1961年9月7日、テキサス州フォートワースに生まれたドナルド・カリーは兄2人と妹1人、4人兄弟の3番目だった。

ブルースとグレイリン、ドナルド、男の子3人はプロボクサーになった。

長兄ブルースは、日本のボクシングファンなら誰でも知っているWBCウエルター級チャンピオンだった。

トーマス・ハーンズの噛ませ犬もつとめたが、ハーンズと戦っただけでもすごいというのが日本からの〝下から目線〟だ。日本人相手にはバッファロー鈴木、ライオン古山、杉谷実(杉谷満の兄)、そして赤井英和をKOした天敵だった。

それなのに、日本の専門誌では「賢弟愚兄」と語られるのが定番だったのは、弟のドナルドが突き抜けて完璧なボクサーだったためだ。

ドナルドの「ハーンズとやりたいけど(彼が私を選ぶわけがないから)無理だろう」という言葉に、誰も傲慢さを感じない、それほど評価が高かった。

ボクシングに2人の兄に連れられて近所にあったピー・ウィー・ジムに通い始めたのは8歳のとき。

兄と違ってボクシングに興味はなかったが「ボクシングは嫌い」なんて口にすると仲間はずれにされるような小さな町だったから、ドナルドはしぶしぶ兄に付いていった。

80年代のボクシングはすでに没落の坂道を転がり落ちていたが、小さな町にもジムがあって、ボクシングがメジャー競技だった時代に少年だった父親から薦められるーーーそんな流れが珍しくない最後の時代だった。

プロ入り後もドナルドのトレーナーをつとめたポール・レイスと出会ったのもこのジムだった。

やはり父親からボクシングを薦められてボクサーになったレイスはゼネラルモータースのフォートワース工場で働きながら練習生を教えていた。

ブルースとグレイリンは他の子とは全く違う才能の持ち主だったが、ドナルドはなかなかリングに上がろうとしなかった。こちらから言わないと、グローブにも触りたがらない少年だった。

ボクシングに興味がないことがありありの物静かな少年だったが、いつもやけに落ち着いていたドナルドだった。

「ボクシングはタイミングが全て」という信条を持つレイスが、ドナルドに異次元の才能があることに気づくのに多くの時間は必要なかった。

「この8歳の少年が練習を積んで15歳になれば、誰も勝てない」。

アマチュアの大会で数々のトロフィーを持ち帰ってくるブルースを見て、ドナルドも「ぼくもあれが欲しい」とねだった。

レイスは「あれは1番のトロフィーじゃない。1番いいやつは1980年のモスクワで用意されている」と答えた。

10歳でアマチュアデビュー、抜群のタイミングでコンパクトにパンチを撃ち抜くドナルドは、彼を初めて見た人々を「phenomenon(天才)」と驚かせ続けた。

ところが、15歳でジュニアオリンピックで金メダルを獲った天才は、ボクシングよりも野球や陸上競技にも熱中していた。

1年ほどボクシングから離れていたが、17歳のとき再びピー・ウィー・ジムでわずか2日間の練習を再開して出場したフォートワースのゴールデン・グローブ(GG)大会で金メダル。

1978年と79年の全米AAUタイトル、五輪イヤーの1980年にはケニアで行われた世界選手権で金メダル、五輪トライアルでも勝ち抜いて米国代表の座をつかんだドナルドのアマチュア通算成績は404戦して400勝4敗。

「負けたのはブルースと戦うことになった全米GG大会の準決勝も含めて4つだけで正しいが、400勝どころかもっと勝っている」と語るカリーの言葉は事実だろう。

彼は大言壮語を並べるタイプではない。

フォートワースの天才少年は、ヒューストンの大学から奨学金制度を提示されたこともあって、都会での大学生活に憧れていた。プロとしてボクシングを続けながら学生生活も保証する奨学制度の特典には15名ほどが選抜され、彼らは高級車に乗って通学する〝貴族〟だったからなおさら憧れた。

モスクワ五輪で金メダル、そして進学というのがドナルド・カリーの将来プランだった。

先にプロ入りしていた兄ブルースを間近で見て、スポーツとはかけ離れた興行優先のプロボクシングの世界に嫌気もさしていた。

ところが…。



米国はモスクワ五輪をボイコット、カリーの将来プランは瓦解してしまう。

学生とプロボクサーの二足の草鞋でヒューストンの大学に進学するか、ボクシングに集中してプロでも頂点を目指すか?

カリーへの勧誘は大手プロモーターを中心に加熱したが、彼が選んだのは15歳のときから支援してくれていた地元のデビッド・ゴーマン。カリーの意を汲んで、レイスをトレーナーとして契約することも受け入れてくれた。

しかし、ゴーマンはトロイ・ドーシーやジーン・ハッチャーをマネジメントしたが、テキサスを離れるとけして強力なパワーハウスではなかった。

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左がポール・レイス。右がデビッド・ゴーマン。彼らがペトロネリ兄弟とマービン・ハグラーのような鉄の結束を誇る最強チームになると信じられていましたが…


誰もが知っているプロ入り後の快進撃は、ここで語る必要はないだろう。

順風満帆に見える連勝街道だったが、NABF王者マーロン・スターリング(初戦)との試合3日前に9ポンドオーバーの調整失敗(絶食で体重を落として計量クリア、判定勝ち)、レナードの引退で空位となったWBCウエルター級王座の決定戦は楽勝と思われた黄俊錫にダウンを喫する大失態も犯している。

小さな綻びはいくつも見えたが、当時は「単なる不注意」「完璧すぎるが故の油断」で片付けられた。

格下相手にダウンーーーレナードはそんな穴など全く見せなかったというのに…。

さらに、ビル・コステロにKOされてWBCジュニアウエルター級のタイトルを奪われた兄のブルースがマネージャーのジェシー・リードに発砲、現行犯逮捕されたあと精神異常と診断され長期入院してしまう。

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それでも、周囲からは「レナードの後継者となり、レナードが出来なかった打倒ハグラーを現実のものにする」ーーーカリーがそこに向かって駆け上がるに違いないと信じられていた。



テキサス州バールソンに構えた豪邸は5つのベッドルームを擁し、ガレージにはメルセデスやBMWの高級車種が並んでいた。

そして、腐ったボクシング界を冷静に見ていた彼はウォールストリート・ジャーナル紙やマネー誌を愛読、引退後に実業家になる準備にも余念がなかった。

ドナルド・カリーは旧来のボクサーとは全く違う。

多くのメディアがそう報じ、ファンはドン・カリーの未来が今以上に明るく開けたものになると予感していた。