Breez is Nice!

日本タイトルマッチでも注目のカードなら大きな注目を集めていた時代がありました。

いまからちょうど25年前の1991年10月14日。ところは水道橋、後楽園ホールで行われた日本ジュニアライト級タイトルマッチも日本中のボクシングファンが涎を垂らしながらその日を待つ、そんな試合でした。

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当時、世界のジュニアライト級はWBAでは南アの伝説ブライアン・ミッチェルがIBFに鞍替え、空位の王座を埋めたジョーイ・ガマチェは減量苦からすぐにタイトル返上。IBFではWBAから鞍替えしたミッチェルがトニー・ロペスを下して引退宣言と、液状化。

日本のコンテンダーたちにとってチャンスに溢れた階級でした。

WBCに君臨していたアズマー〝プロフェッサー〟ネルソンをターゲットにする発想は、日本の選手やジムにはありません。高額のファイトマネーを差し出して、ジムのホープが潰されるなんて、ビジネス(興行)として考えられないのは当然です。

そもそも、WBCジュニアライト級はライト級に進出したフリオ・セサール・チャベスのあとをガーナのプロフェッサーが継承した、日本からは見えないふりをするのも仕方がない階級でした。

〝ネルソン抜き〟が大前提ですから、で狙うのはWBA1本(当時のJBCが加盟していたのはWBAとWBCだけ)。

そして、この空位のWBA王座は11月に帝拳のヘナロ・エルナンデスが決定戦に出場することが決定、日本で好き勝手できる状況が整っていました。

さて、25年前のきょう、後楽園ホールで行われた日本ジュニアライト級タイトルマッチです。


Monday, 14 October 1991  
Korakuen Hall Tokyo, Japan

commission:Japan Boxing Commission 

media:FUJI -TV DIAMOND GROVE


王者は赤城武幸、29歳。アマチュアで3年連続で日本ライト級王者から、A級(8回戦)でプロデビュー。15戦14勝8KO1敗。プロ7戦目で日本王者に。〝曲者〟古城賢一郎に僅差で敗れたのが唯一の黒星ですが、リベンジに成功して、これが第二次政権の3度目の防衛戦。

すでにWBAで7位にランキングされていた赤城は、タイトル挑戦へ秒読み段階。

そして、挑戦者の渡辺雄二は前年5月にデビューしたばかりの21歳。元世界ランカーの植田龍太郎を壮絶な打撃戦の末に4ラウンドKOして、日本タイトル挑戦の切符を手に入れましたが、プロキャリアはわずか6戦。

渡辺にとって百戦錬磨の赤城は「早すぎる」と見られていました。

渡辺の持ち味は爆発力。プロで6試合しか戦っていませんでしたが、全勝。しかも全てKOでケリをつけてきた〝お江戸のタイソン〟。

この二人は何度かスパーリングを重ねてきた、互いに手の内を知っている間柄。練習では渡辺は子供扱いされていたという背景も王者が有利という見方を後押ししていました。

試合は大方の予想通りの立ち上がり。赤城がジャブとフットワークで渡辺の全身をさばきます。

第2ラウンド、赤城は左ボディから右ストレートをクリーンヒット、渡辺を仰け反らせます。コーナーに下がる挑戦者を王者が追った次の瞬間、渡辺の左フックが炸裂。赤城は両膝から崩れ落ちる、痛烈なダウン。

試合後に赤城が絞り出した「何をもらったのか、分からない」という言葉が、ダメージの深さを物語っていました。なんとか立ち上がった王者に、インタバルに逃げ込む足もエネルギーも残っていませんでした。

渡辺は3度、キャンバスに沈めて番狂わせの戴冠。

逆転の一撃は「狙ったパンチじゃない。それまでは狙いすぎていたけど」(渡辺)という、追い詰められて無心になったから打てた1発でした。



後楽園ホールのスターになった渡辺は10戦全勝10KO、WBA1位まで数字を伸ばし、翌1992年11月20日に悲願の世界タイトルへアタックします。

相手は予定通りのヘナロ・エルナンデス。「技術と経験では勝ち目はない」「打撃戦に引き摺り込めば勝てる」…渡辺の大勝負で聞き慣れた予想です。そして、技術と経験で上回る相手をパワーでねじ伏せ、ことごとく沈めてきたのが渡辺雄二でした。

そして、土砂降りの千駄ヶ谷・東京体育館であろうことか、ヘナロは打撃戦に応じてくれるのです…。




この試合で最も印象的だったのは、試合後の王者のコメントでした。

「次は誰と戦いたいか?」という日本人の名前をあげてくれるのを期待した質問に、26歳の王者は「もちろん、アズマー・ネルソンだ」とサラリと答えたのです。

そして、日本ボクシング界の視界から外されたエルナンデスは米国へ戻り、2度と日本に呼ばれることはありませんでした。

それが何を意味するのかは、誰にでもわかります。へナロは念願のネルソン戦を勝利で飾り(この試合はフロイド・メイウェザーも泣いた感動の名勝負ですが、そのお話はまた別のときに)、1998年10月3日にそのメイウェザーに敗れて引退しますが、敗れたのはこの全盛期のメイウェザーとオスカー・デラホーヤの2人だけ!

日本の視界から外して大正解のグレートでした(2010年にモダン部門で国際ボクシング名誉の殿堂入り)。




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Fallece Wilfredo “Bazooka” Gómez, leyenda del boxeo puertorriqueño


私がボクシングの魅力に惹き込まれた1980年代初め。

複数の認定団体と、新設クラスで水膨れした階級によってタイトルの価値は低落の一途を辿っていました。

当時、水増し階級の槍玉に挙げられていたのはジュニアフライ級と、ジュニアフェザー級。

日本フェザー級で強打を存分に発揮していた〝KO仕掛け人〟ロイヤル小林がWBA王者アレクシス・アルゲリョへの挑戦に失敗(5ラウンドKO負け)、新設のジュニアフェザー級に照準を変えたのは当然でした。

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現在、井上尚弥が席巻するジュニアフェザー級ですが、ゴメスと比較すると対戦相手の質が議論する意味がないほど、あまりにも違いすぎます…。


1976年10月9日、WBCジュニアフェザー級王者リゴベルト・リアスコを蔵前国技館のリングに引っ張り上げて、見事8ラウンドKOでタイトル奪取。この年5月に輪島功一が王座から陥落、世界王者不在の空白にピリオドを打つ貴重な勝利でした(翌日、具志堅用高がプロ9戦目で衝撃のタイトル奪取、ロイヤルの印象は霞んでしまいましたが)。

小林は、敵地韓国で廉東均に判定で敗れて初防衛戦に失敗。新設階級らしく流浪のチャンピオンベルトは、廉に勝ったウィルフレド・ゴメスの腰に巻かれていました。

1972年ミュンヘン五輪でフェザー級ベスト8のロイヤルに対して、ゴメスは同じ五輪のフライ級に15歳で出場、2回戦で敗退。

2年後の1974年世界選手権にゴメスはバンタム級で出場、なんとオールノックアウトで優勝。バスーカの威力を見せつけていました。1978年1月19日の小林の挑戦はパンチャー対決、チャンスありと期待されていました…。

まさか、新設間もない水増し階級に、歴代最強クラスの化け物が潜んでいただなんて、誰が想像できたでしょうか?

「ボクシングはタイミング」という真理を、一瞬でかくもわかりやすく伝えることが出来るのかという左ショート一閃。リアルタイムであれを目撃した人は、どれほど驚いたことでしょう。

このタイトルは17連続防衛、しかもオールKO。

小林を沈めた年の10月28日には、6度目の防衛戦に52戦全勝51KOのバンタム級のカルロス・サラテを迎えます。このとき、ゴメスも無敗で21勝全KO1分。2人合わせて73勝72KO1分という、軽量級史上最高の強打者対決はサラテ有利と見られていましたが、ゴメスが5ラウンドKOで大勝負を制しました。

1981年8月21日、WBCフェザー級王者サルバドル・サンチェスへの挑戦は失敗(8ラウンドKO負け)に終わりますが、プエルトリコのバズーカ砲はボクシングのスペクタクルを見せつけてくれただけでなく、その奥深さも教えてくれました。

最近まで、ふっくらとなった体をゆすってビッグファイトの会場などに姿を見せてくれることもありましたが、現役時代から悩まされていた外傷性脳損傷に、ドラッグへの依存も深めていってしまいました。

現地時間10月10日、69年の生涯を閉じ、天国に招かれました。







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今から46年前の明日、1980年10月12日。

当時の為替は1ドル249円。10月12日は具志堅用高と並ぶ国民的英雄、王貞治が最後のホームラン868号を放った日でもありました。

今日のお話の舞台は、ビッグOがアーチを架けた後楽園球場ではなく、カンムリワシが登った石川県金沢市の実践倫理記念館の特設リングです。




Gushiken Vs Flores Bout
Jissen Rinri Hall, Kanazawa, Ishikawa, Japan
Sunday, 12 October 1980
promoter:Kyoei promotions
media:
TOKYO BROADCASTING SYSTEM TELEVISION

WBA ジュニアフライ級15回戦



具志堅は、自らの日本記録のテープを伸ばす12連続防衛中の25歳。

日曜日のゴールデンタイムに地上波生中継される具志堅用高の試合は、当時の巨人戦なども上回る30〜40%台の視聴率を叩き出していました。

具志堅は王貞治と並ぶ国民的英雄でした。

13度目の防衛戦に選ばれたフローレスは、本業が月給8000ペソ(当時のレートで約8万円)の安定した公務員というパートタイム・ボクサー。4ヶ月前にメキシコのフライ級王者になったばかりの29歳。

戦前予想は「具志堅がいつKOするか」でしたが、フローレスのコーナーにはルペ・サンチェス控えていました。ジョー・メデル、ピピノ・クエバスらをマネジメント、アレクシス・アルゲリョも指導したメキシコ史上屈指の名伯楽です。

サンチェスは4年前の1976年10月にも来日、この日と同じ実践倫理記念館で辻本章次を第6ラウンドKOで屠ったWBAウエルター級王者クエバスのコーナーも守るなど、たびたび来日しています。

さらにさかのぼって、1967年1月にはファイティング原田の世界バンタム級タイトルを狙ってメデルを率いて愛知県立体育館に乗り込みましたが「息もつかせぬラッシュ戦法で技術勝負をさせてもらえなかった」と押し切られてしまいます。

サンチェスはフローレスを「メデルのようなテクニシャン」と表現しましたが、実際の試合では原田のような無尽蔵のスタミナで攻勢を仕掛けるファイターとしてカンムリワシの前に立ち塞がりました。


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試合は王者のペースでスタート。

第3ラウンドには右リードから左フックがヒット、フローレスをカンバスに沈めました。会場からは「まだ早い!」と余裕の応援。

しかし、具志堅の見せ場かここまで。第4ラウンドからフローレスのアタックに苦しむ大苦戦。



再戦は翌1981年3月8日、チャンピオンになって初めて沖縄に帰ってのタイトルマッチ。

「普通に戦えば勝てる相手」という予想が正しい見方だったのかどうかはわかりませんが、世界戦15度目という消耗、プロモーターへの不信感は25歳の肉体と心を蝕んでいました。




具志堅はプロ9戦目でのタイトル奪取、13連続防衛という二つの記録を残してグローブを吊るします。

最短記録の「9」戦目は、田中恒成と吉良大弥が「5」まで更新。

同一階級での「13連続防衛」はいまだに破られていませんが、階級またぎの連続防衛では井岡一翔が「18」(ストロー級「3」/ジュニアフライ級「3」/フライ級「5」/ジュニアバンタム級「7」)、そして井上尚弥によって「24」(ジュニアフライ級「1」/ジュニアバンタム級「7」/バンタム級「8」/ジュニアフェザー級「8」)まで伸ばされています。

もちろん、この手の記録は日本が好き勝手できる度合いが強まっている現代のボクサーに有利に働くのは当然で、このままタイトルの価値が暴落を続けるなら、最短記録も連続防衛記録もさらに更新されるでしょう。

バンタム級では、歴代最高論争で井上の対抗馬とされるファイティング原田の連続防衛の数字はわずか「4」でしかありません。亀田興毅の「8」の半分に過ぎませんが、原田と興毅の評価を真剣に議論するボクシングマニアは地球上に一人もいないでしょう。

ボクシングの数字的価値はとんでもないレベルで暴落しているのです。


具志堅の最短「9」と連続防衛「13」。ジュニアフライ級で記録されたこの数字にどこまでの価値があるのかは…わかりません。

しかし、1976年10月10日から1981年3月8日までのわずか4年と5ヶ月足らずの時間、具志堅用高は紛うことなき国民的英雄でした。あの時代、日曜日のゴールデンタイムに日本中のスポーツファンが固唾を飲んでブラウン管の前に座り、ワセリンに顔を光らせながら君が代を歌う具志堅を全身全霊で応援していたのです。


70年代PFP

具志堅が日本列島を沸かせたあの頃、定期的にPFPランキングを発表するメディアはありませんでした。

リング誌が年間表彰の一つにBEST FIGHTER POLLを創設したのが1980年。事実上の年間PFPでしたが、当時は「PFPといえばシュガー・レイ・ロビンソン」という認識が今以上に強く、この表彰の説明にもPound For Poundの文字は見当たりませんでした。

もし、具志堅が5年遅く生まれていたなら?おそらく、BEST FIGHTER POLLにも登場、事実上、日本人初のPFPファイターになっていたでしょう。

インターネットが普及した2012年、リング誌が発表した各ディケイドのPFPトップ10の1970年代で具志堅は10位にランクイン。70年代の10年間の10位です。

もし、インターネットが成熟し、従来以上に軽量級びいきになっている現代のPFPランキングなら、具志堅の瞬間最大風速は何位になっていたでしょうか?


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ボクシング界を荒らし回ったのは、どーでもいいです。・
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Trump thinks he should have won the Nobel Peace Prize. His quest for it is now the butt of the joke〜CNN

(CNN)トランプは自分がノーベル賞をもらうべきと考えているが、もはやこいつのノーベル賞欲しい欲しい病は喜劇的だ。


トランプが「ノルウェーという国にとって永遠の汚点」と批判したことについて、CNNは「ノーベル賞はノルウェー政府が決めてると思ってるのだろうか?」と皮肉たっぷり。



“If you clap a little bit more, I may share this prize with Trump,” Pillay quipped to an applauding crowd.

トランプの欲しい欲しい病を知っている、平和賞を贈られた国際刑事裁判所(ICC)の元判事ナビ・ピ‌レイは授賞式で万雷の拍手を受けながら「もう少し拍手が大きかったら、トランプに半分わけてあげてもよかったのに」と笑いました。




トランプを初めて知ったのは、米国ボクシングの中心地がニュージャージー州アトランティックシティに移った短い期間でした。

あの当時から、ボクサーよりも自分ファーストなどうしようもない男でしたが、年齢を重ねるごとに下劣さを増しています。

先日は、国防総省が米陸軍基地で銃を乱射、13人を殺害した死刑囚の刑執行をライブ配信すると発表しました。

もちろん、トランプとねんごろのスカイダンスが配信するのでしょう。PPVはいくらになるんでしょうか?



それにしても、本気か???





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