21世紀になってからも、アブネル・マレスが「日本で(当時のWBCバンタム級王者)長谷川穂積と戦いたくない」と語ったように、欧米では日本や韓国、タイなどアジアのリングはホームタウン・デジションの傾向が強いと考えられています。

私がボクシングを見るようになった1980年代から40年余りでも、井岡弘樹の疑惑のゴング(1988年6月5日:vsナパ・キャットワンチャイ)や亀田興毅の疑惑の判定(2006年8月2日:vsファン・ランダエタ)など地元判定の許容範囲を超えたゴングやジャッジペーパーがありました。

1992年4月10日、カオサイ・ギャラクシーの引退で空位になったWBAジュニアバンタム級王者決定戦で鬼塚勝也がタノムサク・シスボーベーを下した一戦も、その判定(116−112/115−113*2)が大きな議論を巻き起こしてしまいました。

タノムサクが攻め鬼塚が迎撃する展開、最終回のゴングが鳴ると多くの人は「負けた」と東京都体育館の席を立ちましたが…。

ボクシングファンが疑惑の目を向けたのは「劣勢に見えた試合の判定が転がった」というだけではありませんでした。

文春砲の初弾となった「毒入りオレンジ事件」で悪人イメージが固まっていた協栄ジム(会長:金平正紀)のスター候補(当時の鬼塚は現在の世界王者よりもはるかに知名度が高かったので〝候補〟というのは違和感がありますが)が「カオサイの引退・タイトル返上を待っての決定戦」「WBC王者は日本で好き勝手しにくい韓国の文成吉で9連続防衛中の猛者」という、本人には責任のない事情も非難の炎を煽る格好の材料になってしまいます。

協栄ジムは、WBAジュニアフライ級王者・渡嘉敷勝男の「ルペ・マデラ」でも疑惑の判定と非難されながら4試合もセット。「いくら軽量級でも無茶苦茶しすぎ」と、協栄とその所属選手には冷たい視線が集められていたのです。

それでも、鬼塚は2度目の防衛戦で、圧倒的不利と見られた最強の挑戦者、アルマンド〝モンストゥルオ(怪物)〟カストロに文句無しの判定で勝利。しかし、リング上のインタビューでカストロをタノムサクと呼んでしまうほど、重い十字架を背負っていました。

疑惑の視線を突き刺されまくった渡嘉敷が「マデラ2」でも劣勢ながらも健闘、ドロー防衛を果たし、全力を出し切った充実感から「これがボクシングです!」と叫んだ声にも、ほとんどのファンは「そうだな、これがお前たちの薄汚いボクシングだな」と冷徹に反応するだけでした。

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ーーーそして【あしたはあの日】。1993年11月5日、有明コロシアム。

鬼塚の「タノムサク2」も接戦のまま12ラウンドが終わってしまいます。それでも、慎重に戦った初戦から積極的に手を出した鬼塚の判定勝ち(116−111/116−114/115−113)は議論を呼ぶものではないと感じました。

しかし…。第9ラウンドにゴング後の打撃でタイ人が減点1されたのも、穿った見方をするアンチが騒ぐ材料になりました。

「10−10」のラウンドとしたのはジャッジのロヘリオ・ペレスが3つ、李東玉が1つの併せて4つ。減点がなければ、10−10がタノムサクに流れていたら…そんなタラレバなら勝敗が逆転する内容でしたが…。

カオサイの採点は同胞の5ポイント勝ち。ロッカールームで、タノムサクは「絶対に負けていない」と悔しがりました。

日本人記者からの「(2度も判定を盗まれたと感じているなら)WBAに提訴するか?」という質問に陣営は首を振って否定。タノムサクも「鬼塚とまた戦えたら嬉しい」と、Bサイドの悲哀に満ちたコメントを絞り出すだけ。

渡嘉敷は「これがボクシングです!(俺は全身全霊を賭けて戦ったぞ、見てくれたよな?!)」と叫びましたが、鬼塚は記者からの「あなたは常々、リングの上で結果を出すと言ってきたが、その答えは出たか?」という意地悪な質問に「人の見方はわからないけど、ぼく自身は精一杯やった」と涙声で答えました。

そうです。渡嘉敷も鬼塚も、自分には全く責任のないことで非難されました。非難すべきはまずWBA、JBC、そして協栄、そこまでです。

渡嘉敷や鬼塚が贔屓の判定を望むはずもないのに、非難の矛先のほとんどは彼らに向けられ「そのジャッジを選んだ」認定団体やJBCに向けられることはありませんでした。


特に、JBCの機能不全は現在に至るまで全く改善していません。