カテゴリ: 村田諒太

世界初のドーム球場は、1965年にオープンしたアストロドームですが、1966年には早速ボクシングのメガファイトが開催されています。

世界ヘビー級タイトルマッチ。モハメド・アリの最高傑作と呼ばれるクリーブランド・ウィリアムズ戦です。

当時の米国は、朝鮮戦争、ベトナム戦争とソ連との代理戦争を繰り広げていました。60年代後半に盛り上がる反戦運動の火はまだ小さく、「ベトコンには何の恨みも無い」 と徴兵を拒否したアリは国家に反逆する悪人でした。

リングに上がったアリに、3万を超える大観衆から怒涛のようなブーイングが浴びせられます。

しかし、このときのアリはプライムタイムのど真ん中。 「蝶のように舞い蜂のように刺す」。 アンチで埋め尽くされた巨大スタジアムで、このスポーツがどうしてSweet Scienceと呼ばれているのかを、その理由をわずか10分足らずで見せつけたのです。

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【ボクシング界はもちろん、全スポーツ界でもアリのような伝説が紡がれることは永遠に無いでしょう。まさに不世出の偉人でした。】

バターのように滑らかなステップを刻みながら放つ高速の左ジャブで、挑戦者の攻撃を易々と寸断しながら、アリは右の照準とタイミングを正確に測っていきます。

3ラウンド、アリの右が一閃。キャンバスに大になったウィリアムズを見下ろすアリは両手を上げて有名なポーズを取りました。

もし、アリがライセンスを剥奪されずに大きなブランクを作ることがなかったなら…

虚しいビッグイフです。 



🍀 村田諒太は、アッサン・エンダムを初めてストップするボクサーになりましたが、あの試合が最高傑作になるわけがありません。

これからアリのように、伝説的な傑作を作って欲しいですね。その舞台が東京ドームなら、最高です。

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【リング誌3月号から。巻頭見開きで村田諒太vsアッサン・エンダム第二戦。「不可解な判定を経たリマッチで村田は、エンダムをストップした最初の男になった」。】

GGGにカネロ、さらにウェルター級の精鋭たち、最高傑作を製作するための素材は豊富にありますから。 
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ボクシングのメガファイト、巨大スタジアムといえばヤンキースタジアムですが、それ以外の魅力的なボールパークでも歴史に残るリングが特別に設営されてきました。

★★★1963年3月21日、世界フェザー級タイトルマッチが行われたのは、前年オープンしたばかりのドジャースタジアムでした。 

ニューヨークに本拠地を構えていた〝ブルックリン〟ドジャースと、〝ニューヨーク〟ジャイアンツは、1958年にそれぞれロサンゼルスとサンフランシスコに移転、MLBの世界も西海岸の時代に突入していきます。

チャンピオンは5連続防衛中のデイビー・ムーア。挑戦者は強打のシュガー・ラモス。 

ムーアは高山一夫の挑戦を2度にわたり退けていましたが、日本のファンがムーアとラモスの名前を記憶しているのは「あしたのジョー」が力石徹の死に際してこの試合を紹介したことも一因かもしれません。

王者ムーアは、米国代表として1952年のヘルシンキ五輪にも出場、テクニックとパワーを兼備した名選手。

対するラモスの売りは、凄まじいばかりの強打です。母国キューバ・ハバナで行われたプロ12戦目のリングでKOしたホセ・ブランコは、そのまま帰らぬ人となってしまいました。

試合はムーアが優勢に進めますが、ラモスの強打がじわじわと王者の体内にダメージを蓄積させていきます。 

迎えた10ラウンド、キューバ人のパンチが炸裂、痛烈なダウンを奪われたムーアはロープ最下段に後頭部を強打。 それまで30分近くもラモスの強打を打ち込まれ続けて脆弱な状態にあった脳は、その内部で出血してしまうのです。
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【ロープに後頭部を打ちつけてキャンバスに沈むムーア。宙をさまよう虚ろな目が危険過ぎます。】

ムーアは、意識不明のまま救急車で搬送され、二日後に病院で息を引き取りました。

この試合に衝撃を受けたボブ・ディラン はすぐに「Who Killed Davey Moore?」を発表します。

「殺したのは私じゃないと主審は言う。私は8ラウンドで試合を止めるべきだったかもしれないが、もしそうしていたら観客は私に酷い罵声を浴びせただろう」

「俺たちじゃないと観客は言う。俺たちは死ぬまでやってくれなんて誰も思っちゃいなかったんだから」

「私じゃないとマネージャーは言う。大変な悲劇だが、体調が悪ければ一言いってくれたら良かったのに」

「俺じゃないとギャンブラーは言う。確かにムーアに賭けたけど、死ぬまで戦えなんて叫んじゃいないんだから」

「殴ったのは仕事だからだ、とラモスは言う。ボクシングの試合をしただけだ。母国キューバじゃプロボクシングは禁止されてるから、ロサンゼルスまで来て戦ったんだ。俺は自分の仕事をしただけじゃないか」

ボブ・ディランの歌には、ボクシングの悲痛なまでの矛盾が凝縮されています。


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前の年にマジソン・スクエア・ガーデンで争われた世界ウェルター級タイトルマッチでも、エミール・グリフィスの強打に、ロープの間から半身を出しながらベニー・パレットが失神、合後病院に急行しましたが、意識は戻らずそのまま亡くなってしまいました。

この「パレット事件」を機にロープは3本から4本に改正されたのですが、わずか1年も経たないうちに皮肉にもその4本目のロープで、悲劇が繰り返されたのです。

ボブ・ディランの悲しい歌に乗って、ボクシングへの風当たりは強くなり、禁止運動にも火がつきました。

この恐るべき新王者シュガー・ラモスを 圧倒、タイトルを奪い取ってメキシコのアイドルに登り詰めたのがビセンテ・サルディバルです。

サルディバル、柴田国明、ファイティング原田、 エデル・ジョフレ…日本人もキープレイヤーをつとめた軽量級の一大叙事詩においても、ラモスは恐怖の脇役でした。
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ボクシングのメガファイト、巨大スタジアムといえば…そうです、ヤンキースタジアムです!

ニューヨーク・ヤンキースの本拠地は長らくポログラウンズでしたが、そこはニューヨーク・ジャイアンツとの共用でした。

今は無きポログラウンズもまた、アジア初の世界チャンピオン、パンチョ・ビラが誕生したリングが設営された巨大スタジアムで、ボクシングの大試合も数多く行われました。

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【日本には馴染みのない馬上ホッケー「ポロ」というクラシックなネーミングからは、幻想的な魅力が発散されていますが、実際にはポロ競技が行われたことはないと言われています。】

ヤンキースは1920年にレッドソックスから移籍したMLB史上最大のスター、ベーブ・ルースの活躍で莫大な入場料収入を売り上げ、それを元手にヤンキースタジアムを建設、1923年に竣工しました。まさしく「The house that Ruth built (ルースの建てた家)」でした。

1950年代、マジソン・スクエア・ガーデンの常連だったシュガー・レイ・ロビンソンは、ポログラウンズでも2回、ヤンキースタジアムでも4回、そのリングに上がリ、ニューヨークのスーパースターになります。

やはり1950年代の伝説、ロッキー・マルシアノもヤンキースタジアムのリングに4度も登場しましたが、この世界最高の野球場で行われたメガファイトを一つだけ選べ、と聞かれたら、誰もが口を揃えてこう答えるでしょう。

「ジョー・ルイスvsマックス・シュメリング第2戦だ」と。

ときは、1938年6月22日。ヤンキースタジアムに詰めかけた観客は、7万人を超えました。

アドルフ・ヒトラーから「アメリカを倒せ」と送り込まれたシュメリングは、2年前にやはりヤンキースタジアムでルイスをノックアウト、〝褐色の爆撃機〟のキャリアに初黒星をつけていました。

ファシズムが猛威を振るい、世界を脅かしていた、そんな時代の真っ只中です。

シュメリングは今回もヒトラーから激励され、ルイスはフランクリン・ルーズベルトから必勝の命を受けます。

試合はルイスの速攻が功を奏し、1ラウンド2分4秒で〝ヒトラーの刺客〟を撃退しました。

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【シュメリングはあの時代に生きながら、一貫してナチス入党を断り、ナチスから「ユダヤ人のマネージャーを解雇しろ」と命令されても従いませんでした。「ナチス最強の兵器」「ヒトラーの刺客」という表現は実は虚構です。「国のためにルイスと戦うんじゃない。最高のボクサーになりたいから、最高のボクサーと戦う、それだけのことだ」。リングの中はもちろん、リングの外でも強かったシュメリングは人間としてもチャンピオンだったのです。】

ルイスvsシュメリングは、もはや巨大スタジアム云々の枠では語れない、悪い意味でもボクシングを超えた戦いでした。

♣️「アメリカ対ナチス」の代理戦争とも、「第二次世界大戦の一部」とも言われますが、21世紀の村田諒太になぞらえると…いえいえ、こういう戦いはもう二度とあってはいけません。

政治や国家やイデオロギーの腐臭が漂うリングなど、見たくもありません。

しかし、「最高のボクサーになりたいから、最高のボクサーと戦う」。シュメリングのその信念は、どんな時代のボクサーも絶対に忘れてはならない言葉です。

最高のボクサーになるためには、最高のボクサーを倒すしかないのです。穴王者や雑魚挑戦者を何人蹴散らしても、綺麗な戦績が空虚に残るだけで、誰も最高だと評価はしてくれません。

村田にも最高のボクサーを倒していただきましょう。ミドル級です。いくらでもいます。

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=写真=リング誌2016年9月号「ROLL WITH THE PUNCH」から。時代は違っても縁の深い二人のボクサーを、より少ない対戦相手を辿って巡り合わせるゲームです。

「アラバマ州出身の世界ヘビー級チャンピオン」という共通点を持つジョー・ルイスと、デオンティ・ワイルダー。ルイスが初めて世界王者になったのは1937年、わずか6ステップで80年のときを飛び越えワイルダーと邂逅します。

「ルイスvs①マルシアノvs②アーチー・ムーアvs③モハメド・アリvs④ジョージ・フォアマンvs⑤シャノン・ブリッグスvs⑥セルゲイ・リャコビッチvsワイルダー」


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テレビもラジオも普及していない時代。そもそも、そんなあざとい文明の利器など無かった時代。

ボクシングは自分の足で会場に行ってチケットを買い、その目で見るしかありませんでした。ビッグファイトには当然、大観衆を収容できるバカでかいハコが必要でした。

売上のほぼ100%がチケット購入だった時代は過ぎ去り、巨大スタジアムでの興行も今や絶滅危惧種です。

ビッグファイトが効率的な有料テレビに傾倒する現在、「メイウェザーvsパッキャオが史上最高の興行」だと言われても、1万6000人しか〝証人〟がいなかったのは、凡戦に終わったのは仕方がないにせよ、興行側に「一人でも多くのファンに見せたい」という当然の思いが欠落していたことに深い幻滅と失望の疲れた感情しか湧いてきません。

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【史上最大の興行規模を記録した「メイウェザー・パッキャオ」でしたが、観客動員数は歴代500位にも入らない、その試合内容同様に残念なものでした。=写真=ボクシングを見限ったスポーツイラストレイテッド誌もこのメガファイトばかりは無視できなかったのか、ダブルカバーで大特集しました。しかし、その内容はカネのことがほとんど、何の特集なのかわかりません。】

パックメイを巨大スタジアムで開催できなかったことに、現在のボクシング界が抱える病巣が凝縮されています。

 さあ、このアコギで窮屈で効率しか考えない21世紀からタイムマシンに乗って、大らかで圧倒的で郷愁溢れる巨大スタジアムのゴングを聞きに行きましょう。

★★★1921年、米国ニュージャージー州ニュージャージー市にこの試合のために巨大スタジアムが特設されました。

7月2日、ボイルズ・サーティ・エイカーズに詰めかけた観客は8万183人。

世界ヘビー級王者ジャック・デンプシーに、世界ライトヘビー級王者ジュルジュ・カルパンチェが挑む超弩級のメガファイトです。

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入場料は100万ドルを越え、史上初のミリオンダラーゲートを記録しました。さらに、初めてラジオで実況中継されるという、二重の「史上初」という画期的な試合となりました。

無慈悲に荒れ狂う嵐のようなファイティングスタイルでアンチも多かったデンプシーよりも、フランスから大西洋を越えてきたハンサムな〝欄の男〟カルパンチェの華麗なボクシングを応援するファンが観客席のほとんどを占めるという、デンプシーにとっては地理的にはホームでも、現実にはアウェーの戦いとなりました。

しかし、試合は4ラウンドKOでデンプシーの圧勝に終わります。

〝マナッサの虐殺者〟vs〝欄の男〟。対照的なキャラクターの二人が世界最強の座を争うのですから、その舞台は巨大スタジアムしかありえませんでした。


♣️このモデルケースで、村田諒太の東京ドームを想像すると、絶対的な強さを万人に認めさせた村田が、ウェルター級から侵略してきた華麗なスピードスターを迎え撃つというところでしょうか。

「ウェルターのスピードスター」。今なら、エロール・スペンスJr.あたりですかね。


★★★1926年9月23日。米国ペンシルバニア州フィラデルフィア:セスクセンテニアルスタジアム(アメリカ独立150周年記念博覧会の会場として建設、後のジョン・F・ケネディス・タジアム。1992年に老朽化のため解体されました)。

またもリングに上がったのは、世界ヘビー級王者、ジャックデンプシー。 対する挑戦者はジーン・タニー。

この日、巨大スタジアムの席を埋めた有料入場者数は、なんと12万757人!

この数字は、1993年にフリオ・セサール・チャベスvsグレグ・ホーゲン戦で破られるまでの67年の間、世界記録でした。

試合は、7年計画で デンプシーを科学的に研究したタニーが、10ラウンド判定(この当時は10ラウンドで世界戦を争っていたのですね)でデンプシーに土をつける番狂わせを起こし、タイトルを奪います。

ちょうど1年後の9月22日にシカゴのソルジャーズ・フィールドで行われたリマッチでは、有名な「ロングカウント事件」で命拾いしたタニーが再び判定勝ち、デンプシーの伝説的なキャリアにピリオドを打ちます。 

「ロングカウント事件」 は63年後の東京ドームでも起き、世紀の番狂わせを演出しました。


♣️村田の近未来でなぞらえると、ゲンナディ・ゴロフキン戦でしょう。GGGを研究し尽くした村田が、巨大スタジアムのリングで、無敵の王者を玉座から引き摺り下ろす!そんなシーンを早く見たいですね。
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村田諒太が口にした「東京ドーム」。

村田が夢を現実にしても、この巨大スタジアムのリングに上がった最初の日本人ではありません。

1990年2月11日、マイク・タイソンが沈んだ世紀の大番狂わせ「東京ショッカー」のリングにデビュー2戦目の辰吉丈一郎が登場しました。ちなみに、このリングにはノリ・ジョッキージムを大逆転で下した高橋ナオトら、他にも日本人ボクサーが上がっています。

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【=画像は「ボクシングマガジン緊急増刊号「不死鳥伝説 辰吉丈一郎」から= …1997年11月、日本ボクシング史上最も感動的な試合の一つ辰吉丈一郎vsシリモンコン・ナコントンパークビューの決戦は大阪城ホールで行われましたが、入場者数は1万1000人、「巨大スタジアム」と呼ぶのは憚られます。

「(感動で)鳥肌が立つことはこれまでもありました。でも試合が終わった時に膝がガクガクしてた、こんなことは初めてです」とリングサイドで語ったイチロー。

同年4月のダニエル・サラゴサ戦では、何も告げずにリングサイドに席を取ったイチローでしたが、この日はゴングまで数時間しかない16時になって「試合を見に行きます」と辰吉に電話しました。

「サラゴサ戦のように傷ついて負ける姿は見たくなかったし、最もデリケートなタイミングなのはわかっていましたが、とにかく胸騒ぎがして…何かが起こるような気がしました。何かが起こる、起こして下さい、と伝えたくて『試合を見に行きます』とだけ電話で告げました」。

このときすでに4年連続首位打者を獲得していた24歳の天才と、27歳の辰吉。あれから21年の歳月が流れましたが、なんということでしょう、二人はまだ現役です。

辰吉「イチローより先に引退はせぇへんよ。絶対負けへんから」
イチロー「辰吉さん、それズルいって!」

今二人が会ったら、こんな会話でも交わすんでしょうか。】



タイソン初お目見えの前年にも坂本孝雄から大番狂わせで日本王座を強奪した吉野弘幸、平野公夫らも東京ドームのロープをくぐっています。

ただし、この2年連続の東京ドーム興行でリングに上がった日本人は、タイソンがらみの前座でした。

村田が目指すのはもちろん前座ではなく、アイアン・マイクのポジションです。

…辰吉、イチロー話で脱線してしまいましたが、次こそは、大観衆を飲み込んだ巨大スタジアムで繰り広げられた伝説の試合を振り返ります。
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白井義男は、都合10度も後楽園球場のリングに上がりました。

1955年5月30日に世界王者を奪われたパスカル・ペレスとのリターンマッチも、やはり後楽園球場。残念ながら5ラウンドKOで返り討ちに会ってしまいましたが、TV視聴率は96.1%。 この驚異的な数字は歴代最高視聴率、日本のテレビ史に残るアンタッチャブルレコードとして今も更新されていません。

国破れて10年も経たない時代。荒廃に打ちひしがれた日本人が、世界王者として戦い続けた白井の姿にどれほど勇気づけられたか、その感動と興奮は想像に難くありません。

村田諒太がリング上でどんなパフォーマンスを演じても、視聴率96.1%は不可能です。何よりも今や、世界で戦う日本人を渇望する、身も心も打ちのめされた国民など、どこを探しても存在しません。

それでも、条件が整えば村田は東京ドームで興行を打てます。

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東京ドームは、収容能力4万6000人(当初はそれまでの慣習から5万5000人とかなりサバを読んだ数字を公表していましたが)、フィールドにも客席がセットアップされるボクシングやコンサートでは5万7000人のキャパがあります。

村田は、有明コロシアムと両国国技館、1万人スケールの会場をフルハウスにしたとはいえ、5万7000人とはかなりの隔たりがあります。

ボクシング界はもちろん、スポーツ全体に視界を広げても村田諒太は日本屈指のスポーツセレブですが、この超弩級のハコで興行を打つには、まだまだ知名度は足りません。

30年前に東京ドーム興行を立て続けに成功したマイク・タイソンは、世界王者になる前から日本でも多くのメディアが取り上げていました。

「史上最年少でヘビー級王者になる男」「ロッキー・マルシアノの記録を更新する」「カス・ダマトの最高傑作」…まだ何も成し遂げていないばかりか、耳目を集めた連勝も、軽いクラスを主戦場とするボクサーや、低レベルの相手ばかりと戦い造られたものだったにもかかわらず。

村田も専門誌だけでなく一般メディアに数多く登場、ベストジーニストやイクメンオブザイヤー、ベストファーザーなどを受賞、昨年末にはゲスト審査員として紅白歌合戦に招かれました。

スポンサーも、先日発表されたウェラブルIoT開発のミツフジをはじめ数多く抱え、アンダーアーマーやすき家などではCMキャラクターとしても起用され、プロボクサーとしては異例の存在となっています。

タイソンも一般メディアでも頻繁に登場しましたが、そのテーマは全て「ボクサーとしていかに凄いか」に集中するもので、そのことが東京ドームの試合への関心に直結しました。

またテレビ CMでも、30年前にタイソンが出演したトヨタやサントリーは、それぞれ最大3000GRPレベル、今の村田はその十分の1にも満たない露出にとどまっています。

東京ドーム興行を現実のものにするには、もっと村田諒太の認知度を上げていかなければなりません。それも「ボクサーとしていかに凄いか」という方向で。

現時点の村田は、多くの一般人には「かっこいいプロボクサー」、ボクシングファンには「ミドル級は凄いけど現時点の村田は平凡な王者」という認識でしょう。

ボクサーとしての実力は、一般人はよくわからず、ファン・マニアの目からは「まだまだ」という評価なのです。

今の時点でも、ミドル級のトップと戦うとなればファン・マニア層はもちろん、ボクシングに興味のない一般層もある程度取り込めるでしょうから、「有明や両国+α」の観客動員が見込まれますが、東京ドームは厳しいですね。

東京ドームのリングは遠くないとはいえ、アルファベット団体の〝偽〟世界ランカーではなく、リング誌やESPNのランキングで上位に名前を連ねる世界ランカーに明白な勝利を収めて、一般メディアが「ボクサーとしても凄い」ことを報道、一般層のボクサー村田への関心度を高め、マニアも納得させる実力を証明することが必要です。

リング誌、ESPNいずれも村田の評価を上回っているのはゲンナディ・ゴロフキン、カネロ・アルバレス、ダニエル・ジェイコブス、セルゲイ・デレビャンチェンコ、ジャーマル・チャーロ、デビッド・レミューの6人。

ジャーマルと同じく、無敗のままジュニアミドル級王者からミドル級に進出してきたデメトリアス・アンドラーデも加えた7人に勝てば、村田株は高騰、東京ドームへの駒を一気に進めることが出来ます。

トップ2のゴロフキンとカネロは、5月5日にリマッチを行うことで調整に入っていると報道されていますが、すでに地位と人気を確立しているこの二人にとって、堅牢な防御と強烈な右を持つ村田は評価は下でも危険な相手です。簡単には戦ってくれないでしょう。

ジェイコブス、デレビャンチェンコ、チャーロ、レミュー、アンドラーデは、トップ2と戦うために危険を冒してでもさらなる評価アップが必要です。彼らにとって「アッサン・エンダムを初めてストップした金メダリスト」は、リスクはあっても評価のリターンも十分見込める相手です。

日本のリングに呼ぶのは難しいでしょうが、この5人の誰かを年内に明白な形で倒したいですね。

「有明、両国+α」の現在地点から、東京ドームの特設リングまでの距離を埋めるには、露出と評価をさらに引き上げることです。露出といってもジーニストやイクメンという横顔はもうお腹いっぱいです。

ミドル級のプロボクサーとしての凄みを見せること、そのことでボクサーとしての顔を真正面からとらえる露出が増え、評価も上がります。

前述の5人のうち一人でも倒したら、電通は東京ドームのスケジュールを確認、リングのポジション、アリーナ席のレイアウトを考え始めるでしょう。

とんでもない夢に思えるかもしれませんが、世界王者のワンピースとはいえ〝不倒不屈〟のアッサン・エンダムをストップした時点で、東京ドームへのアプローチは始まっていたのです。

次は巨大スタジアムを舞台にしたメガファイトに、村田の夢、ボクシングファンの夢をオーバーラップさせていきます。
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1990年2月にマイク・タイソンが東京ドームの特設リングに上がって以来27年、この大舞台に立ったプロボクサーは一人もいません。

バブル絶頂の当時と今では経済環境は比較すべくもなく、観戦スポーツの多様化も一気に進みました。

日本中の老若男女、誰もが口ずさめる歌がとっくの昔に喪われたように、列島を沸騰させるアスリートがこの国から姿を消してからもまた、長い長い歳月が流れてしまいました。

ましてや、ボクシングという競技に目を向けると、毎晩のように民放各局がゴールデンタイムにボクシングの試合を放送していた1960年代をピークに、現在までジリ貧の下降線を描き続けています。

具志堅用高や辰吉丈一郎、亀田興毅の試合はピーク時に迫る視聴率をマークしましたが、いずれも一人のボクサーへの気まぐれ的な注目で終わり、ボクシング市場全体の活性化にはつながりませんでした。

そんな時代に、村田諒太は「東京ドームを現実にしてもいいんじゃないか」 とぶち上げました。

もちろん、すぐに東京ドームで出来るわけはありません。

村田が夢の舞台に立つためには、何が必要なのか?巨大スタジアムのリングに上がったグレートにあって、今の村田に無いものは何なのか?

かつて、日本のボクシング史にも巨大スタジアムに特設リングを組み上げるほどのハコが必要な、本物のスーパースターが存在しました。
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白井義男です。

1952年5月19日。世界フライ級タイトルマッチ、王者ダド・マリノを判定で下し、日本人で初めて世界のチャンピオンベルトを腰に巻きました。現在、この日は「ボクシングの日」になっています。

そして、8階級1団体の時代に、この価値あるタイトルを4度も守ったのです。

階級は2倍以上の17、団体は4倍に増殖した現在なら、単純計算で32度防衛に当たります。実際にはそんな瑣末な数字ではなく、8階級1団体のタイトルという重みが凄すぎます、ただただ偉大の一言です。

もちろん4団体も17階級も、ボクシングの地位低下も、今のボクサーには全く責任の無いことだけに、今のボクサーは可哀想です。

午後8時のゴングにもかかわらず、正午から球場に詰めかけた観衆は、最終的にはなんと4万5000人までに膨れ上がりました。

実数発表が定着するずっとずっと以前のメガファイトですから、水増しされた切れの良い数字と考えられますが、それを考慮しても3万5000〜4万人は入ったと言われています。

さらに、驚くのが観戦料です。スペシャルリングサイド3600円、リングサイド2000円、普通指定席1000円、内野席1階900円、内野席2階500円、外野席200円。大卒初任給が6000円の時代ですから、少なく見積もっても、今なら30倍と計算すると、スペシャルリングサイドは10万8000円、普通指定席で3万円、最も安い外野席でも6000円となります。

66年も経った今でも、「高ッ!」と思える価格です。

超高額のシートをセットした後楽園球場をフルハウスにし、TV視聴率調査が始まる以前なのでこのときの記録は存在しませんが、ほぼ100%だったでしょう。

村田諒太がヘビー級までの5階級を制覇しても、チャンネルと価値観が多様化した現在、視聴率100%は不可能です。

白井の時代、世界王者になるのは今よりもはるかに難しかった一方で、国民は世界のヒーローに飢えていました。

大相撲は言うまでもなく、プロ野球も国内に閉塞していた時代、そして五輪も知らなかった時代、日本人の手が届くかもしれない「世界のヒーロー」は、ボクシングをおいて他にはありませんでした。

しかし、2018年の今の時代、ミドル級という特別なクラスを考慮しても、村田ですら、日本だけでも何人いるのかわからない乱造世界王者の一人に過ぎません。

ヘビー級まで制覇しなくとも、ミドル級で4団体統一を果たせば実績的には白井に並ぶことになりますが、村田が1952年の歓喜を再現することは不可能です。

最も日本を震わせたボクサーは白井義男であることは、永遠に変わりません。イチローが長嶋茂雄を超えることがないように。全ては〝時代〟です。

では、村田は東京ドームをフルハウスに出来るか?、となると、これは十分可能性があります。

国民的ヒーローが生まれにくい一方で、現代は宣伝・広告も貧弱でマーケティングなど影も形も無かった白井の時代とは全く違います。

マイク・タイソンの東京ドーム興行が成功したのは、バブル景気に沸いた大企業がスポンサーとなったからです。

中でもトヨタとサントリーの支援は強烈でした。そして、周到なマーケティング戦略を駆使して、このジャパンマネーを効果的に収集したのが、今、村田をバックアップしている電通でした。 
 
村田が目指す東京ドームへの道。タイソンを日本でも見事に商品化した方法が、格好の羅針盤になるはずです。

次は、マイク・タイソンの成功例です。
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「ラスベガスはもちろん試合をしたいですが、僕は日本のボクシング界が盛り上がってほしいと思うようになった。それには東京ドームというのも現実にしてもいいんじゃないか、と」。

沖縄でキャンプ中のWBAミドル級王者、村田諒太が語ったそうです。

ボクサーが東京ドームでメインを張るとなると、1988年と1990年のマイク・タイソン以来3度目、日本人としては初めての快挙です。

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【タイソンは、トニー・タッブス戦のために来日する直前の1988年2月に元ファッションモデルで女優のロビン・ギヴンズと結婚しましたが、すぐに離婚。稀代の悪女に一目惚れしたタイソンが支払った慰謝料は1000万ドル、史上最大の美人局と言われました。=写真はタイソン対タッブス戦を特集した雑誌「ナンバー」から。】



これまでも、多くのメガファイトが巨大スタジアムで開催されてきました。

最近では2015年にカネロ・アルバレスとジェームズ・カークランドが、ミニッツメイド・パーク(昨年ワールドシリーズを制したヒューストン・アストロズの本拠地です)で拳を交えています。

何度も後楽園球場の特設リングに上がり、今の凋落著しい日本プロボクシングでは想像もつかない超大観衆を熱狂させた白井義男は、日本スポーツ史に燦然と輝くグレートです。

白井とタイソンはもちろん、モハメド・アリやフリオ・セサール・チャベス、マニー・パッキャオらが繰り広げた巨大スタジアムでの決闘を振り返り、村田諒太がその舞台に立つまでに何が必要なのかを考えてみたいと思います。
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プロボクシングの魅力は、勝者と敗者のコントラストの鮮やかさです。

ビートたけしが語るように「勝者がロープに登って歓喜の雄叫びをあげている、その真下で血まみれになってキャンバスに転がされた敗者。こんなスポーツは他には無い」のです。

勝者と敗者のコントラストは、現実のリング上で起きる事象にとどまりません。勝者は敗者から強引に〝遺産相続〟までしてしまうのです。モハメド・アリはジョージ・フォアマンを倒すことで、文字通りのレガシーを強奪し、マニー・パッキャオはオスカー・デラホーヤを打ち負かして、そのレガシーを引き継ぎました。

「ボクシングで勝つということは、相手を踏みにじって上に行くこと。だから責任がともなう。これからは彼の分も戦う」(村田諒太)ことになるのです。

「私が喫した二つの黒星は、私のキャリアにとって深刻な挫折だったし、二つ目は私のキャリアを終わらせた。しかし、この二つの敗北こそが、私のキャリアの勲章だ」(ヘナロ・エルナンデス)。彼が40戦を数える戦績で、負けたのはデラホーヤとフロイド・メイウェザーJr.の2敗だけです。

ボクシングは「誰に勝ったか」が問われるスポーツですが、「誰に負けたのか」もまたコインの裏表なのです。ヘナロのボクシング人生は間違いなく幸せでした。

偉大な相手に負けることは、恥ずかしいことではなく、時間さえ経てば、敗者も納得出来る誇りに昇華します。寺尾新や千里馬哲虎がマニー・パッキャオを語るとき、それは誰の耳にも自慢話にしか聞こえません。

この残酷なスポーツにおける、勝者と敗者のコントラストは、それだけにとどまりません。誇りに昇華する敗北もあれば、そのボクサーにとって生涯の悪夢となる呪縛の1敗もあります。

サッカーや野球の世界での敗北は多くの場合、勝利によって帳消しになります。しかし、ボクシングにおける1敗は、ときとして取り返しがつきません。

ビッグイフですが、フォアマンがアリに負けていなければ、トーマス・ハーンズがシュガー・レイ・レナードとの初戦に勝利していたら、彼らのキャリア、評価、いいえその人生が全く違ったものになっていたでしょう。どんな勝利によっても、けして払拭できない、悪霊のような敗北に、彼らは一生付きまとわれるのです。

頂点を目指して対戦相手を踏みにじり続けてきたフォアマンやハーンズが喫した1敗が自慢話になることは、永遠にありません。けして癒えることがない生々しい宿痾として、いつまでも残るだけです。

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【「隣の芝生は青い」のかもしれませんが、フジテレビよりもESPNの放送の方が、テレビ画面も解説もクールです。】

フォアマンやハーンズですら挫折した峻厳な獣道に足を踏み入れたのが、村田諒太です。彼はすでに1敗はしていますが、幸いなことにこの1敗は、取り返しのつかない悪霊ではありません。

He won the fight and got absolutely robbed. (ESPN:勝ったのは村田、彼は絶対的に勝利を盗まれた)というのが、この1敗の世界的な認識です。

しかし、村田がこの獣道を突き進み、アリやレナードのように頂上に辿り着けるのか、となると楽観的な見方が出来るボクシングファンはいないでしょう。

現在、リング誌で6位、ESPNで9位と着実に世界評価を上げています。「ガードの固さと、右の一撃は階級最高」と評価される一方で、「そのアゴは一度も試されていない。右につなげる左のリードパンチがどこまでのレベルにあるのかもまだ見えない」と未知数の不安を指摘されています。また「これからの対戦相手は、村田の右が最も効果的な距離を潰しにかかるのは間違いない」「クロスレンジでパンチの回転がもとめられるインファイトはおそらく苦手だろう」とも。

ゲンナディ・ゴロフキン、カネロ・アルバレス、ダニエル・ジェイコブス、ジャーマル・チャーロ、セルゲイ・デレビャンチェンコの5人には分が悪いでしょう。

ゴロフキン、チャーロ、デレビャンチェンコは村田のプレッシャーをまともに受けて立つはずです。どちらの火力が上か、ものすごい試合になるでしょう。そして万一、村田が下がる展開を強いられたとき、日本の希望がプランBを披露することが出来るのか。

カネロとジェイコブスは正面衝突は避けて足を使うでしょう。エンダムよりもカネロはずっと速く、ジェイコブスは遥かに高い迎撃力を持っています。村田がカネロを捕まえられるのか、下がりながらも強打を放つジェイコブスを倒せるのか。

もはや、村田に世界10傑の実力が備わっていることに疑問の余地はありません。ボブ・アラムは「来年2月に日本で防衛戦をこなしてから、米国で大きな試合を」と目論んでいるようですが、次の試合がビッグネームとの決戦になったとしても大きな驚きはありません。

スポーツ中継で20%を超える視聴率を叩き出す国民的人気と、ジャパンマネーが背景にあることも考えると、日本に絶対に呼べないのはカネロだけでしょう。この人気者との対決ならT-Mobileアリーナでも、カウボーイズスタジアムでも、どっちでも望むところです。

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ゲンナディ・ゴロフキンの牙城に、当代きっての人気者カネロ・アルバレスが挑んだミドル級最強決定戦は、公式のジャッジでは引き分けに終わってしまいました。

来年5月のリマッチが内定と見られ、GGGの劣化待ちの引き延し工作を弄してきたカネロ陣営にとっては、さらなる時間稼ぎが出来ることになリ「カネロ勝利」を推す声が初戦以上に高まっています。

いずれにせよ、GGGvsカネロ再戦のボールは、Aサイドのカネロ陣営が握っています。GGG陣営は引き延し工作を嫌い、12月の再戦を希望していますが、カネロが受けるわけがありません。

今日になって、GGGとジャーマル・チャーロが、チャーロの地元ヒューストンで戦う可能性があると報じられました。

逃げ回るカネロを追いかけ回したGGGでしたが、チャーロは逃げないでしょう。ただ、カネロよりも速くて強打者のチャーロは、カザフスタン人のキャリア最大の脅威です。慎重なトム・ラフラーが、はるかに稼げるカネロ2が吹っ飛ぶかもしれない、危険すぎる橋を渡るわけが無いと思いますが…果たして?

そして、我が日本の村田諒太は、WBAのレギュラー王座を勝ち獲り、この頂上決戦の勝者(あるいは敗者?)との対戦につながる切符を手にしました。

GGGであろうがカネロであろうが、Undisputed Champion、「俺の他には誰も王者と名乗ることは許されない」、そんな議論する余地の無い王者になるには、村田を倒すことが必要条件になったのです。

もちろん、すでに、村田本人が口にしているように、現在の立ち位置はけして強固な地盤の上にはありません。ただでさえ、液状化しているアルファベット王座の中でも、WBAでスーパー王者が存在する場合、レギュラー王者をメディアは「secondary champion」と表現することが多々あります。そして、ミドル級では、現実にスーパー王者は 存在しているのです。GGGです。

村田諒太は、secondary championです。

英和辞典的に訳すと、よく言えば「第二の王者」、悪く言うと「副次的な王者」「従属的な王者」、意地悪な表現になりますがが「二流の王者」と訳しても間違いではありません。

現時点での世界王者は、WBAスーパー、WBC、IBF、IBOがゴロフキン、リング誌認定王者がカネロ、WBOがビリー・ジョー・サンダース。彼らと比べて、村田のベルトは明らかに軽く見られているのが事実です。

それでも、文句無しのミドル級最強を名乗るには、まだ一度も底を見せていないアジアの重戦車を無視することはできません。

村田を共同プロモートするトップランクは、2018年〜19年で村田が頂上決戦に挑むスケジュールもちらつかせています。「GGGが来年5月にカネロに勝てば、ファイトマネーが2億円前後(カネロ戦は例外なので除く)のカザフスタン人なら、東京ドームに呼べる」(ボブ・アラム)と踏んでいるようです。


【「スーパーファイトの仕掛け人」。これは、今なおミドル級史上傑出したスケールのメガファイトとなったシュガー・レイ・レナード対マーベラス・マービン・ハグラーの「THE SUPER FIGHT」の事です。】

東京ドームが現実的かどうかはさておき、村田が世界的なビッグファイトのリングに続く一本道の入り口に立っていることは間違いありません。

当たり前ですが、その一本道は絶対に平坦ではありません。とんでもない急坂の、獣道です。

しかし、このスポーツで最も険しく、過酷な坂道を、まさか日本人が突き進む姿を見ることが出来る、そんな日が来るなんて!

ありがとう、しか言葉にできません。

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