まず、時を戻すのは「1995年12月19日(水道橋後楽園ホール)」ではなく、さらに8年時計の針を逆に回します。

80年代はシュガー・レイ・レナードの時代と記憶されていますが、現実はマービン・ハグラーの時代でした。

レナードは81年のボクシング史上最高試合=トーマス・ハーンズとのウェルター級完全統一を賭けた大一番に、劇的な勝利を収めますが、Undiputed Titleは82年に一度防衛しただけで網膜剥離のため引退。

25歳のスーパースターの引退に、世界中のボクシングファンが痛恨の思いに沈んでしまいました。

84年にカムバックしますが無名選手に派手に倒され、シュガー・レイにかつての輝きはありません。

「レナードのあんな姿は見たくなかった」。2度目の引退宣言を、惜しいと嘆く人はいませんでした。

最初の引退宣言から5年以上のブランクを経てリングに戻ったのは、1987年のことでした。この間、米国リング、ラスベガスのリングを支配していたのがハグラーでした。

レナードは、そのハグラーに調整試合を挟まずに挑戦するというのです。
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「5年もリングを離れ、当然世界ランクにも入っていないレナードに世界タイトルを争う資格はない」。

常識的というか、至極当たり前というか、WBAとIBFはこの試合にタイトルを賭けることをことを許しませんでした。

世界中のどんなボクシングファンよりも、米国最後のスーパースターの帰還を渇望していたのは、おそらく1人のメキシコ人でした。

ホセ・スライマン。当時のWBC会長です。

「どうしてこんなタイトルマッチを認めるのか?」。

メディアの質問にスライマンは、淀みなく答えます。

「レナードは特別」。

まさかの言葉ですが、この男の口から発せられると「やっぱり…」です。

承認団体は承認ビジネスを生業とします。

興行規模を膨らませるスーパースターに気に入ってもらえることは、ビジネス拡大に直結します。アジアや中南米の軽量級王者から取れる承認量などたかが知れていますが、レナードになるとそのその何十倍どころか、何百倍にもなります。

しかも、相手はハグラー。メディアやファンは「レナードを殺す気か!」とWBCを非難しますが、すでに大々的なカムバックパーティーも主催しているWBCが後戻りするわけがありません。

「1対1のリンチ」と言われたミスマッチの結果はご存知の通りです。

話が横道にそれる前に、ハグラー陥落から「1995年12月19日(水道橋後楽園ホール)」に至る当時のミドル級シーンを振り返ります。

ハグラーvsレナードのTHE SUPER FIGHTがもたらしたもの。

大きな流れでは、今に続くスーパースター至上主義があからさまに形成されます。そして、枝葉の流れではミドル級のタイトル散逸を招きました。

2団体時代はもちろん、3団体時代でも、刹那の例外を除いて脈々とUndisputed Championを頂いてきたミドル級が、ついに分裂してしまったのです。

ハグラーに勝ってWBCの王座に就いたレナードはタイトルを返上。ハグラーが引退したことでWBAもWBCも空位に。

それぞれの団体は決定戦を行い、有象無象の王者が現れては消えてゆきます。

伝統の160ポンドに再びUndisputed Championが君臨するのは、17年後の2004年にバーナード・ホプキンスが4つのベルトを集約するまで待たねばなりませんでした。

1987年から2004年のミドル級氷河期。

「1995年12月19日(水道橋後楽園ホール)」とは、その氷河期のど真ん中に咲いた奇跡の花でした。

ミドル級王者がハグラーやレナードなら、水道橋に彼らを呼べるわけがありません。
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「日本王者にもなってないのに軽量級選手が『世界』と軽々しく口にするのに違和感を感じていた。私は無敗のまま日本王者になっても東洋太平洋王者になっても、世界の〝せ〟の字も見えてこないというのに」(竹原慎二)。

そして、竹原の「このまま引退まで東洋王座を防衛し続けるのか」という絶望に、氷河期だからこその一筋の光が差し込むのです。