現地時間3月8日付リング誌電子版からです。

日本人に馴染みの深い外国人ボクサーがしっかり取り上げられると嬉しいものです。

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1974年4月11日、日大講堂。ガッツ石松が大番狂わせでロドルフォ・ゴンザレスを破り、WBC世界ライト級王座を奪取しました。

当時、私はまだ小学生低学年で、ボクシングファンでもなんでもなく、野球も陸上競技にもはまる前のことで、この試合は見ていませんし、そもそもガッツ石松を知ったのはあの聡明なパンチャーが引退した後のことでした。

今夜のお話は、石松ではなく、その拳に2度も沈められたメキシコ人が主役です。

しかし、YouTubeは素晴らしいです。44年前の試合の動画を見ながら、ゴンザレスの物語を読めるなんて。
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ロドルフォ・ゴンザレスは、日本のボクシングファンにとって、ライト級という高貴な階級のベルトを日本にもたらしてくれた忘れることのできない名前です。

しかし、世界的には印象の薄い、無名の日本人に躓いたライト級王者です…..。ところが、です。

なんと、ハリウッドでその生涯を映画化する作業が始まっているというのです。何も調べてないので、配役や公開予定日は不明ですが、このゴンザレスの生き様は、それほどまでにドラマティックだったのです。

♠️ゴンザレスは1944年12月16日、メキシコ・グアダラハラ南部の小さな町で、9人兄弟の次男として生まれます。

幼い時からボクシングに興味を示したゴンザレスは、幸運にも元世界バンタム級王者の従兄弟がいました。ホセ・ベセラです。世界王者からボクシングのABCを叩き込まれたゴンザレスは、あっという間に上達していきました。
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ベセラはリング誌の「メキシコバンタム級歴代10傑」でも9位にランクされる名王者でした。

その後、メキシコの伝説的ボクサー、キッド・アステカからも、必殺の左のレバーブローも伝授されました。

アマチュアでの試合経験はなかったものの、1959年14歳の時にプロデビュー。1ラウンドKOと上々の船出を果たします。その後もKOの山を築き、52連勝、KO勝ちは50を数えました。

※BoxRecによるとデビューからの連勝は36と、「物語」ではサバを読んだ感じですが、それでも36勝中KOは35、凄まじい戦績です。ただし、36勝目の相手はプロデビュー戦。37連勝を止められた相手はホセ・ルイス・カスティージョ(メイウェザーを最も苦しめたあのカスティージョと同姓同名ですが無関係)で、ゴンザレスと戦うまでの戦績は1勝2敗、つまりプロ3戦のボクサーでした。


それでも“El Nino Del Nocaut” (The Knockout Kid) の異名まで頂戴して、メキシコ中で戦いました。

メキシコ独立運動で活躍したホセ・マリア・モレーロスから付けられたミチョアカン州モレリア市での試合は、その地方最強のボクサーが相手で圧倒的不利と見られていましたが、大番狂わせの勝利を得ます。

この試合をゴンザレスがはっきり記憶しているのは、大番狂わせを起こしたからではありません。〝招かれざる客〟がリングに闖入したからです。

「誰かがリングにガラガラ蛇を投げ込んだんだよ」。ゴンザレスは笑って話しますが、猛毒を持つガラガラ蛇です、笑い事ではありません。

「ものすごい凶悪な顔した、大きなガラガラ蛇だった。私と対戦相手は慌ててロープ最上段に駆け上がったさ。レフェリーがデッキブラシで蛇を叩き殺して、試合再開、私が勝ったんだ。こんなことは、メキシコならではだね」。

そして、ついに1963年、米国進出を果たしました。会場のロスアンゼルス、オリンピック・オーディトリアムのリングには、その後17度も上がる、まさにホームとなります。

このリングは日本人にも馴染みが深く、海老原博幸や西城正三も拳を振るい、力道山やジャイアント馬場、アントニオ猪木までが熱戦を繰り広げました。

 

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嗚呼、オリンピック・オーディトリアム!かつて、日本を代表するボクサーやプロレスラーが躍動した、郷愁を誘われてしまう名前と建物です。


憧れの米国に足を踏み入れた直後に(違法入国でしたが)、前途洋々のはずの若きコンテンダーの人生が暗転します。

末期の肝臓癌と診断され、余命1年と宣告されたのです。

「絶望的」とは簡単に使われる言葉ですが、これは「的」ではありません。絶望、そのものでした。

19歳の新進気鋭のボクサーでなくとも、神様を呪うしかありませんでした。

ゴンザレスが、ティファナの母親宅に身を寄せていたある夜のことです。

敬虔なカトリック教徒だったゴンザレスは、夢の中でグアダルペの聖母が「私の教会に来なさい」と告げる声を聞きました(グアダルペはバチカンが公認する聖母出現譚の一つで、その宣教会はメキシコで多くの信徒を抱えています)。

ゴンザレスは鎮痛剤を打ち、母親に介助されながらなんとか教会まで辿り着きました。そして、そこで神の深い慈悲を感じるのです。

ゴンザレスは体の中に、すっと優しい光が通り過ぎたような感覚を覚えました。

信じられないことが起きました。

容体はみるみるうちに回復し、誰の助けも借りずに自分の足で歩いて家に帰ることが出来たのです。

検診に訪れたゴンザレスの体から末期癌は跡形もなく消えて無くなっており、医者は「ありえない、奇跡だ、これこそが奇跡だ!」と驚きました。

3年近い静養の後、ゴンザレスはリングに帰ってきますが、ブランクの影響は大きく、復帰初戦から無名のフェザー級ボビー・バルデスとの3連戦で2敗1分と低迷。

それでも1968年には、強豪レイ・アディグンを10ラウンドTKOに仕留めて調子を取り戻します。

1970年には大勝負の舞台に上がります。 オリンピック・オーディトリアムのリングで挑む相手は、なんとアントニオ・セルバンテス!のちの世界ジュニアウェルター級王者で、殿堂入りまで果たすグレートです。

「報酬は800ドルだった。会場に着くと、どいつもこいつも私を哀れみの目で見やがるんだ。可哀想に、こいつがセルバンテスにコテンパンに叩きのめされるんだ…そんな目でね」 

試合は意外な展開を見せます。なんと2ラウンドにはゴンザレスが、セルバンテスからボディでダウンを奪うのです! もちろん、キッド・アステカ直伝の左の肝臓打ちです!

「あのパンチで倒されてからセルバンテスは逃げ回りやがった。私がリードして試合が進んでいたのに、レフェリーは私が目をカットしたからと8ラウンドで試合を止めたんだ(セルバンテスのTKO勝ち)。勝利を盗まれた気分だったよ」。

ふて腐れて話すゴンザレスですが、彼には天性のユーモア、サービス精神があるのでしょう。大笑いしながら、こう付け加えることも忘れません。「観客はリングの上で何があったのか、どっちが勝ってたかを知っているからね。リング上の私にカネを投げてくれるんだ。その額はファイトマネーよりもずっと多かったんだぜ」。 

ゴンザレスは再び、連勝街道をひた走ります。超大物プロモーターのドン・チャージンをバックに控え、トレーナー兼マネージャーのジャッキー・マッコイと契約すると、一気に世界戦線に躍り出ました。

1972年にはメキシカン・キラーの強豪ジミー・ロバートソン(米国)を難なく判定で下し、世界タイトルに2度挑戦経験があるルーベン・ナバーロも撃破、ついにそのステージがセットアップされます。

1972年11月10日。WBC世界ライト級タイトルマッチ。王者は同じメキシコ出身のチャンゴ・カルモナ。オッズは1-3でゴンザレス不利。

それでもゴンザレスには、自信がありました。

「簡単な試合になるのはわかっていた。カルモナは押し込まれて下がる展開になると何も出来なくなって、左のガードがガラ空きになる。とにかく攻勢をかけた。カルモナは両手を下げてノーガードで下がることもあった、思い通りだったよ。私のキャリアで最も楽勝だったと同時に、最も大切な一戦だった。13ラウンドのゴングが鳴っても、カルモナはコーナーから出て来なかった。ついに、私は世界チャンピオンになったんだよ!」。

ゴンザレスはベルトを持って、メキシコに向かい、教会で聖母グアダルペに勝利を報告します。

「余命1年だった私の癌を完治させてくれてありがとうございます。この世界タイトルを聖母グアダルペに捧げます」。

新チャンピオンは、初防衛戦でナバーロをTKO、50勝(35KO)1敗1分と破竹の勢いの最強挑戦者アントニオ・プドゥーも10ラウンドTKOで切って落とします。

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PHOTO COURTESY OF THE WBC.

このとき、ゴンザレスの戦績は76勝(66KO)6敗1分。セルバンテスに負けてから、世界レベルの相手を蹴散らして、13連勝中でした。

それでもライト級最強と認められないゴンザレスは、統一戦を切望します。しかし、当時WBAのピースを持っていたのはロベルト・デュラン。

簡単に話がまとまる相手ではありません。これまでいくつも番狂わせを起こしてきたゴンザレスでも、のちにPFPキングとなるパナマ人と戦っていたら、勝ち目はなかったでしょう。

好戦的でクロスレンジの撃ち合いを得意とするゴンザレスでしたが、シュガー・レイ・レナードやマービン・ハグラーでさえインファイトを避けた石の拳の前では、オーダーメイドでした。

そして、デュラン戦よりも優先したのは、キャリア最高の報酬8万ドルが保障された日本での試合でした。為替レートが1ドル300円の時代です。8万ドルは、約2400万円、44年後の現在なら、約8000万円に相当します。

石松の戦績は26勝(14KO)11敗5分。前年にあのデュランと戦ってますが、ゴンザレスから見ると過去最高の報酬で過去最弱クラスの相手です。

「ペーパーストマック」と揶揄されるボディの弱い石松が8万ドルをぶら下げて日本で待ってくれているのです。ボディ打ちの名手にとって、これ以上に美味しい話はありません。

しかし、膨れ上がる油断は、ゴンザレスの体まで膨張させ、練習にも気が入りません。減量に失敗したゴンザレスは脱水状態で計量をなんとかパス。当日計量の時代、過度に疲弊した肉体が回復する時間はありません。

衰弱しきったゴンザレスは、王者のプライドだけを背負って(ルイス・ネリに爪の垢でも飲ませたい!)、大番狂わせに燃え上がる石松を迎え撃ちます。

早く試合を終わらせたいゴンザレスを焦らすように、石松は左ジャブを起点にカウンターを狙うクレバーなボクシングを見せます。

そして8ラウンド。ゴンザレスをロープ際に誘い込んだ石松は、狙いすました電光石火のワンツーを放ちます。前のめりにゆっくりと崩れ落ちたメキシコ人が10カウント以内に立ち上がれないのは、誰の目にも明らかでした。

しかし、レフェリーのカウントが異様に遅いのです。タイムキーパーのストップウオッチでは15秒もかかって、ゴンザレスはなんとか立ち上がりますが、再びダウン。レフェリーはスリップと判断したばかりか、倒れたゴンザレスの手をとって助け起こしたのです。

太平洋の遥か彼方、ロスザンゼルスの大物ドン・チャージンを忖度した、卑劣な行為でした。

米倉健司会長とエディ・タウンゼントが「あまりにも酷い!」と抗議と怒りのの声をあげ、エプロンサイドに乗り上がろうとしました。

しかし、ここで、まさか、まさかの冷静さを石松が見せます。

ダウンを奪ってニュートラルコーナーに下がっていた石松は、興奮している二人に気づき、リングに上がってきたら失格負けになると、自陣に駆け寄り叫びます。

「エディさん、黙って!大丈夫、オレ、あいつを殺すから。必ずぶっ倒すから黙っていて!」

1974年4月11日、日大講堂。この日は、日本に初めて世界ライト級のベルトがもたらされた記念日です。


……このままだと、石松話にハマりそうなので、ゴンザレス話に引き戻します。

再戦でも石松に敗れたゴンザレスは、81勝(71KO)7敗1分という素晴らしいレコードを残して引退しました。

ロドルフォ・ゴンザレスは、殿堂クラスのグレートではありませんでした。

しかし、2003年リング誌年鑑が特集した「100 Greatest Punchers of All Time」の一人にも、その名を刻んでいる、記憶に残るスラッガーです。日本のボクシングファンにとっても、忘れることのできない名前です。

強打のメキシカンも、今は73歳。奥さんのバーバラと、カリフォルニアで幸せな日々を送っています。

子供も4人、孫も6人、穏やかな余生を楽しむゴンザレスに先日、ハリウッドの映画会社が契約書を持って訪れました。

「あなたの人生を映画にさせて下さい」。

ゴンザレスは「聖母グアダルペに相談してからでないとサインはできない」と断りますが、そう笑いながらも契約書とペンを受け取ります。

「聖母グアダルペがNOと言うわけはないからな」。

🌸🌸🌸映画はいつクランクインなんでしょうか?ガッツ石松にも出演依頼が来てるなら嬉しいですね。日本公開が今から楽しみです。🌸🌸🌸