前日計量は、マニー・パッキャオが146ポンド、ルーカス・マティセが146.7ポンドでクリア。

WBC世界ジュニアミドル級王者決定戦のリング(アントニオ・マルガリート戦)に上がったときでも144.6ポンドで上がったパッキャオにとっては、非常に重く仕上げてきたと言えます。

まさか、マティセ相手に真っ向からパワー勝負を挑もうと考えているわけはないでしょうが。

フレディ・ローチと袂を分かち、トップランクから抜け出してクアラルンプールに乗り込んだパッキャオが、米国以外のリングに上がるのはこの10試合で4試合目です。

マカオ: ベネチアンリゾート・コタイアリーナでのブランドン・リオス戦(2013年)、クリス・アルジェリ戦(2014年)、オーストラリア:ブリスベン・サンコープスタジアムでのジェフ・ホーン戦(2017年)に続く世界ツアーです。

初めて米国のリングに上がった2001年6月23日から、実に17年の歳月が流れました。その17年34戦で、近代ボクシング史上類を見ない最大の下克上を成し遂げたパックマンのキャリアは、最終盤を迎えています。
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  PHOTO BY LEHLO LEDWABA   

空前絶後、前人未到の下克上物語。

その第1章に登場した、貴重な助演ボクサーにスポットライトを当てます

リーロ・レジャバ

生涯、36勝23KO6敗。〝アフリカの石の拳〟の異名を持つ元IBF世界ジュニアフェザー級チャンピオン。

1999年5月29日にIBF世界ジュニアフェザー級王座の座に就いてから、約2年と短い治世でしたが4つのKOを含む5度の防衛に成功。階級最強の呼び声高く、一階級上のPFPファイター、マルコ・アントニオ・バレラにも勝てると大きな期待が寄せられていました。

レジャバは、1971年7月27日、南アフリカのソエトに生まれました。多くのボクサーがそうであるように、リーロも劣悪な環境の街の、極貧の家庭で生を受けました。

「何もかもがひどかった。父親は近くに住んでいたけど、母親と結婚することはなかった。母親が一人で私たち4人の子供を育ててくれたんだ」。

「未来に希望みたいなものは全く見えなかったけど…母親に家を買ってあげたい、それだけが夢だったんだ。街の富裕エリアには豪邸が建ち並んでいたから、そんな家を見上げるたびに、いつかあんな家を買ってあげたいって。そうしたら母親はどんなに喜んでくれるだろうって、そう想像するだけで楽しかった」。

「もちろん、黒人の私にそんなお金が稼げるわけがないのは痛いくらいにわかっていたし、自分は母親を喜ばせることが出来ないんだと思うと…そんなことを考えると絶望で眠れなくて、真夜中でも涙が止まらなかった」。

柔らかく強靭な筋肉を持つリーロ少年の才能を最初に気づいたのは、アマチュアボクサーの叔父サイモンでした。

8歳でグローブをはめると、それぞれの年代の国内タイトルを総なめにしていきました。

「国際大会にも出場したかったけど、当時の南アフリカはアパルトヘイトのせいで、そのチャンスは遮断されていたんだ。プロ転向を迷う理由は何一つなかったよ」。

プロ入り後も、南アフリカのナショナルタイトルやWBUの世界タイトルをコレクションしながら順調にキャリアを伸ばし、表舞台への進出機会を伺います。

レジャバは幸運なボクサーでした。それは、絶対に間違いありません。

同胞のブヤニ・ブングがナジーム・ハメドのフェザー級王座に挑戦するために、保持していたIBFジュニアフェザー級のタイトルを返上したことで、元世界バンタム級王者のジョン・マイケル・ジョンソンと空位の王座を争うチャンスが転がり込んだのです。

ジョンソンを下して世界王者になると、次なる目標は大きな舞台で、さらに名前を売ることです。

この目標も願ってもない形で実現しました。MGMグランドアリーナ。オスカー・デラホーヤが史上3人目の五階級制覇を賭けてハビエル・カスティリェホのWBCジュニアミドル級のタイトルに挑むメガファイト、なんとそのセミファイナルに抜擢されたのです!

HBOのPPVでも放映されるのです。軽量級ボクサーにとって、これ以上の舞台などありえません。

しかし、挑戦者エンリケ・サンチェスが試合まで二週間を切った段階で、怪我を理由に出場を辞退してしまいます。

ジュニアフェザーはもちろん、周辺階級の世界ランカーにも声をかけますが、色よい返事は得られません。当たり前です。

試合まで約10日しかないのに、相手は階級最強のレジャバなのですから。

せっかくのビッグチャンスをみすみす逃す絶望に頭を抱えるレジャバに、まさかの吉報(今思えばこれ以上の凶報はありませんが)がもたらされます。

プロモーターのロドニー・バーマンから「マニー…なんとかっていうフィリピン人が試合に応じると言っている!」(バーマンでなくとも“paquiao”は読めません)という報告を受けて喜び勇むレジャバでしたが、そのとき台湾で練習していたという無名のフィリピン人が10日後にラスベガスに来ることができるのか、それだけが不安でした。

具体的な条件も聞かずにサインした契約書をファックスしてきたマニー・パッキャオは、約束通りMGMのリングに現れました。

「NO FEAR(怖いものなど何もない!)」と赤字で書かれたハチマキ姿のパッキャオを見たレジャバは「本当に怖い物知らずなら、あんなものは頭に巻かない」と見下していました。

パッキャオをよく知る日本のボクシングファンも「どうしてあんな試合を受けるのか」「100%惨敗する」と見放していました。

試合まで日がないこと、両者の評価の格差から、ほとんどのブッカーでオッズがつかない試合でしたが、ここに未来のパックマンが米国上陸を記念する最初の爪痕を刻むことになるのです。

「あの試合がなかったら?そんなことは考えたこともない。あのときパッキャオと戦ってなくても、どこかで戦うことになっていただろう。もちろん、サウスポーの強打者と戦うには10日の準備期間は短すぎた。でも、準備期間がなかったのはパッキャオも同じか、彼のほうが難しい状況だった」。
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46歳になる〝アフリカの石の拳〟は結婚して二人の子宝に恵まれて、アパルトヘイトが廃止された母国最大の都市、ヨハネスブルグで幸せに暮らしています。

そして、トレーナやマネージャーとして、今もボクシングと関わり続けています。

ボクシングファンや子供達に会うたびに「パッキャオは強かった?」「速かった?」と聞かれるのも、実はそんなに悪いものではありません。

「もし、パッキャオが私に勝った後、鳴かず飛ばずだったら私の評価も暴落していただろうし、なにより私はこんなに有名になれなかった。パッキャオのその後の活躍には感謝しかない」「誰もが彼の成功物語を聞きたがるけど、その中で私は絶対に欠かすことのできない名脇役だろ?」。


その通りです。もし、対戦相手がことごとくレジャバを敬遠していた、あのタイミングでパッキャオと戦っていなければ、リーロ・レジャバの名前は世界中のボクシングファンの記憶に今なお、鮮明な輪郭で残っていることはなかったでしょう。

バーマンは「レジャバはパッキャオと戦った夜に全てを失ってしまった」と嘆いていますが、レジャバは自分の人生に満足しています。

「私は自分の限界まで戦った。やり切ったんだ。そして何よりも最終目標を達成したんだ。そう、母親に大きな家を買ってあげることが出来たんだから!小さい頃にソエトで見た豪邸よりも、ずっとでかい家をね!」。

明日のクアラルンプールの試合。レジャバもヨハネスブルグできっと見ているでしょう。

いつものように、周囲の人から「どうして踏み台にされたヤツをそんなに応援するんだ?」とからかわれたら「当たり前じゃないか。俺がどれほど優秀なジャンピングボードだったかは、あいつにかかっているからな。あいつが高く飛べば飛ぶほど、私の優秀さが証明されるってわけさ!」といつものように答えてその場を大いに盛り上げるのです。

リーロ・レジャバは、本当に幸運なボクサーです。

いろ〜んな人の、いろ〜んな人生を巻き込みながら、マニー・パッキャオの物語は、大団円へと向かっています。