「スポーツは公平」というのは嘘です。

しかし、それが最も残酷なコントラストを見せるのはボクシングです。 

富裕国で人気のある中量級以上のクラスでは1億円を超える報酬を手にするボクサーが当たり前に存在する一方、東南アジアや中南米で一般的な軽量級ボクサーのファイトマネーは世界チャンピオンになっても100万円レベルまで落ち込んでしまいます。

では、富裕国の代表である米国で戦う中量級ボクサーは、すべからく豊潤なファイトマネーを、ほぼ平等に得ることが出来ているのでしょうか?

先月、空位のWBCウェルター級王座を争ったショーン・ポーターとダニー・ガルシアは、それぞれ125万ドル(1億3750万円)、100万ドル(1億1000万円)を獲得しました。

やはり先月行われたゲンナディ・ゴロフキンとカネロ・アルバレスは、最終的には2000万ドル(22億円)、と6000万ドル(66億円)と挑戦者のカネロが3倍の報酬を手にしましたが、両者の人気を考えると納得出来る格差です。

富裕国の代表である米国で戦う中量級ボクサーは、多くの場合「豊潤なファイトマネーを、ほぼ平等に得ること」が出来ていると言って差し支えないでしょう。

しかし、理不尽で不条理なことが当たり前に起きるのがボクシングの世界です。

あまりに眩しい太陽が差すと、そこに出来る日陰はより暗く、闇深いものになります。

1979年11月30日、ラスベガスはシーザースパレス。

統一ミドル級王者ビト・アンツォヘルモが初防衛戦、WBCウェルター級王者ウィルフレド・ベニテスが三度目の防衛戦のリングに上がるビッグファイトでした。

統一ミドル級とウェルター級のダブルタイトルマッチ、全階級を通じて最も豪華な組み合わせです。

しかし、この夜の主役は二人のチャンピオンではありませんでした。

アンツォヘルモに挑戦する〝無冠の帝王〟マービン・ハグラーでもありませんでした。

アンツォヘルモがそのイベントを回想します。

We are all jealous.   誰もが奴に嫉妬した。〜ビト・アンツォヘルモ

「私とハグラーの試合はセミファイナルだった。私は15万ドル(当時の為替レートで3600万円/現在の貨幣価値に直すと約1億800万円)、悪くない金額だった。ハグラーは初めての世界戦ということもあって4万ドル(960万円/2880万円)。メインイベントのベニテスは30万ドル(7200万円/2億1600万円)、17歳でジュニアウェルター級の名王者アントニオ・セルバンテスを攻略して二階級制覇した大物だから、これも納得だ」。

「ところがベニテスの挑戦者は、挑戦者だというのに、このビッグイベントで最も大金を約束されていたんだ。挑戦者なのに100万ドル(2億4000万円/7億2000万円)、それに加算される興行利益から還元される歩合も我々とは桁が違う掛け数だった。まだ世界チャンピオンにもなっていない挑戦者が100万ドルなんて前代未聞さ」。

「HBOの解説者ラリー・マーチャントに『このファイトマネーの配分は酷いね』と同意を求めたが、彼は即座に『いや、君たちは幸運だ。シュガー・レイ・レナードのおかげでキャリア最高の報酬を手に出来るのだから』と笑いやがった」。

「シュガー・レイ・レナード。誰もが彼に嫉妬したよ。どうしてお前だけ?と」。

その嫉妬の炎を、最も長い歳月、最も激しく、燃やし続けた男が今回の主役です。
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マーベラス・マービン・ハグラー。

そもそもが豪華な歴史を紡いできたミドル級ですが、その中でも最も絢爛だったのがハグラーの治世です。

1980年に戴冠、1987年に手放すまでの8年間は、ミドル級130年の歴史で燦然と輝く〝ハグラーの季節〟でした。

1954年、ニュージャージー州ニューアークで6人兄弟の長男として生まれたハグラーには父親の記憶がありません。

父親はハグラーが生まれてまもなく失踪してしまったのです。

母子家庭が生きてゆくには、全米屈指の治安の悪さで有名な黒人ゲットーはあまりに危険で、あまりに過酷な環境でした。

しかし、母親のアイダ・マエ・ハグラーは昼夜を問わず働き詰めて家族を守りました。

ハグラーは母親を尊敬し、ドラッグや犯罪には一切手を染めずに成長しましたが、物心ついた頃には「黒い肌を持つ人間はスポーツか音楽で成功しない限りは浮かばれない」ということを骨の髄から理解していました。

MLBのミッキー・マントルやウィリー・メイズ、  NBAのウォルト・フレイジャー…フィールドやコートで躍動する彼らの黒い肌は、どこまでも輝いて見えたと言います。

もちろん、最もまぶしい光彩を放っていたのはモハメド・アリであったことは疑いようがありません。

1960年代になると、ニューアークでは黒人暴動が頻発、アイダは家族の危険が喫緊に迫っていると感じて街を出ます。

1969年、行き着いた先は、マサチューセッツ州ブロックトン。

「この町でも黒人の私はスポーツチームの仲間に入れてもらえないだろう」。そう諦めていたハグラーでしたが、母親がブロックトンを選んだのは神の配剤としか考えようがありません。

様々な偶然と奇蹟が同時多発的に起きて、やがて一つの必然に結実してゆくのです。

ハグラーたち一家が流れ着いたブロックトンは「The Blockton Blockbuster 」として有名になった街でした。

「ブロックトンの高性能爆弾」。そうですロッキー・マルシアノのホームです。

ハグラーがブロックトンに移り住んだ1969年、49戦全勝43KOで引退したマルシアノは搭乗していたセスナ機が墜落して45歳の短い生涯を閉じました。

そして、弔意に沈むブロックトンの街角で、マービン少年は薄汚く破れたポスターが風になびいているのを手に取ってしまいます。

なぜか剥がし忘れられていたフロイド・パターソンの試合の宣伝ポスターでした。

すでに学校に通う余裕はなく、皮革工場で働いていたマービン。憧れていた野球やボクシングの選手になる夢は潰えかけていました。

しかし、パターソンのポスターを見て、彼の頭の中で、何かが弾けました。

月謝を払えるわけもないのに、いくつかのボクシングジムを覗いてみました。中には「給料の中から出せるだけでもいい」と理解してくれるジムもありましたが、なぜかマービンの心に刺さってきません。

「感じのいいジムもあったのに、どうしてそこに決めなかったのか、自分でも理由はわからない」。

実はこの1969年、マルシアノはボクシングを通じて意気投合した同じイタリア系の兄弟とブロックトンでジムを開設する予定でした。

グッディとパットのペトロネリ兄弟です。

「イタリアの血を引く強い世界チャンピオンを育てようぜ!」

彼らの夢は、マルシアノの不慮の事故で散りかけますが、ジムはなんとかオープンに漕ぎ着けました。

しかし、残念ながら「イタリアの血を引く世界チャンピオン」を育てることは叶わないまま、2011年にパットが翌2012年にグッディがこの世を去ってしまいました。

しかし、ずっと後年。

引退したハグラーは今、イタリアに住んでいます。イタリアで大歓迎を受け、映画に何度も出演するなど、セレブの一人として第二の人生を満喫しているのです。

実は、ペトロネリ兄弟とマルシアノは「イタリアの血を引く強い世界チャンピオン」を見事に作り上げ、ルーツの国へ贈っていたのです。