ボクシングのメガファイト、巨大スタジアムといえばヤンキースタジアムですが、それ以外の魅力的なボールパークでも歴史に残るリングが特別に設営されてきました。

★★★1963年3月21日、世界フェザー級タイトルマッチが行われたのは、前年オープンしたばかりのドジャースタジアムでした。 

ニューヨークに本拠地を構えていた〝ブルックリン〟ドジャースと、〝ニューヨーク〟ジャイアンツは、1958年にそれぞれロサンゼルスとサンフランシスコに移転、MLBの世界も西海岸の時代に突入していきます。

チャンピオンは5連続防衛中のデイビー・ムーア。挑戦者は強打のシュガー・ラモス。 

ムーアは高山一夫の挑戦を2度にわたり退けていましたが、日本のファンがムーアとラモスの名前を記憶しているのは「あしたのジョー」が力石徹の死に際してこの試合を紹介したことも一因かもしれません。

王者ムーアは、米国代表として1952年のヘルシンキ五輪にも出場、テクニックとパワーを兼備した名選手。

対するラモスの売りは、凄まじいばかりの強打です。母国キューバ・ハバナで行われたプロ12戦目のリングでKOしたホセ・ブランコは、そのまま帰らぬ人となってしまいました。

試合はムーアが優勢に進めますが、ラモスの強打がじわじわと王者の体内にダメージを蓄積させていきます。 

迎えた10ラウンド、キューバ人のパンチが炸裂、痛烈なダウンを奪われたムーアはロープ最下段に後頭部を強打。 それまで30分近くもラモスの強打を打ち込まれ続けて脆弱な状態にあった脳は、その内部で出血してしまうのです。
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【ロープに後頭部を打ちつけてキャンバスに沈むムーア。宙をさまよう虚ろな目が危険過ぎます。】

ムーアは、意識不明のまま救急車で搬送され、二日後に病院で息を引き取りました。

この試合に衝撃を受けたボブ・ディラン はすぐに「Who Killed Davey Moore?」を発表します。

「殺したのは私じゃないと主審は言う。私は8ラウンドで試合を止めるべきだったかもしれないが、もしそうしていたら観客は私に酷い罵声を浴びせただろう」

「俺たちじゃないと観客は言う。俺たちは死ぬまでやってくれなんて誰も思っちゃいなかったんだから」

「私じゃないとマネージャーは言う。大変な悲劇だが、体調が悪ければ一言いってくれたら良かったのに」

「俺じゃないとギャンブラーは言う。確かにムーアに賭けたけど、死ぬまで戦えなんて叫んじゃいないんだから」

「殴ったのは仕事だからだ、とラモスは言う。ボクシングの試合をしただけだ。母国キューバじゃプロボクシングは禁止されてるから、ロサンゼルスまで来て戦ったんだ。俺は自分の仕事をしただけじゃないか」

ボブ・ディランの歌には、ボクシングの悲痛なまでの矛盾が凝縮されています。


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前の年にマジソン・スクエア・ガーデンで争われた世界ウェルター級タイトルマッチでも、エミール・グリフィスの強打に、ロープの間から半身を出しながらベニー・パレットが失神、合後病院に急行しましたが、意識は戻らずそのまま亡くなってしまいました。

この「パレット事件」を機にロープは3本から4本に改正されたのですが、わずか1年も経たないうちに皮肉にもその4本目のロープで、悲劇が繰り返されたのです。

ボブ・ディランの悲しい歌に乗って、ボクシングへの風当たりは強くなり、禁止運動にも火がつきました。

この恐るべき新王者シュガー・ラモスを 圧倒、タイトルを奪い取ってメキシコのアイドルに登り詰めたのがビセンテ・サルディバルです。

サルディバル、柴田国明、ファイティング原田、 エデル・ジョフレ…日本人もキープレイヤーをつとめた軽量級の一大叙事詩においても、ラモスは恐怖の脇役でした。