リーロ・レジャバは非常に優れたボクサーだったにもかかわらず、多くの人にはマニー・パッキャオが衝撃的な米国デビューを果たした相手として記憶されています。

南アフリカ、ソウェト出身のレジャバは、1999年から2006年までプロとして活躍、1999年から2001年までIBFジュニアフェザー級タイトルを保持、Hands of Stone=石の拳の異名を与えられていました。

ボクシングは公平なスポーツではありません。しかし、それを言い出すと、この世の中に公平など存在しません。

生まれたときからの金持ちもいれば貧乏人もいます。何万人に一人の大病に悩む人もいます。


この星では干ばつや飢饉が起こり、多くの罪のない人々が命を落としています。その一方で、専制君主は人民から搾取した金品を貯め込んでのうのうと暮らしているのです。

不公平や運は、地球上のどこにでも渦巻いているのです。

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世界的なパンデミックは1年半経った今でも深刻な猛威を振るっています。

そして、誰からも尊敬され愛された人物を私たちからまた一人、奪ってしまいました。

日本時間の7月3日、土曜日にレジャバはCOVD-19のために49歳の若さで天国に昇りました。


少年時代のレジャバは、南アフリカのソウェトにあるメドウランズで貧困と戦いながら暮らし、シングルマザーの母が疲れを知らずに働く姿をずっと見てきました。

レジャバもまた、不公平な地球の片隅で必死に生きていたのです。

ボクサーとして成功したレジャバはアンソン・ウェインライトに「私も生活のために懸命に働いた。弟、妹、そしてとにかく母を助けたかったから。いつか母に家を買ってあげるのが夢だった」と語っていました。

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優秀なアマチュアからプロへ。

そして、その瞬間が訪れます。

1999年5月29日、南アフリカのハウテン州で行われたジョン・マイケル・ジョンソンとの試合では、明白な判定勝利。空位のIBFジュニアフェザー級のストラップを手に入れます。

アパルトヘイト(人種隔離政策)によって、南アフリカの黒人の誇りと尊厳が日々失われていく中、ハムマンスクラールのカルーセル・カジノに特設されたリングで、世界タイトルのストラップを手にしたとき、はにかんだ笑顔を浮かべたレジャバはついに約束の場所に辿り着いたことを実感しました。

レジャバは、エジソン・バレンシア・ディアス、エルネスト・グレイ、エドゥアルド・アルバレス、アーネル・バロティージョ、カルロス・コントレラスを下し、防衛のテープを伸ばします。

名医が寸分の狂いもなくメスを入れるように、彼のパンチも正確無比でした。しかも、そのパンチを効果的に組み合わせるコンビネーションまで体得していたのです。

滑らかさと鋭利さを両立させただけでなく、スピードと強打も兼ね備えたレジャバは、一つ上のフェザー級に君臨するスーパースター、マルコ・アントニオ・バレラにとって未来の脅威になるとまで考えられていたのです。

当然のことながら、最高評価に浴していた29歳は、多くの強豪が対戦を回避する存在になります。

その頃には、ソウェトに誰もが仰ぎ見る豪邸を建て、母にプレゼントしていました。

そして、2001年6月23日。ラスベガスMGMグランドガーデンアリーナ。

対戦相手が試合直前でキャンセル、髪を金色に染めた無名のフィリピン人がピンチヒッターで登場するこの日の防衛戦が〝南アの石の拳〟のキャリアにとって重大な一戦になるなんて、誰も想像できませんでした。

マニーは22歳(※)で元世界王者でしたが、それはジュニアフェザーよりも10ポンドも軽い元フライ級の話。

※リング誌などは24歳と伝えていますが22歳の間違いです。年齢制限で逆サバ読んだデビューの記録を鵜呑みにしていた当時の記事を修正していなかったのでしょう。

常識的に考えて、フィリピン人に勝ち目はありませんでしたが、それは私たちの常識です。

その無名のフィリピン人は、私たちとは違う別の常識を持っていました。


このPacq...???どう綴るのか、どう発音するのかすらもわからない全く無名の挑戦者が「バレラの脅威」に対して出来ることなど何もないはずでした。

しかも、試合11日前に急遽オファーを受けたPacq...???が米国入りしたのは、わずか4日前。

「どうしてこんなオファーを受けたんだ?」と笑う記者に、22歳のフィリピン人は「オスカー・デラホーヤのセミファイナルで世界タイトルもかかる。断る理由なんてどこにもない」と即答しました。

レジャバは「パッキャオは米国では誰も知らなかった。当時の私は絶頂期。派手な試合で会場を盛り上げ、デラホーヤのメインにつなぐのが 仕事だった」と昨年、ウェインライトのインタビューで回想していました。

「予定されてた勝敗が入れ替わっただけで、確かにあの試合はド派手な試合になった。つまり、米国にパッキャオをこれ以上ない最高の形でお披露目したのはこの私なんだ」。

「あれからいつもパッキャオを応援してた。パッキャオのメガファイトの前、HBOの短編ドキュメンタリーやPVでは必ず私が登場して、数え切れない取材を受けてきた」。

「パッキャオのことばかり聞かれて本当は嫌じゃないか?ってよく聞かれたけど、そんなことは全くない。バレラやモラレス、マルケス、デラホーヤまで倒しちゃったんだから、私は強い奴に負けたんだ。恥ずかしいことじゃない」。

しかし、レジャバはパッキャオ戦が精神に影響を与えたことも認めています。

電撃的な番狂わせを起こされたことで、ボクシングへの情熱が薄れ、自分の限界に気づいたレジャバにそれまで対戦を回避していたファイターたちが死肉を漁るようにオファーを突きつけてきたのです。

未来のフィリピン上院議員に敗れてから1年余り後、同じ南アフリカのブヤニ・ブングを破り、WBU世界フェザー級王者に就き、30歳の誕生日お祝いとしました。

南アの石の拳は、ソウェトの英雄でした。

レジャバはその後、6試合を戦い、最後にリングに立ったのは2006年。

グローブは吊るしても、ソウェトにあるジムに資金を提供、プロモーション活動も行い、ボクシング界への恩返しに身を捧げてきました。


彼はときどき、もしもあの夜、全てが予定通りに進みパッキャオに勝っていたらどんな未来が待っていたのだろうと考えることがあると告白します。

しかし、彼がパッキャオの踏み台などではないことは、石の拳の渾名に対してロベルト・デュランへの冒涜だと嘲笑する人がほとんどいなかったことからも明らかです。

ソウェトのファイティング・プライドであるリーロ・レジャバは、パッキャオを世界に知らしめたことと、非常に優秀な122パウンダーだったこと、母国のボクシング界に大きな恩返しをした偉人ということ…十分すぎるグレートなのです。

リーロ・レジャバは、多くの功績によって南アフリカだけでなく、世界中のボクシングファンに永遠に記憶され続けるでしょう。