カテゴリ: 赤煉瓦

植民地時代、英国は地球の過半を征服していました。
中国とインドという文明発祥の土地まで踏みにじりました。

しかし、20世紀になって中国もインドも英国の支配から解放され、ともに強大な国家を築いています。

そもそも、ローマ帝国の片田舎の分際でアジアの大国を植民地にしようだなんて発想がヨコシマで身の程知らずなのです。

英国は武力で世界を牛耳りましたが、ある意味でインドと中国に大敗した、もっと正確にいうなら大敗し続けています。

食の世界です。

英国で何か美味しいお店となると中華料理かインド料理しかありません。

英国とは本質的に本当に貧しい国です。もちろん、スコットランドは除きます。ウイスキーを産するかの国ほど偉大な国は数えるほどしかありません。

スコットランド、早く独立しないかな。

話戻って英国、イングランド。彼らは中華とカレーという、軍門に永遠に降るしかなかったのです。

中華料理が広範囲なメニューの総称であるようにカレーも同様に非常に大きな宇宙です。

しかし、無限の中華をラーメンや焼きギョーザ(焼きは中国・台湾ではマイナー)、チャーハンなどに収斂し、カレーという宇宙すらもカレーライスという丼メニューの中に閉じ込め昇華させたのが日本です。

そもそもカレーはスパイス料理。にもかかわらず、日本では一晩寝かしたカレーが美味しいと「肉じゃがセオリー」がまかり通っています。

実際、日本のカレーは肉じゃがにカレーのルウ(これもインドではありえない発想)をぶっこんだもので、その原型は煮込み料理です。

常識的には香味が命のスパイス料理を一晩寝かせるなんてありえないのですが、極東の島国ではどんな魔法でもかかっちゃうのです。

前置きが長くなりました。

カレーライスの話です。

ランチにカレーを選択することが少なくありません。

本格的なインド料理屋もありますが、個性的なカレースタンドも好んで入ります。

お気に入りは大阪の「インデアンカレー」。インディアンではなくインデアンなのです。東京にもあるチェーン店で「甘いのか辛いのかそれが問題だ」なカウンターのみのお店です。

昼時は混むのでゆっくりできませんが、大阪で仕事上がりにビール飲みながらのインデアンカレーは絶品です。

そして今日は有楽町ガード下の「ふくてい」に。

昭和も30年代までタイムスリップしたかのようなガード下の一角。やはりカウンターのみのカレースタンドです。
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名物はステーキカレー650円也。

量的にはレディースサイズですが、ステーキはそれなりに盛られています。

昼時でも回転が早いので少し待てばすぐかき込めます。

そして、ひと匙食べれば…。ガード下という特殊なロケーションが特別なスパイスを振りかけてくれていることに舌の味蕾でもはっきり感じることが出来るでしょう。
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東京から有楽町、秋葉原に連なる高架は赤煉瓦のアーチで繋がれ、かつては近代日本の象徴でした。

上っ面だけ綺麗なタイル煉瓦ではありません。奥行きも幅も厚みも重さもあるガチ煉瓦です。

ボロボロに風化し汚れて色褪せても、まだまだ現役バリバリの赤煉瓦の高架下ですするカレーの味はなかなか味わい深いものなのでした。
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いや、しかし今日も暑いですね。

ランチタイムに、築地から松屋通りを抜けて有楽町をドン突いて東京駅まで。

早足で15分弱。
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荘厳な東京駅前には来年に迫った東京五輪のカウトダウン時計のモニュメントが設置されていました。

公式時計はオメガなんですね。

セイコーもシチズンも敗れたということでしょうが、カネ出したヤツが偉い商業オリンピックです、仕方がありません。

それにつけても、東京駅はきっと日本一の駅ですね。平成の大工事・大改修の数少ない成功例です。

赤煉瓦がタイルなのも仕方ありません。

そして、日本最低の駅は間違いなく横浜駅でしょうね…。
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勤務先に近いにもかかわらず、外国人をはじめ観光客が溢れかえって言ういる築地にはなるべく近寄らないようにしています。

それでも、お昼をずらしたりして、評判の天ぷら屋や海鮮のランチに時間差攻撃を仕掛けることもあります。

何しろ食べ物屋が多く、そのほとんどは当たり前ですが和食系です。
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豊洲への市場移転はあったものの、場外はほぼそのまま残り、連日大勢の観光客で賑わっています。

築地は東京はもちろん、日本でも最も和のテイストが楽しめる街ですが、意外にもかつては異国情緒と学術的な雰囲気に溢れるハイカラな土地だったようです。


明暦三年(1657年)の明暦の大火で消失した浅草御門南の西本願寺を建立するために、埋め立て造成されたのが築地の始まりです。

西本願寺、今の築地本願寺です。

そして1868年、明治元年。日本は新時代を迎えます。その翌1969年には築地の地に外国人居留地が作られアメリカンスクールはもちろん、積極的に異文化を吸収しようとする日本の知識人らがここに教育施設を続々と建てることになります。

築地で産声をあげた学校は専修、慶應義塾、立教、女子学院など、今もその名を残す有名私立が挙げられます。

専修大学は、正確には今の東銀座にあった明治会堂を借り受けて校舎にして、創始されました。

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福沢諭吉の発案で建てられた明治会堂は明治14年(1881年)竣工の政治演説公会堂です。

明治初期に建てられ、大正12年(1923年)の関東大震災で消失してしまう、典型的な赤煉瓦建築の生涯を辿りました。


現在、在りし日の明治会堂を伝えてくれるものは、錦絵くらいしか残されていませんが、案内プレートには「瓦葺き木造二階建て」とありますから、この建物は赤煉瓦建築ではなさそうです。

それでも、建物の礎石や門柱はその色合いからも赤煉瓦が一部使われていた可能性が充分にありそうです。

今となっては確かめようもありませんが。
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それにしても、慶応グループによって建てられた明治会堂で専修大が発祥したというのも、今は無関係の両大学ですが親近的な時代があったのですね。

専修大はスポーツ強豪校のイメージはないかもしれませんが、陸上競技でもボクシングでも一部校で、スポーツ全般に強い、私たちなど歯牙にもかけてもらえなかった一流校です。

今はどこにキャンパスを構えているのでしょうか…調べてみると神保町に本部があって、川崎市多摩区の生田キャンパスというのがでかいですね。

立派なタータントラックも備えているようです。

明治会堂は、明治17年に厚生館と改称しましたが、この名はその後建てられた雑協ビルに今も残っており、薄暗く古いビルのエントランスには明治公会堂の錦絵が飾られてます。
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小雨そぼ降る昨日、中野で仕事があったので以前から狙っていた「山政醤油醸造所のレンガ塀」に足を伸ばしました。

青梅街道から横道を入ってすぐ、宝泉寺のそばにある小さな公園に何の前触れもなく建っていました。

公園には私一人。公園前の細い小径も誰も通らない静かな午後。人混みが大嫌いな私には最高です。

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案内板によると「明治初期創業の山政醤油醸造所のレンガ塀の北側一部を移設したものです。建造は1899年(明治32年)と推定されます」とのこと。

1899年といえば、初代世界ウェルター級王者と言われることもあるミステリアス・ジョー・スミスがジョージ・ラビーンを下して防衛に成功した年です。

当時はオリジナル八階級の中で最も後発のフライ級(1914年:初代王者ジミー・ワイルド※)はもちろん、ライトヘビー級(1903年:ジャック・ルート)もまだ世界王者を設けていない時代です。

さらに、階級のリミット体重もミステリアス・ジョーは145ポンド(現在は147ポンド)、ルートも165ポンド(現在は175ポンド)と、まだまだ揺れていた時期です。

ずっと時代が下ってオリジナル8で最後に作られたフライは、さすがに新設だけあって当時から112ポンドで現在に至ります。

考えてみると、日本で赤煉瓦建築が建てられ始めた1860年頃というのは、クイーンズベリールール制定(1865年)とほぼその時期が一致しています。
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小屋根から軒先を飾るデンティルまで赤煉瓦を組み合わせてます。ちょっと強引に築かれた力作ですね〜。嫌いじゃないです。

「中野在住の棟梁と弟子達によって、醸造所の蔵とともに築かれました」といいますから、生粋の中野の血が流れる赤煉瓦です。

裏通りの団地脇、小さな公園にミステリアス・ジョー時代の遺構が唐突に現れるのですから、これはクールです。

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団地の駐車場と公園を隔てるフェンスとして、今も現役ということでしょうか。ゾクゾクしますね。瓦解しないよう鉄筋補強されているのも、純粋な煉瓦造りゆえです。

「石灰、海草のつのまた、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とフランス積みと言われるレンガ積み工法で造られています」。「つのまた」も大好きです、日本酒のつまみに最高ですな。

フランス積みと、小屋根やデンティル、アーチ部分でイレギュラーに積まれた赤煉瓦がお洒落です。
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当時の青梅街道沿いは中野の中心地エリアだったそうで「味噌、醤油の醸造は蕎麦粉製造とともに中野の代表的な地場産業でした」。

なかなか良いものを拝見させていただきました。ご馳走様でした。


※1913年に世界王座に就いたジド・スミス(英国)を初代とする説もあります。
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1910年(明治43年)に建築された旧近衛師団司令部庁舎。現在は東京国立近代美術館工芸館

1月中旬に、お仕事があった九段下からジョギングがてらに見て来ました。

1910年。最初のメガファイト「ジャック・ジョンソンvsジェームス・J・ジェフリーズ」がネバダ州リノで行われた年です。

試合はジョンソンが終始圧倒、15回2分20秒KOで決着しますが、45回戦!でした。

美しい赤煉瓦建築です。二階建てとは思えない威容です。荘厳なゴシック様式、八角形の塔屋がお洒落です。

基本、イギリス積みですが、ところどころフランス積みの部分もありました。
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「坂の上の雲」の主人公の一人、秋山好古がここに勤務してたのか〜と感慨に耽たいところでしたが、残念ながら美しすぎる赤煉瓦からは120年近く経った歴史の貫禄は感じられませんでした。

1973年(昭和48年)から保存のための工事が進められ、内部に鉄筋コンクリートで補強。外壁の赤煉瓦のほとんどはタイル煉瓦です。

1963年(昭和38年)から空き家状態で、1966年(昭和41年)に取り壊されることになっていましたが、日本建築学会の「貴重な洋風煉瓦建築として保存すべき」という要望を受けて保存が決定されたそうです。

タイル煉瓦とはいえ、竣工当時とほとんど変わらない外観を再現してくれているのですから、赤煉瓦ファンとしては嬉しい存在に違いありません。

基本、イギリス積みですが、ところどころフランス積みの部分もあって
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土台部分に設けられた通風孔には、陸軍の意匠である星をあしらった鉄枠が嵌め込まれていました。

建物を這うような青銅色の雨樋もいい感じのアクセントです。
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これは裏手から撮った一枚です。

建物裏側でも、白い漆喰塗りの軒先デンティルが可愛く丁寧に施されていました。

皇居周りは散歩に最高です。旧近衛師団司令部庁舎も新築感が気になりましたが、いやー赤煉瓦はいいもんですなぁ!
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自宅から直線距離にして約35㎞。
10/35㎞あたりで境川に合流、河川敷をぐわ〜っと25㎞南下したら、海!太平洋に出るのです!

相模湾から蜘蛛の糸のように伸びた先にぶら下がる江ノ島のテッペンに赤煉瓦をふんだんに使った基礎土台の遺構が残る植物園、サムエル・コッキング苑が待っているのです。

人混み大嫌いの私にとって、江ノ島など普通なら絶対近づくことのない唾棄すべき禁忌の場所ですが、海開き前のこの季節ならサーファーくらいしかいないでしょう。

それに先日「海街diary」の最終巻を読み終えて、すずの街の風に吹かれてみたくなりました。

せっかくの晴天、日曜日、走らない理由はありません…が、そもそも35㎞を走るなんて、155ポンド約70kgまで肥大化した私にそんな距離を走り切る能力も気力もあるわけがなく、十日市場から瀬谷まで、延々と続く絶景の桜並木を抜けた約10㎞地点で挫折。

155ポンド…よく考えたらカネロ級ですね…。
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まだ余力はあったものの、ここで電車に乗らないと次のチャンスは無い!とヘタレの鋭い本能が働いて小田急大和駅から江の島線にエスケイプ。

このまま終点の片瀬江ノ島まで乗ろうと思いましたが、藤沢で下車。

藤沢駅から、境川へ。ここから再び河川敷を中途半端に走って海を目指します。

おおー、ここも素晴らしい桜並木です。
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海まで4㎞。ちょうどええ感じですー。

桜並木が松林に変わる頃、空の鳥もハトやズズメからカモメに…花粉症の私が嗅ぎつけることなど出来ないはずの潮の香りがほのかにした気がします。
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見えた、江ノ島、あと0.5㎞。

途中、ズルしたけど走って着いたのはまちがいありません。

静かやー、海風が気持ちいいーわー。、
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そして、島を登ってやって来ましたサムエル・コッキング苑!

うおー、これはもはや遺構ではなく、、遺跡の佇まいです。
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イギリス積みもあれば、フランス積みも。

遺構がほぼそのまま残されているなんて、赤煉瓦ファンにとっては垂涎ものです。
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この下にはボイラー室があったそうで、ここで温められた温水や蒸気が各温室や池を巡っていたといいます。

柵の内側には降りてはいけないようで、もっと近くで拝みたかったのですが、仕方がありません。

明治中期に英国貿易商のコッキングが造ったこの大庭園ですが、やはり1923年(大正12年)の関東大震災で壊滅的に倒壊してしまったそうです。

1920年代、ローリングトウェンティ、ジャック・デンプシーの時代です。

コッキング苑内の「そば道場 松本館」でおでんとビールを買ってしまったこの時点で、走って帰る気は完全にゼロに…。

そして、桜の下でリング誌精読。
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クロフォード、生まれるのが40年早ければ不人気に嘆くことなどなかったのに…でも80年代にプライムタイムならデュランやレナード、ハーンズにボコボコに粉砕されてたような気がします。

何はともあれ、一気に島の裏側、岩屋へ。
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岩場に打ち付ける波、いいですわー。

次は走って来て、走って帰る「江ノ島往還」が出来るくらいに体力をつけたいのですが…。

とりあえず〝往〟くらいは余裕で走れないと、フルマラソンなんてまともに走れません。

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芝のホテルで人と会うお仕事があり、昼休みの空き時間にふらりと慶大キャンパスへ。

「そう言えばあそこの図書館は荘厳な赤煉瓦造りであったぞ!」と、はるか昔の記憶を辿りながら、ムラムラと桜田通りを早足で歩きます。
 

慶大にも陸上競技部時代の友人知人がいて、もう30年近く前になりますがキャンパスにも何度か訪れています。

慶應の応援歌「若き血」には有名な「陸の王者」のフレーズが登場していますが、スポーツ推薦制度がなかった陸上競技部(競走部)は苦戦が続いていました。

そんな慶大ですが、創部100周年の2017年から「箱根駅伝プロジェクト」をスタート、強化に本腰を入れています。

青山学院大の大躍進を見るまでもなく、ブランド大学が本気で強化策に乗り出せば、選手集めは容易です。

原晋監督の手腕にケチをつけるつもりはありませんが、あの成功の原動力は青学ブランドと莫大な投資に尽きます。

逆に言えば、ブランド力と経済力がなければあの成功はありえません。

〝青学以前〟の箱根駅伝は「無名大学の宣伝の場」という側面もありました。

無名の大学が知名度を上げるために、箱根駅伝に特化・集中した投資で続々と強豪校の仲間入りを果たしたのです。

この流れに弾かれたのが体育会にほぼ均等に投資してきた早稲田大や明治大、中央大などの古豪や、筑波大や日体大、順天堂大などの〝体育大〟でした。


慶大と同じスポーツ推薦に消極的だった立教大も上野裕一郎を監督に迎えて2024年の第100回を迎える箱根の出場権獲得に向けて動き出しています。

ブランド大学が本気で乗り出して来ると、無名大学はひとたまりもないでしょう。

ブランド大学がやっきになるほど箱根駅伝は魅力ある大会になったということなんでしょうが、生々しく剥き出しになった市場原理が学生スポーツの世界まで支配するというのは、あんまり見たくない気もします…。

そういえば、私たちの頃に立教大はエントリーミスで箱根駅伝予選会出場を逃したなんてボーンヘッドもやっちゃってましたが、もうそんな大らかなクラブではなくなるんでしょう。


ーー話がそれました。

おぼろげな記憶を辿りながら、桜田通りのビル群に馴染んで建っている「慶大東門」という真新しい赤煉瓦ビルに「こんなの昔から、あったっけ?」とあやふやな記憶をたどりつつもコンクリートの階段を上がってキャンパスへ。 
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桜田通りのビル群に完全に溶け込んでいる慶大東門。煉瓦構造でこの高層建築、巨大ビルディングはありえないので、タイル煉瓦を貼り付けているようです。

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真新しい〝赤煉瓦ビル〟の股間を潜ると「八角棟」が印象的な明治ゴシック、旧図書館が目に飛びこんで来ました。

すぐに見覚えのある旧図書館が目に入りましたが、何やら怪しい雰囲気が…周囲は白いフェンスで囲まれて、改修工事中とのこと。

ネットで調べると、2017年に始まった工事は今年5月で完了とのこと。

いつもながら昔の記憶はいい加減なもので「図書館って、こんなんだっけ?」「もっと荘厳なイメージだったけど」という違和感は拭えません。


しかし、この図書館(旧館)、1912年(明治45年)今から107年も前に創立50周年記念事業として建てられたそうです。

1912年となると、リング誌創刊まであと10年の刻を待たねばならない〝紀元前〟です。

この年7月4日にはカリフォル州で世界ライト級王者アド・ウォルガストがメキシコインディアンのジョー・リバースを迎えるタイトルマッチが行われ、世界戦史上初のダブルノックダウンが記録されています。

試合はレフェリーが王者を助け起こし、挑戦者をカウントアウト。それにしても、何と荒くれだった時代でしょうか。 

リバースが無念の涙を飲んだ、その年に旧図書館は竣工したのです。
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フェンス越しに見る煉瓦は小口積み、明らかに化粧煉瓦、タイルです。

赤煉瓦についてのニワカ知識から「ケッ!オメーも化粧煉瓦だったのか!」というちょっとした幻滅が過去の記憶との違和感の原因なのかもしれません。

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「煉瓦タイルの張り替えや、建物全体の洗浄、撥水剤の塗布で建物表面をコーティングした」ようで、当たり前ですが、1912年竣工という歴史も風雪も劣化も、その外観からは全く感じ取ることが出来ません。

117年前の竣工時は、タイルではなく本物の煉瓦を、おそらくはイギリス積みで組み上げていたと思われるのですが…。

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白フェンスに貼られていた「概要」によると、1923年の関東大震災で激しく損傷。ダメージの大きかった八角棟を一旦取り壊して再建するなど大規模な修復工事を経て1927年に復旧したそうです。

さらには、1945年の米軍空襲で「外壁を残して全焼」と過酷な歴史を何度も乗り越えて、2019年7月にピカピカの赤煉瓦に生まれ変わるのです。

21世紀の赤煉瓦は美しく強いタイル煉瓦、それもまたいいものです。

桜もきれいに咲いてました。 

綺麗な赤煉瓦、ありがとうございました。
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前日、298日ぶりに長嶋茂雄が東京ドームに登場したからというわけではありませんが、池袋で仕事があり、ついでにやって来ました、立教大学。

学生時代は陸上競技の友人ライバルが何人かいましたが、キャンパスを訪れたのは6年ほど前。

娘とその友人を連れて見学に行ったときが初めてでした。

約6年前は赤煉瓦など全く眼中になく「シルバニアの世界だ」とはしゃぐ娘たちを微笑んで見つめるだけでしたが…、

今では、どこかに出向く際は赤煉瓦がないかを検索、今回も1号館(モリス館)なる建物が赤煉瓦建築であることを早速突き止めていました。

4月3日水曜日のお昼、学生は春休みのはず、キャンパスは人影もまばらでゆったり赤煉瓦を堪能できるに違いない!

…という確信はキャンパスに近づくにつれ Saint Paul University が刺繍されたり、プリントされたりのスタジャンやらジャージを羽織った若者が溢れかえるのを目の当たりにしてガラガラと崩れ落ちてしましました。

正門からキャンパスを望んで、新入生を勧誘するサークルのテーブルがズラッと並んで若い熱気で賑わっています。

そうか、授業が始まる前のフレッシュマンウィークとか、その類のヤツだなと少しウンザリしながら、美しいキャンパスに足を踏み入れます。
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おお!

ボンクラな私でも6年前ならおぼろげに記憶かあるぞ、正門正面のこやつ!

これが1号館、モリス館だったのか!

確かに赤煉瓦、しかもお洒落にツタなど絡ませちゃっています。

しかも、しかも!フランス積みではありませんか!

長口と小口を交互に並べて積み上げるフランス積み、程よく劣化した赤煉瓦にツタが絡まり、お洒落です!
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1919年(大正8年)落成…ということは関東大震災(1923年/大正12年)に見舞われたということです。

この1919年は、パンチョ・ビラ(フィリピン)が伝説の名王者ジミー・ワイルドを7回1分46秒でKO、アジア初の世界王者(フライ級)が誕生したアジアにとって最初の一歩を記した年でした。

2万3000人を超える大観衆が詰めかけたリングが組まれたのは、ニューヨークはポログラウンズ!プロモーターはテクス・リカード!

リング誌が創刊されるまであと3年待たなければならない、そんな〝紀元前〟の時代にモリス館は建てられたのです。
 

メーザーライブラリ記念館という、やはり年季物の赤煉瓦ツタ絡まりの建物では、立教学院を回顧する無料展示が常設されていて、関東大震災で被災した様子も伝えられていました。

外の雑踏が嘘のように、観覧者は私1人でした。
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モリス館左手に隣接するチャペルももちろんツタを絡ませた赤煉瓦です。

そういえば「ツタの絡まるチャペルで〜🎵」と歌う「学生街の喫茶店」、あの舞台は立教大学だったのでしょうか?
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正門の門柱ももちろん、赤煉瓦。

東京藝術大学のように崩落防止のワイヤーやネットをかけていないので、内部から鉄筋コンクリートで支える構造なのかもしれません。

いずれにしても、芯まで純粋な煉瓦造りではないようです。

それにしても、立教大学は日本一赤煉瓦建築が多いキャンパスかもしれません。

見事な赤煉瓦、ご馳走様でした。
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19世紀後半から関東大震災までの間、明治維新を象徴する赤煉瓦の建物は日本のあちこちの都市で建てられました。

官庁や金融機関、そして学術関係など権威を勝ち誇りたい業界で、赤煉瓦は特に好んで用いられます。

中でも学術関係における赤煉瓦は、権威だけでなくアカデミックな空気も発散させる舞台装置となりました。

私が赤煉瓦を溺愛するきっかけとなったのも、東京藝術大学の1号館と2号館、明治に建てられたその蠱惑的な佇まいに打ちのめされたからです。 

2月中旬、仕事で訪問した東北大学。

さすが旧帝大だけに歴史的な建造物が数多く遺され、赤煉瓦もしっかり建立していました。
 
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1912年(明治45年)、第二高等学校図書館書庫として建設された東北大学文化財収蔵庫です。

屋根は桟瓦葺きの和洋折衷。

基礎部分と各階腰部に褐色煉瓦をベルトのように巻き、軒先はデンティルでオシャレに飾っています。

イギリス積みで、律儀に煉瓦を詰めた This is 赤煉瓦建築です。

続いて、東北大学資料館(旧東北大学附属図書館閲覧室)。
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時代は少し降って、1924年(大正13年)に竣工した鉄筋コンクリート造りの瀟洒な建物です。

煉瓦の赤茶に漆喰の白が鮮やかです。窓上端のアーチも上品です。

ロマネスクのそよ風が吹いてますね〜。

エメラルドグリーンのトンガリ帽子も、可愛いアクセントになっています。

1階部分の外壁は赤茶煉瓦が詰められていますが、これは化粧煉瓦。前年の関東大震災のときは仙台もかなり揺れたでしょうし、東京横浜の惨状を鑑みて純粋な煉瓦積みを避けたのは当然です。
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化粧煉瓦とはいえ、真面目にイギリス積みを反復する外壁からは、設計者の誠実さが伝わってきます。

その設計者は、当時文部省技師でのちに東北大教授となる小倉強。 

展示イベントは無料で開放されており、私が訪れた2月は「東北大学キャンパスにおける遠古の文化 青葉山遺跡群と芦の口遺跡」をテーマに、古代人が使った石器などが展示されていました。

天気はいいし、来場者は私一人、最高のリラックスタイムでした。

大学は東京の私学のように学生で賑やかなのも悪くはないですが、地方国立大学の人影少ない静かな空気と時間が流れる広大なキャンパスがいいですね。

見事な赤煉瓦、ご馳走様でした。
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知ってなきゃ、何なのか、まず想像すら出来ないこの摩訶不思議な物体。

内側に赤煉瓦が敷き詰められた、この卵型のトンネルは明治期に埋設された下水道管です。

この写真の赤煉瓦下水道は、1887年(明治27年)に横浜の外国人居留地(現在の中区山下町)に敷設された下水管の一部。

1992年(平成4年)に中華街近くで発掘されたそうで、横浜市都筑水再生センターの正門奥に唐突に置かれていました。
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それにしても!


地上で文明開化の象徴として建物の外壁に使われた赤煉瓦でしたが、なんと人目に触れない地中深くに埋められ、下水道としても活躍していたとは!

いや「活躍していた」と過去形で語るのは正しくありません。

そうです、神田駅前の一帯では明治期に埋設されたこの型式の赤煉瓦下水道「神田下水」が今日も現役でバリバリ働き、ライフラインを守っているのです。

横浜の外国人居留地と、庶民的な下町神田。対極に思えるエリアですが、前者は外国人により文化的な生活インフラを提供せんとした明治政府の配慮でした。

そして、後者の下水道敷設はのっぴきならない事情によるものでした。

江戸から明治、激動の時代には海外からさまざまなウィルスが持ち込まれ、断続的にコレラも流行、1875年(明治15年)には神田近辺で5000人が死亡。

明治政府の命を受けた東京府は下水道の整備に着手、総延長4㎞に及ぶ近代的な下水道を完成させました。

神田下水の大きな特徴は内壁を全て赤煉瓦張りにしたこと、そしてこの卵をひっくり返したような形状の断面です。

赤煉瓦を張り詰めたのは補強のため。逆卵型は水量が少なくても流速を確保し、底にゴミが堆積することも防ぐ英国のJ・フィリップ考案のスタイルを採用したものでした。

内務省土木寮のお雇い外国人ヨハネス・デ・レーケの意見をもとに、内務省の土木技術者・石黒五十二が設計をまとめ上げました。 
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↑東京都指定史跡の案内板によると、神田下水は1877年(明治17年)に完成とありますから、横浜の外国人居留地よりも10年早く下水道が整備されたことになります。


そして、1877年に完成した神田下水は140年以上経った現在も、その一部が都心のライフラインとして機能しているのです。

1877年、クイーズベリールール(1867年発表)は制定されていたものの、それに則った試合はまだ開催されておらず、ボクシング会はベアナックル時代でした。

赤煉瓦下水管は、ベアナックルの昔からタッチボクシングの今日まで、人々の暮らしを地中深くで支え続けてくれているのです。 
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ベアナックルの時代から神田の地中深くで都民のライフラインを支え続けている赤煉瓦製下水管。もはやフランス積みとかイギリス積みなどの見映えはどうでも良く、質実な長手積みで卵型ラインを描いています。


デ・レーケら〝お雇い外国人〟は幕末から明治にかけて欧米の技術導入のために官庁や教育機関に招聘されました。

シーボルトや ラフカディオ・ハーンらも〝お雇い外国人〟。

彼らお雇い外国人こそが明治以降の日本をグランドデザインした、この国の設計者でした。
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