Admittedly, there have been many great coaches from Britain and Ireland, but Brendan Ingle might have been the best. 英国とアイルランドは数多くの名コーチを輩出してきたが、ベストはブレンダン・イングルである。〜英国ボクシングニューズ誌
ブレンダン・イングルが5月25日、77歳で亡くなりました。

プロボクシングの魅力は、120年に及ぶ歴史と、世界中のどの国でも一定の人気があるスポーツであることです。

そして、トレーナーが他のスポーツ以上に重要な役割を果たすこともこのスポーツの味わいを豊かにしてくれています。

さらに多くの名匠はボクシング技術だけでなく優れたモチベーターの素質も併せ持っているのが常です。

「ブレンダンは偉大な教師だった。彼は自分を信じることの大切さを教えてくれた。そして彼は規律を重んじた。そこがジムであろうが家であろうが、規律のもとでなければ幸せな家庭も、優れたボクサーも存在しえない」(元英連邦ジュニアミドル/ミドル級王者ヘロール・グラハム)。
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1998年、英国ボクシングに多大な貢献をしたことが評価されたイングルは、エリザベス女王から大英帝国勲章MBEを授けられました。いわゆる「ナイト」や「サー」よりも下位の勲章ですが、歌手のアデルやエド・シーランも綬章、とんでもない名誉であることに変わりはありません。

ブレンダン・イングルは、18歳の時にアイルランドから南ヨークシャーに渡りました。

ミドル級のプロボクサーとして拳を振るい、英国8位が最高位。

19勝6KO14敗の戦績を残して1973年に引退したイングルに地元の牧師が思わぬ話を持ちかけます。

「子供たちが非行に走るのをなんとかしたい。社会福祉活動をしてみないか?」。

リズミカルなダンスに詩吟をこよなく愛していたイングルは、聖トーマス教会のホールを借りて週1回日曜日のダンス教室を始めました。

「どうしようもない乱暴者ばかりが集まった。ダンス教室が終わると街に繰り出して喧嘩をおっ始めるんだ。大怪我をする若者までいたよ」。

ある日、イングルはダンス教室が終わると教会に鍵をかけ、彼らを閉じ込め、グローブを投げました。

「そんなエネルギーがあるなら、これで殴り合え。私がレフェリーをしてやる」。

この時、この瞬間、世界で最も有名なボクシングジムの一つが産声をあげたのです。

その語りかけは常に理路整然とし、抑揚はバイタリティに溢れていました。シャドウボクシングするボクサーへの指示も、タイミングよく詩を誦むように投げかけました。

規律を何より大切にしながらも、リズムとタイミングを最優先した指導はタブーのない自由なものでした。

手に負えない不良少年たちがダンス教室に通うなんてにわかに信じられませんが、歌うようなイングルの指導が面白かったのでしょう。反抗的な若者がイングルの言葉には、黙って耳を傾けるのです。

イングルに優秀なボクシングのモチベーター、トレーナーの素質があることは明白でした。

粗暴な若者たちはイングルに心酔し、たちまちボクシングの虜になりました。矛盾と差別が渦巻く社会と大人への不満を鬱積させていた彼らにとって、年齢も社会的地位も関係なく全く同じ情熱で教えてくれるイングルは、初めて出会った信用できる大人だったのです。

ダブリン生まれの名匠は、77年の生涯でナジーム・ハメドやジュニア・ウイッターら個性的な世界王者を育てました。

イングルは晩年、ドミニクとジョンの二人の息子にジムを継がせ、アルツハイマー病と戦いながらも教会の中にこしらえたユニークなジムに通い、若いボクサーへの指導も続けました。

その薫陶を受けて、ケル・ブルックやビリー・ジョー・サンダースも巣立ちました。

世界王者であろうが6歳の子供であろうが、イングルは全く変わらず指導した。そこまで商売っ気のないトレーナーは滅多にいない。しかもその姿勢を生涯貫いたとなると、そんな偉大なトレーナーはイングルだけだ。〜英国公共放送BBC

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リング誌2015年7月号「伝説はまだ続いている」

イングルは晩年、アルツハイマー病と戦いながらもヨークシャーはシェフィールドのウィンコバンクジムで指導を続けました。


その最高傑作はハメドではなく、元WBO世界クルーザー級王者ジョニー〝ザ・エンターテイナー〟ネルソンかもしれません。

1967年にシェフィールドで生まれたネルソンは、スポーツが苦手な引っ込み思案な少年でした。

「ボクシングは、友達に誘われて断れなくて始めたんだ。ボクシングしたい、殴り合いたいなんて思ったことは一度もないよ、そっちの方が普通だろ?友達とジムで一緒にしゃべったり、練習するのは好きだったけど。アマチュアでは13戦して勝ったのは3つだけ。何度負けても悔しくなかった」。

とはいうものの、19歳の時にお金が稼げるとプロボクサーの道に進みます。

ブレンダンは「お前はプロで大成する」とネルソンを励ましますが、周囲は「何を言ってるんだ?ネルソンなんてあんなガラクタ、使い物になるわけがない」と決めつけていました。

当のネルソンも「プロで5試合は戦おう。そこで1勝も出来なかったら、別の仕事を探そう」と、なんだか半端な覚悟でリングに上がっていました。もちろん、ボクシングだけで食っていけるわけはなく、3つのアルバイトを掛け持ちしていました。

大方の予想どおり、デビューから2連敗。3試合目の相手マグネ・ハブナはプロデビュー戦でしたが、アマチュア時代にスカンジナビア半島ヘビー級王者に輝き、1984年ロサンゼルス五輪にも出場したエリートアマ。

要は咬ませ犬です。そして予想通りに敗北、3連敗。

しかし、この敗北で自信が芽生えます。「そんなに悪い試合じゃなかった。俺はガラクタじゃないぞ。ガラクタならもっとコテンパンにやっつけられてるはずだ」。

そこから2連勝して、星勘定は2勝3敗。「よし、あと5試合、自分を試してみよう」。

「どうしてそんなに自信があったのかって?ブレンダンがお前は出来ると言い続けてくれたからだ。世界王者にアドバイスするのと同じように、こんな俺にも時間をかけて面倒を見てくれた。俺は見返そうと誓ったんだ。俺をガラクタ扱いした奴らを、じゃないぜ、実際にガラクタだったよ。だから負けたってバカにされたって平気さ。でも、俺を評価してくれるブレンダンを侮辱する奴らだけは許せなかった。奴らが自分達が間違っていたと思い知るまで、俺は命がけで練習に打ち込んだ。ブレンダンがどれほど優秀な指導者であるかを世界に見せつけてやるんだってね」。

1990年1月27日。23歳の誕生日を迎えたばかりのネルソンに大きなチャンスが訪れました。IBF世界クルーザー級王者カルロス・デレオンへの挑戦です。試合は三者三様のドロー。

「悔しかったけど達成感もあった」というネルソンは、大学に通って体育教育を勉強しており、「そろそろ潮時かな」と感じていました。

そこでもイングルが後ろ髪を引きます。「お前は必ず世界王者になれる」。

その後もキャリアを続け、マイナー団体WBFのクルーザー級王者を獲得、1999年3月27日WBO王座へ挑みます。王者は同じ英国のカール・トンプソン、同国人対決は戦前から大いに盛り上がりました。
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「勝因はブレンダン・イングルに教えてもらったからだ!」

5ラウンド1分46秒、ネルソンがスピーディな連打を集めた場面でレフェリーが試合を止めました。大きなダメージをこうむっていないトンプソンと陣営は「ストップが早すぎる」と猛抗議しますが、判定が覆るわけもありません。

この日から2005年11月26日のキャリア最後の試合までの6年間一度も負けることなく、13度も防衛しました。6年8ヶ月の在位期間は今も残るクルーザー級の最長治世です。

ガラクタはイングルに磨かれ、シェフィールドの宝石になりました。

「最初に見た時から素質があるのはわかっていた。いつもボクシングを辞めて別の仕事に就こうとうわついていたのに、めっぽう速くて、パンチも固かった。ガラクタを宝石にした?私は魔法使いじゃない。宝石にかぶっていたホコリを払ってやっただけさ」(イングル)。

「私は宝石なんかじゃなかった。自分のことだから間違いない。万一、宝石だとしてもホコリをかぶった宝石なんて誰も気づかない」(ネルソン)。

ジョニー・ネルソン。生涯戦績45勝29KO12敗。

51歳になった今もシェフィールドに居を構え、三人の娘と幸せな毎日を送っています。

スカイスポーツのボクシング番組の解説者をつとめながら、シェフィールドでうつ病に悩む人々を支援する福祉活動にも勤しんでいます。また多くの学校を訪問して、子供達に自身の人生経験を語っています。

シェフィールドに人生を捧げたブレンダン・イングルの教えは、ネルソンにも間違いなく引き継がれているのです。