Breez is Nice!

広く知られていることですが、フレディ・ローチは伝説のトレーナー、エディ・ファッチの薫陶を受けた元プロボクサーでした。

米国ニューイングランド(ニューハンプシャーやマサチューセッツなど東北部6州)のフェザー級王者になるなど、1978年のデビューから27戦で26勝(9KO)1敗と素晴らしい数字を積み上げました。

箸にも棒にもかからないボクサーではなかったのです。

水曜日、春の日差しが暖かい昼休みにご紹介するのはリング誌の長寿コーナー「BEST I'VE FACED」(私のキャリアで最強の相手)、フレディ・ローチの回です。

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1985年、世界史上最も華美で騒がしいスーパースター、ヘクター“マチョ”カマチョはジュニアライト級とライト級で二階級制覇、無敗の戦績を27戦全勝15KOまで伸ばし、この世の春を謳歌していました。このマッチョマンと、ジュニアウェルター級ノンタイトル10回戦で拳を交えたローチでしたが、3−0の完敗を喫してしまいます。


BEST  I'VE  FACED 〜 Freddie Roch…生涯成績40勝(15KO)13敗

◉BEST JAB◉ アンディ・ナンス(1986年4月14日/10ラウンドKO負け)

「カリフォルニア州ライト級チャンピオンのナンスのジャブは強烈だった。打たれ強さには自信があったが、グローブの中に石でも入れてるんじゃないかと思うほど固くて強いジャブだった」。


◉BEST PUNCHER◉ レニー・バルデス(1982年7月1日/2ラウンドTKO負け)

「とにかく序盤がめっぽう強いパンチャーなのはわかっていたが、キャリアで初めてダウンを奪われストップされてしまった。バルデスと戦うまでは自分がノックアウトされるなんて想像もしていなかったから、ショックだったよ」。


◉BEST CHIN◉ グレグ・ホーゲン(1985年8月22日/7ラウンドTKO負け)

誰もが知っている、ライト級史上にその名を残すビッグネームですが、このときは11勝無敗5KOのホープでした。IBFバージョンのライト級王座を獲得するのは翌年12月5日のことです。

「私のパンチがまともに当たっても、ホーゲンは何事もなかったかのように打ち返してきた。とにかく打たれ強かった」。


◉BEST DEFENSE◉ マリオ・チャベス(1981年5月21日/SD勝利!)

「元カリフォルニア州バンタム級チャンピオンだったチャベスは、私のキャリア序盤で出会った最高の防御技術の持ち主だった。

右のガードがルースになった隙に何度も速いパンチを打ち込んだが、頭を振って上手く額で受けられてしまった。そんなことを繰り返してるうちに、拳を骨折してしまったんだ。

無名だが、額を上手く使ってクリーンヒットを許さない非常にクレバーなボクサーだった」。


◉FASTEST FEET◉ ヘクター・カマチョ(1985年12月18日/0−3判定負け)

「カマチョしか思い浮かばない。あの出入りの速さは、信じられないくらい。私がパンチを打つと、10フィート先に瞬間移動しているんだ。

精密な距離の測定技術が優れているから、あのスピードが生きて来る。とにかく信じられないくらいに速かった」。


◉FASTEST HANDS◉ ヘクター・カマチョ

「やはり、カマチョだ。こっちが一発撃つ間に、三発、いや四発返してくるんだから」。


◉STRONGEST◉ トミー・コルドバ(1984年6月12日/1−2SD判定負け)

「コルドバは“白いアーロン・プライアー”だった。コーナーを飛び出したら、まっすぐに総攻撃を仕掛けてきた。

パンチはなかったが、前に出てプレッシャーをかけ続けて、休ませてくれなかった。まさに、プライアーだったよ」。

プライアーは大げさですね(笑)。


◉BEST BOXER◉ ヘクター・カマチョ

「強打者ではなかったが、それ以外は全てを持っていた。手も足も速くて、頭も良く動いた。

もし彼がボクシングに全身全霊を捧げていたら、歴代PFPでもトップに数えられる一人になっていたはずだ」。

◉SMARTEST◉ ボビー・チャコン(1985年3月5日/0−2MD判定負け)

2ラウンドに2度ダウンを奪うなど、元WBCジュニアライト級王者のビッグネームを追い込みますが…。

「チャコンは倒されたのに『これがお前の全力のパンチか?こんなパンチじゃ俺をKO出来ないぜ』と話しかけながら立ち上がってきたんだ。

あそこで全ての力を使ってでも倒しに行くべきだったけど、もしかしたら効いてないのか?と迷ってしまった。自分を信じる力がチャコンの方が強かった、そしてボクシングでは往々にしてそこで勝負が決まるのさ」。


◉BEST OVERALL◉ ヘクター・カマチョ

総合的に最も完成されていたのはカマチョだ。あのスピードに対応するのは至難の技。

永久に動き続けられるんじゃないかというほど速くて滑らかで、コンビネーションも多彩だった。

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1981年3月26日、ラスベガスのアシエンダホテルの特設リングでホセ・レゼンデスを攻め込むローチ。

1986年10月24日、マサチューセッツ州・ローウェルオーディトリアム。無敗の23歳、デビッド・リベロに0−2のMDで13敗目を喫したローチは、ボクサー人生の幕を引きます。

このとき、フレディ・ローチは26歳。

9年間のプロボクサー生活でパンチを浴び続けた影響で、パーキンソン病の初期症状も出ていました。

「世界チャンピオンになりたくて、ボクシングに全てを捧げて生きてきたのに、その夢はもう叶わないことがわかってしまった。私は、これからの人生をどう生きていけばいいのだろう」。

ボクシングを失った26歳の若者の目に映る未来は、吸い込まれてしまうような深い真っ暗闇で、小さな星の一つすらも見ることができませんでした。

「もう私の人生は終わりだ」。 
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マニー・パッキャオの次戦がようやく決まりました。

7月15日、マレーシアはクアラルンプールでルーカス・マティセの持つ世界ウェルター級、WBAのセカンドタイトルに挑みます。

ボクシングファンを驚かせたのは、昨日、この正式発表が、マティセをプロモートするゴールデンボーイプロモーションズのオスカー・デラホーヤから発信されたということです。

かねてから噂されていたパッキャオとトップランクのボブ・アラムの関係が離れていることを裏付ける決定的な“事件”です。

もともと、この世界2大プロモーターと二重契約を結んでいたこともあるパッキャオが、キャリアのフィナーレに向かって、今後アラムから離れてより独立的な立場を鮮明にしていくのは確実でしょう。

トップランクは、パッキャオvsマティセ戦のESPNでのTV放送を主導しますが、イベントのプロモートには関わりません。今回のプロモートは、パッキャオ自身が代表を務めるMPプロモーションズが担います。

そして、それ以上に大きな驚きをもって受けとめられたニュースが飛び込んできました。

パッキャオが米国に殴り込みをかけた2001年から、足掛け17年34試合にわたってタッグを組んできたフレディ・ローチと袂を分かったというのです。
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2009年、七階級制覇を賭けたミゲール・コットとの大勝負に備えて激しいトレーニングを重ねるパッキャオとローチ。例えそれが親子であっても、ボクサーとトレーナーほど、結果だけが求められる打算的で刹那の関係はありません。それでも「この二人だけは特別」と多くの関係者は信じていましたが…

“Pacquiao will go into the fight without his longtime trainer, International Boxing Hall of Famer Freddie Roach, overseeing his camp or corner. 
 ” 
長年連れ添った殿堂入りトレーナー、フレディ・ローチは、パッキャオのキャンプにも試合にも帯同しない。

パッキャオのアドバーザー、マイケル・コンツはESPNの取材に「マニーが決断したことだ。幼馴染で長年アシスタントトレーナーをつとめているブボイ・フェルナンデスがチーフに昇格する。マニーとブボイは阿吽の呼吸だ、心配はない」と新しいコーナーを説明。

トップランクとの関係については「今回も協力しあってイベントを盛り上げていく。私たちは長い間、ウィン・ウィンの関係だったし、それは今後も変わらない。あなたたち(メディア)が騒ぐような、確執はない」と答えています。

また、パッキャオは「この試合はアラムも観戦に来る。私達には対立の問題はない」と語り、マティセ戦後の将来については「ワシル・ロマチェンコとの交渉が始まるはずだ。今年の秋か冬にロマチェンコと戦うことになるかもしれない。ただ、今はマティセ戦に集中している。マティセ戦が調整試合だと書くのはやめてくれ」とPFP最高ボクサーとの決戦をほのめかしました。

パッキャオvsロマチェンコ、実現したら楽しみではありますが、ホルヘ・リナレスがウクライナのハイテクを破壊したら、パッキャオvsリナレスもありえなくはないですね。
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こんなツーショットは、もう見ることができない?

とはいえ、その出会いから映画のような物語がいくつもちりばめられたローチとパッキャオが決別してしまうとは…なんだかショックです。

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「マニーというのか?ミットは打てるか?(こんな小さなアジア人に何が出来るというんだ)」

「ワンツーから打ちますよ(このオッサン、震えてるじゃないか。滑舌も悪いし、マニラのスラムにたむろしてる酔っ払いみたいだけど大丈夫か?きっと米国では三流のトレーナーだろう)」

…最初は手加減していたパッキャオは徐々に本気で打ち込みます。

「このトレーナーは只者じゃない。私のパンチを全部真芯で受けて、全くミットがぶれない」。

そして絶望と不安に駆られます。

「もし、この人が三流なら、米国ボクシングの山はとてつもなく高い。米国で一旗挙げようなんて絶対不可能だ」。

「マニー、もうおしまいだ」。ローチがミットを下ろした時、パッキャオはテストが不合格だったと勘違いして「もう少しチャンスを下さい」と頼みます。

ローチはミットを外しながら感嘆しました。「マイク・タイソンを知っているか?彼のパンチも受けていたが、ミットで『怖い』と思ったことなんて、ただの一度もない……今日が初めてだ」。

多くのノンフィクションやドキュメンタリーによると最初に出会った時、二人は互いのことを全く知らなかったそうです。ローチは「こんなすごい才能がいきなりジムを訪ねて来るなんて、夢でも見てるんじゃないか」と思い、パッキャオは「この人と練習したいけど、タイソンを教えていたとか虚言癖がある人だな」と疑っていたそうです。
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パックマンの伝記やら自伝やら、リング誌のバックナンバーやらを引っ張り出して、ボクシング史上最高のコンビ、ローチとパッキャオの運命の物語を紹介していきます。
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軽量級の名選手でも大きな壁となってきた“10ポンド”。

タイプ別にその壁に打ち砕かれたグレートを振り返ります。


 💀💀💀急ブレーキ型《一寸先は闇》💀💀💀

ローマン・ゴンザレスは圧倒的な技量を見せつけてストロー、ジュニアフライ、フライ級の三階級を制圧、軽量級ボクサーとして史上初のPFP1位の座を掴み取りました。将来、一発殿堂確実のグレートです。

しかし、ストロー (105ポンド)から10ポンド先のジュニアバンタム(115ポンド)では、カルロス・クアドラスからタイトルを奪い四階級制覇に成功するものの、フライ級(112ポンド)までの飛び抜けたパフォーマンスは影を潜め、クアドラスのスピードに戸惑い、シーサケット・ソールンビサイのパワーに押し潰されてしまうのです。

ロマゴンにとって、PFP1位に栄誉を得て我が世の春を謳歌したフライ級からたった3ポンド、1.36kg先に、魔物が待ち構えていたのです。。
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2016年9月16日、クアドラスに辛勝してジュニアバンタム級のWBCバージョンを獲得、四階級制覇に成功したロマゴンでしたが、この試合ですでに階級の壁に苦しんでいました。

昨年3月の初戦で、シーサケットの体格と体力に押されていたロマゴン陣営は「7日前軽量で121ポンド」という理不尽な要求をBサイドのタイ人に飲ませました。

しかし「初戦は2カ月前にいきなり声をかけられて準備不足だったが、今回は試合4ヶ月前からトレーニングを開始、万全に仕上げることが出来た。ロマゴンをKOする絶対の自信があった」というシーサケットとの第2戦はミスマッチと評するメディアもあるほどの一方的な展開の末にカンバスに沈みました。

「チョコラティト」の愛称通り、滑らかな動きから繰り出される多彩なコンビネーションで対戦相手を詰め将棋のように追い込んでいくロマゴンのスタイルは、ストロー級時代ですでに完成されていたものです。

完璧なスタイルを体得していたロマゴンにとって、階級を上げることでスタイルチェンジをする必要はなく、フライ級までの三階級ではそれで充分通用していたのです。

マニー・パッキャオが左一本の荒削りな原石でフライ級を制し、“マニラアイス”(フレディ・ローチはさかんに喧伝してましたが定着しませんでしたね)の右リードを磨き、引き出しを増やしながらスタイルのマイナーチェンジを重ね、ジュニアミドル級まで獲得した姿とは対照的です。 
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フライ級時代のマニー・パッキャオの武器は、勇気と左ストレートだけでした。誰が見ても引き出しの少ない突貫ファイターでしたが、そんなパッキャオが多彩な右リードを操り、変幻自在のステップで大男を翻弄する「史上最高のサウスポー」(バート・シュガー)に昇華するなんて、当時は誰一人として想像できませんでした。

スタイルを変える必要が見当たらないほど完成されていたがゆえに、そのスタイルが耐えられる体格差を超えてしまった時点で破綻するのは必定でした。

現実には、シーサケットとの第2戦でロマゴンは本来のプレッシャーをかけるスタイルを捨て、サイドやバックにステップを踏み、正面衝突を避けようとしましたが、体格で勝るタイ人を勢いづけるだけでした。 

スタイルは違えど、やはり高度に完成されたリカルド・ロペスがストロー級に固執し、複数階級制覇に消極的だったのは、本能的に危険を嗅ぎつけていたのでしょう。

「完成され過ぎて修正・改善の余地が少ない」。贅沢な悩みですが、それはある意味で「引き出しが少ない」ということなのかもしれません。


ビック・ダルチニアンも「急ブレーキ型」でした。 

「怪鳥」と呼ばれた個性的なスタイルで強打を振るい、2004年に獲得したフライ級のIBFバージョンに加え、IBOのピースもピックアップ、階級最強を証明しました。

2007年7月7日、七夕の夜(そんなもの米国にはありませんが)にノニト・ドネアに大番狂わせを起こされフライ級王座を追われますが 、ジュニアバンタムでも圧巻の強さを見せつけ、WBA/WBC/IBFの3団体を統一、Undisputed Championに王手をかけます。

ジュニアバンタム時代にドネアとの再戦が実現していたら、これはすごい試合になっていたでしょう。何度かテーブルに乗った交渉は決裂してしまったのは本当に残念でした(二人は、ともに完全に行き詰まったフェザー級でやっと再戦しましたが、それはもはや階級最強を決める舞台ではなく、完全な賞味期限切れのマッチアップでした)。

ジュニアバンタム(115ポンド)でPFP10傑入りしたダルチニアンでしたが、3ポンド、1.36kg重いバンタム級(118ポンド)で予想外の停滞を強いられます。
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2009年7月11日、IBFバンタム級王者ジョゼフ・アグベコに挑戦。アグベコもタフな強豪王者でしたが、オッズは2−1でPFPファイターが有利と見ていましたが…。

しかし、ジュニアバンタムまでは、あれほど強烈で圧倒的だった“レイジング・ブル”のパンチがアグベコに通用しません。115ポンドでは後退することを知らなかったダルチニアンですが、118ポンドではバックペダルを踏むシーンが目立ち、本来の戦い方が出来ません。0−3の判定負けで三階級制覇を阻まれてしまいます。

フライ、ジュニアバンタムの二階級で圧倒的な最強王者だったダルチニアンは、殿堂入りも十分にありうるグレートです。

しかし、バンタム級ではその輝きをついに取り戻すことは出来ませんでした。

ダルチニアンはアグベコ戦時点ですでに33歳、階級の壁だけでなく加齢による衰えもあったのではないかとも考えられます。とはいえ直前の115ポンドであれほど躍動していたのですから、その推測には説得力がありません。

アグベコ戦のリングに上ったダルチニアンの戦績は、32勝(26KO)1敗1分。その後の19戦では、11勝(6KO)8敗、フライ級からジュニアバンタムへの3ポンドは易々と超えたアルメニア人でしたが、次の3ポンドで全くの別人になってしまったのです。
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5月25日、井上尚弥はバンタム級転向第1戦で、いきなりWBA世界王者のジェイミー・マクドネルに挑みます。

2012年のデビューから5年8カ月でジュニアフライ級(108ポンド)からバンタム級(118ポンド)へ、ちょうど10ポンド、4.54kg体重を増やして大田区総合体育館の特設リングに上がることになります。

井上は、プロ6戦目でジュニアフライ級のWBCバージョンを獲得、フライ級をスキップして8戦目でオマール・ナルバエスからジュニアバンタム級のWBOバージョンを奪って二階級制覇。マクドネルに勝てば三階級制覇達成です。

不吉なことを語るつもりはありませんが、ボクシングの世界には階級の壁が厳然として存在します。

昨年、米国で念願のメインイベンターの地位を掴んだローマン・ゴンザレスは、階級の壁に物の見事に跳ね返されてしまいました。

軽量級で史上初のPFP1位の座に登り詰めたニカラグア人は、ストロー級(105ポンド)を皮切りにジュニアフライ(108ポンド)、フライ(112ポンド)、ジュニアバンタム(115ポンド)と四階級制覇に成功していましたが、ジュニアバンタムではカルロス・クアドラスとシーサケット・ソールンビサイを持て余し、シーサケットとの2戦目ではいいところなく惨敗してしまいました。
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SUPERFLYの看板、ロマゴン復権のために、シーサケットに7日前計量で121ポンドのリミットを強要するなど、理不尽な小細工がリング外で仕組まれましたが、リングの上では強いやつが勝つだけなのです。

ロマゴンをしても10ポンドの体重差は、非常に厳しい重荷となりました。

奇しくも井上も10ポンドの壁にチャレンジします。

フライ(112ポンド)からジュニアミドル(154ポンド)の42ポンド、19.1kgという驚異のスパンで世界王者となったマニー・パッキャオのような超常現象は例外として、軽量級の一流ボクサーたちでも10ポンド前後の階級制覇で大きな壁に阻まれてきました。

今夜から、10ポンドの壁にぶち当たった殿堂クラスのエリートの挑戦と挫折を振り返ります。
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リング誌5月号から。

 RISING SONS(新世代の台頭)のタイトルで、「日本ボクシングの豊穣な歴史と、新しい風をわかりやすく紹介」と8ページフルカラー(リング誌は全ページカラーですが)で特集してくれています。
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井上尚弥は、現在日本で最もリスペクトされたファイター。これから、日本ボクシングの顔になれるか?

♠️♤♠️昨年9月の「Super Fly」興行は二つの重要な意味を持つ。

一つは、フェザー級以下の市場が米国でも受け入れられることを、スタハブセンターを埋めた観衆とHBOで多くの人が視聴したことで証明したこと。
 
二つ目は、年間最高試合の候補に挙がった三浦隆司と亀海喜寛、八重樫東によって日本人ボクサーの認知が広がった米国のリングに井上尚弥が上がって期待以上のパフォーマンスを見せたこと。

今後も日本人ファイターが米国に来るなら、さらに我々は彼らに親しみを覚えるだろう。

また、Super Flyの背景には、米国のTVネットワークが(ボクシング人気の低迷により番組予算が激減している中で、低報酬で興行が打てる)軽量級への関心が高まっていることもある。

井上は日本で最も評価が高いボクサーだが、極東の小さな国は他にも多くの才能が存在する。

最近の日本は常時10人を超える世界王者を抱え、そのほとんどがキャリア20戦未満で20代と、大きな未来を切り開く可能性を秘めているのだ。

カルフォルニア州よりも小さな国で、どうして若い才能が次々に芽生えているのか?

その答えを探すべく、ダグ・フィッシャー編集長と、日本ボクシングに造詣の深いアンソン・ウェインライト記者は、日本を代表するプロモーターやメディアへの取材を敢行した。

現在活躍している新世代のボクサーに焦点を当てる前に、まず日本のボクシング文化と歴史を紹介しなければなるまい。

世界基準のボクサーを輩出し続けている日本で、最初に世界王者になったのは1952年にフライ級王者となった白井義男だ。そして60年代にはファイティング原田、70年代に具志堅用高が国民的ヒーローとなり、二人は殿堂入りも果たしている。

日本がこれまでに生み出した世界王者は約90人。この数字は、米国とメキシコに次ぐものだが、JBCが2013年までIBFとWBOを認めていなかったにもかかわらず、この数字であることも考慮すべきだろう。

殿堂入りの日本ボクシング界の重鎮、ジョー小泉は「日本が質の高いボクサーを生み出している理由は3つある」と語る。

「一つは、チケット販売のシステム。ファイトマネーの一部がチケットで支払われることが珍しくなく、ボクサー自身が家族や友人知人、スポンサーにチケットを売る優秀なセールスマンなのだ」。…あまり自慢できることじゃないですね、これは。

「次に、実力別に分けられたA、B、C級トーナメントが行われ日本、東洋、そして世界に続くガイドラインが用意されていること」。

「3つ目は、ジムと興行を一手に受ける経験豊かなプロモーターの存在だ。彼らが地元に根付いて、テレビ局やスポンサーの支援を獲得して、優秀な選手を育てているのだ」。



ストロー級の王者に二度就き、今は大橋プロモーションズのトップである大橋秀行からは、意外な嘆きの声を聞いた。

「海外のハードコアファンなら知っている井上尚弥ら日本の若い才能は、日本では一般的には知られていない。井上を見てくれたら一目瞭然だが、この10年でボクサーの技術は格段に進歩している。彼らは、世界的な強豪王者にも勝利を収める可能性も秘めている。これは、過去には考えられなかったことだ」。

「しかし、率直に言うと日本のボクシング界は、素晴らしいボクサーが続々と生まれていることを一般のファンへ伝えることを怠ってしまった。本当の黄金時代を迎えるのに、一般のファンに知ってもらい応援してもらうことは欠かせない」。…世界王者の数だけ見ると、日本はメキシコや英国のようにボクシングが盛り上がってると、リング誌が考えてしまうのも無理もありません。現実は全く違いますが。

渡辺プロモーションズの渡辺均は、IBFとWBOを認めたことで才能が発揮できる舞台が増え、今の活況につながっていると説明する。

「ジムが興行を打ち、トレーナーも選手も抱えるクラブオーナーシステムが、日本のボクシングを発展させてきた。4団体を認めて世界王者の希少価値が失われたという人もいるが、より多くの世界戦を行うことがボクシング界の発展につながると信じている」。

一方で、最も古い歴史を持ち最も大きな成功を収めている帝拳の本田明彦は「世界王者に関しては多けりゃいいというものではない。10人も世界王者を抱えていても、決して黄金期ではない。村田諒太と、もしかしたら井上尚弥はスターの地位を獲得したかもしれないが、他の世界王者は違う。日本でボクシングの試合をテレビに乗せることは、考えられているほど簡単ではない」と危機感を語っている。

「一部で技術レベルが向上してるのは認めるが、プロボクサーの数は2年前の3分の1にまで激減している。実力のあるボクサーの数も減っているため、マッチメイクは非常に難しくなっている。世界王者の数だけ見てたら信じられないかもしれないが、これが日本の現状だ」。…one third compared to two years ago 2年で3分の1はさすがにありえませんから「20年」の間違いでしょうか。

「世界王者を量産する今の環境は、本物のスターを生み出すには良くない環境だ。より大きな試合、より大きな報酬を求めて日本を飛び出すことだ」。♠️♤♠️   
 
軽量級の場合は、日本が本場だと言い切って良い状況が長らく続いているだけに、日本を飛び出して「より大きな報酬」は難しいですね。木村翔のように日本で無名のボクサーが、海外のスター相手に咬ませ犬で出向くなら別ですが。

渡辺会長の言う「4団体認めたことが業界の発展につながっている」というのは一面あるかもしれません。もし、2団体のままだと王者の数は半分かそれ以下です。ボクシング産業トータルで見たら倍の世界王者を抱えている方が、市場規模も倍とはいかないものの、大きいかもしれません。

確かに5人の2000万円選手の市場と、10人の1000万円選手の市場はイコール、同じ1億円です。しかし、本田会長が指摘するように「それではスターは生まれない」ですね。一人の1億円選手の方が、市場は盛り上がります。

今でも、おそらく年収で1億円を優に超えている村田諒太が存在しますが、彼は純粋にボクサーとして評価されているようには見えません。

五輪金メダルで国民的ヒーローの一人になり、ボクサーとしては異例の露出で世間に認知され、不可解な判定を乗り越えてついに世界王者になった…プロのリングで評価された1億円ではありません。

プロボクサーが、他のプロスポーツ選手と決定的に違うのは、その収入のほとんどがファイトマネーということです。コマーシャル出演などのエンドースメントが、収入の大きな割合を占めるゴルフやテニスと違い、一つの敗北でイメージに傷が付くボクシングはスポンサーにとって危険な商品です。

しかし、村田の収入割合は、おそらくエンドースメントが大きくファイトマネーを上回るでしょう。もちろん、スポンサーが聡明で快活でハンサムな彼を応援したいと思う理由は充分理解できますが、突然変異の村田はモデルケースにはなりえません。

日本のボクシング市場を支えている軽量級のボクサーが、どこを目指せばいいのか、それが問題です。

今朝、アンソニー・ジョシュアがデオンティ・ワイルダーとの決戦にふれて「米国には行かない。ロンドンでもカーディフでも同じこと(実際には同じではなく英国の方が報酬ははるかに上)が出来るのに意味がない」と切って捨てましたが、英国ほど恵まれてはいませんが、軽量級に関しては日本も同じです。

「ラスベガスで一攫千金」なんて白昼夢はもう見ないで、メディアも興行に関わるジムも日本を軽量級の本場にするような前向きな努力をすべきです(すでに本場は日本ですが、いまだに「ボクシングの本場はラスベガス」と平気で吐く関係者が多すぎます)。
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