高校時代、最も楽しみにしていたのは、ニューヨークタイムズやタイム誌、スポーツイラストレイテッド誌などが茶色い厚紙に包まれて、半月に一度か10日に一度、高校にドサッと届けられる日でした。

厚紙を大きなハサミでジョギジョギ切り開くと、洋雑誌特有のインクだか紙の匂いがふわっと広がり、日本にはない薄くて頼りない紙質の雑誌がザザッと床まで滑る…そんな光景からも遠いアメリカを体験した気分になってました。

アメリカのスポーツ情報を伝えてくれる雑誌や新聞…〝彼ら〟には、こんな田舎の高校までよく来たなあという愛おしい思いが抑えられませんでした。

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1980年代中盤、プロボクシングは米国スポーツの中で、まだ存在感を保っていました。

モハメド・アリの引退でヘビー級は衰退、中量級にスポーットライトを向けさせたシュガー・レイ・レナードも1981年に引退、ヒーロー不在の米国リングを牽引していたのは、ヒールのオーラを発散させたマーベラス・マービン・ハグラーでした。

無愛想でひたすら強いハグラーは、アリやレナードが身にまとっていた華麗や洗練とは無縁でしたが、強さの塊でした。


世界王者が対戦を避けるUncrowned Monarch(無冠の帝王)が実在すること。

Undisputed Champion(議論する余地のない王者)とは、他の誰にも王者を名乗らせないこと、すなわち完全統一王者を意味すること。

「王者を倒した者だけが王者」。Lineal Championという、チャンピオンシップ制の哲学。

Pound For Poundは意味の無い妄想でも、専門家投票による「満票(全員一致の1位)」にはある程度の価値があること。

…私に虚々実々のボクシングの世界を教えてくれたのは、ハグラーでした。

スポイラ誌の英語を読んで、ボクシングマガジンやナンバー誌の日本語で〝答えあわせ〟をする楽しい作業は、知らないうちに深い英語力を習得させてくれていました。

私にとってハグラーは世界のボクシングの伝道師で、英語の先生でもありました。

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ウィルフォード・シピィオン戦(1983年5月27日:4ラウンドKO勝ち)はIBF初代王者決定戦でした。承認団体の増殖は偽物王者の乱造につながりますが、ハグラーの強さは正真正銘の本物、リングの中には嘘はありません。

1980年にリング誌が 年間Pound For Poundランキング(Best Fighter Poll)を立ち上げ、ハグラーは83年から86年まで4年連続でキングの座を守りました(85年は満票)。

4年連続PFPキングは、のちにフロイド・メイウェザー(2011〜2014年)が並びますが、退屈なタッチボクシングに終始するマネーと、恐怖の絶対王政を敷いたハグラーとではNo.の迫力は比べようもありません。



▶︎▶︎▶︎1954年、ニュージャージー州ニューアークで6人兄弟の長男として生まれたハグラーには父親の記憶がほとんどありません。

父親はハグラーが生まれてまもなく失踪してしまったのです。

母子家庭で生きてゆくには、治安の悪さで有名な黒人ゲットーはあまりにも危険で、過酷な環境でした。

それでも、母親のアイダ・マエ・ハグラーは昼夜を問わず働き詰めて、家族を守りました。

マービンは母親を尊敬し、ドラッグや犯罪には一切手を染めずに成長しましたが、物心ついた頃には「黒い肌を持つ人間はスポーツか音楽で成功しない限りは浮かばれない」ということを骨の髄から理解していました。

少年の目に、MLBのミッキー・マントルやウィリー・メイズ、  NBAのウォルト・フレイジャー…フィールドやコートで躍動する彼らの黒い肌は、どこまでも輝いていました。

もちろん、最もまぶしい光彩を放っていたのはモハメド・アリでした。
 


1960年代になると、ニューアークでは黒人暴動が頻発、アイダは家族の危険が喫緊に迫っていると感じて街を出ます。

1969年、行き着いた先は、マサチューセッツ州ブロックトン。

「この町でも黒人の私はスポーツチームの仲間に入れてもらえないだろう」。そう諦めていたハグラーでしたが、母親がブロックトンを選んだのは神の配剤としか考えようがありません。


様々な偶然と奇蹟が重なり合って、やがて一つの必然に結実してゆくのです。

ハグラーの一家が流れ着いたブロックトンは「The Blockton Blockbuster 」で有名な街でした。

「ブロックトンの高性能爆弾」。そうです、ロッキー・マルシアノのホームです。

ハグラー母子がブロックトンに移り住んだ1969年、49戦全勝43KOで引退したマルシアノは搭乗していたセスナ機が墜落、45歳の短い生涯を閉じました。

弔意に沈むブロックトンの街角で、マービン少年は薄汚く破れたポスターが風になびいているのを手に取ってしまいます。

なぜか剥がし忘れられていたフロイド・パターソンの試合を宣伝するポスターでした。

貧しい母子家庭では学校に通う余裕などなく、皮革工場で働いていたマービン。憧れていた野球やボクシングの選手になる夢は潰えかけていました。

しかし、パターソンのポスターを見て、彼の頭の中で、何かが弾けました。

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実はこの1969年、マルシアノはボクシングを通じて意気投合した同じイタリア系の兄弟とブロックトンでジムを開設する予定でした。

グッディとパットのペトロネリ兄弟です。

彼らの夢は、マルシアノの不慮の事故で散りかけますが、ジムはなんとかオープンに漕ぎ着けます。


古ぼけた金物屋の2階にあるペトロネリ兄弟のささやかなジム。

バス停から家路に付く前にマービン少年は、このジムを覗くのが〝日課〟でした。


サンドバッグを叩く音、リングにきしむシューズの音、アスリートの汗とワセリンの匂い。

練習して、強くなりたかった。自分もやってみたかった。

しかし、ペトロネリ兄弟は、マービンにとって一人も知り合いのいない白人。さらに、自分は貧乏でジムに通うお金なんてありません。


少年は明くる日も、その次の日もジムに来ましたが、黙って座っているだけで、いつも一人でトボトボ帰って行きました。

5日目の夕方、グッディが声をかけました。

このタイプの少年はよくいます。向こうから話しかけてこない限り、最初は無視することにしていました。


5日通ってきたらこっちから声をかける、それがペトロネリ兄弟の流儀でした。
 
「ボクシングをやりたいのか?」 
 
少年はおどおどしながら、必死で言葉を絞り出しました。

「ボクシングを教えて欲しいけど、お金が無い。死にもの狂いで練習してチャンピオンになったらおカネを返すから、それまで教えて下さい」。

少年は、5日間ずっと胸に秘めてきた思いを、ボソボソと小さな声で思いを伝えました。


グッディの答は…「ノー」でした。

「私も貧しい。みんな貧しい。 君だけをタダで教えるわけにはいかない」。 


「お金を貯めてまた来るから、そのときはお願いします」と言って立ち去る少年の背中にグッディが声をかけました。

「どこで働いてるんだ?やる気があるなら、ここで雇うぞ。煉瓦の運搬だ。お前がどこで働いてるか知らないが、そこよりもずっとキツい。給料は同じくらいかそれ以下かもしれないが、ジムのすぐそばだ。仕事が終わったらすぐに練習できる」。 


笑うことなどできないんじゃないか、というくらいにいつも強ばっていた少年の表情がパッと明るくなりました。

「本当ですか?お願いします!」。




痩せっぽっちで内向的な少年は、リングに上がると豹変しました。

アマ戦績は62勝3敗2分、そのうち何と52のストップ勝ち(諸説あり)。

全米ゴールデングローブ大会でも優勝、モントリール五輪を狙える逸材でしたが、家計を助けるため、そして1日でも早くペトロネリ兄弟に恩返しをするために、迷わずプロに進みます。

1973年3月18日、ブロックトンで2回KOデビュー。ファイトマネーはわずか50㌦でしたが、マービンは全額、ペトロネリ兄弟に渡します。

「少ない金額だけど、今までお世話になった分を、これから返して行きます」。 


ペトロネリ兄弟は笑った。「誰がデビュー戦の50㌦をネコババするものか。記念のデビューだ、全部君のものだ。お母さんに渡してあげなさい」。

それではマービンも気が済みません。

「お世話になりっぱなしだ、はした金なのはわかる。でも私の気持ちを受け取って欲しい。二人への感謝を形にしたいんだ」。

兄弟はまた笑った。

「だから、気持ちをもらうと言ってるじゃないか。君が100万㌦ファイターになったら、きっちりネコババしてやるから、それまで今日のことをよく覚えておけよ」。 


マービンは「100万㌦は稼げないかもしれないけど、死ぬ気で頑張る。次の試合からマージンを引いて下さい」とお願いすると、心の中で「ペトロネリの恩は一生忘れない」と自分に誓いました。



ペトロネリ兄弟は「器用じゃないが飲み込みが早くて、何よりも体が強い、しかもサウスポー。世界王者になるかもしれない」と直感していましたが、だからといってハグラーを特別扱いはしませんでした。

「私たちが教えた1000人以上の大切な選手たちの中の一人がハグラーだっただけ。それ以上でもそれ以下でもない 。私にとってゴールデングローブの予選を目指す10歳の選手も、世界統一ミドル級王者も全く同じ大切な教え子だ」。 

その姿勢を間近で見てきたハグラーは、有力プロモーターから殺到する誘いを断り続け、ぺトロネリ兄弟とのマネジメント契約を生涯貫きます。

ハグラーの強さは、信念の強さでした。

裏切りと欲望が渦巻くボクシングビジネスの世界で、弱小のペトロネリ兄弟とのマネジメントを引退するまで貫いた仁義は、世界挑戦の機会を遅らせ、ときに不当な判定を突きつけられた原因だったかもしれません。

しかし、トップランクに丸抱えされていたら、あの不撓不屈の、憎たらしいまでに強いハグラーが出来上がっていたでしょうか?



ああ、でもそんなことは、きっとどうでも良いことです。


ペトロネリ兄弟との仁義を貫くことで、ハグラーのボクシングキャリア、いいえ66年間の人生は間違いなく幸せだったはずなのですから。