カテゴリ: FIGHT SONG

ローソンの人だったときに2度ほどお会いしましたが、そのとき感じたのは人望の厚い方だなあ、でした。

それは今でも全く変わりませんが、敵も多かったんだなとあらためて思いました。

2度しか会ってない外部の人間に何がわかるか!と言われたらそれまでですが、まあ、お酒も普通に綺麗に飲む人でした。

まあ、俺よりも酒を綺麗に上手に飲む酔っぱらいは、まずいないけど(悪い冗談です)。

横浜の翠嵐から慶應、ハーバードでMBA、「先に言っときますが、まあ高校時代から優秀じゃなかったです」というようにエリートではありません。

「ハーバード、ボブ・アラムの後輩ですね」と、わかんねーだろーなーと思って投げると、やっぱり知りませんでした。

しかし、彼もそこで何かを見つけたように、私に身近なはずだけど知らないでしょ?な言葉を投げ返し、そんなゲームみたいなキャッチボールを楽しめました。

面白い人だな、と感じました。

「また仕事抜きで飲みましょう」と言ってくれて、2度ほどお誘いを受けたのに、別件があって断ってしまいました。

それからなんとなく、そのままの状態。気分を悪くさせたのかもしれません。

もちろん、内部の人間からはいろいろ問題があったでしょうし、周囲は上下関係からなかなか批判的なことは口に出来なかったのでしょうが、スキャンダルを起こしてから、袋叩きにするのはどうなのかな?

ずっと我慢して来た鬱憤を晴らして気持ち良かったのかな?

なんだか、本当か嘘かわからない、嫌な話まで噴出して、それで何が楽しいのかな?



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1961年9月7日、テキサス州フォートワースに生まれたドナルド・カリーは兄2人と妹1人、4人兄弟の3番目だった。

ブルースとグレイリン、ドナルド、男の子3人はプロボクサーになった。

長兄ブルースは、日本のボクシングファンなら誰でも知っているWBCウエルター級チャンピオンだった。

トーマス・ハーンズの噛ませ犬もつとめたが、ハーンズと戦っただけでもすごいというのが日本からの〝下から目線〟だ。日本人相手にはバッファロー鈴木、ライオン古山、杉谷実(杉谷満の兄)、そして赤井英和をKOした天敵だった。

それなのに、日本の専門誌では「賢弟愚兄」と語られるのが定番だったのは、弟のドナルドが突き抜けて完璧なボクサーだったためだ。

ドナルドの「ハーンズとやりたいけど(彼が私を選ぶわけがないから)無理だろう」という言葉に、誰も傲慢さを感じない、それほど評価が高かった。

ボクシングに2人の兄に連れられて近所にあったピー・ウィー・ジムに通い始めたのは8歳のとき。

兄と違ってボクシングに興味はなかったが「ボクシングは嫌い」なんて口にすると仲間はずれにされるような小さな町だったから、ドナルドはしぶしぶ兄に付いていった。

80年代のボクシングはすでに没落の坂道を転がり落ちていたが、小さな町にもジムがあって、ボクシングがメジャー競技だった時代に少年だった父親から薦められるーーーそんな流れが珍しくない最後の時代だった。

プロ入り後もドナルドのトレーナーをつとめたポール・レイスと出会ったのもこのジムだった。

やはり父親からボクシングを薦められてボクサーになったレイスはゼネラルモータースのフォートワース工場で働きながら練習生を教えていた。

ブルースとグレイリンは他の子とは全く違う才能の持ち主だったが、ドナルドはなかなかリングに上がろうとしなかった。こちらから言わないと、グローブにも触りたがらない少年だった。

ボクシングに興味がないことがありありの物静かな少年だったが、いつもやけに落ち着いていたドナルドだった。

「ボクシングはタイミングが全て」という信条を持つレイスが、ドナルドに異次元の才能があることに気づくのに多くの時間は必要なかった。

「この8歳の少年が練習を積んで15歳になれば、誰も勝てない」。

アマチュアの大会で数々のトロフィーを持ち帰ってくるブルースを見て、ドナルドも「ぼくもあれが欲しい」とねだった。

レイスは「あれは1番のトロフィーじゃない。1番いいやつは1980年のモスクワで用意されている」と答えた。

10歳でアマチュアデビュー、抜群のタイミングでコンパクトにパンチを撃ち抜くドナルドは、彼を初めて見た人々を「phenomenon(天才)」と驚かせ続けた。

ところが、15歳でジュニアオリンピックで金メダルを獲った天才は、ボクシングよりも野球や陸上競技にも熱中していた。

1年ほどボクシングから離れていたが、17歳のとき再びピー・ウィー・ジムでわずか2日間の練習を再開して出場したフォートワースのゴールデン・グローブ(GG)大会で金メダル。

1978年と79年の全米AAUタイトル、五輪イヤーの1980年にはケニアで行われた世界選手権で金メダル、五輪トライアルでも勝ち抜いて米国代表の座をつかんだドナルドのアマチュア通算成績は404戦して400勝4敗。

「負けたのはブルースと戦うことになった全米GG大会の準決勝も含めて4つだけで正しいが、400勝どころかもっと勝っている」と語るカリーの言葉は事実だろう。

彼は大言壮語を並べるタイプではない。

フォートワースの天才少年は、ヒューストンの大学から奨学金制度を提示されたこともあって、都会での大学生活に憧れていた。プロとしてボクシングを続けながら学生生活も保証する奨学制度の特典には15名ほどが選抜され、彼らは高級車に乗って通学する〝貴族〟だったからなおさら憧れた。

モスクワ五輪で金メダル、そして進学というのがドナルド・カリーの将来プランだった。

先にプロ入りしていた兄ブルースを間近で見て、スポーツとはかけ離れた興行優先のプロボクシングの世界に嫌気もさしていた。

ところが…。



米国はモスクワ五輪をボイコット、カリーの将来プランは瓦解してしまう。

学生とプロボクサーの二足の草鞋でヒューストンの大学に進学するか、ボクシングに集中してプロでも頂点を目指すか?

カリーへの勧誘は大手プロモーターを中心に加熱したが、彼が選んだのは15歳のときから支援してくれていた地元のデビッド・ゴーマン。カリーの意を汲んで、レイスをトレーナーとして契約することも受け入れてくれた。

しかし、ゴーマンはトロイ・ドーシーやジーン・ハッチャーをマネジメントしたが、テキサスを離れるとけして強力なパワーハウスではなかった。

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左がポール・レイス。右がデビッド・ゴーマン。彼らがペトロネリ兄弟とマービン・ハグラーのような鉄の結束を誇る最強チームになると信じられていましたが…


誰もが知っているプロ入り後の快進撃は、ここで語る必要はないだろう。

順風満帆に見える連勝街道だったが、NABF王者マーロン・スターリング(初戦)との試合3日前に9ポンドオーバーの調整失敗(絶食で体重を落として計量クリア、判定勝ち)、レナードの引退で空位となったWBCウエルター級王座の決定戦は楽勝と思われた黄俊錫にダウンを喫する大失態も犯している。

小さな綻びはいくつも見えたが、当時は「単なる不注意」「完璧すぎるが故の油断」で片付けられた。

格下相手にダウンーーーレナードはそんな穴など全く見せなかったというのに…。

さらに、ビル・コステロにKOされてWBCジュニアウエルター級のタイトルを奪われた兄のブルースがマネージャーのジェシー・リードに発砲、現行犯逮捕されたあと精神異常と診断され長期入院してしまう。

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それでも、周囲からは「レナードの後継者となり、レナードが出来なかった打倒ハグラーを現実のものにする」ーーーカリーがそこに向かって駆け上がるに違いないと信じられていた。



テキサス州バールソンに構えた豪邸は5つのベッドルームを擁し、ガレージにはメルセデスやBMWの高級車種が並んでいた。

そして、腐ったボクシング界を冷静に見ていた彼はウォールストリート・ジャーナル紙やマネー誌を愛読、引退後に実業家になる準備にも余念がなかった。

ドナルド・カリーは旧来のボクサーとは全く違う。

多くのメディアがそう報じ、ファンはドン・カリーの未来が今以上に明るく開けたものになると予感していた。




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2011年、彼は就寝中の妹に殴りかかった。

正気ではない兄の目を見た妹は警察に通報、彼は現行犯逮捕され収監された。

彼は自分が何をやったのかを正確に記憶できていなかった。そして、妹の兄の健康を気遣う事情聴取を終えると、警察は彼を釈放した。

その年に50歳になったばかりの男はまっすぐに歩けず、老いさらばえた老人のように衰退していた。

酒や葉っぱの匂いがしないのに、彼の呂律が回らないのはアルコールやドラッグの影響でなく、Chronic traumatic encephalopathy(CTE:慢性外傷性脳症)であることは明らかだった。

CTE。21世紀に入ってNFLが選手の健康管理に本格的に乗り出してから、よく聞く病名だ。

1928年にこの症状の原因は特定されており、当時から現在までCTEとともに使われてきたpunch drunk syndrome(ボクサー型認知症・パンチドランカー)の方がより広く知られているかもしれない。



全く愚かな話だが「ボクサー型」「パンチドランカー」と長い間、呼ばれてきたにもかかわらず、ボクシング界はこの問題に対して全く真剣に取り組まないまま100年が経とうとしている。

NFLは、ボクシング界からも積極的にデータ収集を行っているというのに。



ーーー兄の狂気に戸惑う妹の代わりに、彼を引き取ったのは息子のドノバンだった。

ドノバンが3歳のときに両親が離婚、父親のことは人づてにしか知らなかったが、父親は素晴らしいプロボクサーだったと、誰もが絶賛した。

どうして、そんなアスリートが露頭に迷うのか?

放蕩の末に散財したわけでも、酒やドラッグに溺れたわけでもないというのに。

競技で脳が損傷してしまったのは明らかで、彼が1セントの労働者災害補償も受けることができないなんて、誰がどう考えても狂った世界だ。



彼を見送った警官たちは「同姓同名だけど、本当に彼なのか?」と驚きを隠せなかった。

「あれが本当にドナルド・カリーなのか?」。

2011年だから、もう15年も前のことになる。


そして、警官たちも知っていた「彼」は、1980年代中盤に当時無敵のマービン・ハグラーを倒せると期待され、次期スーパースター候補の最右翼といわれた、ウエルター級のUndisputed champion(議論する余地のない王者)だった。

もう、いまから40年も前のことだ。



Curry is on a conveyor belt of old champions, used, abused and tossed on a scrapheap with nowhere to go.

興行主のトップランクはもちろん、WBAもWBCもIBFにも年金基金や選手組合は存在しない。ブラック企業ではない。

真っ黒けのブラック産業だ。

プロモーターや認定団体に利用されるだけ利用され、搾取されるだけ搾取され、使い物にならなくなったらスクラップのゴミの山に放り投げられるーーー彼もまたそんな非情なベルトコンベアの上に乗せられた1人の世界チャンピオンだった。

Curry's Sad But Important Story is a Tale That Needs To Be Told

いまこそドナルド・カリーの物語を伝えなければならない(ドノバン・カリー)。



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「七転び八起き」ではありません、くれぐれも。

「七転び八起き」ではなく、「七転八倒」です。


七転八倒、七回転んで八回倒れる。

世間からは「そんな無謀な挑戦、ダメに決まってるだろ。最初から無理に決まってんだから!」と卑下されるやつです。

大谷翔平も、世間の圧倒的大多数からこの倶楽部への入部確実と見られていましたが、彼はどこか遠くへトンズラしてしまい、「絶対無理」と断言していた世間は笑っちゃうような手の平返しを見せてくれました。


七転八倒倶楽部。

往生際が悪くて、分不相応の夢だけをいっちょ前に見たがる、自信過剰な男たちだけが入部を許される負け犬倶楽部です。

七転びしても起き上がることなく、倒れたまま無様に悪あがきする男たち。

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ーーー昨年オフ、阪神タイガースからポスティングシステムを使ってフィラデルフィア・フィリーズとマイナー契約した青柳晃洋。

開幕はメジャー射程距離の3Aで迎え、19試合の登板チャンスを与えられましたが、0勝1敗防御率7.45と結果を残せず2A降格。

先発として試された2Aでも4試合で1勝2敗防御率6.91と〝追試〟も不合格。

そして昨日、自由契約となりました。

挑戦に失敗したトップアスリートの気持ちなど、ぬるま湯につかってのほほんと生きてきた私なんかにわかるわけがありません。

しかし、「こんなことなら行かなきゃ良かった」なんて後悔は、絶対にしていないと思います。

もちろん、絶対に成功してやる!と誓って太平洋を渡ったはずです。

それでも、全く後悔などないはずです。

ーーー私は青柳晃洋がひたすら羨ましいです!



https://fushiananome.superknova.org/archives/37391760.html
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私が海外のボクシングに興味を持った1980年代。

それまでのボクシングシーンに「人気階級」という認識はありませんでした。

なぜなら、ヘビー級だけが特別な人気階級だったからです。

もちろん、人気階級と呼べるのはヘビー級だけでも「不人気階級」は存在しました。

欧米での関心が一気に下がるジュニアライト級以下、つまりライト(軽量)級未満のゾーンと、1970年代で定着したジュニアミドル級を最重量とする「水増し階級」です。

私が米国ボクシングに引き寄せられた時期は、モハメド・アリという巨星がリングを去り、米国ボクシングが支柱を見失ったときでした。

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全米地上波で生中継された1976年のモントリオール五輪で一般のスポーツファンにも名前が知られたシュガー・レイ・レナードは「アリの後継者」と期待される声も確かにありましたが、それ以上に「(ヘビー級ではない)レナードは小さすぎる」という否定論の方が根強かった印象があります。

後世から振り返ると、レナードは米国スポーツを代表するアイコンだったアリの領域に踏み込むことが出来なかったという点では、否定論は正しかったと言えます。

しかし、、レナード(たち)が収めた成功は否定論者の想定をはるかに上回るものであったという点で、期待論者の見方が正しかったと言えるでしょう。

絶対正義のヘビー級からいかに注目をそらせるか、その詭弁であり小道具の一つがPFPのランキング化でした。

1980年からリング誌が毎年発表していたBEST FIGHTER POLLではロベルト・デュラン、トーマス・ハーンズ、シュガー・レイ・レナード、マービン・ハグラーが〝ハイレベルな〟タライ回し。

ウエルター級やミドル級がヘビー級に並ぶ、あるいは凌ぐ人気階級になる資格を有していることを世の中に発信しました。


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デュランはもちろん、レナードやハーンズの世界タイトル初戴冠を画像や活字で事後認知した私にとってドナルド〝ローンスター・コブラ〟は、世界戦線に躍り出た頃から日本の専門誌とリング誌、スポーツイラストレイテッド誌の三段構えで知ることが出来た近未来のスーパースターでした。

その物語は、当時の米国ボクシングの中核で、圧倒的な強さを見せていたハグラーを倒すことで完結する、世代交代のドラマになると期待されていましたが…
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Friday 11, July 2025

Madison Square Garden, New York, New York
commission:New York State Athletic Commission
event name:Taylor vs. Serrano 3
promoter:Nakisa Bidarian (Most Valuable Promotions),
      Jake Paul (Most Valuable Promotions)
matchmaker:Mike Leanardi
media:Netflix






初戦は2022年4月30日のマディソン・スクエア・ガーデン(MSG)のスポーツアリーナでメイン。ボクシングを超えて大きな話題となりました。

再戦は、ジェイク・ポールとマイク・タイソンのセミファイナルながら、テキサス州ダラスのAT&Tスタジアム(カウボーイズ・スタジアム)。

そして、明日ゴングが打ち鳴らされる第3戦は再びMSGで、なんとアンダーカードも含めて全て女子の試合。

同じ日に同じNYで行われるシャクール・スティーブンソンらのイベントがテニスコートがキャパ1万4000ですから、完全に女子ボクシングに飲まれてしまいました。

アイルランドのテイラーと、プエルトリコのアマンダ。東海岸にファンベースを持つ血統と、生粋のファイター・スタイル。人気を集めるのも頷けます。

男子と比較すると、全体の市場規模は比べようもなく小さいものの、ワシル・ロマチェンコやゲンナジー・ゴロフキンでもシアターが精一杯、スポーツアリーナはチケット販売が見込まれず上階席封鎖したMSGで、女子ファイターが堂々のメインを張るのです。

フォーブス誌が指摘しているように「男子は完全に衰退した米国ボクシングでも、女子はサッカーのようにメジャーの扉を開く可能性がある」という、The Beginning。

冗談でもなんでもなく、井上尚弥ら米国で名前を知ってもらいたいなら、彼女たちや、カネロ・アルバレスのアンダーカードに出場するのが近道です。

5月の欺瞞のTモバは、米国へ向けたものではなく、日本に向けた〝フェイク〟だったから、後に繋がらない「あの大失敗興行はなんだったのか?」で終わってしまいました。

女子ボクシングと軽量級、米国でも偏見の目が向けられることが多い〝種目〟のミックス興行、悪い発想ではありません。



それにしても。

新時代の扉を開くメガイベント「Taylor vs. Serrano 3」を、男子ボクシング衰退の象徴であるジェイク・ポールがプロモートするというのも奇妙な因果を感じてしまいます。



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I said something wrong,

 Now I long for yesterday…




今の時代を嘆く人が多いのですが、どんな時代でもそのときどきで、非常に危機的で切羽詰まっていてて、それでも前を向いて進んきたのです。

それでも、個人的に嘆かわしく思うのは、若い人たちが大きな仕事に関われない時代だと感じているから。

私の時代、20代でも大きな仕事を任されましたが、今では考えられません。だから優秀な若者は独立するのでしょう。

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大盛況?の大阪万博も、2020(開催は2021)東京五輪も、前回のEXPO70や東京1964では驚くほど若い人が運営に携わっていました。

もちろん、能力がまずありきですが、若い社員にやりがいのある仕事が回ってこない、しっかり評価されないのは大問題です。

そんなことしてたら未来はありません。

それにしても、世の中にバカ老人のなんと多いことか。

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Yesterday all my troubles seemed so far away…

このブログではたびたび「時代の違う選手に優劣を付けるのは不可能」と本音を記してきました。

画期的なパフォーマンスを披露して、多くの人を熱狂させる、その意味では手付かずのフィールドが多く残されている過去の方が有利です。

日本列島に力道山や長嶋茂雄を超える熱狂をもたらすことは、大谷翔平でも不可能です。

細かな技術という点では、時代が下るほど巧緻になるのは当然で、そうでなければそのジャンルはよほど衰退しているといえことです。

そこにフォーカスしてしまうと、時代が新しいほど優れている、現代のプレーヤーが30年後、50年後に語られることはなくなってしまいます。

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しかし、それでは面白くありません。

PFPの議論がそうであるように、無意味な遊びはなかなか面白いものです。

そもそもの話、遊びに意味を持たせると、面白くもなんともなくなります。

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野球の世界なら、かつて野茂英雄は語りました。

「今の時代?それはぼくの時代よりもレベルがはるかに高い。投球は速くなって変化球も進化している。それを身につけなければいけない投手は大変だし、それを打たなきゃいけない打者はもっと大変」。

「昔の時代?そりゃ、僕の時代よりもレベルが高い。球団数も少ないし、レベルの高いプレイヤーがたくさんいた」。


そして、王貞治は大谷翔平について「我々が見上げていたものを彼は見下ろしているんじゃないか」と絶賛しました。

王は現代野球にもふれて「私たちの時代は2番手、3番手の投手は実力がグッと落ちた。いまは最後に出てくるのが一番手強い投手だからね」と、今の選手の苦労を慮りました。

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「昔の選手の方が強いよ。今の選手が昔の野球に放り込まれたら通用しません」。そう言い切った落合博満でも「私と大谷、どっちが上か?そんなもの、彼の方が数段上ですよ」と、特異なサンプルとはいえ潔く〝負け〟を受け入れています。


ただ、王貞治や落合博満が白旗を挙げたのは、日本の選手にとっての最高峰が日本止まりだった時代から、天井を突き抜けてMLBへと、完全にステージが変わったということが最大の理由です。

そして、また同じホームラン打者でも王貞治と大谷翔平では体格が全く違います。


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そして、そして。

野球とは全く違うのが、ボクシングです。

欧米ではライト級以上でなければ、まともな注目を集めることが出来ない世界です。

しかし、王貞治と大谷翔平の例を出すまでもなく、日本人の体格は劇的に向上しているというのに、ボクシングではいまだに軽量級が中心どころか、その集中度はむしろ引き上がっています。

現在の世界王者の全てがジュニアフェザー級以下、フェザー級以上の世界王者が生まれるのはレアな現状では、プロボクサーの体格は貧弱化していると言っても差し支えないかもしれません。

欧米で不人気の軽量級だから日本で好き勝手出来る、さらに新設クラスが増えてチャンスが広がる。

逆に欧米で人気の高いライト級以上のクラスはレベルも興行を打つコストも桁違いに高くなるから、挑戦すらなかなかおぼつかない…そんな事情が横たわっていることはよく知られている通りです。

さらに、ボクシングのマイナー化によって体格の良い才能がますますこの競技から遠ざかる傾向が強まっていることも残念ながら事実です。

また、王と大谷のような体格差も、ボクシングには存在しません。

バンタム級では、ファイティング原田も中谷潤人も全く同じ118ポンドです。それゆえにオールタイムPFPのような議論がより熱を帯びることができるのです。

一方で野球と違って、ボクシングがそのステイタスをだだ下がりに下げている大きな理由の一つが、団体と階級の増殖です。

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17階級の中で不要な水増し階級は軽量級に固まっています。…20日は選挙、ではなく「バリオスvsパッキャオ」です。


そして、本来ならあってはいけないデタラメ・ランキングがまかり通り、以前ならノンタイトル戦になったはずのラモン・カルデナスのような選手でも世界ランカーに紛れ込むことになるのです。

もちろん、認定団体にとっては、ノンタイトル戦なら見入りゼロ、タイトル戦なら認定料をしっかり徴収できますから、どんな理由をつけてもタイトルマッチにしたいのは当然です。




現在、ラスベガスで最高のアリーナはマディソン・スクエア・ガーデンが手がけたThe Sphere。UFCに先を越されて、ボクシングではまだ〝未踏の地〟。最初にここでスイート・サイエンスを披露するのは…まさかまさかのパッキャオvsメイウェザー2????


日本人からボクシングファンなら誰もが知る人気階級のスター選手が出現、ラスベガスの最高アリーナやメガスタジアムで本物の大イベントをふちあげ、井上尚弥が「ぼくのラスベガスとは全く違う」と絶賛するーーーそんな日がいつか訪れるでしょうか…。


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米国プロボクシングの社会的ステイタス、一般のスポーツファンの興味・関心が最も高かった黄金時代は1950年代とされています。

それでも、60年代と70年代でこのスポーツが特別な輝きを放ち続けた理由は「技術の発達」、特に衛星放送の登場で、世界ヘビー級タイトルマッチが世界でリアルタイムで観れることと、「ヘビー級のレベルが最高潮」になったという2点に求められます。

そして、米国がGreatest だった時代は終わっても、世界スポーツ史上で最も偉大な男がプロボクシングのリングを席巻した、それが1970年代でした。


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モハメド・アリがどこで戦ったのか、それを振り返ることではっきりわかることが二つあります。

一つは61戦22年のキャリアで、アリがラスベガスのリングに上がったのはたったの6度、世界戦では4度だけ。

アリはニューヨークの一会場にすぎないマディソン・スクエア・ガーデンには6度、ヒューストンのアストロドームに3度登場。アリの時代に「ラスベガスはメガファイトを呼び込む強烈な磁力を持っていなかった」ということがよくわかります。

1975年5月16日のラスベガス・コンベンションセンター(ロン・ライル戦)、1965年11月22日のラスベガス・コンベンションセンター(フロイド・パターソン戦)、1978年2月15日のラスベガス・ヒルトン(レオン・スピンクス初戦)と、1980年10月2日のシーザース・パレス(ラリー・ホームズ戦)。そしてスピンクス戦は36歳、ホームズ戦は38歳、キャリア最晩年で2試合とも敗れています。

そして、二つ目はアリが戦った主な舞台を列記することで思いつくはずです。

1964年2月25日、ソニー・リストンから大番狂せで世界ヘビー級タイトルを奪ったのはフロリダ州マイアミビーチのコンベンションセンター。

この世界タイトルマッチの前哨戦でヘンリー・クーパーと戦ったのは英国ロンドンのウィンブリー・スタジアム。

1966年3月29日:カナダ・トロントのメイプルリーフガーデン(ジョージ・チュバロ戦)、同5月21日:英国ロンドンのアーセナル・サッカースタジアム(クーパーとの再戦)、同8月6日:英国ロンドンのアールス・コート・アリーナ(ブライアン・ロンドン戦)、同9月10日:ドイツ・フランクフルトのヴァルト・スタディオン(カール・ミルデンバーガー戦)、同11月14日:テキサス州ヒューストンのアストロドーム(クリーブランド・ウィリアムス戦)。

1966年は世界戦を5試合、米国では1試合だけ、ロンドンで2試合、トロントとフランクフルトで1試合ずつを戦いました。

1971年12月26日:スイス・チューリッヒのハレン・スタディオン。1972年4月1日:東京の日本武道館(マック・フォスター戦=ノンタイトル)、1972年7月19日:アイルラン・ダブリンのクロークパーク(アルビン・ルイス戦)、1973年10月20日:インドネシア・ジャカルタのブンカルノ・スタジアム(ルディ・ラバース戦)。

1974年10月30日:ザイール・キンシャサの5月20日スタジアム(ジョージ・フォアマン戦)。

1975年5月16日:マレーシア・クアラルンプールのムルデカ・スタジアム(ジョー・バグナー戦)、同10月1日:フィリピン・マニラのアラネタ・コロシアム(ジョー・フレイジャー戦)。

1976年2月20日:プエルトリコ・サンファンのコロセオ・ロベルト・クレメンテ(ジャン・ピエール・クープマン戦)。



アリが地球をサーキットしたのは、イスラム教への改宗と徴兵拒否で米国を敵に回したからだけではありません。

世界中に強烈な需要があったのです。



サッカーは欧州と南米が熱狂する地球の半分のスポーツ、五輪は1984年に〝商業オリンピック〟に生まれ変わる前夜、1970年代は衛星放送で世界が一つになったものの、世界中が同じ瞬間に共鳴するスポーツはありませんでした。

ザイールのモブツ大統領、フィリピンのマルコス大統領はオリンピックを招致するように、国家事業としてモハメド・アリの試合を招致したのです。

二つ目は「ボクシングの試合がオリンピック並みに世界中から注目される、そんな時代が確かにあった」のです。


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 本文とは関係ありません。



暑さ指数(WBGT)がラインを超えてしまったので中学野球の練習試合は中止。可哀想だけど、仕方がない。

着丼。

しかし、暑いな…。



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ラスベガスはいつからボクシングの〝本場〟と呼ばれるようになったのでしょうか?

ラスベガスはいまでこそ、地域住民も増え、年間80試合前後を開催するMLBの球場が建設され、他の大都市に近いカラーを帯びるようになりましたが、そもそもが欲望丸出しのはSin City(罪の街)。

Windy City(風なびく街:シカゴ)、Emerald City(緑美しい街:シアトル)、Space City(宇宙に繋がる街:ヒューストン)などの「なんだかいいなぁ」な街や、〝モーターシティ・コブラ〟トーマス・ハーンズでお馴染みのMoter City(自動車産業の城下町:デトロイト)、最近の日本製鉄の買収騒動でも有名になったUSスティールが本社を構えるSteel City(製鉄の街:ピッツバーグ)などの「街を隆盛させた産業」を異名に持つ、そんな街々とは少し毛色が違います。

ラスベガス

運営側にとって世界中から享楽的な人々が集まるラスベガスで試合を行う最大のメリットは、大金をばら撒いてくれる人を目当てにカジノが招致料を支払ってくれること。

マディソン・スクエア・ガーデン(MSG)やヤンキー・スタジアムでの興行には当たり前に会場費の支払いが発生しますが、ラスベガスのビッグファイトは会場費を取らないばかりか、莫大な招致料まで用意してくれるのです。

西岡利晃のMGMグランドと井上尚弥のTモバイル・アリーナは、PPVが付かない(課金するほど人気がない)のはまだしも、間違いなく会場費を支払っていますから摩訶不思議な興行なのです。会場費やその他諸々の経費も〝憧れ料〟と考えればいいのかもしれませんが、ラスベガスで興行を打つとは、そういう「自分でカネを払う腰の低い押し売り」ではありません。

米国でのプロボクシングが衰退し続けている最大の理由はタイトルの価値をみずから貶めてきたからですが〝ラスベガス〟もその一つと考えて差し支えありません。

ニューヨークやラスベガス、シカゴ、普通の大都市に住む普通のスポーツファンにとってラスベガスはけして近い場所ではありませんでした。

ビッグファイトはPPVオンリーで無料テレビでは見れない(井上の試合など日本人選手の試合を配信しているESPN+などは追加料金なし・実質無料)、市民からは遠いラスベガスでの開催。

PPVがらみの権利関係からメディアにとってもスポーツニュースで報道するのに金がかかるから、安価な静止画が使われる…そりゃ、ボクシングに興味を持った若い人たちや、一般のスポーツファンにとっては垣根が高過ぎます。

同じ階級ですら何人も〝世界チャンピオン〟が乱立し、マニアでもその名前を覚えきることができないカオスっぷり。

そりゃ、衰退するわけです。

さて、冒頭の質問に戻って「ラスベガスはいつからボクシングの〝本場〟と呼ばれるようになったのか?」。

答えは80年代からです。

それまでも、たびたび大きな試合が行われていましたが、ラスベガスはワン・オブ・ゼムに過ぎませんでした。

1970年代まで、プロボクシングはもっと大衆に近い場所で行われていました。そして、もちろん、今のように完全マイナースポーツに堕ちる前の時代ですから、複雑なルールを覚える必要のないボクシングという競技特性も大きな意味を持っていました。







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