カテゴリ: 赤煉瓦
大阪中央公会堂 煉瓦造壁跡断面
1913年(大正2年)着工し、1918年(大正7年)に竣工した大阪中央公会堂。
地上から見る外観は、1999年(平成11年)から2002年(平成14年)9月にかけて行われた復原工事によって美しい化粧煉瓦(タイル煉瓦)で飾られました。
しかし、地下一階には大正時代の名残りである〝本物の煉瓦〟の遺構が、今もしっかりと遺されているのです。

100年以上の歳月に、ひたすら艶かしく爛れた赤煉瓦。底抜けにエロチックです。
かつて食料庫と酒庫を仕切っていた躯体煉瓦の壁の跡です。

食料庫と酒庫にはどんな食べ物や、お酒が保管されてきたのでしょうか。
そして食料庫と酒庫と隣接する賄詰所と賄所、いわゆるキッチンスペースです。
そして、気になるのが廊下一つ隔てた「女子酒場」と「男子酒場」。
男女分かれて食事をしていたのでしょうか?
地上から見る外観は、1999年(平成11年)から2002年(平成14年)9月にかけて行われた復原工事によって美しい化粧煉瓦(タイル煉瓦)で飾られました。
しかし、地下一階には大正時代の名残りである〝本物の煉瓦〟の遺構が、今もしっかりと遺されているのです。

100年以上の歳月に、ひたすら艶かしく爛れた赤煉瓦。底抜けにエロチックです。かつて食料庫と酒庫を仕切っていた躯体煉瓦の壁の跡です。

食料庫と酒庫にはどんな食べ物や、お酒が保管されてきたのでしょうか。
そして食料庫と酒庫と隣接する賄詰所と賄所、いわゆるキッチンスペースです。
そして、気になるのが廊下一つ隔てた「女子酒場」と「男子酒場」。
男女分かれて食事をしていたのでしょうか?
大阪中央公会堂、遺構が残る地下一階へ潜入。①

↑淀屋橋から大阪中央公会堂を望む。
大阪中央公会堂。1913年(大正2年)着工し、1918年(大正7年)に竣工。
1999年(平成11年)3月、度重なる改修などにより創建時の意匠が損なわれ、老朽化が進んだことから保存・再生工事に着手し、3年半の歳月を経て、2002年(平成14年)9月に現在の姿に〝戻され〟ました。
美しく甦った大阪市中央公会堂は、中之島の景観に欠かせない壮麗な外観と内部意匠が歴史的建築物として極めて重要であるとの高い評価を受け、2002年(平成14年)12月、公会堂建築物として西日本で初めて、国の重要文化財に指定されました。
外観の赤煉瓦はいわゆる化粧タイル、本物の煉瓦ではなく、煉瓦柄のシールみたいなもんです。

しかし、地下一階には大正時代の名残りである〝本物の煉瓦〟の遺構が残されているのです。
去年、行ったときに見とけよって話ですが。


しかし、大正時代の建造物は圧倒的にカッコいい。文明開花の明治に学習、熟成された見識が一気に具現化されたようです。
このカッコいい大正を、昭和が何故受け継げなかったのか?戦争、戦争で心の余裕を失っていたのでしょう。

本物の煉瓦です。長手だけの段と小口だけの段を交互に繰り返す、重厚なイギリス積み。
煉瓦がくり抜かれているの「煉瓦造壁強度試験跡」で、煉瓦の奥は鉄筋コンクリート造の添え打ち壁で耐震補強しているそうです。

この穴ボコも煉瓦造壁強度試験跡。
東京駅などに保存されている赤煉瓦遺構でもよく見かける穴ボコです。

穴を覗くとタイルではない、本物の煉瓦であることがよく分かります。
そして、こちらは暖房機罐室の床下に埋設された地中煙道。

赤煉瓦をアーチ状に二重で積んでいます。
当時、外国人居留地で使われていた赤煉瓦造りの下水道にも似ています。

何を燃やして各部屋を暖房していたのでしょう。
大阪はここ数日、風もあってものすごく寒い日が続いているだけに、この地中煙道で暖房された、きっと優しく温められた部屋を想像するとほっこりします。
それにしても、だーーーれもいない。赤煉瓦に興味ある人なんて滅多にいませんからね…。
きっと乃木神社にお参りするのは30年ぶりとか、だ。
昨日、急に罹患したゴロフキン脳炎のリハビリのために、お出かけ。
ついでに病気療養中の友人をお見舞い。
青山一丁目が最寄りの病院だったので、帰りがけに国立競技場あたりを散歩するつもりでした。
〜大昔の学生時代。
国立競技場で試合があるとき、スタンド下をグルっと周回したり、スタンド下には直線のアップコースがありました。
サブトラックはかなり離れた場所にあり、競技場が内包するアップコースで走るのが普通なのですが、関東インカレなど大きな大会になると結構混み合ったり、強豪校が我が物顔で使っているのが嫌でした。
そんなわけで、私は競技場の外でアップすることもよくありました。
ダウンも外でやることが多かったのですが、それはホープ軒でラーメンすするためでした。
2年のとき関東インカレ2部の1万mと 5000mを走って予選落ち。失意のままダウンに出かけて、偶然見つけたのが乃木神社でした。
旧乃木邸に隣接した緑豊かな神社で、すぐ近くのお蕎麦屋さんで卵焼きをつまみに鴨南蛮をすすった記憶があります。
疲れ切った肉体に染み込む冷えたビールと熱い卵焼き、そして鴨南蛮は気が遠くなるほどの美味しさでした。
そして、当時は気にもかけなかった記憶も蘇りました。
乃木邸は赤煉瓦造りだった!!!
友人、元気そうで一安心。
ホンダ本社前にはF1カーが展示…興味がないから、スルーして乃木神社を目指します。
1度しか行ってないはずなのに、なんとなく覚えてるもんです。
乃木坂駅直結と言っても良い抜群のロケーションにある乃木神社。
そして、記憶にある「赤煉瓦」が乃木邸ではなく「厩」だった!30年近くも勘違いしていました!
見事なイギリス積みの赤煉瓦に、瓦屋根。素晴らしいマッチングです。
外苑東通り沿いに忽然と現れる「明治」。麗しいです。
乃木邸に乃木神社、乃木公園が渾然一体なエリアですが、公園入り口にも艶かしい赤煉瓦が!
これはエロい。
そして、ところどころに白い煉瓦が…いやこれは石かコンクリートです。
この公園入り口に鎮座する赤煉瓦遺構は、積み方も規則的ではなく、どうしたのでしょうか?
いやあ、素晴らしい赤煉瓦でした。
そうだ、あの蕎麦屋…まだありました!が、しかし!営業時間外!
諦めて、青山通りを渋谷に下ります。
ついでに病気療養中の友人をお見舞い。
青山一丁目が最寄りの病院だったので、帰りがけに国立競技場あたりを散歩するつもりでした。
〜大昔の学生時代。
国立競技場で試合があるとき、スタンド下をグルっと周回したり、スタンド下には直線のアップコースがありました。
サブトラックはかなり離れた場所にあり、競技場が内包するアップコースで走るのが普通なのですが、関東インカレなど大きな大会になると結構混み合ったり、強豪校が我が物顔で使っているのが嫌でした。
そんなわけで、私は競技場の外でアップすることもよくありました。
ダウンも外でやることが多かったのですが、それはホープ軒でラーメンすするためでした。
2年のとき関東インカレ2部の1万mと 5000mを走って予選落ち。失意のままダウンに出かけて、偶然見つけたのが乃木神社でした。
旧乃木邸に隣接した緑豊かな神社で、すぐ近くのお蕎麦屋さんで卵焼きをつまみに鴨南蛮をすすった記憶があります。
疲れ切った肉体に染み込む冷えたビールと熱い卵焼き、そして鴨南蛮は気が遠くなるほどの美味しさでした。
そして、当時は気にもかけなかった記憶も蘇りました。
乃木邸は赤煉瓦造りだった!!!
友人、元気そうで一安心。
ホンダ本社前にはF1カーが展示…興味がないから、スルーして乃木神社を目指します。
1度しか行ってないはずなのに、なんとなく覚えてるもんです。
乃木坂駅直結と言っても良い抜群のロケーションにある乃木神社。
そして、記憶にある「赤煉瓦」が乃木邸ではなく「厩」だった!30年近くも勘違いしていました!
見事なイギリス積みの赤煉瓦に、瓦屋根。素晴らしいマッチングです。
外苑東通り沿いに忽然と現れる「明治」。麗しいです。
乃木邸に乃木神社、乃木公園が渾然一体なエリアですが、公園入り口にも艶かしい赤煉瓦が!
これはエロい。
そして、ところどころに白い煉瓦が…いやこれは石かコンクリートです。
この公園入り口に鎮座する赤煉瓦遺構は、積み方も規則的ではなく、どうしたのでしょうか?
いやあ、素晴らしい赤煉瓦でした。
そうだ、あの蕎麦屋…まだありました!が、しかし!営業時間外!
諦めて、青山通りを渋谷に下ります。
【近所で見て来た赤煉瓦】かつて、築地はインターナショナルででアカデミックな街だった。
江戸幕府が欧米列強と結んだ安政五か国条約(安政5年=1858年にアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国それぞれと結んだ不平等条約)。
この条約によって築地に外国人居留地が開発されましたが、その面影は現在、ほとんど残されていません。
いつか、書きかけだった築地のお話です。

異国情緒溢れる築地…。その名残は「居留地通り」という名前に、なんとか往時が想像できる程度です。
それでも、微かに漂っている残り香を感じることができる場所はあります。

↑聖路加国際病院の敷地内に建っているのは、初代院長のルドルフ・B・トライスラーの名前を冠したトライスラー記念館という趣のある洋館。



この洋館もかつての国際的な築地の姿を伝えてくれています。
それにしても、とても銀座至近のロケーションとは思えません。写真に写ってない所には結構人はいるのですか…。
さらに慶應や、立教、青山学院、明治学院、女子学院などのお洒落な学校の「発祥の碑」がそこかしこに見つけることもできます。
築地は日本屈指のお洒落で、アカデミックな街だったのです。




きっと、性格と頭の悪いお金持ちの子女が通っていたのでしょう…。
こんなこと言ってるから「昔、慶應の女の子にフラれてから八つ当たり的にいつまでも慶應を憎んでいるみたい」と根も葉もない噂を立てられてしまうのです、わし…。
そして、トライスラー記念館からすぐのところにあるのが、明治41年、1908年創立の明石小学校。

公立(中央区立)とは思えない、なんだかお洒落な校舎です。
そしてその一角に、ガス灯がすっくと立っています。さらにガス灯の足元には、赤煉瓦が!!!


律儀なイギリス積みの赤煉瓦です。
関東大震災まで、銀座の街を彩った赤煉瓦通りの遺構です。
横浜や神戸、長崎の外国人居留地では商館が中心だったのに対して、築地は外国公使館・領事館が多く、宣教師や医師、教師などの知識人が多く住んでいたそうです。
学校や教会が多いのは、そんな理由からでしょう。
不平等条約を起点とした外国人居留地は明治32年に廃止されます。
横浜、神戸など大きな港町は現代に至るまで異国情緒漂う街の空気を残してている一方、築地のイメージは異国情緒はどんどん希薄化、築地市場や本願寺など一気に「和」に振れてゆくのでした。
この条約によって築地に外国人居留地が開発されましたが、その面影は現在、ほとんど残されていません。
いつか、書きかけだった築地のお話です。

異国情緒溢れる築地…。その名残は「居留地通り」という名前に、なんとか往時が想像できる程度です。
それでも、微かに漂っている残り香を感じることができる場所はあります。

↑聖路加国際病院の敷地内に建っているのは、初代院長のルドルフ・B・トライスラーの名前を冠したトライスラー記念館という趣のある洋館。



この洋館もかつての国際的な築地の姿を伝えてくれています。
それにしても、とても銀座至近のロケーションとは思えません。写真に写ってない所には結構人はいるのですか…。
さらに慶應や、立教、青山学院、明治学院、女子学院などのお洒落な学校の「発祥の碑」がそこかしこに見つけることもできます。
築地は日本屈指のお洒落で、アカデミックな街だったのです。




きっと、性格と頭の悪いお金持ちの子女が通っていたのでしょう…。
こんなこと言ってるから「昔、慶應の女の子にフラれてから八つ当たり的にいつまでも慶應を憎んでいるみたい」と根も葉もない噂を立てられてしまうのです、わし…。
そして、トライスラー記念館からすぐのところにあるのが、明治41年、1908年創立の明石小学校。

公立(中央区立)とは思えない、なんだかお洒落な校舎です。
そしてその一角に、ガス灯がすっくと立っています。さらにガス灯の足元には、赤煉瓦が!!!


律儀なイギリス積みの赤煉瓦です。
関東大震災まで、銀座の街を彩った赤煉瓦通りの遺構です。
横浜や神戸、長崎の外国人居留地では商館が中心だったのに対して、築地は外国公使館・領事館が多く、宣教師や医師、教師などの知識人が多く住んでいたそうです。
学校や教会が多いのは、そんな理由からでしょう。
不平等条約を起点とした外国人居留地は明治32年に廃止されます。
横浜、神戸など大きな港町は現代に至るまで異国情緒漂う街の空気を残してている一方、築地のイメージは異国情緒はどんどん希薄化、築地市場や本願寺など一気に「和」に振れてゆくのでした。
クレーンが人生の全てだ!といいつつ、やっぱり赤煉瓦は艶かしい。【②】
六郷水門から羽田方面へ多摩川を下ると、赤煉瓦の堤防が断続的に遺されています。
「汚ねえよ、これ!」と我が愛する赤煉瓦を、遠慮なく侮辱してくるクソガキども。
こいつらと来てしまったのは、大失敗であった。
気を取り直して、立派な大師大橋の手前から、河川敷を一本住宅街に入ると…。

「汚ねえよ、これ!」と我が愛する赤煉瓦を、遠慮なく侮辱してくるクソガキども。
こいつらと来てしまったのは、大失敗であった。
気を取り直して、立派な大師大橋の手前から、河川敷を一本住宅街に入ると…。

この艶かしい断面。長い歳月、風雪を耐えて、今この姿になったのです。
化粧レンガやスクラッチレンガではこの味わいは出せません。
躯体煉瓦だからこそ、です。
レンガの噛み合わせがズレているのは、地震のせいでしょうか。
そこから芽吹いたクローバーが健気で可愛い。
そして、再び多摩川沿いに寄ってみると、少し長い赤煉瓦堤防が舟留めに沿って続いています。
上流の二子玉川近くに遺されている玉川陸閘とも、昔はひと続きだったのでしょうか?
多摩川を15㎞近くも赤煉瓦堤防が連なっているなんて、想像しただけで壮観です。
化粧レンガやスクラッチレンガではこの味わいは出せません。
躯体煉瓦だからこそ、です。
レンガの噛み合わせがズレているのは、地震のせいでしょうか。
そこから芽吹いたクローバーが健気で可愛い。
そして、再び多摩川沿いに寄ってみると、少し長い赤煉瓦堤防が舟留めに沿って続いています。
上流の二子玉川近くに遺されている玉川陸閘とも、昔はひと続きだったのでしょうか?
多摩川を15㎞近くも赤煉瓦堤防が連なっているなんて、想像しただけで壮観です。
クレーンが人生の全てだ!といいつつ、やっぱり赤煉瓦は艶かしい。【①】
忙しい1日でした。
午前中に新宿でお仕事。途中で抜けて、移動中に全日本大学駅伝をチェックしながらカネロvsプラントを待つ。
抵抗虚しく11ラウンドで仕留められたプラントを見届けると、近所のガキどもとクレーンを見に多摩川を散策。
カレーライスが最強だとか、ワンタン麺が最強だとか、気まぐれ的に赤煉瓦が最もエロいだとか、好き勝手思いついたこと吐き出してきた私ですが、今日わかりました。
人生で最も大切なのはクレーンです。
思い返せば、うちの子供たちもそうでした。
「今度の日曜日、どこに行きたい?」と聞く親は、遊園地や回転寿司という答えを期待するのですが、子供はとんでもないことを言い出します。
「ショベルカーが見たい」とか言い出すのです。
末っ子が幼い頃に「ご馳走を食べに行くぞ!焼肉か、寿司か?」と聞くと「お茶漬け」と答えたことがありました。
お姉ちゃんたちは「肉か寿司かはパパがお酒と一緒に食べたいだけでしょ。コイツはこの前家で食べたお茶漬けが忘れられないの」と、ものすごい真実・真理を、突き刺してくるのでした。
「じゃー、今日は家でお茶漬け祭りにする!下のセブンでお茶漬けの素と、漬物買って来る!」というと、上の子供たちは「それは違う!寿司屋でも焼肉屋でも頼めば、お茶漬け絶対出してくれる!」と、急に慌て出すのです。
私は「お父さんは子供の気持ちなんてちっともわかっていない。そんな感情をむき出しにして反抗したのが気に食わない」と意地悪すると「それ、おかしいでしょ?気に食わないから家でお茶でもって、自分だって外でおさけのみたいでしよ!ビールとお茶漬けなんて最悪でしょ!」と歯向かってきます。
当時はまだ小学生の上の子二人でしたが、結構理事整然と反撃してきたのを覚えています。お茶漬けとビールは合わないって、なんでお前らにわかるんだ?と驚きました。
子供は大人みたいに損得で物事を考えてないんです。正直に生きてるんです。
大きなクレーンは素晴らしい。
そして、前から気になっていた六郷水門も訪れました。
大田区ホームページによると「昭和6年(1931年)に竣工して以来、下水道が普及するまで、六郷用水の末流をはじめ、六郷や池上、矢口、羽田の一部の地域の生活用水の排水を処理しました」。
「水門に架かる橋の高欄の「郷」の字を「ロ」の字が囲むデザインは、地元である旧六郷町の町章を用いたものです」。「堤内地の舟だまりは、かつては舟運にも利用され、雑色運河(ぞうしきうんが)と呼ばれたころの雰囲気を伝えています」。
水門の土台は見事なまでの赤煉瓦、丁寧なイギリス積み。
見事な赤煉瓦遺構です。ファッショナブルです。
赤煉瓦マニアとしては嬉しいスポット、多くの人にとってはハゼやテナガエビなどのフィッシングポイントのようです。
水路のそばには、トタン屋根の排水機場がありました。
こちらも渋い赤煉瓦。
午前中に新宿でお仕事。途中で抜けて、移動中に全日本大学駅伝をチェックしながらカネロvsプラントを待つ。
抵抗虚しく11ラウンドで仕留められたプラントを見届けると、近所のガキどもとクレーンを見に多摩川を散策。
カレーライスが最強だとか、ワンタン麺が最強だとか、気まぐれ的に赤煉瓦が最もエロいだとか、好き勝手思いついたこと吐き出してきた私ですが、今日わかりました。
人生で最も大切なのはクレーンです。
思い返せば、うちの子供たちもそうでした。
「今度の日曜日、どこに行きたい?」と聞く親は、遊園地や回転寿司という答えを期待するのですが、子供はとんでもないことを言い出します。
「ショベルカーが見たい」とか言い出すのです。
末っ子が幼い頃に「ご馳走を食べに行くぞ!焼肉か、寿司か?」と聞くと「お茶漬け」と答えたことがありました。
お姉ちゃんたちは「肉か寿司かはパパがお酒と一緒に食べたいだけでしょ。コイツはこの前家で食べたお茶漬けが忘れられないの」と、ものすごい真実・真理を、突き刺してくるのでした。
「じゃー、今日は家でお茶漬け祭りにする!下のセブンでお茶漬けの素と、漬物買って来る!」というと、上の子供たちは「それは違う!寿司屋でも焼肉屋でも頼めば、お茶漬け絶対出してくれる!」と、急に慌て出すのです。
私は「お父さんは子供の気持ちなんてちっともわかっていない。そんな感情をむき出しにして反抗したのが気に食わない」と意地悪すると「それ、おかしいでしょ?気に食わないから家でお茶でもって、自分だって外でおさけのみたいでしよ!ビールとお茶漬けなんて最悪でしょ!」と歯向かってきます。
当時はまだ小学生の上の子二人でしたが、結構理事整然と反撃してきたのを覚えています。お茶漬けとビールは合わないって、なんでお前らにわかるんだ?と驚きました。
子供は大人みたいに損得で物事を考えてないんです。正直に生きてるんです。
大きなクレーンは素晴らしい。
そして、前から気になっていた六郷水門も訪れました。
大田区ホームページによると「昭和6年(1931年)に竣工して以来、下水道が普及するまで、六郷用水の末流をはじめ、六郷や池上、矢口、羽田の一部の地域の生活用水の排水を処理しました」。
「水門に架かる橋の高欄の「郷」の字を「ロ」の字が囲むデザインは、地元である旧六郷町の町章を用いたものです」。「堤内地の舟だまりは、かつては舟運にも利用され、雑色運河(ぞうしきうんが)と呼ばれたころの雰囲気を伝えています」。
水門の土台は見事なまでの赤煉瓦、丁寧なイギリス積み。
見事な赤煉瓦遺構です。ファッショナブルです。
赤煉瓦マニアとしては嬉しいスポット、多くの人にとってはハゼやテナガエビなどのフィッシングポイントのようです。
水路のそばには、トタン屋根の排水機場がありました。
こちらも渋い赤煉瓦。
旧大阪砲兵工廠化学分析所は江戸と大正のハイブリッドだった!
さて、旧大阪砲兵工廠化学分析所です。
先週16日土曜日の少し古いお話です。
日本がまだ大日本帝國だった時代。大阪は、世界屈指の軍事大国で最も多くの軍事工場設備=砲兵工廠を擁していました。
武器の生産拠点です。戦局が悪化すると、敵国の攻撃に曝され、多くの砲兵工廠は破壊されてしまいました。
また、無事に終戦を迎えても、老朽化などで取り壊されるケースも多かったにもかかわらず、大阪砲兵工廠化学分析所は、今なお現存する数少ない遺構の一つです。
竣工は大正8年、1919年。リング誌創刊の3年前。ボクシングファンにとっては〝紀元前〟です。
設計者は、陸軍技師・建築家の置塩章(おしお・あきら)。スタイルは、赤煉瓦のネオ・ルネサンス風の2階建て。
例えるなら、スタイリッシュなボクサーファイターです。


おお、これは見るからにガチ煉瓦である!
妖怪人間ベムとベラとベロとかが住んでそうである!
煉瓦は、リズミカルなフランス積み。
さっき見た中之島中央公会堂の単調なドイツ積みとは、一味も二味も違う、麗しさが感じられます。


それにしても、2階建てには見えない大きな建造物です。荘厳と表現してもいいでしょう。
兵器の開発や化学実験などが行われていたようですから、部屋は広くて天井も高かったはずです。
そして、これはおそらく「本館」で、周囲に分室と思しき建物の遺構も」残っています。

↑分室?損傷が激しく、こぼれ抜けた煉瓦が辺りに落ちていました。
軽い興奮を愉しむ私でしたが、赤煉瓦の廃墟にはだれも興味がないようで、若者たちや家族連れ、ジョガーらは、旧大阪砲兵工廠化学分析所に見向きせず通り過ぎて行きます。
なんだか、私自身も〝通り過ぎられた〟気分でしたが、こういうのって嫌いじゃありません。
そうか、お前ら、旧大阪砲兵工廠化学分析所の艶っぽさがわからないんだ。

これ↑なんかは本館への門と思われる遺構ですが、大阪城の城石の上に煉瓦を積み上げた江戸と大正の合作。
無茶すんなあ。
戦時中です。石垣の歴史的・文化的価値など、知ったこっちゃないんでしょうけど。

城石と赤煉瓦、意外と違和感がありません。
それにしても、赤煉瓦のこの爛れ具合…エロいです。
豊臣秀吉によって積み上げられた大きな城石と、風雪で表面が傷ついたり、抉られた赤煉瓦。
まさか、城石と赤煉瓦が、こんな形で出会うとは…。
とはいえ、どちらも日本史上に残る〝戦争の時代〟に建てられたもので、戦争という大きな共通項を抱えた遺構です。
度重なる空襲を免れた砲兵工廠化学分析所。戦後は国の庁舎から、大阪大学工学部の校舎、自衛隊の庁舎として使われてきました。
今は廃墟ですが、往時の面影は十分に残っています。
それにしても大阪城内に、これほど見事な赤煉瓦の建造物が残されていたとは。
内部の躯体を補強、この妖艶な建物の外観と、おそらくお洒落な内観もできるだけ保存して、レストランなんかとして蘇らせて欲しいものです。
当たり前ですが、戦国時代と太平洋戦争の暗い記憶はどこへやら、今の大阪城は家族連れや若者たちが集う、贅沢な安らぎのスペースです。

ランニングを楽しむ人も、江戸城(皇居)ほどではありませんが、よくすれ違いました。
名残惜しい旧大阪砲兵工廠化学分析所を後にして、天守閣へと続く緩やかな坂道を登ります。
いい天気です。

落ち葉を集めて「EXPO2025」。
大阪万博まで、あと4年。きっとあっという間に、やってくるんでしょう。

↑「銀明水井戸の井筒」だそうです。本丸御殿・台所の裏手に位置する井戸で、今も地下水が湧いてきているようです。
指先をつけると、冷たいかなと期待しましたが、生温かったです…さすが大阪。
この井戸のすぐ先に聳えるのが、桜門枡形の巨石。
江戸幕府による再築工事が始まった1624年にここに積まれたそうです。

確かにデカい。デカすぎる。
大阪城内最大の巨石で表面積は36畳敷(約60㎡)、推定重量108トンだそう。

さらに進むと、大阪城ホールが出現。大阪城内から見るのは初めてかも。

そして、天守閣が近くに見えてきました。

そして、天守閣すぐそばにも、遺構チックな建造物を発見。↓

ヨーロッパの城を参考にしたというだけあって、所々にお洒落な意匠を見つけることができます。

中はお土産や飲食店が。
昭和6年、1931年に昭和天皇の即位を記念して、市民からの寄付で天守閣の再建、大阪城公園の新設と合わせて建造された第四師団司令部です。
壁面はスクラッチタイプのタイルで、ガチ煉瓦ではありません。赤煉瓦フリークとしては物足りないものの、十分に味わいがあります。


敗戦後、連合国軍に接収されたあと、大阪市警察の庁舎、大阪市立博物館として利用され、2001年、平成13年からは観光客向けにお土産や飲食を提供するMIRAIZA大阪城として生まれ変わっています。
1943年=昭和18年には、天守閣すぐ近くに地上3階、地下1階の「中部軍司令部防空作戦室」も建造されました。
その壁は爆撃に耐えられるように1メートル以上の厚みを持たせていました。
幸運にも爆撃は免れましたが、昭和45年=1970年に公演整備のため解体、取り壊されてしまいました。
どんな建物だったのか気になりますが、1943年という時期を考えると悠長に赤煉瓦やスクラッチ煉瓦を使う余裕がなかったかもしれません。
化学分析所や第四師団司令部が残されている一方で、防空作戦室が取り壊されたのは、保存するに値しないと判断されたのでしょうか。
それにしても、中高時代は喧嘩の舞台だった大阪城のあたりをこうして心穏やかに散策できる日が来るとは、人生面白いものです。
あーー、夕方4時から大昔の友人知人との集まりがあるのですが、もはやどうでも良くなってきました。
このあたりでソロキャンプでもして、焚き火しながら大阪城の朝日を拝みたい気分です。
先週16日土曜日の少し古いお話です。
日本がまだ大日本帝國だった時代。大阪は、世界屈指の軍事大国で最も多くの軍事工場設備=砲兵工廠を擁していました。
武器の生産拠点です。戦局が悪化すると、敵国の攻撃に曝され、多くの砲兵工廠は破壊されてしまいました。
また、無事に終戦を迎えても、老朽化などで取り壊されるケースも多かったにもかかわらず、大阪砲兵工廠化学分析所は、今なお現存する数少ない遺構の一つです。
竣工は大正8年、1919年。リング誌創刊の3年前。ボクシングファンにとっては〝紀元前〟です。
設計者は、陸軍技師・建築家の置塩章(おしお・あきら)。スタイルは、赤煉瓦のネオ・ルネサンス風の2階建て。
例えるなら、スタイリッシュなボクサーファイターです。


おお、これは見るからにガチ煉瓦である!
妖怪人間ベムとベラとベロとかが住んでそうである!
煉瓦は、リズミカルなフランス積み。
さっき見た中之島中央公会堂の単調なドイツ積みとは、一味も二味も違う、麗しさが感じられます。


それにしても、2階建てには見えない大きな建造物です。荘厳と表現してもいいでしょう。
兵器の開発や化学実験などが行われていたようですから、部屋は広くて天井も高かったはずです。
そして、これはおそらく「本館」で、周囲に分室と思しき建物の遺構も」残っています。

↑分室?損傷が激しく、こぼれ抜けた煉瓦が辺りに落ちていました。
軽い興奮を愉しむ私でしたが、赤煉瓦の廃墟にはだれも興味がないようで、若者たちや家族連れ、ジョガーらは、旧大阪砲兵工廠化学分析所に見向きせず通り過ぎて行きます。
なんだか、私自身も〝通り過ぎられた〟気分でしたが、こういうのって嫌いじゃありません。
そうか、お前ら、旧大阪砲兵工廠化学分析所の艶っぽさがわからないんだ。

これ↑なんかは本館への門と思われる遺構ですが、大阪城の城石の上に煉瓦を積み上げた江戸と大正の合作。
無茶すんなあ。
戦時中です。石垣の歴史的・文化的価値など、知ったこっちゃないんでしょうけど。

城石と赤煉瓦、意外と違和感がありません。

それにしても、赤煉瓦のこの爛れ具合…エロいです。
豊臣秀吉によって積み上げられた大きな城石と、風雪で表面が傷ついたり、抉られた赤煉瓦。
まさか、城石と赤煉瓦が、こんな形で出会うとは…。
とはいえ、どちらも日本史上に残る〝戦争の時代〟に建てられたもので、戦争という大きな共通項を抱えた遺構です。
度重なる空襲を免れた砲兵工廠化学分析所。戦後は国の庁舎から、大阪大学工学部の校舎、自衛隊の庁舎として使われてきました。
今は廃墟ですが、往時の面影は十分に残っています。
それにしても大阪城内に、これほど見事な赤煉瓦の建造物が残されていたとは。
内部の躯体を補強、この妖艶な建物の外観と、おそらくお洒落な内観もできるだけ保存して、レストランなんかとして蘇らせて欲しいものです。
当たり前ですが、戦国時代と太平洋戦争の暗い記憶はどこへやら、今の大阪城は家族連れや若者たちが集う、贅沢な安らぎのスペースです。

ランニングを楽しむ人も、江戸城(皇居)ほどではありませんが、よくすれ違いました。
名残惜しい旧大阪砲兵工廠化学分析所を後にして、天守閣へと続く緩やかな坂道を登ります。
いい天気です。

落ち葉を集めて「EXPO2025」。
大阪万博まで、あと4年。きっとあっという間に、やってくるんでしょう。

↑「銀明水井戸の井筒」だそうです。本丸御殿・台所の裏手に位置する井戸で、今も地下水が湧いてきているようです。
指先をつけると、冷たいかなと期待しましたが、生温かったです…さすが大阪。
この井戸のすぐ先に聳えるのが、桜門枡形の巨石。
江戸幕府による再築工事が始まった1624年にここに積まれたそうです。

確かにデカい。デカすぎる。
大阪城内最大の巨石で表面積は36畳敷(約60㎡)、推定重量108トンだそう。

さらに進むと、大阪城ホールが出現。大阪城内から見るのは初めてかも。

そして、天守閣が近くに見えてきました。

そして、天守閣すぐそばにも、遺構チックな建造物を発見。↓

ヨーロッパの城を参考にしたというだけあって、所々にお洒落な意匠を見つけることができます。

中はお土産や飲食店が。
昭和6年、1931年に昭和天皇の即位を記念して、市民からの寄付で天守閣の再建、大阪城公園の新設と合わせて建造された第四師団司令部です。
壁面はスクラッチタイプのタイルで、ガチ煉瓦ではありません。赤煉瓦フリークとしては物足りないものの、十分に味わいがあります。


敗戦後、連合国軍に接収されたあと、大阪市警察の庁舎、大阪市立博物館として利用され、2001年、平成13年からは観光客向けにお土産や飲食を提供するMIRAIZA大阪城として生まれ変わっています。
1943年=昭和18年には、天守閣すぐ近くに地上3階、地下1階の「中部軍司令部防空作戦室」も建造されました。
その壁は爆撃に耐えられるように1メートル以上の厚みを持たせていました。
幸運にも爆撃は免れましたが、昭和45年=1970年に公演整備のため解体、取り壊されてしまいました。
どんな建物だったのか気になりますが、1943年という時期を考えると悠長に赤煉瓦やスクラッチ煉瓦を使う余裕がなかったかもしれません。
化学分析所や第四師団司令部が残されている一方で、防空作戦室が取り壊されたのは、保存するに値しないと判断されたのでしょうか。
それにしても、中高時代は喧嘩の舞台だった大阪城のあたりをこうして心穏やかに散策できる日が来るとは、人生面白いものです。
あーー、夕方4時から大昔の友人知人との集まりがあるのですが、もはやどうでも良くなってきました。
このあたりでソロキャンプでもして、焚き火しながら大阪城の朝日を拝みたい気分です。
ホルモンの夜、そして大阪城へ。そして!旧大阪砲兵工廠化学分析所へーーー!!!【①】
ホテルの部屋が勝手にグレードアップされて、びっくり。
空き状況が酷くて、少しでも良い部屋へご案内しています、とのこと。
海外からの観光客目当てとわかるホテルなんかは、可哀想なくらいひっそりとしています。↓

急なお仕事で大阪に呼び寄せられたのですが、意外にもあっさり山場を越えて、あとは大阪の担当者にお任せ。
昨夜は高校時代の先輩と鶴橋・桃谷エリアで大量のホルモンと、これぞ馬飲とばかりに生ビールとJINRO、ウイスキー。
レバ刺し、ハツ刺し、タン刺しから、センマイ、アカセン、ウルテ、コリコリ、ノーショー…それにしても大動脈はたまらん。
しかし、このエリアはどんどん観光地化してるなあ。…悪いことじゃないのですが、昔を知るものとしては…。
今日は支社の担当者と軽く打ち合わせで、午後はフリー。
夜は高校の野球部と陸上部の合同飲み会。多勢で飲むのは好きではないのですが、何十年も会っていない友人と再会するのも、また楽しからずや、です。
さて、午後の時間を使って、かねてから目を付けていた旧大阪砲兵工廠化学分析所、赤煉瓦の遺跡へ!
その前に、大阪の赤煉瓦として最も有名な中之島中央公会堂へ。
さらに、その前に、すぐそばに94年間の歴史を閉じるミズノ本社ビル!ここでグローブやバットを買ったなあ。

94年前!はさぞかし目立った高層ビルだったはずです。

土佐堀川に架かる栴檀木橋(せんだんのきばし)を渡ると、公会堂。
「栴檀は双葉より芳し」。
中高生向けの陸上長距離の教本に、高校時代の瀬古利彦のランニングフォームの分解写真について「栴檀は双葉より芳し」と解説に添えられていたのを思い出しました。

宮本輝が描く土佐堀川の姿は、もはやその破片を探すことすら難しく、どこまでもおしゃれです。こんなんじゃ、小説になりません。
もはや、セーヌ川の趣きですな。


予想通り、色気も素っ気もありません。
一目で化粧煉瓦とわかっちゃいます。見た目の積み方はドイツ式ですが、化粧煉瓦、つまりはタイルですから積んではいません。
辰野金吾も関わっただけに、東京駅を見ているようです。
どっちもタイルです。
そうは言っても、クラシックな赤煉瓦風と純白の漆喰風のコントラストは感動的です。何というセンス、辰野もまた天才です。
そして、ガチ煉瓦の旧大阪砲兵工廠化学分析所へ。
大阪城近辺もいつの間にかオシャレで、治安が良さそうです。そんな話を夜の酒席ですると「俺らの学校で治安悪かったのお前だけだから。あの近辺の話じゃない」と、何故か私のせいに。
いや、それでもあの辺りに引き込もうとする輩がいたのです。
外国人学校のバカどもに囲まれて「どっからでもかかってこんかい!この◉◉人どもが!」と啖呵を切って逃げまくった、恐ろしい記憶が…。
今でも5年に一度くらい、逃げきれずに捕まってリンチに遭う寸前までの夢を見ます。

だから、大阪城近辺は(だけじゃありませんが)不思議なもので、何十年経とうがまた奴らが何処からか現れるのではないかという、ありえない緊張感が今でも甦るのです。
今でもあんな凶暴なことがあるんだろうか?今なら警察沙汰なことが普通にありました。
さて、そんなバカな高校時代のほろ苦いというか、血まみれメモリーは思い出したくないのですが、ガチ煉瓦、旧大阪砲兵工廠化学分析所へ!
空き状況が酷くて、少しでも良い部屋へご案内しています、とのこと。
海外からの観光客目当てとわかるホテルなんかは、可哀想なくらいひっそりとしています。↓

急なお仕事で大阪に呼び寄せられたのですが、意外にもあっさり山場を越えて、あとは大阪の担当者にお任せ。
昨夜は高校時代の先輩と鶴橋・桃谷エリアで大量のホルモンと、これぞ馬飲とばかりに生ビールとJINRO、ウイスキー。
レバ刺し、ハツ刺し、タン刺しから、センマイ、アカセン、ウルテ、コリコリ、ノーショー…それにしても大動脈はたまらん。
しかし、このエリアはどんどん観光地化してるなあ。…悪いことじゃないのですが、昔を知るものとしては…。
今日は支社の担当者と軽く打ち合わせで、午後はフリー。
夜は高校の野球部と陸上部の合同飲み会。多勢で飲むのは好きではないのですが、何十年も会っていない友人と再会するのも、また楽しからずや、です。
さて、午後の時間を使って、かねてから目を付けていた旧大阪砲兵工廠化学分析所、赤煉瓦の遺跡へ!
その前に、大阪の赤煉瓦として最も有名な中之島中央公会堂へ。
さらに、その前に、すぐそばに94年間の歴史を閉じるミズノ本社ビル!ここでグローブやバットを買ったなあ。

94年前!はさぞかし目立った高層ビルだったはずです。

土佐堀川に架かる栴檀木橋(せんだんのきばし)を渡ると、公会堂。
「栴檀は双葉より芳し」。
中高生向けの陸上長距離の教本に、高校時代の瀬古利彦のランニングフォームの分解写真について「栴檀は双葉より芳し」と解説に添えられていたのを思い出しました。

宮本輝が描く土佐堀川の姿は、もはやその破片を探すことすら難しく、どこまでもおしゃれです。こんなんじゃ、小説になりません。
もはや、セーヌ川の趣きですな。


予想通り、色気も素っ気もありません。
一目で化粧煉瓦とわかっちゃいます。見た目の積み方はドイツ式ですが、化粧煉瓦、つまりはタイルですから積んではいません。
辰野金吾も関わっただけに、東京駅を見ているようです。
どっちもタイルです。
そうは言っても、クラシックな赤煉瓦風と純白の漆喰風のコントラストは感動的です。何というセンス、辰野もまた天才です。
そして、ガチ煉瓦の旧大阪砲兵工廠化学分析所へ。
大阪城近辺もいつの間にかオシャレで、治安が良さそうです。そんな話を夜の酒席ですると「俺らの学校で治安悪かったのお前だけだから。あの近辺の話じゃない」と、何故か私のせいに。
いや、それでもあの辺りに引き込もうとする輩がいたのです。
外国人学校のバカどもに囲まれて「どっからでもかかってこんかい!この◉◉人どもが!」と啖呵を切って逃げまくった、恐ろしい記憶が…。
今でも5年に一度くらい、逃げきれずに捕まってリンチに遭う寸前までの夢を見ます。

だから、大阪城近辺は(だけじゃありませんが)不思議なもので、何十年経とうがまた奴らが何処からか現れるのではないかという、ありえない緊張感が今でも甦るのです。
今でもあんな凶暴なことがあるんだろうか?今なら警察沙汰なことが普通にありました。
さて、そんなバカな高校時代のほろ苦いというか、血まみれメモリーは思い出したくないのですが、ガチ煉瓦、旧大阪砲兵工廠化学分析所へ!
時計(台)のある建物。=①=東京駅と中央郵便局は地下のトロッコ軌道で結ばれていました。
時計台。
そう聞いて真っ先に思い浮かぶのは、札幌の時計台でしょうか。
いま、時計台を頼りに時間を確認する人は、ほとんどいないと思われます。
小中学校の校舎によく時計が埋め込まれているのは、スマホも腕時計も持たない生徒が体育の授業中などに時間を確認するため、ここでいう「時計(台)」は、その建物の利用者・利用者というより、不特定多数の通行者に時間をお知らせする時計を持つ建物のことです。
誰もが腕時計やスマホを持つ今の時代、建物に時計台を設置したり、壁面に時計を埋め込むのは装飾の意味以外はありえません。


現在の東京駅は開業(1914年=大正3年)当時の建物を2012年=平成24年に復原したものです。
北口と南口、それぞれのドームに丸い時計が仕込まれています。
大正時代、かつてはこの時計で時刻を確認する人も多かったのでしょうが、平成・令和の時代は単なるお飾りになっています。
その東京駅南口のすぐ斜向かいに立つのが東京中央郵便局。
今は、高層のJPタワーの足元にやはり復原版の中央郵便局がこじんまりと建っています。
ガラス張りの高層ビル、その土台のように鎮座している白い壁の建物が中央郵便局復原版です。

この、復原版中央郵便局も壁面に印象的な時計を持っています。

東京駅が「時計埋め込み式」に対して、こちらは壁面に数字と長針・短針を直接打ち込んだ「打ち込み式」。
これはこれで味わいがあります。
1941年=昭和16年まで、郵便局と東京駅を結ぶ地下通路には鉄道郵便物を乗せて往復するトロッコ軌道が走っていたそうです。
全国から東京へ、東京から全国への手紙を載せたトロッコが地下線路をガタゴト往復する…レトロでのどかなムードですが、1941年といえば12月に太平洋戦争が起きた年。
首都の空気は米国との開戦で、私たちには想像もできない緊張で張り詰めていたことでしょう。
東京駅も中央郵便局も当時の建物とは違いますが、忠実な復原版、昭和16年の日本人が戦争拡大の渦中に見上げた建物と外観はほぼ同じです。
ちょうど80年前に、彼らはどんな気持ちでこの時計を見つめていたのでしょうか。
よくよく考えると今だって、何もかもがうまく行ってるわけではありません。
それどころか、未来に対して非常に不安な気持ちが膨らむばかりです。
いつの時代でも、そこに生きてる人にとっては必死のパッチ、つまずいたり転んだり、毎日いろんなことと格闘しながらちょっとずつ前に進んでいるのです。
なんだか真面目な話になってしまいましたが、今の時代、飾り物としての役割しかない「時計(台)」のお話です。
そう聞いて真っ先に思い浮かぶのは、札幌の時計台でしょうか。
いま、時計台を頼りに時間を確認する人は、ほとんどいないと思われます。
小中学校の校舎によく時計が埋め込まれているのは、スマホも腕時計も持たない生徒が体育の授業中などに時間を確認するため、ここでいう「時計(台)」は、その建物の利用者・利用者というより、不特定多数の通行者に時間をお知らせする時計を持つ建物のことです。
誰もが腕時計やスマホを持つ今の時代、建物に時計台を設置したり、壁面に時計を埋め込むのは装飾の意味以外はありえません。


現在の東京駅は開業(1914年=大正3年)当時の建物を2012年=平成24年に復原したものです。
北口と南口、それぞれのドームに丸い時計が仕込まれています。
大正時代、かつてはこの時計で時刻を確認する人も多かったのでしょうが、平成・令和の時代は単なるお飾りになっています。
その東京駅南口のすぐ斜向かいに立つのが東京中央郵便局。
今は、高層のJPタワーの足元にやはり復原版の中央郵便局がこじんまりと建っています。
ガラス張りの高層ビル、その土台のように鎮座している白い壁の建物が中央郵便局復原版です。

この、復原版中央郵便局も壁面に印象的な時計を持っています。

東京駅が「時計埋め込み式」に対して、こちらは壁面に数字と長針・短針を直接打ち込んだ「打ち込み式」。
これはこれで味わいがあります。
1941年=昭和16年まで、郵便局と東京駅を結ぶ地下通路には鉄道郵便物を乗せて往復するトロッコ軌道が走っていたそうです。
全国から東京へ、東京から全国への手紙を載せたトロッコが地下線路をガタゴト往復する…レトロでのどかなムードですが、1941年といえば12月に太平洋戦争が起きた年。
首都の空気は米国との開戦で、私たちには想像もできない緊張で張り詰めていたことでしょう。
東京駅も中央郵便局も当時の建物とは違いますが、忠実な復原版、昭和16年の日本人が戦争拡大の渦中に見上げた建物と外観はほぼ同じです。
ちょうど80年前に、彼らはどんな気持ちでこの時計を見つめていたのでしょうか。
よくよく考えると今だって、何もかもがうまく行ってるわけではありません。
それどころか、未来に対して非常に不安な気持ちが膨らむばかりです。
いつの時代でも、そこに生きてる人にとっては必死のパッチ、つまずいたり転んだり、毎日いろんなことと格闘しながらちょっとずつ前に進んでいるのです。
なんだか真面目な話になってしまいましたが、今の時代、飾り物としての役割しかない「時計(台)」のお話です。











































