一般紙が外国で行われる外国人による世界タイトルマッチを、ほとんど報道しなくなったのは、いつからでしょうか?
先日の「カネロ・アルバレスvsゲンナジー・ゴロフキン」のスーパーミドル級Undisputed championship fightは、さすがに少しは記事にする、少なくとも結果は載せると思っていましたが、読売新聞をはじめほとんどの一般紙が触れませんでした。
私が世界のボクシングに夢中になっていた80年代はマービン・ハグラーの時代。マーベラスの試合は日本の一般紙でも写真付きで報道されたばかりか、トーマス・ハーンズやシュガー・レイ・レナードらとの一戦の前には、対戦の背景や試合展望が夕刊でも詳報されたほどの過熱ぶりでした。
当時は、夕刊にはスポーツ面が無い時代、社会面での扱いでした。
それを目にして「よくわからないけどとんでもないボクシングの試合があるようだ」と多くの人が感じたはずです。
今は4団体17階級が乱立、スーパーやらダイアモンドやらフランチャイズやらが石コロ混交するプロボクシングの世界戦、日本人が絡まない試合まで取り上げてしまうと、毎日のように記事にしなければなりません。
週末明けの月曜日の新聞は、結果だけでもちょっとしたコーナーを割くことになります。
日本人の世界戦でも地上波生中継が珍しくなってしまった時代です。
そんな時代のいま。
今朝の読売新聞で、13日に亡くなった矢尾板貞雄の記事が、パスカル・ペレス戦のモノクロ写真付きで載っていました。
ご存知の通り、矢尾板は世界王者になっていません。
私にとっては解説者のイメージしかありませんが「現役時代はボクシングというジャンルを超えて日本中に知られた存在だった」(前田衷)という一文が、矢尾板と当時の日本ボクシングの熱気を分かりやすく伝えてくれています。
白井義男がタイトルを失ってから何年もが過ぎ、日本人2人目の世界王者がなかなか生まれない中でも、列島のボクシングブームは衰えることを知りませんでした。
1959年、史上最強の呼び声高いパスカル・ペレスにノンタイトルながら勝利した矢尾板にかけられた期待と興奮はどれほどのものだったのか、想像も出来ません。
矢尾板は、1962年10月に世界フライ級王者ポーン・キングピッチに挑戦することが決定していましたが、ジムの会長との軋轢から引退。
矢尾板の代役に選ばれたのが、ファイティング原田でした。
もし、矢尾板が引退せずにキングピッチと戦っていたなら、白井の陥落から8年間も続いた大空位時代を打ち破るのは原田ではなかったかもしれません。
当時は1団体8階級、世界王者が世界に8人しかいない時代です。世界挑戦なんて、簡単に出来る時代ではありません。
原田が世界挑戦するのが大幅に遅れて、19歳の世界王者誕生とはならなかったことが確実です。
そして、もしかしたら原田が挙げた日本史上最も価値のある勝利、エデル・ジョフレ戦も無かったかもしれません。
あるいは超絶のテクニシャンだった矢尾板はジョフレもジョニー・ファメションも攻略していたかもしれません。
そして、国際ボクシング名誉の殿堂にモダン部門で選ばれたのは原田ともう1人、矢尾板貞雄という別の未来があったかもしれません…。
先日の「カネロ・アルバレスvsゲンナジー・ゴロフキン」のスーパーミドル級Undisputed championship fightは、さすがに少しは記事にする、少なくとも結果は載せると思っていましたが、読売新聞をはじめほとんどの一般紙が触れませんでした。
私が世界のボクシングに夢中になっていた80年代はマービン・ハグラーの時代。マーベラスの試合は日本の一般紙でも写真付きで報道されたばかりか、トーマス・ハーンズやシュガー・レイ・レナードらとの一戦の前には、対戦の背景や試合展望が夕刊でも詳報されたほどの過熱ぶりでした。
当時は、夕刊にはスポーツ面が無い時代、社会面での扱いでした。
それを目にして「よくわからないけどとんでもないボクシングの試合があるようだ」と多くの人が感じたはずです。
今は4団体17階級が乱立、スーパーやらダイアモンドやらフランチャイズやらが石コロ混交するプロボクシングの世界戦、日本人が絡まない試合まで取り上げてしまうと、毎日のように記事にしなければなりません。
週末明けの月曜日の新聞は、結果だけでもちょっとしたコーナーを割くことになります。
日本人の世界戦でも地上波生中継が珍しくなってしまった時代です。
そんな時代のいま。
今朝の読売新聞で、13日に亡くなった矢尾板貞雄の記事が、パスカル・ペレス戦のモノクロ写真付きで載っていました。
ご存知の通り、矢尾板は世界王者になっていません。
私にとっては解説者のイメージしかありませんが「現役時代はボクシングというジャンルを超えて日本中に知られた存在だった」(前田衷)という一文が、矢尾板と当時の日本ボクシングの熱気を分かりやすく伝えてくれています。
白井義男がタイトルを失ってから何年もが過ぎ、日本人2人目の世界王者がなかなか生まれない中でも、列島のボクシングブームは衰えることを知りませんでした。
1959年、史上最強の呼び声高いパスカル・ペレスにノンタイトルながら勝利した矢尾板にかけられた期待と興奮はどれほどのものだったのか、想像も出来ません。
矢尾板は、1962年10月に世界フライ級王者ポーン・キングピッチに挑戦することが決定していましたが、ジムの会長との軋轢から引退。
矢尾板の代役に選ばれたのが、ファイティング原田でした。
もし、矢尾板が引退せずにキングピッチと戦っていたなら、白井の陥落から8年間も続いた大空位時代を打ち破るのは原田ではなかったかもしれません。
当時は1団体8階級、世界王者が世界に8人しかいない時代です。世界挑戦なんて、簡単に出来る時代ではありません。
原田が世界挑戦するのが大幅に遅れて、19歳の世界王者誕生とはならなかったことが確実です。
そして、もしかしたら原田が挙げた日本史上最も価値のある勝利、エデル・ジョフレ戦も無かったかもしれません。
あるいは超絶のテクニシャンだった矢尾板はジョフレもジョニー・ファメションも攻略していたかもしれません。
そして、国際ボクシング名誉の殿堂にモダン部門で選ばれたのは原田ともう1人、矢尾板貞雄という別の未来があったかもしれません…。
コメント
コメント一覧 (2)
素人の私達にも、わかりやすい解説でした。
御逝去残念です。
フシ穴の眼
が
しました