カテゴリ: 村田諒太

ロンドン五輪金メダルから、日本ボクシング史上類を見ない巨大なサポートを受けてプロ入りした村田諒太のプロ戦績は16戦14勝11KO2敗。

ここまでの16戦で海外メディアや、オッズで「不利」と見られたことは一度もありませんでした。

そして、ゲンナディ・ゴロフキンのトレーナー、アベル・サンチェスが「次は村田諒太と東京の巨大スタジアムで戦う可能性が高い」と、日本のボクシングファンがメロメロになるような言葉を耳にしながら迎えたロブ・ブラントとの第一戦(2018年10月20日)。

9ヶ月前にウィリアムヒルが叩いた賭け率は村田の勝利が1.25倍、ブラント4倍。多くのメディアも「村田のパワーの前に非力なブラントは終盤まで持たない」と見ていました。

しかし、試合結果は119−109*2、118−110の準完封負け。

手数が少ない、攻防分離。戦略にBプランがない…村田の欠点が全て吐き出されたような試合でした。

「タッチボクサーのブラントは村田にとって最悪の相性」というのは真実かもしれません。

実際、明日に迫った再戦のオッズは1−2〜1−3で村田不利で推移。現時点で村田勝利が3倍、ブラント2/7(1.29倍)とその流れに変わりはありません。ブラント有利で試合開始ゴングが鳴らされるのは決定的です。

「ミドル級で(日本人の)村田が生き残ることはマーケットにとっては好ましいことだが、我々が目撃するのは13ラウンド目からの12ラウンド(前戦と同じ展開になる)だろう」(英国ボクシングニューズ誌)。

「村田不利」は、前戦の内容を振り返れば当然でしょう。

そして、この試合を落としても村田がカネロ・アルバレスやGGGの〝咬ませ犬〟的な対戦相手として、最後のチャンスを与えられる可能性もあるでしょう。
IMG_0609
ただ「世界的な人気階級に日本人が覇権を打ち立てる」という夢を村田に賭けていたファンにとっては、この試合がラストチャンスです。

井上尚弥のネクストは現れるでしょう。軽量級で世界を震え上がらせる日本人は、過去も現在も、そして未来も現れ続けるでしょう。

世界へ斬り込むという見地からは、欧米が注目するビッグネームなど元から存在しえないクラスの井上よりも、内山高志の方が集める視線の温度は上でした。

もちろん、人気階級のミドルやウェルターでも日本人が世界のピースを掴むことは十分にありえます。

しかし、五輪で金メダル、しかもミドル級のボクサーがプロのリングでも覇権を築く…そんなスペクタクルに胸躍らせることは、おそらくもうないかもしれません。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

7月12日(金)、エディオンアリーナ大阪。

Revenge or Repeat. 雪辱か返り討ちか。審判の日が迫ってきました。

ボクシングの面白さは様々な角度から文化人類学的な検証と考察がなされてきたことです。

野球やサッカー、テニスなどのメジャー面した球遊びが数字に偏る単純な算数的アプローチで終わっているのに対して、ボクシングでは数字に対する尊敬は微塵もありません。パンチスタッツですらその登場時ですら「試合の実態を反映しない」なんて斬って捨てられてしまうのです。

ボクシング。なんという深遠なスポーツなのでしょうか。

「再戦」を巡る物語でも、その帰趨は数字ではなく文化人類学的な角度から検証されてきました。

モハメド・アリvsソニー・リストン、アリvsレオン・スピンクス、シュガー・レイ・レナードvsロベルト・デュラン、フリオ・セサール・チャベスvsメルドリック・テイラー、イベンダー・ホリフィールドvsマイク・タイソン…。

初戦から短い期間で行われる再戦の多くは、初戦で大番狂わせが起きています。

そこで描かれるドラマの底流には「初戦が実力だったのか?それともフロックだったのか?」というメインテーマが激しく渦巻いているのです。

WBAミドル級、セカンド王者ロブ・ブラントとの再戦に村田諒太が挑みます。

ラスベガスやニューヨークのメガファイトへの切符をつかめる可能性のある唯一の日本人、村田諒太の明日はどっちだ!?



その前に、まずは初戦をおさらいしなくてはなりません。

昨年10月20日の初戦は米国で行われましたが、実質的に村田のホーム。「村田の村田による村田のための」〝メガファイトへの前哨戦〟でした。

ブラントが村田以上に米国で無名で、何の期待もかけられていなかった上に舞台は村田がスポンサー契約を締結したMGMリゾーツが経営するラスベガスのパークMGMのシアター。

「ブラントは日本のスーパースターに差し出された生贄の羊」(ESPN)のはずでした。

2017年10月、凋落する米国ボクシングの中でさえ、その存在を無視されてきたブラントは注目を求めてWBSSスーパーミドル級トーナメントに参戦。しかし、結果は当時39歳のロートル、ユルゲン・ブレーマー相手に完敗。

米国ではテレビ局がつかずマニアでも関心の低かったWBSSでしたが、一回戦敗退で帰国したブラントを待っていたのは「ドイツまで恥をさらしに行った」という嘲笑でした。

絢爛豪華な米国ミドル級の歴史の中で、ヨーロッパのマイナートーナメントに色気を示してあっけなく敗退したブラントは確かに恥さらしと揶揄されても仕方がなかったのかもしれません。

ブラント本人も「一度も期待されたことがないメディアに『幻滅した』と書かれたのはやりきれなかった」「しばらく大きなチャンスは与えられないと覚悟した」とプロ初黒星を喫した当時の心境を語っています。

そこに舞い込んできたのが、ミドル級でも屈指のマネーパワーを誇る村田への挑戦でした。

経験不足と過信からブレーマーに翻弄されたブラントでしたが、現在リング誌で3位、ESPNで7位まで駆け上がったランキングを見るまでもなく、その実力は過小評価されていました。

「村田のことはロンドンで金メダルを獲ったことくらいしか知らなかったが、MGMリゾーツとスポンサー契約したニュースは記者から聞いた。『すごいな』と感心する私にその記者は『村田はMGMリゾーツよりも大きな規模の日本企業といくつも契約している』と教えられて最初は信じられなかった」。

「でも提示されたファイトマネーがWBSSとは比べものにならなかったから、村田が何者かがよくわかった。そして自分が踏み台扱いのアンダードッグであることも」。

「村田のビデオは何度見直したかわからない。実際には12ラウンドしか戦っていないけど、どれだけ仮想対決したかわからないほど。相手の研究も練習も過去最高に打ち込んだ」。

「記者会見で私にマイクが回ってくることはほとんどなく、村田がゲンナディ・ゴロフキンやカネロ・アルバレスについて質問されているのを静かに聞いていた。もっと腹が立つと思っていたから、落ち着いている自分が不思議なくらいだった」。

ウィリアムヒルのオッズは村田勝利1.25倍、ブラント4倍。

村田の「圧勝でメガファイトへ」という重圧と油断。ブラントの千載一遇のチャンスに賭ける青い炎のような冷たい情熱。2人の心理状態まで考慮するとこの数字はあまりにも楽観的に過ぎました。


さて、再戦の物語、直近の「リピート」と「リベンジ」の各5試合計10試合を振り返りながら、村田のリベンジを声の限り応援させていただきます!
IMG_38742017年5月20日に有明コロシアムで世界初挑戦のリングに上がる村田諒太の告知広告が東京にのあちこちに溢れていました。

電通のお膝元銀座駅(正確には汐留駅ですが)構内でも電光掲示がずらりと並び、当時札幌から出張中の私も「いくらボクシングがマイナー競技でも、そりゃ別格だわな」と嬉しく眺めていました。

そういえば、特別パンフレットやグッズもついた「特別リングサイド」は確かに完売で、かなり後方の席から声を枯らしていたのを思い出します。ああ、あれからもう2年も経つんですね…。

***************

Repeat 〜屈辱の重ね塗り〜

両者のネームバリューにあまりに大きな隔たりがあったために、再戦でも不利と見られたボクサーが見事な返り討ち、もう一度番狂わせを起こす(もはやオッズと予想上だけの番狂わせです)ことは珍しいことではありません。

Underestimate & Overestimate(両者の実力評価が間違っていた)、Styles make Fights (相性)…様々な要素が絡み合って引き起こされる〝再びの番狂わせ〟ですが、初戦の結果で生まれた自信と不安という2人の深層心理もまた再戦の結果を左右する大きな要因です。


❶▶︎▶︎▶︎2017年9月9日、WBCジュニアバンタム級タイトルマッチ。

6ヶ月前にまさかの大番狂わせでPFPキングのローマン・ゴンザレスにプロアマ通じて初黒星をつけたシーサケット・ソールンビサイでしたが、その勝利を支持したのは2−0のMDを下したオフィシャルだけ。多くのメディアとファンはチョコラティトが競り勝ったと見ていました。

それでも、四つ目の階級にアジャストしきれていないロマゴンと、直前の水抜きの〝一夜漬け〟計量で大きくリバウンドしてくるシーサケットに対して、イベントを主催するHBOとWBCは1ヶ月前からリミットを定めて細かい計量を義務付け、チョコラティトのために何度も石橋を叩きました。

しかし…。「もしシーサケットが倒したのがロマゴンでなければ、この試合はとんでもないミスマッチ」(ESPN)というほどの惨敗。4ラウンド失神KOに葬られてしまいました。

階級の壁にぶち当たっていた当時のロマゴンは30歳、軽量級ではけして若い数字ではありません。そんなタイミングで、詰め将棋のようなコンビネーションを全く意に介さない相性最悪のタイの重戦車に直面してしまったのでした。


❷▶︎▶︎▶︎日本のボクシングファンが「再戦」「返り討ち」と聞いてすぐに思い浮かべてしまうのは、2018年3月1日のまだ生々しくも忌々しいWBC世界バンタム級タイトルマッチです。

前の年の8月15日、具志堅用高の連続防衛記録13に並ばんとしていた山中慎介が迎えたのはメキシコのパンテラ(豹)、ルイス・ネリ。

戦前の予想は3−1で王者有利でしたが、挑戦者のスピードに王者の反応が鈍い。

4ラウンドに猛攻を受けて山中コーナーがタオル投入、その判断の是非が議論を呼びましたが、さらに事態を紛糾させたのは1週間後にネリの検体から禁止薬物の陽性反応が出たことでした。

これを受けてリング誌はネリの王座を即座に剥奪したものの、WBCは実質的な処分を科しませんでした。

約7ヶ月後の再戦のオッズは逆目で1−3、メキシコのドーパーが有利。ここでもネリはありえない失態を晒します。計量でリミットを3ポンドもオーバー。秤の上で王座を剥奪され、山中が勝利した場合だけ王座に就くという変則タイトルマッチになってしまいます。

初戦の4ラウンドを圧縮したような再戦は、2ラウンドで無残で後味の悪い結末を迎えてしまいました。


❸▶︎▶︎▶︎先月5月11日、WBOジュニアフェザー級タイトルマッチ。

昨年12月から6ヶ月後の再戦で、階級最強候補だったアイザック・ドグボエはまたしてもエマニュエル・ナバレッテの軍門に下ります。

傑出した身体能力で目を見張るパフォーマンスを見せてきたドグボエでしたが、クロスゲームでの脆さを露呈、逆にナバレッテは自信満々で24歳のガーナ人を追いかけ回しました。

前回よりも明白な形での返り討ち。12ラウンド2度目のダウンを喫したところで、ドグボエのコーナーはタオルを振ってリングに入りました。

「勝ちっぷりの鮮やかなボクサーは過大評価される」。ボクシングの世界で、100年以上も前から伝わる常識は誰でも知っているはずです。

しかし、ドグボエのようなボクサーを見たとき誰もが「こいつは特別だ」と反射的に決めつけ同じ過ち、同じ類の番狂わせを〝創造〟してしまうのです。


❹▶︎▶︎▶︎ドボボエの宝石の如き野生が、引き出しのない怯懦に幻滅したイベントのメインもまたリマッチでした。

かつて三浦隆司の〝ボンバー〟(恥ずかしそうに小さな声で遠慮がちに拳を突きつけて発音するのが公式ルールです)が猛威を奮ったWBCジュニアライト級。

その三浦のベルトを奪ったフランシスコ・バルガスを倒したのがミゲール・ベルチェルト。

好戦的なメキシカン同士の争いはリマッチでも激闘。ど根性ファイターのバルガスを精度で上回るベルチェルトが6ラウンド終了TKOに返り討ちました。

このクラスの統一戦線に乗り出すベルチェルトですが、スターになりきれないのがよくわかる〝何かが足りない〟ボクサーです。スピード、パワー、テクニック…全てにおいて世界基準ですが突き抜けたものは何もない「60点ボクサー」。

全盛期の内山高志ならベルチェルトが12ラウンドまで立っていられるとは思えませんが…。



❺▶︎▶︎▶︎つい先日の6月21日に再戦したWBAジュニアライト級王者アンドリュー・カンシオとアルベルト・マチャド 。

El Explosivo(爆弾)の異名を持つ長身のプエルトリカンが、頑丈なだけが取り柄の無骨なカンシオに2月9日に受けた屈辱を晴らす…そんな大方の予想は初戦の4ラウンドKOよりも早い、3ラウンドKOという返り討ちの結果に裏切られてしまいます。

2試合続けて序盤で試合が終わるような力量差が2人の間にあったとは思えません。 

しかし、初戦の結果を受けて自信にみなぎるカンシオと、うまく戦っていても弱気が透けて見えるマチャド。最後は、やはりボディで膝をついたマチャドがしっかり立ち上がったように、決定的なダメージは受けていませんでした。

それでも、ファイティングポーズを取らずに虚ろな表情で主審がカウントアウトするのを聞いてしまいます。

カンシオのタフネスと強打の記憶は、マチャドからボクサーにとって最も大切な闘争心を対戦相手への恐怖心へと変質させていたのです。



Revenge 〜美しく偉大な復讐〜

120年を超える近代ボクシングの歴史の中で、数々のドラマを生んできた再戦の物語。

それは、戦う男の再生物語でもあります。つまり、
Revenge or Repeat が大きな感動を伴うのは前者。

返り討ち、Repeat が残酷な屈辱という苦い思いにいたたまれないのに対して、挫折を乗り越えた再生、美しいRevenge は勇気の風を送ってくれるのです。


❶▶︎▶︎▶︎最初に紹介するのはもちろん2017年10月22日、vsアッサン・エンダム戦。村田本人の美しく偉大な復讐劇です。

日本人のミドル級王者となれば竹原慎二以来、22年ぶりの快挙でした。

22年前との共通点は階級最強レベルの相手ではなかったということ、相違点は竹原の世界奪取の可能性はほとんど無いと見られていた一方、村田はオッズも予想も大きくリードして試合開始のゴングを迎えたということでした。

試合は村田が4ラウンドに痛烈なダウンを奪う完勝…に見えましたが公式ジャッジはまさかの1−2で敗北。リング誌とESPNが「ありえない泥棒判定」と世界中からの非難を受けて、エンダム勝利と判定した2人のジャッジに資格停止処分が下るなど、許容を大きく逸脱する明らかな不当判定でした。

怒号が飛び交う有明コロシアムで、冷静に敗北を受け入れ勝者を讃えた村田は、あのときすでにリマッチで勝利していたのかもしれません。



❷▶︎▶︎▶︎1978年年9月15日、WBA世界ヘビー級タイトルマッチ。


…「直近の試合」って書いてたよな?1978って40年以上前やないか!!と思われるかもしれませんが「直近」に国際的な取り決めや法律的な定義はありません。

酔っ払いが自説を押し通すためには「金メダリストの美しく偉大な復讐」が必要なのです。そのためには40年を「直近」と騙ることに躊躇などありませぬ…。

伝説などという軽い言葉では説明不能の完全統一ヘビー級王者モハメド・アリから、プロ9戦目という信じられないキャリアでタイトルを奪ったレオン・スピンクス。

アリとの再戦を優先したレオンはWBC王座を剥奪された挙句、再戦で敗れアリ伝説の瑣末なマテリアルにされてしまいます。それでも、このときレオンが受け取ったファイトマネーは350万ドル!

1978年の350万米ドルが、2019年換算でいくらになるか?!…虚しくなるだけなので、やめましょう。

アリvsスピンクスは1960(ローマ)vs1976(モントリオール)の16年の時を隔てたライトヘビー級金メダリスト対決でもありました。

この試合から学べることは「どっちにしても勝つのは金メダリスト」ということです!



❸▶︎▶︎▶︎1980年11月25日。WBC世界ウェルター級タイトルマッチ。ルイジアナ州ニューオーリンズはスーパードーム。

5ヶ月前に圧倒的有利と見られていたシュガー・レイ・レナードは、当時ですでに伝説だったロベルト・デュランに大番狂わせでタイトルを奪われていました。

単調なファイタースタイルで墓穴を掘った初戦からレナードは徹底したシュガーなボクシングに徹して石の拳を空転させました。

それにしても、デュランの棄権が伝説に昇華するという〝お前らだから成立する〟Win−Winなメガファイトでした。

この試合から学べることは「五輪金メダリストが本気で勝ちに徹したら誰にも負けない」ということです!



❹▶︎▶︎▶︎今年2月2日、WBOライトヘビー級タイトルマッチ。

9ヶ月前に大番狂わせを起こしたエレイデル・アルバレスが、かつてPFP10傑にも名前を連ねたセルゲイ・コバレフとダイレクトリマッチ。

34歳のコロンビア人が再戦では一転やや有利と見られていたのは、経年劣化が目立つ35歳のロシア人を初戦で7回KOで屠っていたからです。

しかし、再戦のクラッシャーは慎重なアウトボクシングに徹し〝コロンビアの嵐〟を12ラウンドにわたってやり過ごします。

コバレフは五輪メダルなど傑出した実績はないもののアマチュア実績が豊富。にもかかわらず、引き出しが少ないと見られていました。

冗談じゃない!充実したアマチュア経験があるコバレフが、コロンビアの嵐に2度も翻弄されるわけがないのです!

五輪はおろか世界大会で実績のないコバレフごときが、懐の深さを見せたのです。これが、五輪のメダリスト、しかもその色は金!なんてタレントがリマッチを〝引き出し百貨店〟のショーにしないなんてことはありえません。


❺▶︎▶︎▶︎そしてRevengeの最後の5試合目は、まだ試合前です。

その試合は7月12日、エディオンアリーナ大阪で行われることになっています。



************


It's tough to get out of bed to do roadwork at 5a.m. when you've been sleeping in silk pajamas. 朝5時に起きてロードワークに飛び出すなんて、シルクのパジャマを着て眠ってる奴には土台無理な仕事だ。とどのつまり、大金持ちなんかになっちまったらボクシングなんて出来やしねぇのさ。〜マーベラス・マービン・ハグラー

ボクシングはもとより、スポーツ界全体を見渡しても屈指のセレブになってしまった村田に死角があるとしたら、リングの外でしょう。

それは「油断」とか「気の緩み」なんて単純な言葉で片付けられるものではありません。

サッカーや野球と同様に、大金持ちになっても競技への情熱は保つことができます。しかしボクシングで必要なのは情熱だけではありません。

ハングリーであること…もっと正確に言えば情熱を超えて残酷であること、です。 

年収500万ドル以上(リング誌)で「NHKと民放各局がドキュメンタリーを制作する村田に「経済的に、あるいはステイタスに対してハングリーになれ」というのは無理です。

セカンドタイトルとはいえ、ブラントからベルトを取り戻せば、次の試合がカネロ・アルバレスやゲンナディ・ゴロフキンであっても、ボクシングの世界では何の不思議もありません。

そこに、どれだけの意味を見出して、どれだけハングリーになれるか。

2011年10月、アゼルバイジャン・バクーで行われた世界選手権。

決勝に進んだ村田は控え室へ帰る通路で「日本人には絶対不可能と思われたことをやってのけました」とマイクを向けられ、ムッと苛立ちの表情を見せました。

「日本人に不可能?そうかもしれませんが村田諒太には可能なんです。それに何もやってのけてなんかいない、決勝が残ってるのに」と怒りを含んだ声で吐き捨てた言葉に、私は心の底から「その通りだ!」と拍手喝采しました。

決勝はカミソリ一枚の僅差判定で銀メダルでしたが英国ボクシングニューズ誌とリング誌は翌年に迫ったロンドン五輪について「日本の村田が金メダル候補の最右翼」と報じます。

あの頃の何かに苛立つ村田にはもう戻れないのかもしれません。

しかし、ハングリーの形は一つじゃ無いはずです。

より洗練されたハングリーを身につけた村田が、美しいリベンジを果たすことを願ってやみません。

「村田の中盤ストップ勝ち」を確信的に予想します。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

6月1日、グレートブリテンが誇る3人の無敗王者が米国上陸、マジソン・スクエア・ガーデンに揃い踏みします。

ニューヨークだというのに、主役はプエルトリカンでもメキシカンでも米国人でもありませんが、超弩級のメガファイトです。

IBF/IBO/WBA/WBOヘビー級王者アンソニー・ジョシュア(22戦全勝21KO)はアンディ・ルイスJr.の挑戦を受け、4つのアルファベットタイトルを賭けます。

ジョシュアがスーパーヘビー級で金メダルを獲得したロンドン五輪2012、女子ライト級金メダルのケイティ・テイラー(13戦全勝6KO)は、IBF/WBA/WBOライト級王者として、WBC王者デルフィン・ペルソーンと激突、Undisputed Champion=主要四団体完全統一を目指します。

そして、WBSS優勝ながらアルファベットタイトルはWBAのベルトしか持たないカラム・スミス(25戦全勝18KO)が迎え撃つのはアッサン・エンダムです!!!

2017年10月22日に村田諒太との再戦に敗れたエンダムは、翌年12月22日にWBCミドル級シルバー王者マーティン・マレーに完全敵地マンチェスター・アリーナで挑戦。

4ラウンド終了間際にスリップをダウンと判定される不運を跳ね返し、2−0のマジョリティデジションをものにしていました。

“I am confident I will create a big surprise in New York”
しかし、エンダムの敵地巡業には涙チョチョギレです。

ニューヨーク・バークレイズセンター(2012年10月20日:vsピーター・クイリン戦)、モントリオール・ベルセンター(2015年6月20日:vsデヴィッド・レミュー戦)、東京・有明コロシアム(2017年5月20日:vs村田諒太)、東京・両国国技館(2017年10月22日:vs村田諒太)…先進国の大会場で地元の英雄の前に生贄的に差し出され続けながらも、ここまで生き残ってきました!

そして、今度はMSG。今回もユニオンジャックの旗があちこちで翻る完全敵地になることは、100%間違いありません。

「カメルーンで戦いたいんじゃないのかって?もちろん、それはあるさ。誰だって母国でいいところを見せたいよ。でも、俺の戦場は北半球なんだ。これは悲しいことじゃない、むしろ逆、楽しくて仕方がないよ」。

「パリにマンチェスター、モントリオール、ニューヨークに東京…でっかい街をサーカスしながら戦うのは最高の気分だ」。

「考えてみてくれよ。ニューヨークや東京から『必要だから来てくれ』とお呼びがかかるんだから、ありがたい話さ。ブーイングだって気にならない。ニューヨークや東京では暖かい拍手ももらったよ」。

「6月1日は絶対に勝つ。勝たないと、次がないから。勝ったら、このやりがいのあるサーカスが続けられるんだ」。

オッズはスミス勝利が1/33(1.03倍)、エンダム10/1(11倍)。

35歳のカメルーン人は、リバプールの英雄に供される咬ませ犬です。

勝ちましょう。


あの巨大なマジソンスクエアを埋め尽くす、うるさい英国サポーターを静まり返らせてやりましょう。

いろんな期待や想いや願いや愛情やらを込めて応援できるのは日本のボクサーだけだと思っていましたが、どうやらそうではないようです。

どうか、素晴らしいサーカスライフを続けて下さい。
IMG_0104 (1)

厚かましいお願いなのは重々承知ですが、スミスから奪ったスーパーミドル級のWBAと、WBCダイアモンドのベルトを持って、また東京に来て下さい。

1勝1敗ですからね。今度はラバーマッチ(決着戦)です。

きっとそのとき、日本はあなたから奪ったベルトを取り返しているはずですが、賭けるのはスーパーミドルのタイトルですね。

いっつもわがままですみません。

もし、そんなことが実現したら、非国民になりますが、今度の私はあなたに声援を送ってしまうかもしれません。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ボクサーの天国と地獄の境い目には、多くの試合は必要ありません。

たった2試合で地獄と天国を往来することも決して珍しくはないのです。

しかし、その天国と地獄を最短2試合、一年足らずで往来したとなると、レアケースです。

ロブ・ブラントがトップランクと複数年契約を結びました。 

村田諒太とははるかに巨額の複数年契約を結んでいるトップランクですが、先月番狂わせを起こしたブラントもしたたかに取り込みました。

如才無いです、ボブ・アラム。

ブラントは「トップランクと複数年契約なんて1年前は考えてもいなかった。夢が叶った。近い将来、大きな試合が用意される。このチャンスを必ずものにする」と感激しています。

そして、このブラントには英国マッチルームのエディ・ハーンも食指を伸ばしていました。

マッチルームと提携関係にあるDAZNにはカネロ・アルバレスを筆頭にデメトリアス・アンドラーデやデビッド・レミューなどミドル級のビッグネームが集っています。

ハーンは「〝金メダル殺し〟ブラントは素晴らしいキャラクター」と前のめりでしたが、争奪戦に勝ったのはトップランクとESPN連合でした。

最強のプロモーター同士が綱引きを演じたのですから、公表はされていないもののブラントの契約金は相当な額になったはずです。 

ブラントは村田についても語っています。

「村田はカムバックするだろうが、あれだけ騒がれてたのに負けてしまって、ショックが大きかったと思う。時間がかかるかもしれない。再戦条項は彼が握っているけど、すぐにはやらないだろう。私はチャンピオン、これからはタフな試合ばかりが続く。完全統一チャンピオンを目指す」。 

ブラントは来年2月にも初防衛戦がセットされる見通しです。

それにしても。

1年前はミドル級のトップ戦線にすら手がかかっていなかったミネソタ生まれの28歳の若者は、WBSSに出場してロートルに完敗、ただでさえ低い評価をさらに落としてしまったのですが…。

だった1試合目で全てを変えてみせました。

 つまり、村田諒太にもまた、全てをひっくり返す1試合があるはずです。

村田が再びリングに帰るとき、ミドル級のタイトルは今以上にわかりやすい状況になっているかもしれません。

チャンスはいつだって、どこにだって転がっています。 
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

「東京ドームでビッグマネー」の夢が頓挫したゲンナディ・ゴロフキンですが、その夢を打ち砕いた張本人ロブ・ブラントと来年の上半期で戦うことになりそうです。

トレーナーのアベル・サンチェスは「カネロ・アルバレスとの第3戦は来年5月の祭日週間シンコ・デ・マヨでセットするのは難しい。おそらく9月の独立記念日で〝メキシカンファイト3〟が実現するだろう」と語り「その前にブラントのベルトをいただく」と、チューンナップを挟む計画を明らかにしています。

村田諒太との東京ドームと、ブランド戦(おそらくスタハブセンターやMSGのシアターなどメガファイトと呼ぶのが憚られる会場になります)では、経済的なインパクトは雲泥の差です。

サンチェスも「もちろん我々は村田と東京ドームで戦いたかったが、こういう番狂わせはボクシングに付き物」と諦めています。

ブラントは、昨年GGGがカネロの代役で戦ったバーネス・マーティロシュヤンよりも遥かに名前の小さいボクサーで、賭けられるタイトルもWBAセカンドのみとなると、GGGの取り分は100万ドルいかないかもしれません。

それにしても、ブラントはまさかのGGG戦です、大出世です。半年前ならありえないマッチメイクでした。

ここでも番狂わせを起こせば…間違いなくカネロ戦が実現できますね。

昨年は、ミドル級ウォーズに無視され、米国の人気階級を回避する形で開催されているWBSSに参戦するも一回戦でロートルに完敗したブラントでしたが、村田とのたったの1試合で運命の潮目を変えてみせました。

日本人ファン目線で見ると、 村田は再戦条項を行使しないのか?というのが気になります。

ブラントにとっては「報酬」なら東京で村田と再戦、「名誉」ならGGG戦ですが、ボールは村田陣営が握っています。

再戦して欲しいですが…。 
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

米国においてプロボクシングは1950年代までは「最も尊敬され、最も大きな報酬を手にできるスポーツ」でした。

そして、その50年代頃からアマチュアボクシングも高い注目を集め、五輪本番はもちろん、国内予選の決勝が地上波生中継され、各地で地元ボクサーに声援を送りました。日本の〝甲子園〟に近い現象です。

現在は予選も五輪本番も地上波生中継されることはなくなってしまいました。米国ボクシングは、その土台からも崩壊しているのです。このことはヒスパニックや旧ソ連の〝新興国〟の台頭で「応援すべき地元選手がいなくなった」ことも原因の一つです。

甲子園のアイドルがそのままプロでも頂点をつかむことが稀有なように、米国の金の卵たちもみんながみんな孵化して、大輪の花を咲かせたわけではありませんでした。

1972年ミュンヘン大会で〝シュガー・レイ・ロビンソンを継ぐ者〟と将来を嘱望されたレイ・シールズ(ライトウェルター級)、1976年モントリオールでは、レイ・レナードよりも輝いていたハワード・デイヴィスJr.(ライト級)、米国史上最強メンバーと言われた1984年ロスアンゼルスのジェリー・ペイジ(ライトウェルター級)、ヘンリー・ティルマン(ヘビー級)、タイレル・ビッグス(スーパーヘビー級)は、五輪で最も輝く金メダルを首にかけたものの、スターダムに駆け上がるはずの階段を踏み外し、プロではスーパースターの引き立て役に終わりました。

また、金メダルから世界チャンピオンになった1984年のマーク・ブリーランド、1988ソウルのレイ・マーサーらも大きな期待に100%応えることは出来ませんでした。

最も厳しい基準で見ると、米国の金メダリストで人気と実力で頂点を極めたのは、モハメド・アリとシュガー・レイ・レナードの二人しかいません。
IMG_1306
【左から】シュガー・レイ・レナード、ウラジミール・クリチコ、アンドレ・ウォード。アマでもプロでもチャンピオンになった3人ですが、ボクシング人気の凋落から世界に与えるインパクトは後の時代になるほど希薄化してしまっています。

温室に囲われ、優しく敷設された線路が用意される金メダリストたちですが、その高下駄を履いて頂点に登り詰めたエリートは、けして多くはないのです。

しかし「プロでも大成した金メダリスト」の〝プロ〟の定義を広義でとらえると、オスカー・デラホーヤはプロモーターとしても大きな成功を収めたという点で、アリよりもレナードよりも「アマとプロ両方で最も成功した」と言えるかもしれません。

しかし、このデラホーヤはジョージ・フォアマンも村田諒太も真っ青の温室ボクサーでした。
IMG_1307

1992年バルセロナ五輪、ライト級で金メダルを獲得したデラホーヤは、契約金100万ドルで選手育成に定評のあるトップランク(その対局が出来上がった選手を使ってメガファイトを仕掛けるのを得意としたドン・キング)の傘下に入ります。

1992年11月のデビュー当時から「史上初の6階級制覇を狙う逸材」と喧伝され、トップランクの慎重なマッチメイクのもと、雑魚狩り路線をひた走ります。

最初のターゲットはジュニアライト級。フォアマンとデラホーヤ、二人の時代の決定的な違いは「世界王者は一人ではない」ということです。もっとわかりやすく言うと「穴王者がいる」ということです。

WBAは安定王者ヘナロ・エルナンデス、WBCは未来の殿堂入りアズマー・ネルソン、IBFも手強いジョンジョン・モリナと難関が立ちはだかるクラスでしたが、探せば簡単に見つかります、穴王者。

当時はまだ主要団体とは認められていなかったWBO王者ジミー・ブレダルを狙い撃ち。

1994年3月、デビューから1年5ヶ月、わずか12戦目で凡庸なデンマーク人王者を圧倒して10ラウンドTKO勝ち、まず1階級制覇。

「世界王者=最強のUndisputed Champion 」の時代はとっくの昔に終わり、世界タイトルはいくつものピースに分散していた時代だからこそデラホーヤは短い時間と経験で、手軽に世界チャンピオンになることが出来たのです。

それは、手っ取り早くタイトルが欲しいデラホーヤと、人気者の名前を団体の権威付けに利用したい新興WBOの相思相愛のタイトルマッチでした。

2階級目のライト級も相思相愛WBOの決定戦(ホルヘ・パエス戦)で獲得しますが、このあと温室路線から一転、WBOとの蜜月関係から離れて、強豪との対戦を増やしていきます。

ラファエル・ルエラス、ヘナロ、ジェシー・ジェームス・レイハを撃破。

3階級制覇をかけたジュニアウェルター級では、超ビッグネームとのメガファイトが用意されました。

フリオ・セサール・チャベスです。

1996年6月7日、ラスベガス・シーザースパレス。

ボクシングにおける数字は「誰に勝ったのか」という真理の前には何の意味もなしませんが、強豪との対戦を繰り返しながらも無敗のレコードを87戦全勝72KOまで伸ばしたJ・Cスーパースターの偉大さは数字とともに語ることが許される特異なケースです。

完全無欠の記録が、1993年にパーネル・ウィテカーとのドローでピリオドが打たれ、無敗記録も1994年にフランキー・ランドールにSDで敗れて「90」で止められたとしても、フロイド・メイウェザーの50−0はもちろん、ロッキー・マルシアノの49−0よりも価値があるのは言うまでもありません。

その、唯一の敗北を喫したランドールに雪辱、WBCジュニアウェルター級王者チャベスは99戦97勝79KO1敗1分と、100戦目の節目でデラホーヤを迎えました。

一方のデラホーヤは21戦全勝19KO。

マービン・ハグラー、シュガー・レイ・レナード、ロベルト・デュラン、トーマス・ハーンズ。非ヘビー級が史上初めてボクシング界をリードする時代を切り拓いた4人の偉大な志士はリングを去り、メキシカンの時代が幕開けていました。

村田諒太や井上尚弥を見てしまうと「ボクシングはハングリースポーツ」というのは古い時代の遺言のように聞こえますが、その血脈は延々と継がれています。

英国から米国へ、ボクシングの覇権が移った20世紀初頭からこのスポーツを担ってきたのは、故郷を追われたアイルランド、ユダヤ、イタリアの差別と貧困に喘いでいた若者の拳でした。

そのバトンをアフリカ系米国人が受け継いだのです。これほど自然なストーリーなど、めったにありません。

そして、差別と貧困を二つの拳で打ち砕く、このスポーツの主役のバトンがメキシコとプエルトリコ、フィリピンに握られている現在を俯瞰するなら「ボクシングはハングリースポーツ」というのは永遠不滅の真理のようにも聞こえてきます。

その、メキシコ時代の到来を世界に知らしめたのが、チャベスvsデラホーヤのメキシカン対決でした。

この「ハングリー」の視点から考えると、日本のボクシング黄金期は高度成長期とともに死んだ、とも言えます。

その一方で、ボクシングはもちろん、相撲やプロレスなど格闘技好きの国民性は、ボクシング人気が失墜した時代でも辰吉丈一郎や亀田兄弟などメジャースポーツと比べても遜色のないスターを、間歇的とはいえ生み出してきました。

英国の現在の活況を見るまでもなく〝受け入れる土壌〟があれば、先進国でもボクシングは再興できるはずなのです。

その意味では「村田諒太の東京ドーム」は、願ってもない〝起爆装置〟になるはずでしたが…。



話が逸れました。チャベスとデラホーヤです。

このイベントの看板は「Ultimate Glory(究極の栄光)」。

デラホーヤの勝利は、世界の主役交代、チャベスからスターのトーチが引き継がれるということです。

チャベスが勝てば、一発殿堂確実の偉大なキャリアに、さらに神々しいレガシーが加わることになります。

さらに、この二人のプロモーターはドン・キングとボブ・アラム(興行はトップランクが仕切りました。キングが身を引いたのは保険金詐欺など複数の案件で公判中で様々な面で活動が制限されていたとも言われています)です。プロモーターでも究極対決でした。

デラホーヤは、まだ23歳。チャベスは33歳とはいえ、まだ危険な相手です。
矜持が滲み出すメキシカン対決がただでは終わるはずがないのは、100年前でも100年後でもボクシングファンなら誰にでもわかることです。
この試合は、デラホーヤにとって早過ぎたのか、それともチャベスにとって遅過ぎたのか。

現実は、新世代を開く若者の拳は、歴戦で消耗したチャベスには強く、硬く、速過ぎました。

この試合を4ラウンドTKOで勝利したデラホーヤは、メキシコの季節を高らかに歌い、チャベスからスターのトーチを受け継ぎました。

このあと、ゴールデンボーイはさらに3階級を制覇、宣言通りの6階級制覇を果たしますが、黄金少年が最も輝いていたのは、このチャベスとの第1戦まで、と言うのは厳し過ぎる見方でしょうか。

ウェルター級の頂上決戦でフェリックス・トリニダードに惜敗、シェーン・モズリーに2連敗。バーナード・ホプキンスに惨敗、フロイド・メイウェザーには健闘むなしく惜敗、そしてマニー・パッキャオに残酷なまでに介錯されたキャリアは色鮮やかにファンを楽しませてくれましたが、超ビッグネームに勝利したのは晩年のチャベスだけでした。

リング誌の年間PFP(BEST FIGHTER POLL:FIGHTER OF THE YEARとは違う投票制のPFP。日本人では井上尚弥が昨年史上初の10傑入り=6位に入っています)でも1位になったのは1997年の一度だけ(それでも凄いことです)。

しかし、デラホーヤのキャリアを振り返って「温室育ちのチェリーピッカー(雑魚狩り)」と揶揄するボクシングファンは一人もいないでしょう。

ボブ・アラムが仕組んだ薄暗い温室の中で挙げた数々の勝利よりも、自らの意思で史上屈指の強豪相手に立ち向かい砕け散った敗北の方が、デラホーヤの美しさと潔いさを鮮烈に印象づけてくれているからです。



次の夜は、金どころかメダリストどころか、五輪出場すら出来なかったにもかかわらず、周到なマーケティングが敷かれた線路と、緻密なプログラムの温室が用意されたマイク・タイソンとカネロ・アルバレスです。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

裏口入学にコネ入社。

不公平が溢れる世の中で、スポーツの世界だけは別…。

なんて綺麗事がありえないことは、誰にだってお分かりでしょう。

プロ野球ではドラフト1位選手は、あからさまに多くのチャンスを与えられます。結果が残せなくても、首を切られるのは基本最後です。

ドラフト1位は競合するとクジになりますが、彼らが優待されるの 理由はクジや運や偶然ではありません。

甲子園で人気者になったり、大学や社会人で傑出した実力を示したという結果を評価されたからです。

強いヤツが勝つ、いや勝ったヤツが強いのだ、という一対一の殴り合い、ボクシングの世界でも不公平は顕著です。

五輪でメダルを獲るボクサーは日本では極めて稀ですが、米国ではメダリストは温室の中で大切に育てられます。

それが、金メダルで、しかも中重量級だった場合は、その傾向は更に色濃くなります。

キャリアを考えた試合が組まれる、レールが敷かれるということです。

大切に育てられる、そのスタイルや実力を鑑みて、適度な肥料と温度管理がなされた温室の中で成長させるということです。

簡単なようですが、どの駅を通過してどの駅で停まるか、レールを、どう敷設するかはプロモーターとマッチメイカーの高度な職人技です。

温室の中でも、肥料を与え過ぎたり、温度管理を間違うとデリケートな才能はたちまち腐ってしまいます。

温室の中に敷かれたレールの上を最初に走った最も有名なボクサーは、メキシコ五輪ヘビー級で金メダルに輝いたジョージ・フォアマンでした。

もちろん、ローマ五輪ライトヘビー級金メダルのモハメド・アリもそうだという見方も出来ますが、フォアマンのケースは更にあからさまでした。

難しいのは線路の引き方。キャリア初期のグランドデザインです。

「温室で育てられ、用意された線路を走る」。

最も安全で効率的で確実なやり方に見えますが、果たしてそうでしょうか?

マニー・パッキャオがデビューから温室に閉じ込められ、線路の上を無理矢理走らされていたら、あの偉大にして破天荒なレガシーを築くことができたでしょうか?

もし鈴木一朗がドラフト1位で指名され、18歳から十分なチャンスを与えられていたら、イチロー登場の衝撃的なブレイクは2年前倒しされていたのでしょうか?

清原和博が巨人に裏切られ、同情と応援のぬるま湯につからずに、ドラフト下位指名され、その屈辱に反駁するキャリアを送っていたら無冠の帝王だなんて誰にも言わせなかったかもせれません。

そして〝村田諒太プロジェクト〟が座礁(もちろん現時点での〝座礁〟です。今後の展開によっては座礁ではなく〝貴重な授業〟だったとなるかもしれません)した原因は、一つではありません。

様々な原因が複雑に絡み合って引き起こされたものです。

その原因の一つに「船頭多くして船、山に登る」が挙げられることに異論を挟む人はいないでしょう。

このプロジェクトのプロデューサーは一人ではありませんでした。

帝拳とトップランク。フジテレビと電通。

日米プロモーターの思惑が、完全に一致するわけはありません。 テレビ局と広告代理店の目的は、視聴率と費用対効果です。 

そして、村田諒太の思いは強い相手、ビッグネームとのメガファイトを実現して、自らの存在価値を世界に示し、日本のボクシング界を劇的に改善することでした。

 ジョージ・フォアマンから村田諒太まで、傑出した才能にカネや人材、そして希望と期待が集まるのは世の常です。

順調に運行表を守り、温室から飛び出し露地に出て、目的地まで走り抜けたボクサー、思わぬ脱線、挫折に見舞われたボクサー…〝金の卵〟たちの軌跡を辿ります。

最初の夜は、温室に囲われ、線路を敷設された、最初のビッグネーム、ジョージ・フォアマンの場合です。
IMG_1303
 1969年メキシコ五輪でヘビー級金メダルを獲得したフォアマンは、希望の星でした。

当時のヘビー級はボクシングはおろか、あらゆるスポーツの王様でした。

「この若者を世界王者にしなくてはならない、絶対に」。

マネージャーにはソニー・リストンを育てたディック・サドラーが就き、①安全な(一発強打の無い)相手、②様々なスタイルの選手、③ 苦手と思われるスピード型は間違いなく勝てる相手から徐々にレベルアップさせる、④米国のいろんな会場・雰囲気に慣れさせる、という4つに当てはまる対戦相手(Four Man=フォアマン)を選びました。

のちに、フォアマン方式と言われる村田諒太にも通じる「温室マッチメイク」です。

さらに、トレーナーには攻撃担当のサンディ・サドラー、防御にはアーチー・ムーアと、元世界王者のマスターを招聘、きめ細かい指導で至高の才能をプロ仕様にデザインしていきました。

フォアマンを加えて、ここでも4人の、Four Man=フォアマン 体制で壮大なプロジェクトを開始したのです。

1969年6月のプロデビューから破竹の連勝街道を驀進します。

しかし、ファンの目からは「金メダルにあぐらをかいて雑魚に勝ってるだけ」と冷めた目で見られました。

確かに雑魚ばかりでしたが、どの雑魚にも、どの試合にも明確なテーマがありました。

特筆すべきは、その1969年は6月デビューから半年で13試合、1970年は12試合と、わずか18ヶ月で25試合も消化、温室の中でディックが思い描いた通りの肥料を吸収していったことです。

1971年は7試合に絞り、主に突貫型の強打者を厳選して対戦させたのは、ターゲットの世界王者ジョー・フレージャーを見据えていたことは火を見るよりも明らかでした。

翌1972年は5試合と更に試合数を落とし、フォアマンを研ぎ澄ましていきます。

このあたりのマッチメイクは、村田が「WBAタイトルを放棄して(カネロ・アルバレスへのアプローチにつながる GBP傘下の激闘型ボクサー)ジェイソン・クイグリーと戦う」という姿勢から一転、スピードタイプのブラントに変更したことに比べると、フォアマンの線路は一貫したグランドデザインによって敷かれていたことが分かります。

しかも、ディックは「フォアマンに弱点があるとしたら性格。つまり気が弱い」と早い段階で喝破していました。デビューから18ヶ月で25試合、連戦連勝させることでテキサス生まれの純朴な青年は、自信に満ち溢れた野獣に変貌していました。

そして、ボクシング史上最も衝撃的な日がやって来ます。

1973年1月22日、ジャマイカはキングストンの国立競技場。「キンシャサの奇蹟」「スリラー・イン・マニラ」と続く、発展途上国が国威発揚のために招致した超メガファイト三部作の第1作です。

王者フレイジャー29歳、フォアマン25歳。4歳の年の差は、東京とメキシコの金メダリストという〝五輪スパン〟がそのまま当てはまります。

そして、二人とも無敗!

しかし、先輩のフレージャーの29戦(25KO)に対して、フォアマンは37戦(34KO)と若き挑戦者が試合数で上回っていたのです。

「雑魚相手にいたずらに試合を重ねただけ」。そう決め付けた口の悪いメディアやファンは、その相手のタイプとマッチメイクの意図、深淵なフォアマンスタイルなど知る由もありませんでした。

試合二日前に、キングストンのレストランを借り切ってフォアマンの壮行会が開催されます。

誕生日を迎えたディックの夫人がピアノを弾き語り「…アンド、ニュー!ヘビーウェイト、チャンピオン、オブ、ザ、ワールド!ジョージ・フォアマン!」と高らかに歌い、フォアマンに最後の暗示がかけられました。

後年、このエピソードを伝え聞いたモハメド・アリは「実に興味深い話だ、そんな下手くそなピアノで酔ってしまう奴なのか。私ならもっと簡単に籠絡できるだろう」とほくそ笑んだと言います。

アリを倒した、あのスモーキン・ジョーをフォアマンは初回に3度、二回にも3度倒し、4分35秒で葬り去りました。

世界が戦慄した「キングストンの惨劇」です。

4人の男たちがフォアマンを神輿に担ぎ上げたプロジェクトは、大きな成果を上げました。

温室を引き裂き、線路を外れて、厳しい荒野で世界最強のフレージャーを完膚なきままに打ち砕いたのです。

しかし、温室のぬくもりと、線路を走る心地よさを知ってしまったフォアマンが、神をも恐れぬ男を前にしたとき、純朴で気の弱い素顔を曝け出してしまったことは、ある意味必然でした。

もし、アリさえいなければ、フォアマンのプロジェクトは完璧なハッピーエンドで終わっていたかもしれません。

また、もし、フォアマンがいなければ、現在語り継がれているアリの神話は違う形に、つまり重要なスパイスを忘れた料理のようになっていたかもしれません。

次の夜は、フォアマンよりもフォアマンスタイルを徹底したオスカー・デラホーヤの温室と線路について、です。 
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

「スポーツは公平」というのは嘘です。

しかし、それが最も残酷なコントラストを見せるのはボクシングです。 

富裕国で人気のある中量級以上のクラスでは1億円を超える報酬を手にするボクサーが当たり前に存在する一方、東南アジアや中南米で一般的な軽量級ボクサーのファイトマネーは世界チャンピオンになっても100万円レベルまで落ち込んでしまいます。

では、富裕国の代表である米国で戦う中量級ボクサーは、すべからく豊潤なファイトマネーを、ほぼ平等に得ることが出来ているのでしょうか?

先月、空位のWBCウェルター級王座を争ったショーン・ポーターとダニー・ガルシアは、それぞれ125万ドル(1億3750万円)、100万ドル(1億1000万円)を獲得しました。

やはり先月行われたゲンナディ・ゴロフキンとカネロ・アルバレスは、最終的には2000万ドル(22億円)、と6000万ドル(66億円)と挑戦者のカネロが3倍の報酬を手にしましたが、両者の人気を考えると納得出来る格差です。

富裕国の代表である米国で戦う中量級ボクサーは、多くの場合「豊潤なファイトマネーを、ほぼ平等に得ること」が出来ていると言って差し支えないでしょう。

しかし、理不尽で不条理なことが当たり前に起きるのがボクシングの世界です。

あまりに眩しい太陽が差すと、そこに出来る日陰はより暗く、闇深いものになります。

1979年11月30日、ラスベガスはシーザースパレス。

統一ミドル級王者ビト・アンツォヘルモが初防衛戦、WBCウェルター級王者ウィルフレド・ベニテスが三度目の防衛戦のリングに上がるビッグファイトでした。

統一ミドル級とウェルター級のダブルタイトルマッチ、全階級を通じて最も豪華な組み合わせです。

しかし、この夜の主役は二人のチャンピオンではありませんでした。

アンツォヘルモに挑戦する〝無冠の帝王〟マービン・ハグラーでもありませんでした。

アンツォヘルモがそのイベントを回想します。

We are all jealous.   誰もが奴に嫉妬した。〜ビト・アンツォヘルモ

「私とハグラーの試合はセミファイナルだった。私は15万ドル(当時の為替レートで3600万円/現在の貨幣価値に直すと約1億800万円)、悪くない金額だった。ハグラーは初めての世界戦ということもあって4万ドル(960万円/2880万円)。メインイベントのベニテスは30万ドル(7200万円/2億1600万円)、17歳でジュニアウェルター級の名王者アントニオ・セルバンテスを攻略して二階級制覇した大物だから、これも納得だ」。

「ところがベニテスの挑戦者は、挑戦者だというのに、このビッグイベントで最も大金を約束されていたんだ。挑戦者なのに100万ドル(2億4000万円/7億2000万円)、それに加算される興行利益から還元される歩合も我々とは桁が違う掛け数だった。まだ世界チャンピオンにもなっていない挑戦者が100万ドルなんて前代未聞さ」。

「HBOの解説者ラリー・マーチャントに『このファイトマネーの配分は酷いね』と同意を求めたが、彼は即座に『いや、君たちは幸運だ。シュガー・レイ・レナードのおかげでキャリア最高の報酬を手に出来るのだから』と笑いやがった」。

「シュガー・レイ・レナード。誰もが彼に嫉妬したよ。どうしてお前だけ?と」。

その嫉妬の炎を、最も長い歳月、最も激しく、燃やし続けた男が今回の主役です。
IMG_1298 (1)
マーベラス・マービン・ハグラー。

そもそもが豪華な歴史を紡いできたミドル級ですが、その中でも最も絢爛だったのがハグラーの治世です。

1980年に戴冠、1987年に手放すまでの8年間は、ミドル級130年の歴史で燦然と輝く〝ハグラーの季節〟でした。

1954年、ニュージャージー州ニューアークで6人兄弟の長男として生まれたハグラーには父親の記憶がありません。

父親はハグラーが生まれてまもなく失踪してしまったのです。

母子家庭が生きてゆくには、全米屈指の治安の悪さで有名な黒人ゲットーはあまりに危険で、あまりに過酷な環境でした。

しかし、母親のアイダ・マエ・ハグラーは昼夜を問わず働き詰めて家族を守りました。

ハグラーは母親を尊敬し、ドラッグや犯罪には一切手を染めずに成長しましたが、物心ついた頃には「黒い肌を持つ人間はスポーツか音楽で成功しない限りは浮かばれない」ということを骨の髄から理解していました。

MLBのミッキー・マントルやウィリー・メイズ、  NBAのウォルト・フレイジャー…フィールドやコートで躍動する彼らの黒い肌は、どこまでも輝いて見えたと言います。

もちろん、最もまぶしい光彩を放っていたのはモハメド・アリであったことは疑いようがありません。

1960年代になると、ニューアークでは黒人暴動が頻発、アイダは家族の危険が喫緊に迫っていると感じて街を出ます。

1969年、行き着いた先は、マサチューセッツ州ブロックトン。

「この町でも黒人の私はスポーツチームの仲間に入れてもらえないだろう」。そう諦めていたハグラーでしたが、母親がブロックトンを選んだのは神の配剤としか考えようがありません。

様々な偶然と奇蹟が同時多発的に起きて、やがて一つの必然に結実してゆくのです。

ハグラーたち一家が流れ着いたブロックトンは「The Blockton Blockbuster 」として有名になった街でした。

「ブロックトンの高性能爆弾」。そうですロッキー・マルシアノのホームです。

ハグラーがブロックトンに移り住んだ1969年、49戦全勝43KOで引退したマルシアノは搭乗していたセスナ機が墜落して45歳の短い生涯を閉じました。

そして、弔意に沈むブロックトンの街角で、マービン少年は薄汚く破れたポスターが風になびいているのを手に取ってしまいます。

なぜか剥がし忘れられていたフロイド・パターソンの試合の宣伝ポスターでした。

すでに学校に通う余裕はなく、皮革工場で働いていたマービン。憧れていた野球やボクシングの選手になる夢は潰えかけていました。

しかし、パターソンのポスターを見て、彼の頭の中で、何かが弾けました。

月謝を払えるわけもないのに、いくつかのボクシングジムを覗いてみました。中には「給料の中から出せるだけでもいい」と理解してくれるジムもありましたが、なぜかマービンの心に刺さってきません。

「感じのいいジムもあったのに、どうしてそこに決めなかったのか、自分でも理由はわからない」。

実はこの1969年、マルシアノはボクシングを通じて意気投合した同じイタリア系の兄弟とブロックトンでジムを開設する予定でした。

グッディとパットのペトロネリ兄弟です。

「イタリアの血を引く強い世界チャンピオンを育てようぜ!」

彼らの夢は、マルシアノの不慮の事故で散りかけますが、ジムはなんとかオープンに漕ぎ着けました。

しかし、残念ながら「イタリアの血を引く世界チャンピオン」を育てることは叶わないまま、2011年にパットが翌2012年にグッディがこの世を去ってしまいました。

しかし、ずっと後年。

引退したハグラーは今、イタリアに住んでいます。イタリアで大歓迎を受け、映画に何度も出演するなど、セレブの一人として第二の人生を満喫しているのです。

実は、ペトロネリ兄弟とマルシアノは「イタリアの血を引く強い世界チャンピオン」を見事に作り上げ、ルーツの国へ贈っていたのです。 
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

「村田が普通のチャンピオンじゃないことはよくわかっていた。ラスベガスまで日本メディアが大挙して詰めかけて、米国メディアですら私を負け犬扱いするのは仕方がないけど、無視されたのは癪に触っていた」。
「村田は私と戦って、私に勝たないとその先に進めないというのに、みんながみんなロブ・ブラントなんてボクサーがそこにいないかのように振舞っていた」。
「この試合が決まってから、私は村田の試合を何度もなんども繰り返し見た。 それだけじゃない、彼の言動や記事、どんな些細なものにも手に入るものは全て目を通した。こんなに対戦相手を研究したことなんて、今までたったの一度もなかった」。 

〜WBA世界ミドル級セカンド王者:ロブ・ブラント
Rob-Brant_train-for-Murata_fukuda-770x520
 PHOTO BY NAOKI FUKUDA 
 
最初のチャンスをモノにするボクサーは滅多にいません。

そして、モノに出来なかった最初のチャンスから学んで、2度目のチャンスをモノにするボクサーも多くはありません。

WBAミドル級の指名挑戦者だったブラントでしたが、昨年5月のアッサン・エンダムvs村田諒太の初戦が不当判定と議論を呼び、ダイレクトリマッチが不可避となったことを受けて「これ以上待てない。待つ引き換えに、WBSSスーパーミドル級トーナメントに出場することを認めてほしい」とWBAに掛け合いました。

WBAはこの申し出を認め「WBSSの結果を問わず、ブラントの指名挑戦者の地位を保証する」とパーミッションを与えます。

「得した気分だった。WBSSは米国ではマイナーでテレビ放送もないけど、出場選手でたった一人の米国人ということでドイツでは大歓迎された。WBSSで勝ち進んだら、WBA指名挑戦者の地位は放棄してトーナメント優勝を目指そうと色気を出していたんだ」。

「対戦相手はネイサン・クレバリーにストップ負けしてから試合をしていない12歳も年上の39歳のユルゲン・ブレーマー。私が有利と見られ、トーナメントでも台風の目になると地元メディアで放送されたんだ」。

“I didn’t necessarily overlook him, but in a lot of ways I did,”(ブレーマーを舐めてかかってたわけじゃないけど、無意識のうちに油断してしまっていた)。

試合は、まさかの大差判定負け。
braehmerbrant
「ブレーマーは、恐ろしくやりにくいサウスポーだった。地元ドイツで戦うこともモチベーションになっていたんだろうけど、メディアが〝ポンコツ〟と書きたてたブレーマーに攻められると〝こんなはずじゃない〟と、ズルズル深みにはまってしまった」。

「ドイツに行くときは誰も注目してくれなかったのに、米国に帰ってきたらメディアは恥さらしだ、評価は地に堕ちたと非難した。そもそも、私のことなんて評価してなかったくせに」。

ミネソタ州セントポール生まれのブラントにとって、キャリア初黒星は、大きな転機となりました。彼は敗北から多くのことを学びました。

普段はテキサス州ダラスで生活しているブラントは、試合が決まるとラスベガスのジムに篭ってエディ・ムスタファ・ムハンマドの指導を受け、練習漬けの日々を送るようになりました。

今年3月の復帰戦は無名のコルビー・クートゥアを1ラウンドKOで倒して、村田戦への弾みをつけます。

「村田のプレッシャーを跳ね返すことは出来ない。彼が前に出て、私が下がる、この展開は揺るがしようがない。その展開でも、彼に追い詰められたら勝ち目はない。前に出る彼をどうコントロールするか、それを考え抜いた」。

「彼は、ワンツーを基本に攻めてくる非常にベイシックなプレッシャーファイター。ブレーマーのようなごまかしのボクシングではなく、真っ正直に距離を潰してくる」。

「村田のワン(ジャブ)は警戒しなければいけないが、どうしようもないパンチじゃない。ツー(右)は強烈だから、射程距離にいる時間は最小限にしなければならない。ただ、強烈なパンチは必ず引きが遅い、打ち終わりを狙う隙が出来る。みんな村田の右が強いと言うばかりで、その裏返しの欠点はわかっちゃいなかったんだ」。

「そして、何より村田はワンツーを外されると、コンビネーションはその二発で終わる。右の打ち終わりを突けば、こっちがパンチをまとめることができる」。

「プレッシャーがかからず、ワンツーが不発になると、相打ち狙いで強引に攻めてくるはずだ。そこが正念場になるとムハンマドも指摘してくれている。そこで付き合ってはいけない。捨て身で力任せで攻めてきたら、とにかくダメージを負わないように、かわして、かわして、耐えるんだ。その嵐をやり過ごしたら、村田にはもう何も残っていない」。

++++++ブラントは、アマチュアでも優秀なボクサーでしたが、ドメスティックなタイトルにとどまり、村田のような黄金に輝かくようなキャリアではありませんでした。

しかし、ブラントのボクシング人生にも四季が巡り、矜持が込められていました。

ブラントは、初めてホワイトベアレイク・ボクシングジムの門をくぐった日のことを、今でもはっきりと覚えています。

当時高校生だった少年は、UCLAでアメフト選手として活躍した父親の足跡を追いかけていました。

そんな尊敬する父親の友人、元ボクサーのボブ・ミッチェルはブラントと友人がボクシンググローブを着けて遊ぶ姿を一目見るなり「こいつは才能がある」とジムに連れて行かれたのでした。

若いボクサーたちがスピードバッグを叩き、ミット打ちをしている、その軽快な音に、汗と皮の匂い…ブラントは “It was like a scene out of the movies,” (まるで映画を観ているようだ)とその魅力にたちまち取り憑かれました。

そこで出会ったのが、85歳になるエメット・ヤネス。彼に勧められるままに、1年半後にアメフトをやめて、ボクシング一本に集中します。

2012年にプロ転向。無敗街道を突き進みます。

2016年1月にはShowTimeのメインイベントをつとめて、空位の WBA北米ミドル級王座をデカルロ・ペレスと争い、4ラウンドKOで地域タイトルを掴み取ります。

この試合で、ESPNのダン・ラファエルは「素晴らしい技術を持ったボクサーだ」とブラントを絶賛。

この年のESPNの年間KO賞にもノミネート、「TOP20 Rising Stars 」にも数えられますが、全階級を通じても屈指の層の厚さを誇るミドル級には、同じ米国人のダニエル・ジェイコブスを筆頭にジュニアミドル級王者のジャーマル・チャーロやデメトリアス・アンドラーデらが進出を表明、北米市場という観点ではカネロ・アルバレスにゲンナディ・ゴロフキン、デビッド・レミューらの巨大な惑星が軌道する星系では、目立たない存在に甘んじるしかありませんでした。

「WBSSに参戦したのは、私はここにいるぞと、目立ちたかったから。やってやると意気込んでいたけど、負けても村田のタイトルに挑戦できる、という浮ついた気持ちがどこかにあったのかもしれない。そして、現実に負けてしまった」。

「村田は五輪の金メダリストで、このクラスで最も報酬の高いボクサーの一人。ブレーマーよりも若くて、全盛期を迎えている。今まで一度もピンチらしいピンチを経験していない」。

「村田の実質報酬は私の30倍以上、トップランクの村田は日本の国民的英雄でDAZNとも大型契約を結んだ、来春には東京ドームでGGGとビッグファイトを戦う、GGGに勝てばラスベガスに戻ってカネロとの人気者対決もある…私との試合を無視したかのような話があちこちで飛び交うのは、失礼だと思ったけど、実はそんなに気にならなかった」。

「自分の存在を無視されるのは、試合に集中するには好都合だったよ。村田のことは研究し尽くしていたし、自分を見つめる時間もできた。精神的にも肉体的にも、準備万端だった」。

ブラント陣営は、村田が再戦条項を行使するなら大歓迎、東京に行く、と前のめりに表明。そして、村田に勝てば「WBA王者は二人いらない」とスーパー王者カネロとの対戦を熱望しています。

ブラント本人は「まだ次の相手が決まったわけじゃない。決まったらその相手に集中するだけだ。私は、キャリア唯一の敗北から多くのことを学んだ。あの試合は負けたけど、私にとっては勝利した試合よりもずっとはるかに意義のあるものだったのかもしれない」と、目の前の一戦必勝の姿勢を崩しません。

「村田もそうだったかもしれない。私もそうだった。とにかく、これだけは言える。先のことを考えるとロクなことはない」。


***リング誌、ESPN、英国ボクシングニュース誌の特集記事、ウィキペディアを加工編集したものです***
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

Mission Impossible はやはり不可能だったのか…


蒙昧暗愚な私にセンスがないのは仕方がないにしても、なんと的外れで、恥知らずなタイトルを付けてしまったのか、短絡的で単細胞な自分を呪うばかりです。 

村田諒太は 
Mission Impossible をすでに完遂しているのに。それも一度ならずも。

日本人が「五輪ボクシングで金メダルを獲る」。この
Mission はImpossible です。半世紀以上前に桜井孝雄が勝ち取っていますが、それは50年以上も前のことです。

しかも、そのクラスが75kg級ミドルだとしたら、もはや漫画にするにも憚られる偉業です。五輪金は紛うことなき Undisputed Champion です。

「日本人が五輪ミドル級で金メダル」。こんな
Missionを Impossible じゃないと言い切れる輩は、どんなアンチでもいないでしょう。

そして、プロでも世界チャンピオン。これは、1995年の竹原慎二以来22年ぶり二人目です。偉業ではありますが
Mission Impossible というには少し遠慮してしまいます。

しかし、竹原が当時の世界王者の誰と戦っていても圧倒的不利と見られていたのに対して、村田はGGG以外の王者、つまり当初ターゲットだったビリー・ジョー・サンダース(WBO)、アッサン・エンダム(WBA)ならポテンシャルオッズ(試合は確定してないがもしやるならば)で大きく有利と出ていました。

リング誌が「フィジカルとガード、右の威力は村田がクラス最高」と評価するのを、自分のことのように、こそばゆいというか、エンダムやサンダースに勝てると見てくれてるんだ、と少し意外な思いでした。

このブログでも、エンダム戦は「オッズは村田有利で出るだろうが、パリ開催なら立場逆転するような僅差」という内容のことを書いてしまいましたが、現実には圧倒的有利でした。

ミドル級でGGGらトップ中のトップ以外なら、オッズが有利に張られるというのも、ちょっと考えられません。こんな、高評価も
Mission Impossible でしょう。

もう、すでに、村田は「日本人ではありえない」という奇蹟を何度も見せてくれました、というと過去形になってしまうので「何度も見せてくれています」。




今回の敗戦について「直前のキャンプで風邪をひいてメニューをこなせなかった」という報道が出てしまいました。

これから右足についても、何か出てくるかもしれませんが、そういうのは本当に要りません、見たくも、読みたくも、聞きたくもありません…。

右足のついてはあまりにも目に付いたので私も触れてしまいましたが、それも一番惨めな言い訳だと、きちんと書いてます。

そんな、くだらない言い訳にしか聞こえない戯言が、たとえ事実だとしても、表に出てしまうことは「100%完璧な状態だった」という村田への侮辱です。

ブラントに対しても失礼極まることです。




それにしても。

二日以上経っても、結構重たいですね。

私がボクシング観戦に溺れてしまったきっかけは、大昔にアメリカの中量級に魅せられたからでした。

そこは、日本人には全く関係のない、高次元にある別世界でした。

竹原には全く申し訳ない表現ですが、竹原はリング誌に言われるまでもなく「あの日あの時のホルヘ・カストロ」以外には勝ち目はありませんでした。

しかし、村田は違いました。

もしかしたら、私が最も願いを込めて、応援したのは、自分でもそのときは気づきませんでしたが、村田諒太でした。

負けて、そんなことに気付くファンというのも、相当に情けない、間抜けです。

〝村田の続き〟があるとしたら、また、次の 
Mission Impossible が始まるわけですから、また無責任に大きな期待を投げかけて、声を枯らして応援するだけです。 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ