべもなく粉砕された英雄の姿に戸惑った卑劣な人種差別主義者たちは発狂、アリーナの駐車場に停めてあったハグラーのリムジンにも石や瓶を投げつけた。

待機していた運転手は、生命の危険を感じて逃げ出した。
Hagler-1024x588
普通の人間ではハグラーの運転手は務まらない。

マネージャーのパット・ペトロネリは、ボストンでもタフで有名な運転手に白刃の矢を立てた。

ジャッキー・ハーリーだ。

あのバーでチリドッグとハイネケンにありつけなかった一人がハーリーだった。

ボストンではハーリーよりもはるかに有名人だったハグラーのことは、ハーリーもよく知っていた。

1967年の人種暴動で、母と兄弟とともにニューアークから命からがら、ボストンまで逃亡してきたこと。

ドーネル・ウィグフォールという名の街の喧嘩自慢の不良からつけ狙われ、暴力や陰湿ないじめを受け続けていたこと。

母子家庭で貧しさに耐えながらペトロネリ兄弟のジムで、黙々と練習を重ねて世界王者になったこと。

He's a man of honor.

そして、人情に厚いペトロネリ兄弟にとってはさも自慢の世界王者だろうと思っていたが、兄弟は「若いが仁義を通す男だ」と、その飛び抜けた強さよりも人格をまず認めていたこと。

確かにハグラーは借りを返す男だった。

デビュ−4戦目で8戦全勝6KO無敗のホープをストップ、再戦でもノックアウトして見せた。

そのホープが、ウィグフォールだった。

“This one was personal,”  個人的な感情が絡む、そんな試合もあるもんさ。

フィラデルフィア遠征ではボビー・ワッツとウィリー・モンローに判定負け、黒星をなすりつけられてしまった。

しかし、二人とも再戦で凄惨なノックアウトでリングに沈めた。



ハグラーは、どんな借りであれ、必ずそいつを返す男なのだ。


今では完全に死語になった「無冠の帝王」の快進撃が始まった。

サイクロン・ハート、ベニー・ブリスコ、マイク・コルバート、ケビン・フィネガン…ミドル級の猛者を次々に撃破した。多くの強豪が顔面を切り裂かれ、顎を割られてマサチューセッツ総合病院に運び込まれた。

ハグラーと戦ったのは不運だったかもしれないが、幸運なこともあった。

ハグラーの試合では、開始前からマサチューセッツ総合病院の救急車が会場に横付けされたから、彼らは待ち時間ゼロで担架に寝かされ、すぐに救急車に乗ることができたのだ。

しかし、無冠の帝王ハグラーの快進撃は、皮肉なことに彼をタイトルマッチから遠ざけることになる。

ハーリーは「誰だって救急車が横付けされた会場で戦いたくないさ。救急車の待機が無駄になったことはなかったんじゃないか。ただ、世界挑戦はもう時間の問題だったよ」と笑う。

ペトロネリ兄弟は「私たちの力が弱いからお前を世界王者にしてやれない。トップランクにマネジメント権を譲ろうと思う」と提案しますが、ハグラーは拒みます。

「あなたたちには絶対に返さなきゃいけない恩義がある。それに、私が避けられているのはあなたたちのせいじゃない」。

灼熱の夏も極寒の冬も、雨の日も雪の日も、夜明け前に起きてコンバットブーツを履いてロードワークに出かけた。

今も昔もボクシング界は腐りきっている。

ドン・キングは傘下の選手とハグラーを絶対に戦わそうとしなかった。

ボブ・アラムは口約束ばかりで何も実行しなかった。

ハグラーの人気に懐疑的なテレビ局も、ハグラーが世界王者になることを求めていなかった。

そして、世界中のメディア(リング誌では20ヶ月以上も1位)とファンが階級最強と考えていたにもかかわらず、どんなに勝ち続けてもハグラーのランキングはWBAで8位、WBCで9位とセメントで固めたように動かなかった。
may-82-cover-hagler
事態を重く見たマサチューセッツ州ボクシング協会のコミッショナー、ジョー・ライトはトーマス・オニール下院議員に掛け合った。

「ボクシングファンの誰に聞いてもいい。ミドル級最強は誰だ?と。一人残らず全員がマービン・ハグラーと答えるだろう。それなのに、なぜ彼にタイトルマッチの機会が与えられないんだ?!」。

グッディ・ペトロネリもオニール議員に嘆願した。

「すべての人がハグラーを最強と認めているのにWBAとWBCは下位にランキングしてタイトル戦を組めないようにしている」。

オニール議員はボクシングファンの息子に聞いた。彼は迷うことなく即答した。

「ミドル級最強?マービン・ハグラーに決まってるじゃないか」。

公正な取引とランキング作成がされていない疑いが濃厚だとして、オニールは「承認団体とプロモーターを対象に大規模な調査を実施する」と通達。

すると、通達の翌日にWBAとWBCはハグラーを指名挑戦者の1位に昇格させた。

やはり、オニール議員から電話でトップランクの家宅捜査を告げられたボブ・アラムは大汗をかきながら記者会見に応じた。

ペトロネリ兄弟相手には「次の試合」「この試合に勝ったら」とはぐらかしてきたアラムだったが「ハグラーが世界挑戦できるかって?当たり前じゃないか!当たり前!当たり前!」と連呼。「妨害するやつがいたら、私だって許さない!」と、記者から失笑が漏れるほど手の平を返した。

"Definitely, definitely, definitely, definitely" 


ハグラーは恩義を忘れない。

念願の世界王者になってから、最後の試合となったシュガー・レイ・レナード戦まで全ての試合のチケットを自分で確保してオニール議員の家族に送り続けた。

それは、いずれも世界で最も手に入りにくい、プラチナチケットだった。

あるパーティで、ボブ・アラムはオニール議員の息子を見つけて声をかけた。

「私がマービン・ハグラーを作ったんだよ」。

息子は笑った。

「知ってるよ、お父さんがあなたに電話したら世界タイトルマッチが組まれたんでしょ」。



そう。ボクシングの世界は確かに腐っている。

しかし。全部が全部腐りきっているわけではない。