米国プロボクシングの社会的ステイタス、一般のスポーツファンの興味・関心が最も高かった黄金時代は1950年代とされています。

それでも、60年代と70年代でこのスポーツが特別な輝きを放ち続けた理由は「技術の発達」、特に衛星放送の登場で、世界ヘビー級タイトルマッチが世界でリアルタイムで観れることと、「ヘビー級のレベルが最高潮」になったという2点に求められます。

そして、米国がGreatest だった時代は終わっても、世界スポーツ史上で最も偉大な男がプロボクシングのリングを席巻した、それが1970年代でした。


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モハメド・アリがどこで戦ったのか、それを振り返ることではっきりわかることが二つあります。

一つは61戦22年のキャリアで、アリがラスベガスのリングに上がったのはたったの6度、世界戦では4度だけ。

アリはニューヨークの一会場にすぎないマディソン・スクエア・ガーデンには6度、ヒューストンのアストロドームに3度登場。アリの時代に「ラスベガスはメガファイトを呼び込む強烈な磁力を持っていなかった」ということがよくわかります。

1975年5月16日のラスベガス・コンベンションセンター(ロン・ライル戦)、1965年11月22日のラスベガス・コンベンションセンター(フロイド・パターソン戦)、1978年2月15日のラスベガス・ヒルトン(レオン・スピンクス初戦)と、1980年10月2日のシーザース・パレス(ラリー・ホームズ戦)。そしてスピンクス戦は36歳、ホームズ戦は38歳、キャリア最晩年で2試合とも敗れています。

そして、二つ目はアリが戦った主な舞台を列記することで思いつくはずです。

1964年2月25日、ソニー・リストンから大番狂せで世界ヘビー級タイトルを奪ったのはフロリダ州マイアミビーチのコンベンションセンター。

この世界タイトルマッチの前哨戦でヘンリー・クーパーと戦ったのは英国ロンドンのウィンブリー・スタジアム。

1966年3月29日:カナダ・トロントのメイプルリーフガーデン(ジョージ・チュバロ戦)、同5月21日:英国ロンドンのアーセナル・サッカースタジアム(クーパーとの再戦)、同8月6日:英国ロンドンのアールス・コート・アリーナ(ブライアン・ロンドン戦)、同9月10日:ドイツ・フランクフルトのヴァルト・スタディオン(カール・ミルデンバーガー戦)、同11月14日:テキサス州ヒューストンのアストロドーム(クリーブランド・ウィリアムス戦)。

1966年は世界戦を5試合、米国では1試合だけ、ロンドンで2試合、トロントとフランクフルトで1試合ずつを戦いました。

1971年12月26日:スイス・チューリッヒのハレン・スタディオン。1972年4月1日:東京の日本武道館(マック・フォスター戦=ノンタイトル)、1972年7月19日:アイルラン・ダブリンのクロークパーク(アルビン・ルイス戦)、1973年10月20日:インドネシア・ジャカルタのブンカルノ・スタジアム(ルディ・ラバース戦)。

1974年10月30日:ザイール・キンシャサの5月20日スタジアム(ジョージ・フォアマン戦)。

1975年5月16日:マレーシア・クアラルンプールのムルデカ・スタジアム(ジョー・バグナー戦)、同10月1日:フィリピン・マニラのアラネタ・コロシアム(ジョー・フレイジャー戦)。

1976年2月20日:プエルトリコ・サンファンのコロセオ・ロベルト・クレメンテ(ジャン・ピエール・クープマン戦)。



アリが地球をサーキットしたのは、イスラム教への改宗と徴兵拒否で米国を敵に回したからだけではありません。

世界中に強烈な需要があったのです。



サッカーは欧州と南米が熱狂する地球の半分のスポーツ、五輪は1984年に〝商業オリンピック〟に生まれ変わる前夜、1970年代は衛星放送で世界が一つになったものの、世界中が同じ瞬間に共鳴するスポーツはありませんでした。

ザイールのモブツ大統領、フィリピンのマルコス大統領はオリンピックを招致するように、国家事業としてモハメド・アリの試合を招致したのです。

二つ目は「ボクシングの試合がオリンピック並みに世界中から注目される、そんな時代が確かにあった」のです。


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 本文とは関係ありません。



暑さ指数(WBGT)がラインを超えてしまったので中学野球の練習試合は中止。可哀想だけど、仕方がない。

着丼。

しかし、暑いな…。