今から46年前の明日、1980年10月12日。
当時の為替は1ドル249円。10月12日は具志堅用高と並ぶ国民的英雄、王貞治が最後のホームラン868号を放った日でもありました。
今日のお話の舞台は、ビッグOがアーチを架けた後楽園球場ではなく、カンムリワシが登った石川県金沢市の実践倫理記念館の特設リングです。
具志堅は、自らの日本記録のテープを伸ばす12連続防衛中の25歳。
日曜日のゴールデンタイムに地上波生中継される具志堅用高の試合は、当時の巨人戦なども上回る30〜40%台の視聴率を叩き出していました。
具志堅は王貞治と並ぶ国民的英雄でした。
13度目の防衛戦に選ばれたフローレスは、本業が月給8000ペソ(当時のレートで約8万円)の安定した公務員というパートタイム・ボクサー。4ヶ月前にメキシコのフライ級王者になったばかりの29歳。
戦前予想は「具志堅がいつKOするか」でしたが、フローレスのコーナーにはルペ・サンチェス控えていました。ジョー・メデル、ピピノ・クエバスらをマネジメント、アレクシス・アルゲリョも指導したメキシコ史上屈指の名伯楽です。
サンチェスは4年前の1976年10月にも来日、この日と同じ実践倫理記念館で辻本章次を第6ラウンドKOで屠ったWBAウエルター級王者クエバスのコーナーも守るなど、たびたび来日しています。
さらにさかのぼって、1967年1月にはファイティング原田の世界バンタム級タイトルを狙ってメデルを率いて愛知県立体育館に乗り込みましたが「息もつかせぬラッシュ戦法で技術勝負をさせてもらえなかった」と押し切られてしまいます。
サンチェスはフローレスを「メデルのようなテクニシャン」と表現しましたが、実際の試合では原田のような無尽蔵のスタミナで攻勢を仕掛けるファイターとしてカンムリワシの前に立ち塞がりました。

試合は王者のペースでスタート。
第3ラウンドには右リードから左フックがヒット、フローレスをカンバスに沈めました。会場からは「まだ早い!」と余裕の応援。
しかし、具志堅の見せ場かここまで。第4ラウンドからフローレスのアタックに苦しむ大苦戦。
再戦は翌1981年3月8日、チャンピオンになって初めて沖縄に帰ってのタイトルマッチ。
「普通に戦えば勝てる相手」という予想が正しい見方だったのかどうかはわかりませんが、世界戦15度目という消耗、プロモーターへの不信感は25歳の肉体と心を蝕んでいました。
具志堅はプロ9戦目でのタイトル奪取、13連続防衛という二つの記録を残してグローブを吊るします。
最短記録の「9」戦目は、田中恒成と吉良大弥が「5」まで更新。
同一階級での「13連続防衛」はいまだに破られていませんが、階級またぎの連続防衛では井岡一翔が「18」(ストロー級「3」/ジュニアフライ級「3」/フライ級「5」/ジュニアバンタム級「7」)、そして井上尚弥によって「24」(ジュニアフライ級「1」/ジュニアバンタム級「7」/バンタム級「8」/ジュニアフェザー級「8」)まで伸ばされています。
もちろん、この手の記録は日本が好き勝手できる度合いが強まっている現代のボクサーに有利に働くのは当然で、このままタイトルの価値が暴落を続けるなら、最短記録も連続防衛記録もさらに更新されるでしょう。
バンタム級では、歴代最高論争で井上の対抗馬とされるファイティング原田の連続防衛の数字はわずか「4」でしかありません。亀田興毅の「8」の半分に過ぎませんが、原田と興毅の評価を真剣に議論するボクシングマニアは地球上に一人もいないでしょう。
ボクシングの数字的価値はとんでもないレベルで暴落しているのです。
具志堅の最短「9」と連続防衛「13」。ジュニアフライ級で記録されたこの数字にどこまでの価値があるのかは…わかりません。
しかし、1976年10月10日から1981年3月8日までのわずか4年と5ヶ月足らずの時間、具志堅用高は紛うことなき国民的英雄でした。あの時代、日曜日のゴールデンタイムに日本中のスポーツファンが固唾を飲んでブラウン管の前に座り、ワセリンに顔を光らせながら君が代を歌う具志堅を全身全霊で応援していたのです。

具志堅が日本列島を沸かせたあの頃、定期的にPFPランキングを発表するメディアはありませんでした。
リング誌が年間表彰の一つにBEST FIGHTER POLLを創設したのが1980年。事実上の年間PFPでしたが、当時は「PFPといえばシュガー・レイ・ロビンソン」という認識が今以上に強く、この表彰の説明にもPound For Poundの文字は見当たりませんでした。
もし、具志堅が5年遅く生まれていたなら?おそらく、BEST FIGHTER POLLにも登場、事実上、日本人初のPFPファイターになっていたでしょう。
インターネットが普及した2012年、リング誌が発表した各ディケイドのPFPトップ10の1970年代で具志堅は10位にランクイン。70年代の10年間の10位です。
もし、インターネットが成熟し、従来以上に軽量級びいきになっている現代のPFPランキングなら、具志堅の瞬間最大風速は何位になっていたでしょうか?
当時の為替は1ドル249円。10月12日は具志堅用高と並ぶ国民的英雄、王貞治が最後のホームラン868号を放った日でもありました。
今日のお話の舞台は、ビッグOがアーチを架けた後楽園球場ではなく、カンムリワシが登った石川県金沢市の実践倫理記念館の特設リングです。
Gushiken Vs Flores Bout
Jissen Rinri Hall, Kanazawa, Ishikawa, Japan
Sunday, 12 October 1980
promoter:Kyoei promotions
media:TOKYO BROADCASTING SYSTEM TELEVISION
media:TOKYO BROADCASTING SYSTEM TELEVISION
WBA ジュニアフライ級15回戦
具志堅は、自らの日本記録のテープを伸ばす12連続防衛中の25歳。
日曜日のゴールデンタイムに地上波生中継される具志堅用高の試合は、当時の巨人戦なども上回る30〜40%台の視聴率を叩き出していました。
具志堅は王貞治と並ぶ国民的英雄でした。
13度目の防衛戦に選ばれたフローレスは、本業が月給8000ペソ(当時のレートで約8万円)の安定した公務員というパートタイム・ボクサー。4ヶ月前にメキシコのフライ級王者になったばかりの29歳。
戦前予想は「具志堅がいつKOするか」でしたが、フローレスのコーナーにはルペ・サンチェス控えていました。ジョー・メデル、ピピノ・クエバスらをマネジメント、アレクシス・アルゲリョも指導したメキシコ史上屈指の名伯楽です。
サンチェスは4年前の1976年10月にも来日、この日と同じ実践倫理記念館で辻本章次を第6ラウンドKOで屠ったWBAウエルター級王者クエバスのコーナーも守るなど、たびたび来日しています。
さらにさかのぼって、1967年1月にはファイティング原田の世界バンタム級タイトルを狙ってメデルを率いて愛知県立体育館に乗り込みましたが「息もつかせぬラッシュ戦法で技術勝負をさせてもらえなかった」と押し切られてしまいます。
サンチェスはフローレスを「メデルのようなテクニシャン」と表現しましたが、実際の試合では原田のような無尽蔵のスタミナで攻勢を仕掛けるファイターとしてカンムリワシの前に立ち塞がりました。

試合は王者のペースでスタート。
第3ラウンドには右リードから左フックがヒット、フローレスをカンバスに沈めました。会場からは「まだ早い!」と余裕の応援。
しかし、具志堅の見せ場かここまで。第4ラウンドからフローレスのアタックに苦しむ大苦戦。
再戦は翌1981年3月8日、チャンピオンになって初めて沖縄に帰ってのタイトルマッチ。
「普通に戦えば勝てる相手」という予想が正しい見方だったのかどうかはわかりませんが、世界戦15度目という消耗、プロモーターへの不信感は25歳の肉体と心を蝕んでいました。
具志堅はプロ9戦目でのタイトル奪取、13連続防衛という二つの記録を残してグローブを吊るします。
最短記録の「9」戦目は、田中恒成と吉良大弥が「5」まで更新。
同一階級での「13連続防衛」はいまだに破られていませんが、階級またぎの連続防衛では井岡一翔が「18」(ストロー級「3」/ジュニアフライ級「3」/フライ級「5」/ジュニアバンタム級「7」)、そして井上尚弥によって「24」(ジュニアフライ級「1」/ジュニアバンタム級「7」/バンタム級「8」/ジュニアフェザー級「8」)まで伸ばされています。
もちろん、この手の記録は日本が好き勝手できる度合いが強まっている現代のボクサーに有利に働くのは当然で、このままタイトルの価値が暴落を続けるなら、最短記録も連続防衛記録もさらに更新されるでしょう。
バンタム級では、歴代最高論争で井上の対抗馬とされるファイティング原田の連続防衛の数字はわずか「4」でしかありません。亀田興毅の「8」の半分に過ぎませんが、原田と興毅の評価を真剣に議論するボクシングマニアは地球上に一人もいないでしょう。
ボクシングの数字的価値はとんでもないレベルで暴落しているのです。
具志堅の最短「9」と連続防衛「13」。ジュニアフライ級で記録されたこの数字にどこまでの価値があるのかは…わかりません。
しかし、1976年10月10日から1981年3月8日までのわずか4年と5ヶ月足らずの時間、具志堅用高は紛うことなき国民的英雄でした。あの時代、日曜日のゴールデンタイムに日本中のスポーツファンが固唾を飲んでブラウン管の前に座り、ワセリンに顔を光らせながら君が代を歌う具志堅を全身全霊で応援していたのです。

具志堅が日本列島を沸かせたあの頃、定期的にPFPランキングを発表するメディアはありませんでした。
リング誌が年間表彰の一つにBEST FIGHTER POLLを創設したのが1980年。事実上の年間PFPでしたが、当時は「PFPといえばシュガー・レイ・ロビンソン」という認識が今以上に強く、この表彰の説明にもPound For Poundの文字は見当たりませんでした。
もし、具志堅が5年遅く生まれていたなら?おそらく、BEST FIGHTER POLLにも登場、事実上、日本人初のPFPファイターになっていたでしょう。
インターネットが普及した2012年、リング誌が発表した各ディケイドのPFPトップ10の1970年代で具志堅は10位にランクイン。70年代の10年間の10位です。
もし、インターネットが成熟し、従来以上に軽量級びいきになっている現代のPFPランキングなら、具志堅の瞬間最大風速は何位になっていたでしょうか?
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