現在、世界で最も大きなボクシング市場はどの国か?
トータルの市場規模ではやはり米国でしょうが、特別な1試合の市場規模、メガファイトの盛り上がり、観客の熱狂という尺度では英国です。
米国のビッグファイトの多くがカジノリゾートのショーと抱き合わせで集客するせいもあり、メインイベントが始まるまではカジノで賭けに興じたり、コンサートやマジックショーなどを楽しみに宿泊している人も多く、前座試合の客席はガラガラなんてことも普通にあるばかりか、メインイベントでも空席が目立つなんてことも珍しくありません。
一方、英国では純粋に贔屓のボクサーを応援する熱狂的なサポーターが多く駆けつけます。お目当てのスター選手が出て来るまでにも、前座の自国選手に声援を送り、そこで面白い試合を見せようものなら、次はその選手の試合も観戦に行くーーーまさに理想的な雪だるま式発展を続けているのです。
熱狂的なファンが増え、注目度と報酬が跳ね上がることで選手層も分厚くなり、レベルも上昇。軽量級からヘビー級まで人気選手を抱える英国の盛況ぶりは、外国人のライバルを見つけるだけでなく、同国人対決も厭わない姿勢にも支えられています。
現在、英国市場で外国人ライバルの筆頭が我らがホルヘ・リナレスです。
アンソニー・クロラに明白に2連勝、それでもこの階級には無敗の対抗王者テリー・フラナガン、地元ロンドン五輪金メダリストのルーク・キャンベルがウエイティングサークルに控えています。
キャンベルは先日のジョシュア対クリチコの前座でオーバーウェイトのダーレイス・ペレスに快勝、リナレスへの挑戦権を獲得しました。リナレス包囲網が出来上がっているのです。この辺りはマニー・パッキャオを巡るメキシコ三銃士の激闘を彷彿とさせます(この4人はPFPの上位を席巻していましたからレベルはかなり違いますが)。
日本でもアメリカでも満足のいく待遇、報酬を得られなかった(本人の躓きも原因ですが)リナレスは、熱狂する大会場のメインを張り、東京やベガスよりも遥かに高待遇で英国に受け入れられました。
流浪のベネズエラ人はついに安住の地を手に入れたのです。
さて、沸騰する英国市場を「バブル」と見る向きも少なくありませんが、今回のテーマ、メキシコのボクシング熱は英国以上です。
しかもその歴史も長く、深く、もはや完全に「文化」の領域なのです。
【メキシコのボクサーにとって近接する米国は最も身近な憧れの国です。暗愚なドナルドが本当に壁を作ったとしても、そんなもの彼らは易々と乗り越えてゆくでしょう。しかし、トランプが大統領になるなんて…】
メキシコで最も人気があるスポーツはサッカー、ボクシングは2番手ですが「フットボーラーは女子供の歓声を浴び、ボクサーは男の尊敬を集める」のです。
これは60年代までの米国におけるヘビー級とMLB選手の関係にもよく似ています。
そんなディープな歴史を抱えるメキシコボクシングのオールタイムPFP10傑を数えていきます。
もちろんですが、カネロもジュニアもこの濃厚で深遠なランキングにはお呼びではありません(ここからはリング誌2012年12月号を参考にしました)。
▲第10位=ファン・マヌエル・マルケス=このランキング唯一の現役選手です。
メキセキューショナー(メキシコ人死刑執行人)に異名をとったマニー・パッキャオからエリック・モラレスに次いで二人目の勝利を、衝撃的なKOで母国にもたらした遅咲きのヒーロー。
アントニオ・マルコ・バレラ、モラレスと同時代に若くから才能を爆発させたグレートが存在したため、月見草の印象が強かったマルケスですが、最後の最後に太陽を掴み取りました。
殿堂入り、それも一発殿堂間違い無しです。
➡︎豆知識:パッキャオとの3戦目までは全て判定。そのジャッジ、延べ9人のスコアを合計すると1024−1017。1試合1ジャッジあたりに換算すると、0.777…、なんと1ポイントの差もない超接戦を繰り広げていたのです。
このランキングはパッキャオをKOした第4戦を前にした特集で組まれたものなので、今のマルケスのランクはもっと上になりますね。
人気はNo.1ではありませんでしたが、全盛期のナジーム・ハメドが公然と対戦を忌避するなど、同業者からはその実力が高く認められていました。
▲第9位=ビセンテ・サルディバル=ルーベン・オリバレスもフリオ・セサール・チャベスも憧れのボクサーを聞かれて真っ先にその名前を挙げるメキシコ屈指の人気者。
1964年にシュガー・ラモスから奪った世界フェザー級タイトルの8度目の防衛に成功したアステカスタジアムのリング上で引退宣言したのは、まさかの24歳のとき。
「もう十分に稼いだし、若いうちに人生を楽しみたいんだ」。
多くのファンが涙を流して英雄の引退を惜しんだと伝えられています。
しかし、莫大な貯金は2年足らずで底を尽き、リングに舞い戻るとファイティング・原田が三階級制覇を阻まれたジョニー・ファメションを判定で下してWBCフェザー級王者に返り咲き。
初防衛戦で地元ティファナに柴田国明を迎えますが、これが大番狂わせのKO負け。
日本では「ティファナの歓喜」でしたが、当地では「ティファナの悲劇」。
ミドルネームに「シバタ」と付けるメキシコ人ボクサーが何人も現れたことからも、この試合の衝撃がいかに大きかったかを物語っています。
柴田に敗北した後、カムバックを果たし、あのエデル・ジョフレが持つ世界フェザー級王座に挑みますが4ラウンドKO負け。
サルディバルにしろ、ジョフレにしろ日本人に馴染み深いファイターが高い評価を受けているのを知ると嬉しくなりますね。もちろん、一発殿堂入り。
➡︎1960年ローマ五輪に16歳の若さで出場、1回戦で敗退しています。
■第8位=リカルド・ロペス=敗北の味を知らないまま引退した永遠の王者。
超絶のテクニシャンでありながら、一打必倒のパワーも兼ね備えていました。フィニートの異名通り、完全無欠のファイターでしたが、メキシコファンの評価は意外なほど低いんです。
これがリング誌ではなく、メキシコのメディアのランキングなら10傑に入っていないかもしれません。
ウンベルト・ゴンザレスらとの対戦を頑なに拒んで、長らくミニマム級の小さな井戸の中にこもって最高技術を研鑽した姿勢は、泥臭い激闘を好むメキシコ人の目には逃亡に見えたのかもしれません。
ウンゴンがビッグファイトのメインを何度も張った一方で、フィニートはメキシコの不人気王者がそうであるように日本でも防衛戦を重ね、挙句は女子ボクサーの前座までつとめるなど、その実力を考えると待遇面では全く恵まれませんでした。
とはいえ国際的な評価は抜群、もちろん一発殿堂です。
➡︎スラムの喧嘩自慢の少年からボクサーへ。そんな典型的なストーリーとは違い、父親が時計職人の中流家庭で育ちました。その父親も珍しくボクシングには興味がなく、知人から「ボクシングはものすごく危険なスポーツだけど、あんたの息子のボクシングだけは安心して見てられるぞ」と聞かされ、初めて試合会場に足を運んだと言われています。
【小熊に正確なブローを叩き込むカント。距離を取っても中に入ってもとにかく上手いボクサーでした。】
■第7位=ミゲール・カント=ロペスほどではありませんが、マエストロと呼ばれたスマートなテクニシャンでした。
小熊正二からタイトルを奪ったベツリオ・ゴンザレスを下して獲得したWBCフライ級王座を14度(当時のフライ級記録)も防衛。花形進、王者奪回を狙った小熊の挑戦も退けました。
カントが15度目の防衛を阻まれた朴賛希は、1980年に小熊から改名した大熊に戒厳令下のソウルで9ラウンドKO負けしてベルトを手放します。
この戒厳令が敷かれるきっかけになったのが、前年に世界を震撼させた朴正熙大統領(朴槿恵の父親ですね)暗殺事件でした。
➡︎カントが師事したヘスス・リベロは後にオスカー・デラホーヤも指導。リベロがコーナーについた3試合(父チャベス第二戦、ミゲール・アンヘル・ゴンザレス/東京三太、パーネル・ウィテカー)は全勝、ゴールデンボーイの防御技術を格段に引き上げたと言われています。
♦第6位=エリック・モラレス=メキシコボクシング史に残るものすごい人気者です。
とにかく好戦的な強打者なのに鋼鉄のアゴを持っていました。高度な防御技術を持っているにもかかわらず、真正面からの打撃戦を厭わない生粋のファイター。
メキシコファンの理想を具現化したのがエル・テリブルです。
21歳の若さで同胞のテクニシャン、ダニエル・サラゴサを粉砕してWBC世界ジュニアフェザー級王者に登り詰めると、あとはもうスーパースターの道をまっしぐら。
全盛期を過ぎてからも「自殺行為」と言われたジュニアウェルター級随一の強打者マルコス・マイダナ戦では、あろうことか打撃戦に応じて互角に渡り合いました。
正式な引退宣言はしていないため、殿堂入りの資格がいつ発生するか不明ですが、一発殿堂確実です。
パッキャオ、バレラとラバーマッチまでもつれたトリオロジーを展開、世界中のボクシングファンも魅了しました。特に、覚醒直後のパックマンの猛攻を12ラウンドに渡って捌ききったパッキャオとの第1戦はメキシコファンの心を鷲掴みにしました。
➡︎二人の弟もプロボクサー。ディエゴは元WBO世界ジュニアバンタム級王者。イヴァンは元バンタム級の世界ランカー。
♦第5位=マルコ・アントニオ・バレラ=有り余る才能を打撃戦に特化したモラレスに対して、バレラは自らの才能を、若い頃は強打者、年齢を重ねてからは変幻自在のベテランに昇華させました。
ケネディ・マッキニーを挑戦者に迎えたWBO世界ジュニアフェザー級戦は、HBOのボクシング番組「 BOXING AFTER DARK」の初回メインイベントに起用され、その後も当時無敗のナジーム・ハメドに完勝するなど、ヒスパニック時代の象徴的なファイターでした。
一発殿堂で今年、カナストータの祭典に参列します。
ハメドに勝利を収めてからもエンリケ・サンチェス、モラレス、ジョニー・タピア、ケビン・ケリーと錚々たる相手から白星を重ねた実績が評価されて、ゴールデンボーイプロモーションと超大型契約を締結、その初っ端に「ボーナス」として用意されたのがパッキャオでした(今から考えると全然ボーナスなんかじゃない…)。
世紀の番狂わせで惨敗したこの試合は、GBPと大型契約を結んだボクサーは直後に負けるというジンクス「ゴールデンボーイの呪い」の始まりとなってしまいます(リナレスもこの呪いの犠牲者ですね)。
➡︎アマチュア時代は56勝4敗の好成績で、5つの国内タイトルを獲得しましたがこの60試合は15歳、日本なら中学生でプロ転向するまでに積み重ねられたものです。
♦第4位=カルロス・サラテ=「KOモンスター」「KOアーティスト」、強打を表現する大袈裟な表現が大安売りの昨今ですが、サラテこそは正真正銘の本物です。
生涯戦績66勝4敗、66勝のうち63がKO。
対戦相手もバンタムからジュニアフェザーの強豪がずらりと居並ぶ中での数字です。
アルフォンソ・サモラとの全勝全KO対決、今なおメキシコ対プエルトリコ、宿命のライバルのシンボリックなビッグファイト、ウィルフレド・ゴメス戦、議論を呼ぶ判定で王座を失ったルペ・ピントール戦…軽量級へのリスペクトが強い日本のファンにとっては伝説を通り越して神話の登場人物です。
もちろん一発殿堂。
軽量級にもかかわらず高額報酬が約束されたサラテは、日本に呼べない大物でした。
というか、あんな化け物、呼びません。自分のジムの有望な若手とは絶対に戦わせたくありませんから。
➡︎サラテの息子もライト級の有望株で、7割以上のKO率を誇っていましたが、父親が父親だけに「全然、パンチないじゃないか」と非難される始末。
父親のKO率と比べられるとゴロフキンやワイルダーでも色褪せてしまいます。
★★第3位=サルバドール・サンチェス=個人的に最も好きなファイターの一人です。
1980年、軽量級ながら米国で人気のダニー〝リトルレッド〟ロペスをTKOしてWBC世界フェザー級のベルトを腰に巻きました。
この時、サンチェスは弱冠20歳。メキシコ人好みの打ち合い上等の頑健な若きハードパンチャーは、あっという間にスターダムに駆け上がりました。
このタイトルはルーベン・カスティージョ、ファン・ラポルテ、若き日のアズマー・ネルソンら強豪相手に9連続防衛しましたが、出色は2階級制覇を狙ってフェザー級に上げて来たウィルフレド・ゴメスとのメガファイトです。
どんなに心拍数を上げても40秒もあれば平静時まで回復するという恐るべき心肺機能を持ったサンチェスにとって、1分間のインタバルは十分すぎる休息でした。
常にフレッシュな状態でラウンドを飛び出して、消耗・疲弊した相手を思う存分叩きのめしたのです。
ゴメス戦は1981年8月21日〝ベガスの心臓〟シーザースパレス。
メキシコからシーザースパレスに詰めかけたファンの目には、母国の英雄サラテを打ち砕いたゴメスの強打が焼き付いています。
シーザースパレスのオッズは6−5でゴメス有利。
大観衆が心配そうに見守る中で、第1ラウンドのゴングが打ち鳴らされます。
開始わずか40秒後にサンチェス得意の左フックでゴメスがダウン!ニュートラルコーナーに下がって、冷静にゴメスのダメージを測るメキシコ人の冷たい目、風格は到底22歳には見えません。
迎えた8ラウンド、サンチェスの残酷なコンビネーションにゴメスが前のめりに崩れ落ちたとき、メキシコの宿願であったリベンジがあっさり完遂されたのです。
この1ヶ月後にやはりシーザースパレスでボクシング史上最高傑作と賞賛されるレナード対ハーンズの第1戦が行われましたが、その年のリング誌・最高選手賞はサンチェスとレナードが分け合います。
当たり前ですが、そのことに異を唱えるファンは誰一人いませんでした。
翌年、のちに2階級制覇するガーナの〝プロフェッサー〟アズマー・ネルソンを14ラウンドで撃ち落とします。
試合後の会見で23歳の若者は「次はラポルテとの再戦(10度目の防衛戦)の予定だが、そのあとは(ジュニアライトを飛び越して)一気にライト級に上げる。評価の高いニカラグア人をぶっ倒す」。サンチェス対アレクシス・アルゲリョ…世界中のボクシングファンがよだれを流して喜ぶようなカードです。
しかし、ファンの夢はネルソン戦からわずか22日後に潰えてしまいます。
その悲報を聞いた世界中のボクシングファンが同じ言葉を発したでしょう。「嘘だろ!何かの間違いだろ?」。
もちろん一発殿堂入りしましたが、栄誉ある式典に本人が参加することは叶いませんでした。
あれから、純白のポルシェ928を見かけたことはありませんが、ポルシェが走るのを見るたびに、今でも感傷に浸ってしまいます。
★☆第2位=ルーベン・オリバレス=引退から四半世紀以上が経つというのにメキシコはもちろん、ロスアンゼルスのヒスパニックの多い通りでは彼は道をまっすぐに歩けないと言われています。
なぜそこまで人気があるのか?
簡単な話です、試合が面白いからです。デビューからの61試合を60勝1分で進撃した小さな巨人は、その後のビッグファイトにいつも勝利を収めたわけではありません。
しかし、彼のチケットを買った人には極上のスペクタクルが約束されていたのです。
金沢和良との死闘は有名です。
私が初めて見たのはYouTubeでしたが、精魂尽き果ててダウンした金沢が必死に立ち上がり「このやろー!!」と絶叫する有名なシーン。
あれをリアルタイムで観ることが出来た幸運な人の感動がいかほどだったか、PC画面からでも容易に想像出来ます。
➡︎怪物の来日に日本列島も大騒ぎで、オリバレスがいく先々でサインを求めるファンが大行列を作ったというエピソードからは、ボクシング全盛期の熱気が伝わってきます。
昨年、原宿にパッキャオジムをオープンする告知のために来日したパックマンが銀座のブランド店をハシゴして爆買いしてるところに遭遇しました。
メディアクルーがカメラを回しているのに気づいた通行人からは「あれ誰?誰なの?」「アメリカのプロボクサーだって」「有名人?」そんな声が聞こえました。パッキャオの知名度ってどの程度なんでしょうね。

☆☆☆第1位=フリオ・セサール・チャベス=好戦的で鉄のアゴを持つ男。
どんな強打者相手でも打撃戦に応じて、打ち勝って見せたアステカの〝JCスーパースター〟。
メキシコ人がオーダーメイドで作ったかのような、メキシカンスタイルの権化です。
何よりも規律を重んじ、過酷で単調な練習を黙々とこなし、絶え間なく試合を重ね、強豪をことごとく撃破しました。
父親と比べると何もしていないに等しいジュニアの人気ぶり、親の七光りの眩しさを見れば、チャベスがどれほどの存在であったか容易に想像できるでしょう。
…それにしても、ジュニアには父親の血は一滴も受け継がれなかったのでしょうか?
同胞との覇権争い、カマチョやロサリオらプエルトリコとのライバル対決だけでなく、ロジャー・メイウェザーやグレグ・ホーゲン、メルドリック・テーラーら米国人のビッグネームも撃ち落とし、PFP1位に長らく君臨したことでも母国の評価はまさに「JC≒Jesus Christ SuperStar」神の領域です。
➡︎豆知識:フランキー・ランドールに敗れるまで90連勝無敗。
数字に意味はありません、弱い相手と戦っていればいくらでも勝てますから。しかし、チャベスの場合は数え切れないほどの強豪とも戦ってるのに90連勝無敗です!
ところが、驚異的なレコードの初期に実は1敗しているのです。
1981年のミゲル・ルイス戦。1ラウンド終了のゴング後に放ったチャベスのパンチでルイスが昏倒、反則負けを宣告されます。
翌日、この記録は訂正、覆されますが、それまでの半日間、チャベスのキャリアには黒星が確かに付いていたのです。
トータルの市場規模ではやはり米国でしょうが、特別な1試合の市場規模、メガファイトの盛り上がり、観客の熱狂という尺度では英国です。
米国のビッグファイトの多くがカジノリゾートのショーと抱き合わせで集客するせいもあり、メインイベントが始まるまではカジノで賭けに興じたり、コンサートやマジックショーなどを楽しみに宿泊している人も多く、前座試合の客席はガラガラなんてことも普通にあるばかりか、メインイベントでも空席が目立つなんてことも珍しくありません。
一方、英国では純粋に贔屓のボクサーを応援する熱狂的なサポーターが多く駆けつけます。お目当てのスター選手が出て来るまでにも、前座の自国選手に声援を送り、そこで面白い試合を見せようものなら、次はその選手の試合も観戦に行くーーーまさに理想的な雪だるま式発展を続けているのです。
熱狂的なファンが増え、注目度と報酬が跳ね上がることで選手層も分厚くなり、レベルも上昇。軽量級からヘビー級まで人気選手を抱える英国の盛況ぶりは、外国人のライバルを見つけるだけでなく、同国人対決も厭わない姿勢にも支えられています。
現在、英国市場で外国人ライバルの筆頭が我らがホルヘ・リナレスです。
アンソニー・クロラに明白に2連勝、それでもこの階級には無敗の対抗王者テリー・フラナガン、地元ロンドン五輪金メダリストのルーク・キャンベルがウエイティングサークルに控えています。
キャンベルは先日のジョシュア対クリチコの前座でオーバーウェイトのダーレイス・ペレスに快勝、リナレスへの挑戦権を獲得しました。リナレス包囲網が出来上がっているのです。この辺りはマニー・パッキャオを巡るメキシコ三銃士の激闘を彷彿とさせます(この4人はPFPの上位を席巻していましたからレベルはかなり違いますが)。
日本でもアメリカでも満足のいく待遇、報酬を得られなかった(本人の躓きも原因ですが)リナレスは、熱狂する大会場のメインを張り、東京やベガスよりも遥かに高待遇で英国に受け入れられました。
流浪のベネズエラ人はついに安住の地を手に入れたのです。
さて、沸騰する英国市場を「バブル」と見る向きも少なくありませんが、今回のテーマ、メキシコのボクシング熱は英国以上です。
しかもその歴史も長く、深く、もはや完全に「文化」の領域なのです。
【メキシコのボクサーにとって近接する米国は最も身近な憧れの国です。暗愚なドナルドが本当に壁を作ったとしても、そんなもの彼らは易々と乗り越えてゆくでしょう。しかし、トランプが大統領になるなんて…】
メキシコで最も人気があるスポーツはサッカー、ボクシングは2番手ですが「フットボーラーは女子供の歓声を浴び、ボクサーは男の尊敬を集める」のです。
これは60年代までの米国におけるヘビー級とMLB選手の関係にもよく似ています。
そんなディープな歴史を抱えるメキシコボクシングのオールタイムPFP10傑を数えていきます。
もちろんですが、カネロもジュニアもこの濃厚で深遠なランキングにはお呼びではありません(ここからはリング誌2012年12月号を参考にしました)。
▲第10位=ファン・マヌエル・マルケス=このランキング唯一の現役選手です。
メキセキューショナー(メキシコ人死刑執行人)に異名をとったマニー・パッキャオからエリック・モラレスに次いで二人目の勝利を、衝撃的なKOで母国にもたらした遅咲きのヒーロー。
アントニオ・マルコ・バレラ、モラレスと同時代に若くから才能を爆発させたグレートが存在したため、月見草の印象が強かったマルケスですが、最後の最後に太陽を掴み取りました。
殿堂入り、それも一発殿堂間違い無しです。
➡︎豆知識:パッキャオとの3戦目までは全て判定。そのジャッジ、延べ9人のスコアを合計すると1024−1017。1試合1ジャッジあたりに換算すると、0.777…、なんと1ポイントの差もない超接戦を繰り広げていたのです。
このランキングはパッキャオをKOした第4戦を前にした特集で組まれたものなので、今のマルケスのランクはもっと上になりますね。
人気はNo.1ではありませんでしたが、全盛期のナジーム・ハメドが公然と対戦を忌避するなど、同業者からはその実力が高く認められていました。
▲第9位=ビセンテ・サルディバル=ルーベン・オリバレスもフリオ・セサール・チャベスも憧れのボクサーを聞かれて真っ先にその名前を挙げるメキシコ屈指の人気者。
1964年にシュガー・ラモスから奪った世界フェザー級タイトルの8度目の防衛に成功したアステカスタジアムのリング上で引退宣言したのは、まさかの24歳のとき。
「もう十分に稼いだし、若いうちに人生を楽しみたいんだ」。
多くのファンが涙を流して英雄の引退を惜しんだと伝えられています。
しかし、莫大な貯金は2年足らずで底を尽き、リングに舞い戻るとファイティング・原田が三階級制覇を阻まれたジョニー・ファメションを判定で下してWBCフェザー級王者に返り咲き。
初防衛戦で地元ティファナに柴田国明を迎えますが、これが大番狂わせのKO負け。
日本では「ティファナの歓喜」でしたが、当地では「ティファナの悲劇」。
ミドルネームに「シバタ」と付けるメキシコ人ボクサーが何人も現れたことからも、この試合の衝撃がいかに大きかったかを物語っています。
柴田に敗北した後、カムバックを果たし、あのエデル・ジョフレが持つ世界フェザー級王座に挑みますが4ラウンドKO負け。
サルディバルにしろ、ジョフレにしろ日本人に馴染み深いファイターが高い評価を受けているのを知ると嬉しくなりますね。もちろん、一発殿堂入り。
➡︎1960年ローマ五輪に16歳の若さで出場、1回戦で敗退しています。
■第8位=リカルド・ロペス=敗北の味を知らないまま引退した永遠の王者。
超絶のテクニシャンでありながら、一打必倒のパワーも兼ね備えていました。フィニートの異名通り、完全無欠のファイターでしたが、メキシコファンの評価は意外なほど低いんです。
これがリング誌ではなく、メキシコのメディアのランキングなら10傑に入っていないかもしれません。
ウンベルト・ゴンザレスらとの対戦を頑なに拒んで、長らくミニマム級の小さな井戸の中にこもって最高技術を研鑽した姿勢は、泥臭い激闘を好むメキシコ人の目には逃亡に見えたのかもしれません。
ウンゴンがビッグファイトのメインを何度も張った一方で、フィニートはメキシコの不人気王者がそうであるように日本でも防衛戦を重ね、挙句は女子ボクサーの前座までつとめるなど、その実力を考えると待遇面では全く恵まれませんでした。
とはいえ国際的な評価は抜群、もちろん一発殿堂です。
➡︎スラムの喧嘩自慢の少年からボクサーへ。そんな典型的なストーリーとは違い、父親が時計職人の中流家庭で育ちました。その父親も珍しくボクシングには興味がなく、知人から「ボクシングはものすごく危険なスポーツだけど、あんたの息子のボクシングだけは安心して見てられるぞ」と聞かされ、初めて試合会場に足を運んだと言われています。
【小熊に正確なブローを叩き込むカント。距離を取っても中に入ってもとにかく上手いボクサーでした。】
■第7位=ミゲール・カント=ロペスほどではありませんが、マエストロと呼ばれたスマートなテクニシャンでした。
小熊正二からタイトルを奪ったベツリオ・ゴンザレスを下して獲得したWBCフライ級王座を14度(当時のフライ級記録)も防衛。花形進、王者奪回を狙った小熊の挑戦も退けました。
カントが15度目の防衛を阻まれた朴賛希は、1980年に小熊から改名した大熊に戒厳令下のソウルで9ラウンドKO負けしてベルトを手放します。
この戒厳令が敷かれるきっかけになったのが、前年に世界を震撼させた朴正熙大統領(朴槿恵の父親ですね)暗殺事件でした。
➡︎カントが師事したヘスス・リベロは後にオスカー・デラホーヤも指導。リベロがコーナーについた3試合(父チャベス第二戦、ミゲール・アンヘル・ゴンザレス/東京三太、パーネル・ウィテカー)は全勝、ゴールデンボーイの防御技術を格段に引き上げたと言われています。
♦第6位=エリック・モラレス=メキシコボクシング史に残るものすごい人気者です。
とにかく好戦的な強打者なのに鋼鉄のアゴを持っていました。高度な防御技術を持っているにもかかわらず、真正面からの打撃戦を厭わない生粋のファイター。
メキシコファンの理想を具現化したのがエル・テリブルです。
21歳の若さで同胞のテクニシャン、ダニエル・サラゴサを粉砕してWBC世界ジュニアフェザー級王者に登り詰めると、あとはもうスーパースターの道をまっしぐら。
全盛期を過ぎてからも「自殺行為」と言われたジュニアウェルター級随一の強打者マルコス・マイダナ戦では、あろうことか打撃戦に応じて互角に渡り合いました。
正式な引退宣言はしていないため、殿堂入りの資格がいつ発生するか不明ですが、一発殿堂確実です。
パッキャオ、バレラとラバーマッチまでもつれたトリオロジーを展開、世界中のボクシングファンも魅了しました。特に、覚醒直後のパックマンの猛攻を12ラウンドに渡って捌ききったパッキャオとの第1戦はメキシコファンの心を鷲掴みにしました。
➡︎二人の弟もプロボクサー。ディエゴは元WBO世界ジュニアバンタム級王者。イヴァンは元バンタム級の世界ランカー。
♦第5位=マルコ・アントニオ・バレラ=有り余る才能を打撃戦に特化したモラレスに対して、バレラは自らの才能を、若い頃は強打者、年齢を重ねてからは変幻自在のベテランに昇華させました。
ケネディ・マッキニーを挑戦者に迎えたWBO世界ジュニアフェザー級戦は、HBOのボクシング番組「 BOXING AFTER DARK」の初回メインイベントに起用され、その後も当時無敗のナジーム・ハメドに完勝するなど、ヒスパニック時代の象徴的なファイターでした。
一発殿堂で今年、カナストータの祭典に参列します。
ハメドに勝利を収めてからもエンリケ・サンチェス、モラレス、ジョニー・タピア、ケビン・ケリーと錚々たる相手から白星を重ねた実績が評価されて、ゴールデンボーイプロモーションと超大型契約を締結、その初っ端に「ボーナス」として用意されたのがパッキャオでした(今から考えると全然ボーナスなんかじゃない…)。
世紀の番狂わせで惨敗したこの試合は、GBPと大型契約を結んだボクサーは直後に負けるというジンクス「ゴールデンボーイの呪い」の始まりとなってしまいます(リナレスもこの呪いの犠牲者ですね)。
➡︎アマチュア時代は56勝4敗の好成績で、5つの国内タイトルを獲得しましたがこの60試合は15歳、日本なら中学生でプロ転向するまでに積み重ねられたものです。
♦第4位=カルロス・サラテ=「KOモンスター」「KOアーティスト」、強打を表現する大袈裟な表現が大安売りの昨今ですが、サラテこそは正真正銘の本物です。
生涯戦績66勝4敗、66勝のうち63がKO。
対戦相手もバンタムからジュニアフェザーの強豪がずらりと居並ぶ中での数字です。
アルフォンソ・サモラとの全勝全KO対決、今なおメキシコ対プエルトリコ、宿命のライバルのシンボリックなビッグファイト、ウィルフレド・ゴメス戦、議論を呼ぶ判定で王座を失ったルペ・ピントール戦…軽量級へのリスペクトが強い日本のファンにとっては伝説を通り越して神話の登場人物です。
もちろん一発殿堂。
軽量級にもかかわらず高額報酬が約束されたサラテは、日本に呼べない大物でした。
というか、あんな化け物、呼びません。自分のジムの有望な若手とは絶対に戦わせたくありませんから。
➡︎サラテの息子もライト級の有望株で、7割以上のKO率を誇っていましたが、父親が父親だけに「全然、パンチないじゃないか」と非難される始末。
父親のKO率と比べられるとゴロフキンやワイルダーでも色褪せてしまいます。
★★第3位=サルバドール・サンチェス=個人的に最も好きなファイターの一人です。
1980年、軽量級ながら米国で人気のダニー〝リトルレッド〟ロペスをTKOしてWBC世界フェザー級のベルトを腰に巻きました。
この時、サンチェスは弱冠20歳。メキシコ人好みの打ち合い上等の頑健な若きハードパンチャーは、あっという間にスターダムに駆け上がりました。
このタイトルはルーベン・カスティージョ、ファン・ラポルテ、若き日のアズマー・ネルソンら強豪相手に9連続防衛しましたが、出色は2階級制覇を狙ってフェザー級に上げて来たウィルフレド・ゴメスとのメガファイトです。
どんなに心拍数を上げても40秒もあれば平静時まで回復するという恐るべき心肺機能を持ったサンチェスにとって、1分間のインタバルは十分すぎる休息でした。
常にフレッシュな状態でラウンドを飛び出して、消耗・疲弊した相手を思う存分叩きのめしたのです。
ゴメス戦は1981年8月21日〝ベガスの心臓〟シーザースパレス。
メキシコからシーザースパレスに詰めかけたファンの目には、母国の英雄サラテを打ち砕いたゴメスの強打が焼き付いています。
シーザースパレスのオッズは6−5でゴメス有利。
大観衆が心配そうに見守る中で、第1ラウンドのゴングが打ち鳴らされます。
開始わずか40秒後にサンチェス得意の左フックでゴメスがダウン!ニュートラルコーナーに下がって、冷静にゴメスのダメージを測るメキシコ人の冷たい目、風格は到底22歳には見えません。
迎えた8ラウンド、サンチェスの残酷なコンビネーションにゴメスが前のめりに崩れ落ちたとき、メキシコの宿願であったリベンジがあっさり完遂されたのです。
この1ヶ月後にやはりシーザースパレスでボクシング史上最高傑作と賞賛されるレナード対ハーンズの第1戦が行われましたが、その年のリング誌・最高選手賞はサンチェスとレナードが分け合います。
当たり前ですが、そのことに異を唱えるファンは誰一人いませんでした。
翌年、のちに2階級制覇するガーナの〝プロフェッサー〟アズマー・ネルソンを14ラウンドで撃ち落とします。
試合後の会見で23歳の若者は「次はラポルテとの再戦(10度目の防衛戦)の予定だが、そのあとは(ジュニアライトを飛び越して)一気にライト級に上げる。評価の高いニカラグア人をぶっ倒す」。サンチェス対アレクシス・アルゲリョ…世界中のボクシングファンがよだれを流して喜ぶようなカードです。
しかし、ファンの夢はネルソン戦からわずか22日後に潰えてしまいます。
その悲報を聞いた世界中のボクシングファンが同じ言葉を発したでしょう。「嘘だろ!何かの間違いだろ?」。
もちろん一発殿堂入りしましたが、栄誉ある式典に本人が参加することは叶いませんでした。
あれから、純白のポルシェ928を見かけたことはありませんが、ポルシェが走るのを見るたびに、今でも感傷に浸ってしまいます。
★☆第2位=ルーベン・オリバレス=引退から四半世紀以上が経つというのにメキシコはもちろん、ロスアンゼルスのヒスパニックの多い通りでは彼は道をまっすぐに歩けないと言われています。
なぜそこまで人気があるのか?
簡単な話です、試合が面白いからです。デビューからの61試合を60勝1分で進撃した小さな巨人は、その後のビッグファイトにいつも勝利を収めたわけではありません。
しかし、彼のチケットを買った人には極上のスペクタクルが約束されていたのです。
金沢和良との死闘は有名です。
私が初めて見たのはYouTubeでしたが、精魂尽き果ててダウンした金沢が必死に立ち上がり「このやろー!!」と絶叫する有名なシーン。
あれをリアルタイムで観ることが出来た幸運な人の感動がいかほどだったか、PC画面からでも容易に想像出来ます。
➡︎怪物の来日に日本列島も大騒ぎで、オリバレスがいく先々でサインを求めるファンが大行列を作ったというエピソードからは、ボクシング全盛期の熱気が伝わってきます。
昨年、原宿にパッキャオジムをオープンする告知のために来日したパックマンが銀座のブランド店をハシゴして爆買いしてるところに遭遇しました。
メディアクルーがカメラを回しているのに気づいた通行人からは「あれ誰?誰なの?」「アメリカのプロボクサーだって」「有名人?」そんな声が聞こえました。パッキャオの知名度ってどの程度なんでしょうね。

【カネロも人気だけならオリバレスにも引けは取らないかもしれませんが…】
☆☆☆第1位=フリオ・セサール・チャベス=好戦的で鉄のアゴを持つ男。
どんな強打者相手でも打撃戦に応じて、打ち勝って見せたアステカの〝JCスーパースター〟。
メキシコ人がオーダーメイドで作ったかのような、メキシカンスタイルの権化です。
何よりも規律を重んじ、過酷で単調な練習を黙々とこなし、絶え間なく試合を重ね、強豪をことごとく撃破しました。
父親と比べると何もしていないに等しいジュニアの人気ぶり、親の七光りの眩しさを見れば、チャベスがどれほどの存在であったか容易に想像できるでしょう。
…それにしても、ジュニアには父親の血は一滴も受け継がれなかったのでしょうか?
同胞との覇権争い、カマチョやロサリオらプエルトリコとのライバル対決だけでなく、ロジャー・メイウェザーやグレグ・ホーゲン、メルドリック・テーラーら米国人のビッグネームも撃ち落とし、PFP1位に長らく君臨したことでも母国の評価はまさに「JC≒Jesus Christ SuperStar」神の領域です。
➡︎豆知識:フランキー・ランドールに敗れるまで90連勝無敗。
数字に意味はありません、弱い相手と戦っていればいくらでも勝てますから。しかし、チャベスの場合は数え切れないほどの強豪とも戦ってるのに90連勝無敗です!
ところが、驚異的なレコードの初期に実は1敗しているのです。
1981年のミゲル・ルイス戦。1ラウンド終了のゴング後に放ったチャベスのパンチでルイスが昏倒、反則負けを宣告されます。
翌日、この記録は訂正、覆されますが、それまでの半日間、チャベスのキャリアには黒星が確かに付いていたのです。



