カテゴリ: さよならは別れの言葉じゃなくて。

タイガースファンにとって史上最高の瞬間とは?

そりゃもういろんな意見があるでしょうが、最大公約数は「1985」ではないでしょうか。

槙原からバックスクリーン三連発。

管理野球の究極型・西武ライオンズも破壊。

選手の前に出る監督ではなく、むしろ地味なイメージなのに、ド派手な快進撃を繰り広げたチームに妙にフィットしていました。

ありがとう、ムッシュ。


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デビッド・リンチは90年代の洋画シーン、テレビドラマシーンリードしていました。

私が初めて観た彼の作品は、多くの人と同じ「エレファントマン」(1980年)。

日本で最も有名な作品「ツインピークス」(1990年)は、WOWOWの開局記念番組として放送されました。

私にとっては「エキサイトマッチ」と「ツインピークス」がWOWOWのファーストインパクトでした。

享年78歳ということは、「エレファントマン」を撮ったとき、まだ32歳。

「イレイザーヘッド」(1976年)は28歳のとき。



私が一番好きなのは、ちょっと迷いますが「ワイルド・アット・ハート」(1990年)です。ロードムービーが大好きなもので。

そういえば、スターウォーズの監督要請を断ったこともありました。

さすが、デビッド・リンチです。



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表に出ることをこれほど嫌った人なのに、ボクシングファンで、その名を知らないひとは1人もいない。

米国のアル・ヘイモンのことではない。彼は要所要所で姿を現し、自分がボクシング界をコントロールする支配者であることを誇示したがるフィクサーだった。


しかし、彼女は全く違う。

日本ボクシング史上最高のマネージャーが老衰のため、1月1日に亡くなった。

享年99歳。

そういう御年齢といえばその通りだが、それでもあまりにも寂しすぎる。

1980年代の終わり頃から1990年代の初め頃まで、私はよく後楽園ホールに通っていました。

リングサイドに彼女を見つけると、幸せな気分になったことを思い出します。当時、すでに彼女は伝説でした。

初めて見たとき、パンフレットにサインをもらおうと思って「そうだ、あの人はそういうことを嫌う人だった」と思いとどまりました。

意外かもしれませんが、当時の帝拳はチャンピオンメーカーではありませんでした。

大場政夫、浜田剛史が世界王者になっていましたが〝たった〟2人だけ。

現在のように業界を仕切るパワーハウスでもありませんでした。

それでも、ファンやメディアが「帝拳」を特別な目で見ていたのは、彼女の存在があったからでしょう。

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あの大場政夫が唯一、頭が上がらなかった人。




その人が、生前
「大場以来の才能」と褒めたのが、那須川天心だったそう。

天心、また一つ絶対に負けられない重たい理由が増えちゃったよ。
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一介の新聞記者の枠を超えて、日本の政治中枢まで足を踏み入れた怪人が亡くなりました。

このブログの中で政治の話をするのは場違いですから、スポーツの話です。

プロ野球界にも大きな影響力を持ち続けました。


「分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が」。


スポーツファンにこの男のキャラクターを決定づけたのは、この言葉ではなかったでしょうか?

スポーツファンからすると「読売新聞はジャイアンツに支えられ、長嶋茂雄監督を更迭したときに多くのファンが抗議の意味を込めて購読を拒否、著しく部数を落としたことも知っているくせに。

「たかが」は、選手ではなく、読売新聞にこそ付けるべき言葉です。



しかし…古田敦也を面前にして吐かれた言葉とされる「たかが選手が」は、実はそうではなく、記者の囲み取材のなかで〝誘導〟されたものでした。

そして「たかが選手が」のあとにすぐ語られた「たかがといっても、立派な選手もいるけどね。オーナーと対等に話をするなんて協約上根拠は1つもない」という正論は切り取られ、「たかが選手が」という言葉だけが一人歩きしてしまいました。

1926年というとんでもない時代に生まれ、激動にも程がある戦後政治に深く潜り込み、単なる一新聞社の社主を超えた存在になった怪人が、日本のプロ野球選手を「たかが」呼ばわりして、世間から大バッシングを受けるのは、どうなんでしょうか。

立派な選手もいる、契約上はオーナーが選手の上に立つ、対等に話すなんてとんでもない、ということも、後付けでなくその場で淀み無く発言しているのです。

しかし、当の本人は一切弁解などせず、世間の集中砲火を浴びても「何もわかっとらん馬鹿者どもめが!」と吐き捨てて見せた、あのメンタルは戦後や平成や令和に生まれた私たちぬるま湯人間には考えられない強烈さです。



「老害」と聞いて誰を思い出すか?

おそらく98歳の天寿をまっとうした、この怪人が2位を大きく引き離して圧倒的な老害と認定されているのは間違いありません。

日本史上最強の老害がいなくなってしまう…。

寂しい思いをしているのは、きっと私だけではないでしょう。
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イスラエル・バスケスは、メキシカン・スタイルのエッセンスを全て詰め込んだ生粋のファイターでした。

その生々しい原色のボクシングは、同じメキシカンとの激突でより眩い火花を散らしました。オスカー・ラリオス、ジョニー・ゴンザレス、そしてラファエル・マルケス。

3度も返り咲いたタイトルはいずれも122ポンド。

殴られたら殴り返す。絶対に後ろに下がらない。自分か相手が倒れるまで殴り続ける。

「それがメキシカンだ。心が折れること?それはありえない」。

2019年に全身性強皮症=SSc(※)と診断され、体重は112ポンドまで落ちた。
※皮膚が硬くなる原因不明の病気。多彩な臓器、特に心臓や肺などの重要臓器にも病変を伴うこともある。

「1年近くもこの厄介な病気と付き合ってるんだ。免疫機能がやられるから他の病気にもかかりやすくなるし、皮膚だけじゃなく筋肉や内臓もやられてしいまう。何も治療しないと死んでたところだ」。

それでも、適切な治療を受けたバスケスの症状は安定してる。

「私の身に何かが起きると『ボクシングの後遺症だ』と決めつける人がいるけど、ああいうのはうんざりだ。これはボクシングのせいじゃないし、遺伝でもない。言ってみればそういう巡り合わせ(turn)だったってことだけだ」。

その後、癌と診断され過酷な闘病生活が続いていました。

マウリシオ・スライマンは「イスラエルがリングに上がることはもうないが、妻のラウラや子供たちは彼の勇気を永遠に誇りと思って生きてゆくだろう」。

長年のトレーナーだったフレディ・ローチは「私が攻撃型のファイターしか育てられないなんて言われるのは全部、イスラエルの責任だ。そう言われることは…実は嬉しかったよ。私が教えた選手は勇敢になるって言われるんだから。でも、もうみんなにバレてるから告白するけど、イスラエルは私が教える前から勇敢だった。とにかく最高のファイターだった」。

同じように癌と戦ったビリー・ディブは「心が張り裂ける思いだ。リングの中でも外でも強敵と真っ向から戦ったイスラエルこそが真のチャンピオンだ」。


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PFPとは無縁に見える喧嘩殺法でしたが、リング誌の年間PFPで最高6位、月間で4位と文句なしのPFPファイターでした。




ーーーボクシングファンがコロナ下で試合が見れなくなり、ショータイムが再放送した過去の名勝負の中でも「イスラエル・バスケスvsラファエル・マルケス」の4部作は大変な人気を博したそうです。

明後日、発表される殿堂入り。イスラエル・バスケスもリストアップされています。

イスラエル・バスケス。誰からも愛されるスタイルを持ったファイターでした。


Name: Israel Vazquez

Alias: Magnifico

Birth Name: Israel Vazquez Castaneda

Hometown: Huntington Park, California, USA

Birthplace: Mexico City, Distrito Federal, Mexico

Died: 2024-12-02 (Age:46)

Stance: Orthodox

Height: 164cm/Reach: 169cm

Trainers: Freddie Roach (-2007),
     Rudy Perez (2007-)

Manager: Frank Espinoza

Promoter: Golden Boy Promotions


https://fushiananome.superknova.org/archives/23325888.html


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1981年といえば、まだ私が「プロ野球選手になるんだ」と、何の根拠も実力も覚悟も素質もないながら、思い込んでいた時代です。

今もほとんど変わらないMLBや各チームのマークが包み紙にプリントされたフーセンガムが流行っていましたが、MLBの情報などゼロに等しい時代でした。

「メジャー」なんて言葉は一般的でなく、太平洋の向こうにある最高峰リーグは誰もが「大リーグ」と呼んでいました。

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UNREAL!(ありえねー!)ーーー大谷翔平のことではありません。

そんな時代に、テレビのニュースや新聞で大きく取り上げられたのがフェルナンド・バレンズエラです。

ヒスパニック時代の前夜も前夜、メジャーの選手のほとんどが米国内から供給されていた頃です。


「英語を話せない怪物が大リーグで大活躍!」。


チャレンジ精神だけを胸に、裸一貫で成り上がったメキシコ人は、開拓者魂を何よりも大切にする米国で抱きしめられただけでなく、日本でも驚きを持って受け入れられました。

ジャッキー・ロビンソンにバレンズエラ、人種に関係なく才能を尊敬し、受け入れる、そんなドジャースの懐の深いDNAに、私が初めて気付かされたのもバレンズエラによってでした。

この球団が野茂英雄を迎えたときも「バレンズエラ」の名前を新聞や雑誌、ニュースで何度見聞きしたことでしょう。

米国は、異国から当然現れた野茂にバレンズエラをオーバーラップさせていたのです。

そして、野茂は「フェルナンド・マニア」を継承して「ノモ・マニア」を生み出し、やはり同じようにメジャーリーグにセンセーションを巻き起こしました。

ワールドシリーズでは2連敗のあとの第3戦に先発して勝利、勢いに乗ったドジャースがそこから怒涛の4連勝で世界チャンピオンになったのでした。

そう、あのときの相手もNYヤンキースでした。

フェルナンド・バレンズエラが亡くなったこと、そしてまだ63歳の若さだったことに今更ながら驚いています。

高校時代には、スポーツイラストライテッド誌のカラフルなページが伝えてくれるバレンズエラの活躍をワクワクしながら貪り読んだものでした。

バレンズエラは、当時からすでに「生きる伝説」のオーラを発散させていました。



このブログでは何度も書いていることですが、私は彼の住居も連絡先も知りません。実際に見たことすらありません。

彼が天国に召されてしまって、もう電話をかけても出てくれないんだとか、もう遊びに行っても一緒にビールを飲むこともないんだ、なんて間柄ではありません。当たり前ですが。

私の心の中では、フェルナンド・バレンズエラは伝説のまま、不滅の大投手のままで、永遠に生き続けています。


ありがとう、フェルナンド・バレンズエラ。


そういえば、スポイラの記事は数えきれないほど読んだはずなのに、何も思い出せません。

ちょっと探してみて、見つかれば読み直してみるつもりですが、一気に思い出して、高校時代の記憶なんかもぐちゃぐちゃに溢れ出してしまうと、ボロボロ泣いちゃうかもしれません。

会社や帰宅電車の中で検索して読むのは控えて、夜中に一人で泣くことにします。




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このブログでも紹介していますが、東海岸のスポーツシーンでのNYヤンキースの存在感は特別です。

そして、アーロン・ジャッジの人気は大谷翔平を圧倒的に上回ります。少なくともネットや新聞、テレビなどの露出では。

それでも、ポストシーズンの戦前の主役は大谷翔平が優勢です。「戦前の主役」なんて、これほどどうでもいい言い回しはありません。本物の主役は、戦いが終わった時に明らかになるのですから。

野茂英雄が竜巻を起こしてコジ開けたMLBへの道は今や完全に舗装され、NPBのスター選手は当たり前に太平洋を渡るようになりました。



ビフォー野茂の時代。インターネットもない時代。MLBは「大リーグ」が通り名で(今でもNHKは好んでこの言葉を使っています)、それは遠い遠い世界の怪物ランドでした。

星飛雄馬は血の汗を流しながら「大リーグボール」を投げ込み、番場蛮がボロボロになって立ち向かうラスボスはMLBの強打者でした。

時代は移り変わり、いま。リハビリ中の日本人が涼しい顔で弾丸の軌道でホームランを54本も放ち、69盗塁も決めて、三冠王まであと少しのところの迫る、そんな時代になりました(あの人だけが特別というのが正確な見方なのでしょうが)。

僕らの時代。遠い「大リーグ」でも断片的な情報には触れることが出来ました。

ピート・ローズは、そんな断片的な情報の中の主人公の一人でした。

ビフォー野茂の世代が「大リーガーはどんな時でも全力プレーを怠らない」と信じていたのは、彼の存在でした。

野球賭博に関わったことでMLBから永久追放され、日本ではイチローや大谷に批判的な発言が大きく報じられたことから「狭量なレジェンド」という烙印を捺されているかもしれません。

しかし、現役時代の輝きは極東の島国にもきらびやかに届いていました。

ドン・ブレイザーとの不思議な巡り合わせもあり、日本の野球ファンにとっても身近に感じてしまう存在でした。

さよなら、ガッツマン。さよなら、チャーリー・ハッスル。
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日本時間のきょう、南アフリカ・ヨハネスブルク-スポーツ庁が「「The Rose of Soweto(ソエトの薔薇)と呼ばれたディンガン・トベラが57歳で亡くなった」と伝えました。



1993年6月26日、WBAライト級王者トニー・ロペスからタイトルを奪ったトベラ。

1948年から法律として人種差別を認めたアパルトヘイトが撤廃される前の年の出来事でした。ソエト(黒人居住区)から南アフリカの英雄となったトベラの勇姿がどれほど多くの人々を感動させ、勇気づけたかは計り知れません。

南アフリカ。

日本のボクシングファンにもお馴染みのヘッキー・ブドラーやゾラニ・テテ、シベナティ・ノンティンガ、モルティ・ムザラネ、ジェフリー・マゼブラ、ブシ・マリンガ、シンピウィ・ベトイェカ、世界的にも有名なゲリー・コーツィー、ブライアン・ミッチェル、さらにはK1ファイターの印象が強いマイク・ベルナルドやフランソワ・ボタ、そして忘れちゃいけないネルソン・マンデラもこの国の生まれです。


トベラはこのタイトルを初防衛戦で失ってしまいます。相手は、東京からやってきたロシア人オルズベック・ナザロフでした。

日本のボクシングファンは「評価の高いトベラ」「敵地ヨハネスブルク」…さまざまなビハインドを考慮してもナザロフがメジャー階級のストラップを日本に持ち帰ると確信していました。

事実、大差判定勝利でその通りになりましたが、ナザロフから第4ラウンドにダウンを奪うなど南ア人の強靭さに驚かされたものでした。

しかし、本当に驚くのは7年後の2000年9月1日に5階級も上のスーパーミドル級タイトルマッチでトベラがWBC王者グレン・キャトリーに11ラウンドまで最大8ポイントのリードを許しながら、最終回に逆転KO勝利を収めた奇跡でした。

これ以上のフロッグ・ジャンプ(階級またぎ)は、更新不可能でしょう。「やっぱりとんでもないヤツだった」と、ディンガン・トベラを思い返したものでした。


死因は公表されていませんが、57歳というのは若すぎます。

ソエトの薔薇、安らかにお眠り下さい。

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十七、本を読むばかり

愛することも 臆病で

十八、家での夢を見て

こっそり 手紙 書き続け…

…石川さゆりの「転がる石」を初めて聞いたとき、高校時代の俺のことだと思いました。リリースされたのが2002年ですから、高校時代にこの曲はなかったのですが。

運動(といっても下手くそな野球と鈍足の中長距離ランナー)と、読書(といっても漫画も雑誌もなんでも読みまくる雑食)と、映画鑑賞(といっても寂れまくった小さな名画座でのやはり雑食的に観まくってただけ)に明け暮れ、どうせ俺なんてと厭世的な毎日を送っていました。

学校の成績も著しく悪く(というかほとんど授業に出てないから今なら退学処分)、スポーツ以外での人付き合いは大嫌いで(スポーツの練習や試合を人付き合いと定義するのかどうかは別にして)、とにかく社会に適合できない10代でした。

現実に適合できないから活字や音楽や映画の世界に逃げ込んでいたのです、きっと。

映画を観るのは、本当に小さな名画座、今風にミニシアターと呼ぶにはあまりにも寂れた映画館でした。

そこで、わずか3年くらいの間で一体何本の映画を見たのかわかりません。大体が2本立て、3本立てなんてのも珍しくなく、「ライアン・オニール特集」なんてのも、その一つでした。

「Love Story(ある愛の歌)」(1970年:アーサー・ヒラー監督)と「Paper Moon(ペーパームーン)」(1973年:ピーター・ボグダノヴィッチ監督)と、もしかしたらもう1本あって3本立てだった気もしますが、思い出せません。

ライアン・オニールが娘のテイタム・オニールと共演した「ペーパームーン」、物語の世界に一気に引き込まれました。テイタムはこの作品でアカデミー助演女優賞を受賞するのですが、それも納得の演技です。



そして、この親娘はボクシングファンなのです。

1950年代、つまり米国ボクシング黄金時代に少年時代を過ごしたライアンは「ボクシンググローブは当たり前の遊び道具、ロッキー・マルシアノは神様だった」とリング誌の「Famous Fans(熱心なボクシングファン)」コーナーの中で語っていました。

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ライアンが亡くなったことをSNSで報告したのは、息子のパトリック・オニール。

この名前にピンと来た人は大谷マニアです。パトリックは、カリフォルニア州地元放送局でエンゼルス戦を日本語を交えて実況しているスポーツキャスター。

ライアンも大谷の大ファンだったそうです。

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大谷の顔だらけTシャツと枕を愛用するライアン・オニールさん(パトリック・オニール氏提供)

それにしても、思い入れのある人がまた一人天国に旅立ってしまいました。
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ウィリアム・フリードキンが7日、肺炎と心不全のため、ロスアンゼルスの自宅で亡くなりました。

87歳。

場末の小さな映画館に引きこもっていた高校時代、「フリードキン  オールナイト!」(確かそんなタイトルでした)という、彼の作品を上映する五本立てだか六本立て!!!を観て強烈な感銘を受けました。

「フレンチ・コネクション」(1971年)、「エクソシスト」(1973年)、そして「恐怖の報酬」(1977年)…70年代の世相を見事に描き出した作品の数々を、80年代に体験することになる私にとって、フリードキンは歴史観を形成してくれた先生の1人でもありました。

まあ、でも、とにかく彼の作品には臨場感が滲み出していて、面白かった。

非常に評価の高い作品が多い中でも、アンリ・ジョルジュ・クルーズ監督の「恐怖の報酬」(1953年)をリメイクしたフリードキン版は超傑作でした。

フリードキン版のあとにクルーズ版を観たのですが、リメイクすることの意味をそこで初めて勉強できました。

公開が「スターウォーズ」とオーバーラップしてしまったことで、世界的な注目度こそ相対的に低かった不運な名作です。

そして、真夜中、ガラガラの寂れた映画館で観た「エクソシスト」。リンダ・ブレアがとにかく怖かった。

本当にありがとうございました。安らかにおやすみ下さい。



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