米国においてプロボクシングは1950年代までは「最も尊敬され、最も大きな報酬を手にできるスポーツ」でした。

そして、その50年代頃からアマチュアボクシングも高い注目を集め、五輪本番はもちろん、国内予選の決勝が地上波生中継され、各地で地元ボクサーに声援を送りました。日本の〝甲子園〟に近い現象です。

現在は予選も五輪本番も地上波生中継されることはなくなってしまいました。米国ボクシングは、その土台からも崩壊しているのです。このことはヒスパニックや旧ソ連の〝新興国〟の台頭で「応援すべき地元選手がいなくなった」ことも原因の一つです。

甲子園のアイドルがそのままプロでも頂点をつかむことが稀有なように、米国の金の卵たちもみんながみんな孵化して、大輪の花を咲かせたわけではありませんでした。

1972年ミュンヘン大会で〝シュガー・レイ・ロビンソンを継ぐ者〟と将来を嘱望されたレイ・シールズ(ライトウェルター級)、1976年モントリオールでは、レイ・レナードよりも輝いていたハワード・デイヴィスJr.(ライト級)、米国史上最強メンバーと言われた1984年ロスアンゼルスのジェリー・ペイジ(ライトウェルター級)、ヘンリー・ティルマン(ヘビー級)、タイレル・ビッグス(スーパーヘビー級)は、五輪で最も輝く金メダルを首にかけたものの、スターダムに駆け上がるはずの階段を踏み外し、プロではスーパースターの引き立て役に終わりました。

また、金メダルから世界チャンピオンになった1984年のマーク・ブリーランド、1988ソウルのレイ・マーサーらも大きな期待に100%応えることは出来ませんでした。

最も厳しい基準で見ると、米国の金メダリストで人気と実力で頂点を極めたのは、モハメド・アリとシュガー・レイ・レナードの二人しかいません。
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【左から】シュガー・レイ・レナード、ウラジミール・クリチコ、アンドレ・ウォード。アマでもプロでもチャンピオンになった3人ですが、ボクシング人気の凋落から世界に与えるインパクトは後の時代になるほど希薄化してしまっています。

温室に囲われ、優しく敷設された線路が用意される金メダリストたちですが、その高下駄を履いて頂点に登り詰めたエリートは、けして多くはないのです。

しかし「プロでも大成した金メダリスト」の〝プロ〟の定義を広義でとらえると、オスカー・デラホーヤはプロモーターとしても大きな成功を収めたという点で、アリよりもレナードよりも「アマとプロ両方で最も成功した」と言えるかもしれません。

しかし、このデラホーヤはジョージ・フォアマンも村田諒太も真っ青の温室ボクサーでした。
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1992年バルセロナ五輪、ライト級で金メダルを獲得したデラホーヤは、契約金100万ドルで選手育成に定評のあるトップランク(その対局が出来上がった選手を使ってメガファイトを仕掛けるのを得意としたドン・キング)の傘下に入ります。

1992年11月のデビュー当時から「史上初の6階級制覇を狙う逸材」と喧伝され、トップランクの慎重なマッチメイクのもと、雑魚狩り路線をひた走ります。

最初のターゲットはジュニアライト級。フォアマンとデラホーヤ、二人の時代の決定的な違いは「世界王者は一人ではない」ということです。もっとわかりやすく言うと「穴王者がいる」ということです。

WBAは安定王者ヘナロ・エルナンデス、WBCは未来の殿堂入りアズマー・ネルソン、IBFも手強いジョンジョン・モリナと難関が立ちはだかるクラスでしたが、探せば簡単に見つかります、穴王者。

当時はまだ主要団体とは認められていなかったWBO王者ジミー・ブレダルを狙い撃ち。

1994年3月、デビューから1年5ヶ月、わずか12戦目で凡庸なデンマーク人王者を圧倒して10ラウンドTKO勝ち、まず1階級制覇。

「世界王者=最強のUndisputed Champion 」の時代はとっくの昔に終わり、世界タイトルはいくつものピースに分散していた時代だからこそデラホーヤは短い時間と経験で、手軽に世界チャンピオンになることが出来たのです。

それは、手っ取り早くタイトルが欲しいデラホーヤと、人気者の名前を団体の権威付けに利用したい新興WBOの相思相愛のタイトルマッチでした。

2階級目のライト級も相思相愛WBOの決定戦(ホルヘ・パエス戦)で獲得しますが、このあと温室路線から一転、WBOとの蜜月関係から離れて、強豪との対戦を増やしていきます。

ラファエル・ルエラス、ヘナロ、ジェシー・ジェームス・レイハを撃破。

3階級制覇をかけたジュニアウェルター級では、超ビッグネームとのメガファイトが用意されました。

フリオ・セサール・チャベスです。

1996年6月7日、ラスベガス・シーザースパレス。

ボクシングにおける数字は「誰に勝ったのか」という真理の前には何の意味もなしませんが、強豪との対戦を繰り返しながらも無敗のレコードを87戦全勝72KOまで伸ばしたJ・Cスーパースターの偉大さは数字とともに語ることが許される特異なケースです。

完全無欠の記録が、1993年にパーネル・ウィテカーとのドローでピリオドが打たれ、無敗記録も1994年にフランキー・ランドールにSDで敗れて「90」で止められたとしても、フロイド・メイウェザーの50−0はもちろん、ロッキー・マルシアノの49−0よりも価値があるのは言うまでもありません。

その、唯一の敗北を喫したランドールに雪辱、WBCジュニアウェルター級王者チャベスは99戦97勝79KO1敗1分と、100戦目の節目でデラホーヤを迎えました。

一方のデラホーヤは21戦全勝19KO。

マービン・ハグラー、シュガー・レイ・レナード、ロベルト・デュラン、トーマス・ハーンズ。非ヘビー級が史上初めてボクシング界をリードする時代を切り拓いた4人の偉大な志士はリングを去り、メキシカンの時代が幕開けていました。

村田諒太や井上尚弥を見てしまうと「ボクシングはハングリースポーツ」というのは古い時代の遺言のように聞こえますが、その血脈は延々と継がれています。

英国から米国へ、ボクシングの覇権が移った20世紀初頭からこのスポーツを担ってきたのは、故郷を追われたアイルランド、ユダヤ、イタリアの差別と貧困に喘いでいた若者の拳でした。

そのバトンをアフリカ系米国人が受け継いだのです。これほど自然なストーリーなど、めったにありません。

そして、差別と貧困を二つの拳で打ち砕く、このスポーツの主役のバトンがメキシコとプエルトリコ、フィリピンに握られている現在を俯瞰するなら「ボクシングはハングリースポーツ」というのは永遠不滅の真理のようにも聞こえてきます。

その、メキシコ時代の到来を世界に知らしめたのが、チャベスvsデラホーヤのメキシカン対決でした。

この「ハングリー」の視点から考えると、日本のボクシング黄金期は高度成長期とともに死んだ、とも言えます。

その一方で、ボクシングはもちろん、相撲やプロレスなど格闘技好きの国民性は、ボクシング人気が失墜した時代でも辰吉丈一郎や亀田兄弟などメジャースポーツと比べても遜色のないスターを、間歇的とはいえ生み出してきました。

英国の現在の活況を見るまでもなく〝受け入れる土壌〟があれば、先進国でもボクシングは再興できるはずなのです。

その意味では「村田諒太の東京ドーム」は、願ってもない〝起爆装置〟になるはずでしたが…。



話が逸れました。チャベスとデラホーヤです。

このイベントの看板は「Ultimate Glory(究極の栄光)」。

デラホーヤの勝利は、世界の主役交代、チャベスからスターのトーチが引き継がれるということです。

チャベスが勝てば、一発殿堂確実の偉大なキャリアに、さらに神々しいレガシーが加わることになります。

さらに、この二人のプロモーターはドン・キングとボブ・アラム(興行はトップランクが仕切りました。キングが身を引いたのは保険金詐欺など複数の案件で公判中で様々な面で活動が制限されていたとも言われています)です。プロモーターでも究極対決でした。

デラホーヤは、まだ23歳。チャベスは33歳とはいえ、まだ危険な相手です。
矜持が滲み出すメキシカン対決がただでは終わるはずがないのは、100年前でも100年後でもボクシングファンなら誰にでもわかることです。
この試合は、デラホーヤにとって早過ぎたのか、それともチャベスにとって遅過ぎたのか。

現実は、新世代を開く若者の拳は、歴戦で消耗したチャベスには強く、硬く、速過ぎました。

この試合を4ラウンドTKOで勝利したデラホーヤは、メキシコの季節を高らかに歌い、チャベスからスターのトーチを受け継ぎました。

このあと、ゴールデンボーイはさらに3階級を制覇、宣言通りの6階級制覇を果たしますが、黄金少年が最も輝いていたのは、このチャベスとの第1戦まで、と言うのは厳し過ぎる見方でしょうか。

ウェルター級の頂上決戦でフェリックス・トリニダードに惜敗、シェーン・モズリーに2連敗。バーナード・ホプキンスに惨敗、フロイド・メイウェザーには健闘むなしく惜敗、そしてマニー・パッキャオに残酷なまでに介錯されたキャリアは色鮮やかにファンを楽しませてくれましたが、超ビッグネームに勝利したのは晩年のチャベスだけでした。

リング誌の年間PFP(BEST FIGHTER POLL:FIGHTER OF THE YEARとは違う投票制のPFP。日本人では井上尚弥が昨年史上初の10傑入り=6位に入っています)でも1位になったのは1997年の一度だけ(それでも凄いことです)。

しかし、デラホーヤのキャリアを振り返って「温室育ちのチェリーピッカー(雑魚狩り)」と揶揄するボクシングファンは一人もいないでしょう。

ボブ・アラムが仕組んだ薄暗い温室の中で挙げた数々の勝利よりも、自らの意思で史上屈指の強豪相手に立ち向かい砕け散った敗北の方が、デラホーヤの美しさと潔いさを鮮烈に印象づけてくれているからです。



次の夜は、金どころかメダリストどころか、五輪出場すら出来なかったにもかかわらず、周到なマーケティングが敷かれた線路と、緻密なプログラムの温室が用意されたマイク・タイソンとカネロ・アルバレスです。