カテゴリ: 壁を越える人々

2023年4月8日 有明アリーナ

コミッション:JBC
プロモーター:本田明彦(帝拳プロモーション)

放送:アマゾンプライム

【セミファイナル?】


4月8日までの時限シリーズのキックオフです。

最近ではダントツに「お手並み拝見」な試合です。

「落ちぶれたボクサーがキックに流れ着く」のではなく「キックのスーパースターが鳴物入りでボクシングのリングに乗り込む」という、下剋上ストーリーです。

ボクシングの世界王者を大きく凌ぐ大舞台を経験してきた那須川天心は、今回のプロテストからデビュー戦決定について「(一般ニュースで全部の局が)取り上げてくれた」と語りました。

「ボクシングの方がキックより上とか、キックの方が上とか、そんな感情は一切ない」と明言し続けてきた天心ですが、この二つの競技の日本における社会的地位の格差を実感したのではないでしょうか。

ただし、ボクシングでも世界戦の結果が全局で報道されることは極めて稀で、試合前報道となるとまずあり得ません。ましてや、デビュー戦です。

天心だから、ここまで注目されているのです。

村田諒太のプロテストとデビュー戦も大騒ぎでしたが、あの人は五輪でミドル級の金メダルを獲ったからです。プロボクシングの世界王者よりも価値が高い黄金の通行手形を持って、プロのリングに挑戦してきたからです。

村田のプロ転向は〝上流〟から〝下流〟に、自然の流れの中で大騒ぎになったのです。

しかし、天心はキックボクシングという社会的な〝下流〟から、自然の摂理に反して〝上流〟に逆流してきて大騒ぎを起こしているのです。

天心は「ボクシングからの果たし状」と表現しましたが、間違ってます。これは、彼からアクションを起こした「道場破り」です。

既存のヒエラルキーを破壊しようとする下剋上です。

面白すぎます。




さて、まずは与那覇勇気からです。

日本バンタム級4位、12勝8KO4敗1分の32歳。右のストレート、アッパーを思いっきり打ち込んでくるプレッシャー・ファイターです。

直近の試合は昨年10月。南出仁との日本バンタム級王座への挑戦権を賭けた8回戦でしたが、3−0の判定負け。

南出仁、そうです。天心のプロテストの相手をつとめた南出です。南出を共通辺に三段論法を語ると、与那覇に勝ち目はありません。

もちろん、三段論法でなくても与那覇のスタイルは天心にとってはオーダーメイド。沖縄の好漢が開始ゴングと同時に勝負を仕掛けて、天心が衝撃的なデビュー戦を飾っても何の驚きもありません。

試合予想はさておき、与那覇が「伝説の指導者・金城眞吉が育てた最後の王者」という報道をいくつか目にしました。

与那覇は父の知り合いだった縁から金城眞吉(1944年10月16日 - 2017年11月16日)から誘われ、沖縄尚学高校でボクシングを始めました。そして、3年のときに全国選抜大会優勝。

その伝説の金城は高校・大学でフェザー級ボクサーとして活躍。配属先は那覇市消防本部に勤めながら、夫婦で興南高校でボクシング部を創設、指導者としてのスタートを切ります。

ボクシング部といっても、放課後に教室の椅子や机を片付けて、そこをリングに見立てて練習を重ねるというものでした。

そんな何もない場所からボクシング王国・沖縄を作り上げたのです。

具志堅用高や渡久地隆人らを指導する一方で、他校の上原勝栄・康恒、浜田剛史や新垣諭、平仲昭信・信敏も教え、「来るものは拒まず」の姿勢を貫いたボーダレスな指導者が金城でした。

さらに、2011年から東洋大学でも非常勤ながら村田諒太らを指導、具志堅の依頼を受けて比嘉大吾を教えるなど、中央でも有名な指導者でした。

伝説に溢れた生涯でしたが、個人的に大好きなエピソードは、これと見込んだ才能は冷たく突き放すという性格です。

そんな才能には、勝っても負けても「勘違いするな」と、決して褒めることも、慰めることもしなかったといいます。

勝って喜ぶと「勘違いするな。お前が強いんじゃない。相手が弱いんだ」と水を差しました。負けてがっかりしていると「勘違いするな。相手が強いんじゃない。お前が弱いんだ」と追い打ちをかけました。

果たして、与那覇はその言葉をかけられたのか?

少し探すと、すぐに見つかりました。

「金城監督には感謝している。勝てば『おまえが強いんじゃなく、相手が弱い』。負けると『相手が強いんじゃない。お前が弱いんだ』。僕は調子に乗りやすいから、金城監督がそう注意してくれたんだろうと思う。プロになってもこれは、魔法の言葉、大切にしている」。

おそらく、金城監督は与那覇の性格をわかったからだけで、突き放すようなその言葉をかけたのではないでしょう。間違いなく〝これと見込んだ〟のです。


那須川天心のデビュー戦。その相手として、与那覇勇気ほどの適任はあり得ません。
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ビッグネームとニアミスした男たち。

正確にいうと「ニアミスすることもできなかった男たち」。

彼らが抱いた大きな夢が叶わなかったのは、どうしてなのか?もっと突き詰めると、それは誰のせいなのか?

誰が彼らの夢を遠ざけたのか?

地方の弱小ジムか?

そのジムを選んでしまった彼ら自身なのか?

世界的には無名の軽量級の〝スター〟ではなく、本物のスターを育てることを怠ったJBCか?

軽量級は世界では不人気、人気階級はライト級から上、という事実に迫ろうとしなかったメディアか?

米英の華やかな舞台で注目される人気階級が見えないふりをしていたファンか?

それとも、彼らの夢が日本のプロボクシングという矮小な世界で抱くには、あまりにも大きすぎたからなのか? 

そう、実際に彼らは大きすぎたのだ。

JBCがカテゴライズするボクシングのクラスは最軽量のストロー級(105ポンド=47.61㎏)から、事実上の最重量のミドル級(160ポンド=72.57㎏)まで。

これが何を意味するかというと、他のスポーツなら両手を挙げて大歓迎されるはずの身長180㎝超で、160ポンドが軽すぎる逞しい男たちの居場所が、日本のボクシング界にはないということだ。

アイドル歌手がロンドンやロスアンゼルスでレコーディングするように、海外で試合をする軽量級のスター選手とは真逆の理屈。あるいは、NPBのトップ選手がメジャーを渇望して太平洋を渡るのとも違う。

軽量級のスター選手や、人気スポーツのトップ選手は日本に居場所があったのだから。

彼らは日本に居場所がなかった。欧米では人気階級だというのに。

「だったら村田諒太になればいいじゃないか」と言うかもしれない。しかし、あれは突然変異。

辰吉丈一郎も長谷川穂積も井上尚弥も、五輪で金メダルどころか出場すら出来なかった。

ボクシングを知る人に聞いてみるがいい。

「プロで4団体統一王者になるのと五輪で金メダル、どちらが難しいですか?」と。

「プロで4団体統一の方が難しい」と言う人はおそらく1人もいないだろう。それくらいの難関なのだ。しかも、ミドル級である。

文字通りの金看板を手に入れた日本人は、歴史上、村田だけだ。

そんなレアメダルがなくとも、軽量級なら世界王者になるチャンスは飛躍的に膨らむが、欧米の人気階級となるとそうはいかない…。


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その男が、まだ「真田雄一」だった頃。竹原がKO出来なかったのはこの男だけだった。

その男は小学校に上がる頃には大きな男の戦いに惹きつけられていた。

アイドルはモハメド・アリ。プロレス興業がやって来ると喜び勇んで会場まで見に行った。


1999年5月25日、OPBF東洋太平洋スーパーミドル級王者・崔龍碩に12回判定勝ちで、王座獲得。20歳でデビューした男は、このとき33歳、戦績は15勝11敗4分と煮え立っていた。

そして、2004年がやって来る。1月11日生まれの男が38歳になって迎えた2004年は、常夏の1年になる。

1月19日には、WBA世界スーパーミドル級王者アンソニー・ムンディンのホーム豪州に乗り込んだ。結果は5回43秒TKO負けだったが、2ラウンドにダウンを奪う見せ場を作った。

4月10日、後楽園ホールでポーラ・トゥイロー5回2分59秒でKO、OPBF東洋太平洋スーパーミドル級王座に3度目の返り咲きを果たす。

12月18日にはWBC世界スーパーミドル級王者マルクス・バイエルに挑戦、ドイツ・バイエルンの地に降りた。この世界戦でも2ラウンドにダウンを奪ったが、33歳のドイツ人の技巧に封じ込められて12回判定負け。38歳の熱すぎる1年が終わった。




1986年10月26日、20歳のとき3ラウンドKOでデビュー。2011年12月2日、5ラウンドKO勝利で引退。そのとき、男は45歳になっていた。

26年に渡るプロキャリアは58戦にも及び、31勝19KO21敗6分。

1999年にOPBFスーパーミドル級王者に就き、ライトヘビー級でもOPBFの頂点に立ち、クルーザー級でも戦った。

その男が戦った階級の周辺にはジェームス・トニーやロイ・ジョーンズJr.、マイケル・ナン、クリス・ユーバンク、ナイジェル・ベン、ジョー・カルザゲ、ミッケル・ケスラー、デビッド・ヘイら、本物のビッグネームが回遊していた。

彼らとは拳を交えることが出来なかったが、38歳のときにスーパーミドル級という階級で2度も世界にアタックできた男は、間違いなく幸運だったはずだ。

それなのに、どうしてそれから7年間もリングにしがみ続けたのだろうか?

45歳までの7年もかけて探さなければならない忘れ物とは何だったのか?

そして、男はその忘れ物を見つけたのだろうか?
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その男は身長189㎝。日本人としては飛び抜けて大きな男だった。ましてや、小さな軽量級ボクサーが主流のボクシング界では、巨人だった。

最重量となる日本ミドル級王者として3度防衛。OPBFライトヘビー級タイトルまで奪取すると、これも4度防衛。

1989年7月25日のプロデビューから、2000年9月6日にOPBFライトヘビー級王座の4度目の防衛に成功して引退。

12年にわたるプロ戦績は、20勝11KO1敗3分。

唯一の敗北は1992年2月17日に喫したものだったから、それから8年以上も日本とOPBFのタイトルを飲み込んで無敗街道を疾走したことになる。

そのただ一つの黒星は、日本ミドル級王者に挑戦した試合だったが、2ラウンド2分47秒でノックアウトされてしまう。それでもオープニングラウンドからペースを握っていたのは、その男の方だった。


悲願の日本王者になった1993年から、引退する2000年までの8年間、ミドル級とライトヘビー級の世界のトップシーンを振り返ってみよう。

まず、ミドル級。WBAはレジー・ジョンソン、ジョン・デビッド・ジャクソン、ホルへ・カストロ、ウィリアム・ジョッピーらが、WBCではジェラルド・マクラレン、ジュリアン・ジャクソン、クインシー・テーラー、キース・ホームズらが王座をリレー。IBFはロイ・ジョーンズからバーナード・ホプキンスというレジェンドが君臨していた。

そして、ライトヘビー級。WBAはフレディ・ローチが手がけた最初の世界王者バージル・ヒルに、ジョーンズ、WBCはジェフ・ハーディング、マイク・マッカラム、ジョーンズ、IBFはヘンリー・マスケ、ダリウス・ミハエルゾウスキー。

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相手がロイ・ジョーンズやバーナード・ホプキンス、マイク・マッカラムでなければ、その男にもチャンスはあったのではないか?

いや、ジョーンズやホプキンス、マッカラムにだってノーチャンスではなかっただろう。

何よりも〝一歩間違っていたなら〟ジョーンズやホプキンス、マッカラムと拳を交えていたかもしれないのだ。

しかし、日本には存在しないライトヘビー級、そのOPBF王者は練習相手もいない状況で、所属ジムの経営難も災いして試合ができない歳月を重ねてしまう。

カリド・ヤファイは「私がミドル級なら住む家も乗る車も何もかもが違っていた」と軽量級であることを呪い、ファン・フランシスコ・エストラーダは「ボクサーにとって小さな体で生まれることは不幸で不運だ」と嘆いた。

しかし、私たちの国で欧米の人気階級で戦うボクサーは「デビューしたての軽量級のボクサーが世界を口にするのに、俺は勝っても勝っても世界の背中も見えてこなかった」(竹原慎二)というのが現実だ。

この国では、非常に珍しいことに、欧米の人気階級で戦うボクサーが日陰の存在に甘んじている。

もちろん、軽量級とは違い、世界との距離は離れている。それにしても、人気階級での勝負を後押し、応援しないでどうするのだ?

〝一歩間違っていたなら〟竹原慎二になれたかもしれない男たちの哀歌を唄うシリーズの幕が、今上がったのだ。
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10年の懲役を終えたフルトン・シニアは、初めて見る息子に「よく生きていてくれた。ありがとう」と感謝を伝えた。

フルトンは、父親も自分と同じように、暴力と犯罪が渦巻く街で多くの友人を失い、自分が生き延びることに精一杯だったという話を聞いた。

父親は息子に自分を守るためにボクシングを教えた。 上半身裸で練習し戦うのが当たり前の世界を知り、背中のアザはもう気にならなかった。

そして、12歳になるとジェームズ・シュラー ボクシングジムの門をくぐる。


ジェームズ・シュラー。

 Black Goldと呼ばれ、若くして才能を爆発させたフィリー・ファイター。アマ戦績は178勝6敗。米国の五輪代表にも名前を連ね、金メダル候補だった。しかし、米国はモスクワ1980をボイコット、シュラーは無念の涙を拭いてプロ転向。

プロでも連勝街道を突き進み、絢爛の80年代ミドル級でWBA/WBC/IBFの全団体で1位にランクされ、22戦全勝でトーマス・ハーンズの持つNABFタイトルに挑戦するも、73秒で粉砕されてしまう。

シュラーは、その1週間後に交通事故で命を落としてしまうのだ。26歳の春だった。



悲運の天才の名前を冠したジムでフルトンは実力を伸ばし続けるが、国際大会で結果を残すことはなく、エリートアマと呼ぶには物足りない75勝15敗の戦績でプロ転向。

2014年10月にプロデビューするとジョシュア・グリーアや、アダム・ロペスらのちの世界ランカーとのクロスゲームを制して12連勝(5KO)を飾る。

しかし、米国では才能を萌芽させる軽量級の黒人選手の存在に誰も気づかなかった。

そう、米国では…。

幸運の便りは大西洋の向こう側から届いた。

米国や英国で軽量級に目が向けられることは「極めて稀」で、人気階級とは全く違うマイナースポーツだと考えるべきだ。男子100メートルと競歩が、同じ陸上競技でも全く違うスポーツであるように。

ただし、ボクシングの場合は「極めて稀」に例外的な人気者が登場する。それは、好戦的なメキシカンであったり、不屈のアイリッシュだったりするケースだ。

フルトンに届いたのは英国マンチェスターから。なんとあのカール・フランプトンからのオファーだった。

フランプトンは、ニューヨークのバークレイズセンターとラスベガスのMGMグランドガーデンアリーナでレオ・サンタクルスと軽量級では奇跡的なビッグファイトを繰り広げたアイリッシュのスター選手。2016年にはBWAAとリング誌の Fighter of the Year をW受賞している。

フランプトンは2018年4月にノニト・ドネアとのWBOフェザー級暫定王者決定戦を前に、スピードのあるスパーリングパートナーを探していたのだ。

マンチェスターのVIPボクシングジムに招かれたフルトンは、フランプトンを相手に濃密な50ラウンドのスパーリングを経験する。

フランプトンの見立ては正しかった。

“The sparring with Stephen Fulton was very beneficial. I think he was very similar to Donaire, but fresher, younger and a little bit stronger than Donaire.I’m very impressed with his potential to be a future champion.”said Frampton. 


「フルトンとのスパーリングはドネア対策として、非常に役に立った。ドネアとよく似ていた上に、まだ衰えていないし、若く、すでにドネアよりも少し強かったと思う。将来世界チャンピオンになる才能だと感じた」。

米国で試合をするよりもはるかに高額の報酬を受け取ったフルトンもまた、カネ以外のものを手に入れていた。



マンチェスターからフィラデルフィアに帰って、自分のトレーニングを再開したとき、フルトンは背中のアザをボリボリ掻きながら、トレーナーのワヒド・ラヒムに話しかけた。

“I know I’m the best fighter in the division. If anyone doesn’t believe me, I’m here to prove everybody wrong.”


「フランプトンと互角の練習ができた。フランプトンがドネアに完勝したのを見て、自信が深まった。ジュニアフェザー級最強のファイターは私だ。もしそれを疑う人がいるなら、彼らが間違っていることを証明してゆくだけだ」。

ラヒムは気持ち良さそうに笑って、あたりをキョロキョロ探す素振りをした。

フルトンは「何を探してるんだ」と怪訝そうに聞いたが、ラヒムは笑ってるだけ。

背中のアザを気にしていた繊細な少年は、もうどこにもいなかった。
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フィリー・ファイターの肉体に流れる血液を遠心分離機にかけると、不撓不屈の赤血球と、恵まれない不運の白血球が抽出されるでしょう。

スリラー・イン・マニラで両目の視力を失ったジョー・フレイジャーは「モハメド・アリがどこにいるかを教えてくれ。絶対ヤツを倒して見せるから」とセコンドに懇願しました。

バーナード・ホプキンスは、スターダムの頂点に並び立つフェリックス・トリニダードとオスカー・デラホーヤをことごとく撃墜しましたが、ついに主役の座に就くことなくリングを去りました。

スティーブン・フルトンの場合はリングの中の結果ではなく、米国の軽量級という時点で恵まれない不運の烙印が押されてしまいました。



もし、フルトンが日本人であったなら、井上尚弥との対決は国民的行事レベルで盛り上がっていたかもしれません。

いいえ、せめてメキシカンやプエルトリカンなら米国でも少しは注目されていたはずです。

フルトンはスピード、テクニック、コンビネーション、スタミナ、タフネス、ストラテジーを完備したボクサーです。7ツールを操るトータルパッケージにはパワーだけが欠落しているフルトンですが、対戦相手にとっては攻略するのが難しいスタイルを完成しつつあります。

米国での井上尚弥はボクシングマニアを例外に全く無名、その存在感はティトやゴールデンボーイとは比較対象にもなりません。

井上との決戦も、米国ではみんなが寝てる早朝未明の放送になります。

それでも、大番狂せを起こせば、その衝撃波は太平洋を超えて米国の主要メディアも刺激する可能性大。フルトンが希求してきた「RESPECT IN AMERICA(米国での注目)」を、短い時間でも掴み取ることができるでしょう。

フルトンは、リトル・ホプキンスになれるのでしょうか?


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1994年7月17日、フィラデルフィア北部のリチャード・アレン計画(労働者向けの住宅供給サービス)で建てられた二部屋しかない間取りのアパートで、小さな男の子が生まれた。

4人姉弟の末っ子で、母親のコマリーナは女手一つで家庭を支えていた。父親は懲役刑を喰らって服役中だった。

貧困な黒人家庭だというだけでなく、その赤ん坊の小さな背中には矢ジリのような形で深い穴が空いていた。先天性の欠損症だった。それを見た人は「かわいそうに」と同情するしかなかった。彼らも自分の生活で精一杯だったのだ。

入院して治療する余裕などあるわけもなく、母親と姉たちに出来ることは「あの穴から、ひどい病気にならないように」と、神に祈ることだけだった。

やがて、筋肉がつくと背中の穴は無くなったが、大きなアザが残った。

その子の名は、父親の名前を受け継いでスティーブン・フルトンJr.と名付けられた。

繊細な性格のフルトンJr.は背中のアザを気にして、家族以外の前では絶対にシャツを脱ごうとしなかった。

「金属探知機をパスしなければ入れない学校に通っていた。何人かの幼なじみが殺された。街のあちこちで、ドラッグの売人が徘徊していた。ここを脱出したいと思ったけど、脱出できない運命なのもわかっていた」。

「きっと僕もいつか殺されるか、運が良ければ父親のように刑務所に入るんだろう。楽に殺してくれるなら、それもいいかもしれない。暴力に怯える毎日から解放され、背中のアザを気にする必要もなくなるんだから」。

そんな多感な少年のもとに、父親が帰って来る。

あれほど、シャツを脱ぐのを嫌がっていたフルトンJr.が上半身裸になるのは、父親が戻って来てすぐのことだった。

父親の手ほどきでボクシングと出会い「生きてて良かった」と呟きながら。
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ペンシルバニア州フィラデルフィア。

ニューヨークとワシントン D.C. の中間に位置し、東海岸では2番目、全米でも6番目の人口を抱える米国を代表する都市の一つで、18世紀末には米国の首都だった時期もある。

何より大切なことは、ビールが美味いということ。暑い夏にエビル・ジーニャス・ビールをノドに流し込めば、何のために生きているのかがはっきりとわかるだろう。

そして「ルーシーの家」のチーズケーキは嘘みたいに美味い…。
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…なんて御託はボクシングファンには無用です。

フィラデルフィアといえば、ボクシングです。

ボクシングに興味がない人でも映画「ロッキー」のワンシーンを見たことはあるでしょう。

ロッキー・バルボアがロードワークで駆け上がっているのが、フィラデルフィア美術館の正面玄関階段。有名なThe Rocky Stepsです。



スティーブン・フルトンが生まれ育ったのも、このフィラデルフィアです。

ロッキー・バルボアだけではないのです。

ソニー・リストン、ジョー・フレイジャー、ジェシー・ジョー・ウォルコット、マシュー・サード・ムハンマド、ジェフ・チャンドラー、ティム・ウィンザスプーン、タイレル・ビッグス、バーナード・ホプキンス…極東のボクヲタの心も揺さぶった偉大なファイターがフィラデルフィアで生まれ、育ちました。

酔った頭で思いついたまま書き殴ったので、ビッグネームが何人も抜け落ちているはずです。

世界屈指の偉大なボクサーの産地、それがフィラデルフィアです。

この風土から生み出された血湧き肉躍るファイターたちに共通するのは、不撓不屈と不器用のハイブリッド。

リングの中では器用に戦えない、リングの外では器用に立ち回れない。しかし、それでも絶対に降伏しないという背骨を持ち、誰にも追従しない血液が流れるファイターたち。

そして、スターダムの頂点を夢見ながら、同時代により大きな惑星が回遊していたがために、名脇役の座に甘んじてきたファイターたち。 

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そして、それ以前の問題として、チャンドラーやフルトンは、大きな舞台の脇役にすら立てない軽量級という十字架を背負っていました。

米国でバンタム級やジュニアフェザー級が注目される日は、永遠に訪れないかもしれません。米国のボクシングファンでもチャンドラーやフルトンを知っている人は少数派でしょう。

しかし、日本ではチャンドラーを強烈に記憶していないボクヲタやオールドファンは1人もいません。

そして、フルトンが今、その仲間入りを果たしました。

もし、万が一、フルトンが番狂せを起こしたとしても米国での扱いはチャンドラー並みかもしれません。

米国ボクシングの人気、ステイタスの凋落を考えると、チャンドラー以下かもしれません。

しかし、それでも、米国では軽視されたままでも、日本のファンはスティーブン・フルトンの名前を忘れないでしょう。

そして、もし、万が一が起きたら…ペドロ・フローレンスやフェルナンド・モンティエル、ロッキー・バルボアのように私たちの記憶の中で番狂せを起こしたエース・キラーとしてずっと記憶に残り続けることになります。
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BEATING NAOYA INOUE IN JAPAN IS KEY TO RESPECT IN AMERICA

米国におけるボクシングは完全マイナースポーツ。

そのボクシングの中でも軽量級となると…ファンの間でも注目を集めることは、まずありません。。

世界王者になる前も、またなってからも、スティーブン・フルトンは、軽量級では常識の日陰の道を歩いて来ました。

そして、陽の当たる瞬間は一度も訪れることなく引退の日を迎えるであろうことも「覚悟」していました。

いや…。「覚悟」…そんな大袈裟で特別なものではありません。フルトンら軽量級選手にとってはそれが当たり前の日常だったのですから。

軽量級である限り、注目と尊敬を集めることなどない…そう「諦観」していたという方が近いかもしれません。

2021年1月、アンジェロ・レオに完勝してWBOのストラップを掴み取った夜もそうでした。

There was no applause. No fanfare. Nothing but the sound of their feet.

ロッカールームに帰る彼らには、拍手も勝利への賞賛も何も聞こえてこなかった。ただ、彼らの足音だけが響いていた。(2月8日リング誌電子版)


グローブなど荷物を担いでトボトボ歩くトレーナー、ワヒド・ラヒムを振り返ると、フルトンはポツリと小さな声でつぶやきました。

 “You know I’m going to have to go to Japan to fight (Naoya) Inoue. That’s my path to become a superstar.”

日本に呼ばれて井上尚弥を倒すしかない。それしか、スターになる道はない。


2年前のことです。

初めて世界王者になって、花道をロッカールームに引き返すとき、そんなの普通ならお祭り騒ぎです。

それなのに、自分たちの足音しか聞こえないようなシラけきった会場を見渡して、フルトンは考えたのです。

もしかしたら、ここから脱出する方法があるんじゃないかと。

「トレーナーに、井上に勝つしかないと言ったのはよく覚えているさ。井上が日本の大きな会場を満杯にして、百万ドルファイターだってことを知っていたからね。米国じゃ考えられないことが、日本では起きるんだ」。


2年前、井上と対戦するなど雲をつかむような話でしたが、昨年暮れからとんとん拍子で話がまとまろうとしています。

もう、ボクシング人生を「諦観」する必要はありません。

「勝てば米国でも注目されるはずだ」(フルトン)。

ESPNはトップページで「トーキョーでフィラデルフィアの無名ボクサーが大番狂せ」と報じてくれるかもしれません。

CNNニュースでも「ジャパニーズドリーマー」と取り上げられるかもしれません。

28歳の黒人ボクサーキャリアは「諦観」する必要はなくなりました。

絶対に差し込まないはずの陽が、当たったのです。

しかし、これで終わりではありません。軽量級ボクサーとしては破格の大金を手にしても、負ければ何も変わりません。

フルトンは「覚悟」を決めているはずです。

2年前の夜、彼は「大金を稼ぐには井上とやるしかない」とは、一言も口にしていません。

「スターになるため」「米国で尊敬されるため」には「井上に勝つしかない」と語ったのです。

そう覚悟したのです。

オッズは1-3で、井上にしては接近した数字ですが、フルトンにとってはキャリア初のアンダードッグ。

そして、専門家予想はもっと辛辣です。ボクシングマニアの中には「黒い肌のポール・バトラーになるだけ」と諦めきったコメントも散見されます。

ただ、フルトンと家族、チーム・フルトンは「諦観」などしていません。

We’ve been treated unfairly by the boxing community, the media,

「米国で、私たち(軽量級)は冷遇され続けて来た。小さいからだ。しかし、井上も小さいが日本では尊敬されている」。


「日本に行くのが怖くないかって?まさか!ずっと行きたかったんだ。夢が叶おうとしているんだから!」。

そう、夢は叶おうとしているだけです。まだ、夢は完結していません。

勝つしか、ないのです。勝って、夢は完結するのです。

フルハウスのさいたまスーパーアリーナ。大番狂せに悲鳴が飛び交い、騒然とする会場。

リングを降りてロッカールームに向かって歩くフルトンは、あの夜のように振り返ってラヒムに話しかけるかもしれません。

「おい!!すごい歓声だ!俺たちの足音が聞こえないぞ!!!」

ラヒムは聞き返すはずです。

「スティーブン!何を言ってるのか聞こえない!!!もっと大きな声でしゃべれ!!!!」。




…フルトンが井上に勝てるとは思えません。

しかし、チームフルトンは軽量級に諦観せずに、覚悟を決めて日本に乗り込んでくるのです。

「井上を倒すことが米国で尊敬されることにつながるはずだ」。そう信じて。

2年前から井上に勝てば人生が変わると、覚悟を決めていた男が、自らの尊厳のために日本に乗り込んでくるのです。



スティーブン・フルトン、上等です。
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朝倉哲也は絶望に慣れていた。希望なんてどうせ叶わないのだから、最初から何も期待しない方がましだと信じていた。

…うろ覚えですが「蘇る金狼」(大藪春彦)の書き出しです。

日本ボクシング界とファンが描く欧米の人気階級への思いも、朝倉の気持ちに近似しているのかもしれません。

「欧米では関心が低い軽量級でも日本では人気がある」。

これは事実ですが、多くの関係者やファンが欧米の人気階級にも多大な注目と興味を寄せ続けているように、その背景には「どうせ叶わぬのなら、最初から何も期待しない方がましだ」という思いが隠されています。

つまり、欧米の人気階級は「日本で人気がない」わけではないのです。

日本のファンでも、ジョシュア・フランコやポール・バトラーよりも、カネロ・アルバレスやゲンナジー・ゴロフキン、タイソン・フューリー、デオンティ・ワイルダーらに詳しく、注目度も高いのが当たり前です。

つまり、日本のボクシングファンは「世界に通用する軽量級ボクサーを応援する」一方で、「世界的には欧米の人気階級に興味がある」という倒錯した心理を抱えているのです。

それでも、ウェルター級やミドル級で日本王者になっても、東洋タイトルを獲得しても「次は世界だ!」という空気は全く醸成されないのが常です。

もちろん、日本側の意向で好き勝手できる軽量級と違い、巨額のカネが絡む欧米の大手プロモーター、スター選手の縄張りである人気階級の世界戦をセットするのは至難の業。日本開催など夢のまた夢です。

「先進国の人気階級で世界挑戦するのはコネもコストもかかる」「軽量級よりも層が厚くレベルが段違いに高い」から、最初から能動的な取り組みは諦めている、だからチャンスも少ない…ただでさえ超難関なのに、下手な鉄砲すら数打てないのでは〝当たる〟わけがありません。

ウェルター級の世界王者はいまだに1人も生み出すことが出来ていませんが、ミドル級では2人の日本人が対照的なアプローチでアルファベット団体の頂点に立ちました。

「日本王者になっても東洋太平洋王者になっても世界なんて全く見えなかった」「プロテストに合格したての軽量級選手が世界を口にするというのに」と語っていた竹原慎二は、1995年12月19日に幸運を掴み取ります。

https://fushiananome.superknova.org/archives/27536340.html

https://fushiananome.superknova.org/archives/27539743.html


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当時のミドル級は、マービン・ハグラーとシュガー・レイ・レナードのメガファイトからタイトルは4つに分裂、液状化が進んでいました。1995年の最強王者はIBFのバーナード・ホプキンスでしたが、当時のJBCはWBAとWBCしか認めていません。

WBCはジュリアン・ジャクソンをKOしたクインシー・テイラー。 シュガー・レイ・レナードの元スパーリングパートナーでスター候補の1人でした。

テイラーから竹原に声がかかるわけもなく、日本に呼ぶなんてあり得ません。そもそも、竹原はOPBF王者だったにもかかわらず、WBCはミドル級ランキングの30位にも入れていなかったのです。

そして、WBAは番狂せで王者に就き、番狂せで4度の防衛戦をクリアしていたアルゼンチン人のホルヘ・カストロ。呼べない相手ではありません。

そして、期待通りに練習不足のビール腹を揺らしてカストロが来日してくれます。「ここまで舐められてるのか」と、竹原の闘志に火がつきました。

竹原の報酬はわずか600万円でしたが、歴史的な快挙を成し遂げます。

ちなみに、世界的にはもちろん、アルゼンチンでもカストロの評価は高くありません。

2010年にセルヒオ・マルチネスがケリー・パブリックを下したとき、リング誌など多くのメディアが「カルロス・モンソン以来のアルゼンチン人ミドル級王者」と報じ、日本のファンは「カストロを忘れてる!」と悔しがりました。

モンソン以来のLineal ChampionのマルチネスはFighter Of TheYearの候補に何度も挙がり、PFPトップ3に定着、鈍重なロコモトラとでは、評価が違うのは仕方がありません。日本での知名度は間違いなく逆転するでしょうが…。

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村田、村田、村田…銀座駅までジャックしました。

この「竹原vsカストロ」と対照的な構図が「村田諒太vsゲンナジー・ゴロフキン」でした。

「勝っても勝っても世界なんて見えてこない」竹原に対して、村田はデビュー前から世界に照準を合わせていました。

それも、アルファベットタイトルならどれでもいいというような〝カストロ〟ではなく〝ハグラー〟や〝レナード〟との大勝負を想定してキャリアをスタートさせたのです。

竹原には「どうせダメ」という諦めムードが充満していました。それでも、ボクシングファンの中には「もしかしたら」という希望の灯が小さく揺れていたのも事実です。ただ、当時の世界戦では異例のテレビ生中継も無しで、それは〝大っぴら〟なものではありませんでした。

「ミドル級」と聞いただけで、「それ、日本人が挑戦したらアカンやつ」と決めつけていたのです。心の底では、憧れまくっているのに…。

そして、「日本人が挑戦してもいい」と〝大っぴら〟に公言するために必要な印籠を手に入れたのが村田でした。

野茂英雄が革命を起こしたように、村田によって人気階級への意識は変わったのか?となると、何も変わっていません。

ミドル級で五輪金。地球上で4年に1人しか誕生しない稀有なタイトルです。日本人としては残念ながら「突然変異」だと認めるしかありません。

人気階級が抱える憂鬱。

日本では、欧米の人気階級でプロボクサーとしてリングに上がり続け、世界に挑んで砕け散ることができなかったがために、潔くリングを降りることのできないボクサーが間歇的に出現します。

この世に残した未練を断ち切れない亡霊のように。

尼崎生まれの45歳、野中悠樹もそんな亡霊の1人です。45歳、先月51歳になったばかりの竹原とは6歳違い。

1999年プロデビュー。25年のキャリアで49戦35勝10KO11敗3分。クレイジー・キムと何度もニアミスし、19年前に石田順裕と拳を交え、14年前には柴田明雄とも戦いました。

チャーリー太田、細川貴之、デニス・ホーガン、井上岳志…。そのキャリアは、日本中量級の半世紀そのものです。

 昨年7月、26歳の能嶋宏弥に6ラウンドでストップ負け。WBOアジアパシフィック・ミドル級王座を失い、世界ランキングからも陥落。


それでも「あの試合では終われない。ノーランカーですぐに世界とは言えないが、まだ残っている自分の可能性にかけたい」「世界初挑戦初奪取の夢は諦めない」。今年はまず、世界ランキング復帰を目標に掲げます。

野中がフライ級やバンタム級の選手なら、ここまでリングに未練を残したでしょうか? 

もし、人気のないカストロが番狂せで世界王者になっていなければ、竹原も世界戦に恵まれることなくキャリアを終えていたでしょう。

いいえ、自らを「広島の粗大ゴミ」と呼ぶ男です。彼もまた、いつ訪れるかわからないミドル級の世界挑戦を待ち続ける亡霊になっていたかもしれません。

欧米の人気階級がゆえに、悲哀のキャリアを送る日本の中量級プロボクサー。

嫌いじゃありません。大好きです。応援するしかありません。
 

プロボクシングの最年長記録は、世界王座奪取が長谷川穂積35歳9か月。挑戦は西沢ヨシノリの38歳11か月。

野中は世界挑戦が決まった時点で、西沢の記録を大幅更新することになりますが…その日はやってくるのでしょうか? 

 
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1月23日現在の米国のジュニアフェザー級ボクサーは、115人。

ストロー級(3人)、ジュニアフライ級(7人)、フライ級(24人)、ジュニアバンタム級(34人)、バンタム級(74人)よりはマシです。

BoxRecでスティーブン・フルトンを頂点とする115人の貧弱なピラミッドは、5位の日系人カツマ・アキツギが昨年ようやく10回戦を1試合こなしたレベルで、まともなプロはほとんどいない階級です。

それでも、最近ではフルトンにダニエル・ローマン、1990年代に活躍したジュニア・ジョーンズ、ケネディ・マッキニー、1980年代にはフロイド・パターソンの義理の息子トレーシー・ハリス・パターソンら個性的な世界王者を生み出してきました。

一方、日本は1位の井上拓真から113人と米国とほとんど同じ競技人口ですが、赤穂亮や武居由樹ら充実した顔ぶれ。

ここに、モンスターも乗り込んでくるわけです。

日本のジュニアフェザー級は1976年にロイヤル小林がタイトルを獲ってから畑中清詞、佐藤修、長谷川穂積、西岡利晃、李冽理、下田昭文、亀田和毅、小國以載、久保隼、岩佐亮佑と11人の世界王者を輩出。

西岡を除くと、いずれも短命王者というジンクスを抱えるクラスです。

井上尚弥が、最高の形、つまり2試合で4団体統一、そして心変わりしてフェザー級に転向なら、やはり短命になりますが、ジンクスという禁忌は見事に払拭できることになります。



それにしても、フルトン…いろいろ探してもバイオグラフィー的なものが全く見当たりません…。

どなたか心当たりのある方がいらっしゃれば、ご教示下さいませ。
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米国と日本では人気階級が違う、というのは実は嘘です。

日本のボクシングファンもラスベガスやニューヨークの大会場に憧れるているように、本当はウェルター級やミドル級、ヘビー級の花形階級で日本人のスター誕生を待ち焦がれているのです。

しかし、それが叶わないから、華やかな舞台ではアンダーカードに回される軽量級で満足することをわきまえでいるのです。

あるいは、軽量級でもT-Mobileセンターやマディソン・スクエア・ガーデン、アメフト場やベースボール・パークの巨大スタジアムでメガファイトがあるという幻覚を見たりしてしまうのです。

井上尚弥が米国で無名なのは、不人気階級のアジア人だからです。

もし、井上がバンタム級ではなく、ウェルター級やミドル級で同じことをやっていたら、米英ボクシングファンの注目を一身に集めることができたでしょう。

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マニー・パッキャオがメガファイトを行ったカウボーイズ・スタジアムは、名前をAT&Tスタジアムに、城主をカネロ・アルバレスに変えて今も大興行が打たれています。

華やかな舞台でメインを張るのは米国の軽量級ボクサーにとっては夢の夢のまた夢、雲を掴むような話です。



米国ボクシング、その哀愁に満ちた軽量級の歴史を駆け足で振り返り、Cool Boy Stephの肖像を描き出してゆきます。
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