カテゴリ: 箱根駅伝とオリンピック

フルマラソンという過酷な競技で世界を震撼させる驚異的な記録を打ち立てたばかりか、その記録をさらに大きく更新してみせたデレク・クレイトンと、ポーラ・ラドクリフは、その衝撃度が大き過ぎたがゆえに「距離が短かったに違いない」「どうせドーピングしているんだろう」と疑惑の目に曝されてしまいました。

「距離が短い」という疑惑は、2度も驚異的な世界記録を出したという事実を考えると、その2回の大会ともに距離が短かったという可能性は低く、2度の更新はそクレイトンやラドクリフの実力が本物であることを裏付ける説得力のある証拠の一つです。

「距離が短かった」ということは大会運営側の責任である一方で、「ドーピング」はアスリート(ドーピングした時点で彼らをアスリートと呼ぶことは憚られますが) の責任(先日のカヌー競技で起きた濡れ衣の例もありますが)です。

クレイトンが世界を2度驚かせた1960年代、ドーピングはすでに深刻な問題となっていましたが、現在ほど社会に認知されていなかったこともあり、疑惑の目はもっぱら「距離」に向けられました。

もし、今の時代にクレイトンのように世界記録(2時間2分57秒)を2分23秒上回る2時間00分34秒で走り、さらにその記録を1分3秒も縮める1時間59分31秒で更新するマラソンランナーが出現したら、その疑惑の目は「ドーピング」に集中することでしょう。

ラドクリフは、その疑惑の嵐に巻き込まれたのです。

2002年、最初の世界記録を樹立したラドクリフは、その年の英国国立放送BBCから年間最優秀選手賞に選ばれ、エリザベス女王からナイトの勲位、MBE(Member of the Most Excellent Order of the British Empire)を授与されました。


この頃から、引退する2015年までの13年間に及ぶ長い年月を、彼女はライバルやタイムだけでなく、ドーピング疑惑とも戦い続けてきたのです。 
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驚異の記録を出したがために向けられた、疑惑の目。

それも重い足かせになったのかもしれませんが、彼らの不幸は続きます。

1967年(福岡)国際マラソンで人類初の2時間10分斬りを果たしたクレイトンは、マラソン6戦6勝(途中棄権1試合を除く)の世界記録保持者として、1968年のメキシコ五輪に挑みました。

もちろん、圧倒的な優勝候補です。

しかし、2時間27分23秒、自己ワーストで7位に沈みます。酸素の薄い高地の影響から免れなかったとはいえ、自身の世界記録から約18分も遅れてしまったのです。

優勝したマモ・ウォルデのタイムは、やはり高地の影響を受けて2時間20分26秒でしたが、ウォルデの自己ベストはクレイトンの世界記録から6分以上も遅い2時間16分19秒でした。

翌1969年、アントウェルペンで2時間8分33秒で走り、自らの世界記録を更新、再び世界を驚かせたクレイトンは、72年のミュンヘン五輪までマラソンを10度走り優勝7回、2位、5位、棄権が1回ずつという驚異的な強さを見せつけました。

この4年間もクレイトンの世界記録2時間8分33秒が破られることはなく、2時間10分を切るサブテンランナーすら一人も現れませんでした。

そして迎えた1972年ミュンヘン五輪。このとき、クレイトン29歳。

メキシコの借りを返すときが、ついにやって来たのです。…そのはずでした。

しかし、五輪の舞台はまたしてもクレイトンに苛酷な現実を突きつけます。メキシコをさらに下回る13位、そのマラソン人生で唯一の二桁順位で敗れ去ったのでした。

完走した18レースで14度の優勝。メキシコ7位、ミュンヘン13位。そして2位と5位が1度ずつ。棄権4レースを含めても22戦14勝です。

やはり、五輪に縁が無かった瀬古利彦も15戦10勝と驚異的な数字を収め、世界最強と評価された時期もありました。しかし、瀬古は圧倒的なレースを見せることはなく、ギリギリの間合いで〝後の先〟を制する勝負強さは光っていましたが、世界記録は一度も出していません。

男子マラソン史上、最もセンセーショナルで、最も強いクレイトンでしたが、世界一の舞台で栄冠に輝くことは、ついに一度もなかったのです。

現在のように五輪を挟んで世界陸上が2年に一度開催される環境なら、クレイトンは世界チャンピオンに何度か輝いていたかもしれませんが、そんなことは誰にもわかりませんし、スポーツの世界でタラレバを語ることほど虚しいことはありません。

圧倒的な戦績を残しながら、たった2つのレースだけで惨敗を喫した、その2つともが五輪であったというのは単なる偶然とは考えにくいと感じる人も多いでしょう。

しかし、異様に勝負弱かったと考えるのも、推測の域を出ません。単純に巡り合わせが悪かっただけなのかもしれません。

ただ、間違いないことが一つだけあります。デレク・クレイトンが衝撃的な世界記録を2度も出した、偉大なマラソンランナーであるという事実です。

クレイトンに取り憑いた五輪の巡り合わせは、ラドクリフも苦しめました。 それも、より苛酷な形で。
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今年の箱根駅伝も、30%に迫る視聴率を記録、多くの人が冬の箱根路を駆け抜ける大学生ランナーを応援しました。

これは、数字だけなら昨年の野球日本シリーズやJリーグの優勝争いといったメジャーなプロスポーツのビッグマッチの視聴率を大きく上回るものです。

もちろん、視聴率だけでそのスポーツへ注がれるファンの熱量を測ることはできません。正月3が日というライバル番組が見当たらない特殊な日程が、多くの世帯で「とりあえず箱根駅伝でも見るか」とチャンネルを合わせる大きな原因になっているのかもしれません。

箱根路には、チャンスで何度も凡退する主軸打者や、絶好のシュートチャンスをミスしたストライカーへ浴びせられるような辛辣な罵声は聞こえてきません。

また、同じアマチュアスポーツでも高校野球の甲子園大会のように「こいつはプロでも通用するな」といったマニア期待の声もまず聞かれません。

穏やかな正月の二日間で優しく完結される、世界陸上や五輪に続く物語を誰も予感することなく、温かいまなざしでランナーを見守り、打たない主力打者や決定力のないストライカーに苛立つこともなく、安心して観戦できるスポーツイベントです。

1989年からTV完全中継された当時の箱根駅伝は、今では考えられないほどに地味で、関東の大学スポーツでもラグビーや野球に人気面で大きく引き離された存在でした。

それから30年。日本テレビと関東学生競技連盟の不断の努力と工夫の積み重ね、そしてランナーたちの大幅な競技力向上によって、ラグビーや野球はおろか、視聴率だけならプロ野球をも上回る最強のスポーツコンテンツに成長しました。

完全中継が始まった当時、大学で長距離を走っていた私からすると本当に感慨深いものがあります。

一方で、全体的には目覚ましい競技力アップを遂げた反面、箱根から世界陸上や五輪といった世界のステージで活躍するランナーの数は減っています。

この30年で、学生長距離の競技力ピラミッドは富士山型から、中腹が大きく膨らむ壺型に変形しています。全体的には競技力が向上、底上げされた一方で、頂上の高さはほとんど変わっていないのです。

もちろん、この30年で関東の大学、陸上長距離が経験した全体的な競技力向上はあらゆるスポーツを見渡しても歴史上例がないもので、その意義が大きいことは言うまでもありません。

この背景に、受験生獲得やイメージ・認知度の向上を狙った大学が大きな予算を割いて、長距離チームを強化したという露骨なコマーシャリズムが横たわっていることも、一概に悪いこととは言い切れません。

大学体育会の部活動の中で陸上部、正確には長距離チームにだけ予算が集中され、他の部活や陸上部の他の種目への投資が激減するのも、大学経営がビジネスである以上は仕方がないことです。

絶滅危惧種のように、マイナースポーツだからといってWWFが保護してくれるわけもなく、それぞれの部活が創意工夫して生き残っていくしかありません。

箱根駅伝、関東学生陸上競技連盟は、今のところの勝者なのです。

それでも、個々の大学だけでなくテレビやスポンサーも巻き込んだ、この巨大な投資が、東京箱根間を往復するわずか200キロ余りの局地で完結してしまう内向的なベクトルに偏り、箱根駅伝誕生の理念でもある「五輪で活躍できる長距離走者の育成」という地球規模の視点がボヤけてしまっているのだとしたら、少し残念な気もします。

箱根で完結する。

選手にとってはそれだけの魅力があり、大学側にとってもそれだけの価値を認める、素晴らしい大会に成長したからこそですが、丸二日間のロングラン中継の中で箱根駅伝だけでない、マラソンを中心とした長距離種目の現在の世界地図や歴史を紹介する、「箱根路の続きにある世界」を案内する時間が少しだけあっても良いかもしれません。

箱根路の向こう側まで走り続けるランナーを応援する、箱根のファンを世界に誘うコーナーがほんの少しだけあっても良いのかもしれません。

「箱根駅伝が日本の長距離界が低迷している元凶」と揶揄されることもありますが、それは全くの見当違いです。

もし今も箱根駅伝がラグビーや野球に後塵を拝する地味なポジションのままであったとしたら、そういう批判を受けることはなかったでしょう。。

関東陸連の地方大会にもかかわらず、国民的イベントにまで昇華したからこそ、その存在感にふさわしい役割、堅苦しい言葉を使うと責任が期待されているのだと思います。

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【私が箱根を走れなかったゆえの憧憬だけではないでしょう。往路優勝校に贈られる寄木細工のトロフィーの美しさ、ランナーの首にかけられるやはり寄木細工のメダルのおしゃれなこと…本当に素敵なトロフィーとメダルです。】

前置きが長くなりました。

箱根から世界を目指す若きランナーに目指して欲しいのは、「日本人1位」で世界の舞台の端っこに立つだけでなく、世界をねじ伏せる、世界に衝撃を与えるような圧倒的な存在です。

話が飛びますが、3年前にヤンキースタジアムでレッドソックス戦を観戦する機会がありました。

上原浩治がクローザーとして、敵地ヤンキースタジアムの9回裏のマウンドに上がり、地響きのようなブーイングの中でピシャリと抑えた姿に「360度全部敵のこんな雰囲気でよく投げられるね」と感心する私に、同行した阪神ファンの友人が「上原は甲子園でタイガース相手に何度も投げてるやん。あれに比べたらヤンキースタジアムのブーイングなんて蚊の羽音にも感じてへんわ」と当たり前だろと言わんばかりに答えました。

私も阪神ファン、野球ファンです。巨人時代の上原は憎たらしいだけの存在でしたが、異国のマウンドで堂々と投げるその姿は、自分のことのように誇らしく感じました。

メジャーリーグに優秀なプレイヤーを送り出し続ける日本のプロ野球のような逞しさと矜持を、箱根駅伝も手に入れることが出来たら、素晴らしいことだと思います。

近い未来の五輪の長距離種目で過酷な優勝争いをする日本選手に「大丈夫、あいつは箱根を走ってるからエチオピア人にもケニア人にも絶対負けないよ」そんな風に話せる日が来たら、泣くほど素晴らしいことだと思います。

ここからは、世界をねじ伏せ、衝撃を与えた超絶的な存在だったという点で、箱根路を走ったランナーが目指して欲しい、英国の女性ランナーと、オーストラリアの男性ランナーのお話です。

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2時間15分25秒。

今なお驚異的な女子マラソン世界記録は、15年間も更新されていません。

昨年4月にケニアのメアリー・ケイタニーが、世界歴代2位の2時間17分01秒でロンドンマラソンを走り抜けましたが、1位の記録とは1分46秒もの大きな差が開いています。

恐るべき、2時間15分25秒。

1952年ヘルシンキ五輪で2位に2分30秒以上の大差をつけて圧勝した人間機関車、エミール・ザトペックがゴールテープを切ったとき、スタートから2時間23分3秒が経っていました。

1960年ローマ五輪、裸足のアベベ・ビキラが世界記録で優勝、世界中に衝撃を与えたそのタイムが2時間15分16秒でした。

2時間15分25秒。これは、ヘルシンキのザトペックを2キロ以上も後方に置き去りにして、ローマのアベベを9秒差に追い詰めるタイムです。

今年の箱根駅伝の出場選手で、2時間15分でマラソンを走れるランナーが果たして何人いるでしょうか。

この恐るべき記録を打ち立てたのは、ポーラ・ラドクリフ。

1973年、英国チェシャー州ノースウィッチで生まれたラドクリフは、幼少期に喘息や貧血に悩まされながらも、ランニングを始めました。

本格的に競技に没頭するようになると、その才能はすぐに開花、1996年22歳のときにアトランタ五輪に出場、5000メートルで決勝まで進み、見事5位入賞を果たします。それから3年後のセビリア世界陸上では10000メートルで2位、銀メダルを獲得しました。

その後、5000メートルは14分29秒、10000メートルは30分1秒まで記録を伸ばし、いずれも英国歴代最高記録です。

マラソン挑戦は2002年4月、地元英国ロンドンマラソンがその舞台でした。優勝候補は、デフェンディングチャンピオンのデラルツ・ツル(エチオピア)。日本の土佐礼子ら強豪選手がスタートラインに居並びましたが、ラドクリフは圧倒的な強さを見せて、2時間18分56秒と当時世界歴代2位のタイムを初マラソンで叩き出して見せたのです。

当時の世界記録は、パリ世界陸上(優勝)とアテネ五輪(2位)で、野口みずきとデッドヒートを繰り広げたキャサリン・ヌデレバが持つ2時間18分47秒でしたが、その差はわずか9秒、市街地を42.195キロ走るマラソン競技においてその差は無いに等しいものでした。

それから半年後の10月、ラドクリフは大西洋を越えてシカゴマラソンに乗り込みます。世界記録保持者のヌデレバに、元日本記録保持者の渋井陽子ら豪華なメンバーが序盤から高速レースを展開しました。

小刻みに頭を前後に揺らすラドクリフ独特のランニングフォームは、長距離走の定石からは大きく逸脱した異端の走りでしたが、そのスピードは衰えることなく、ライバルたちを簡単に競り落とし、2時間17分18秒でフィニッシュラインを越えました。

ヌデレバの世界記録を、なんと1分29秒も更新する驚異的な世界記録でしたが、さらなる衝撃は翌年4月のロンドンマラソンで待ち構えていました。

ロンドンに帰ってきたラドクリフは、男子のペースメーカーが並走していたとはいえ、女子ではありえない5キロ16分前後のスプリットを刻み続け、半年前に自らが叩き出した驚異的な世界記録をさらに2分近くも更新、2時間15分25秒という信じられないタイムでゴールしたのです。

翌年に控えたアテネ五輪でラドクリフは圧倒的な優勝候補に挙げられました。世界歴代2位のヌデレバが自己ベストを出したとしても、ラドクリフのタイムとは3分以上、距離にして1キロ以上の途方もない差があったのですから、女子マラソンの興味は「2位以下のメダル、入賞争い」に焦点が当てられたのは当然でした。
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【TIMEXの掲示板が記した「2.15.25」。マラソンを少しでも知ってるファンなら誰もがその数字に戦慄しました。】

男子マラソンでこれに匹敵する衝撃を与えた世界記録は、1969年ベルギー、アントウェルペンで生まれた2時間8分33秒でしょう。

その時計を刻んだのは、オーストラリアのデレク・クレイトン。

クレイトンとラドクリフ、二人のキャリアには、数奇な符合がいくつもありました。

最初の符号は、二人とも信じられない世界記録を打ち立て、さらにその記録を自らで大幅に更新して見せたことです。
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【クレイトンが世界を震撼させた最初の42.195キロは、現在の福岡国際マラソンでした。驚異の世界記録の最初の目撃者は、幸運なことに日本のマラソンファンだったのです。】

ラドクリフは、ヌデレバを1分29秒も更新した自らの世界記録を、さらに1分53秒も塗り替えました。

クレイトンの最初の衝撃は1967年12月の国際マラソン(現在の福岡国際マラソン)、日本の重松森雄が持っていた2時間12分00秒の世界記録をあろうことか2分24秒も更新、2時間9分36秒でフィニッシュしたのです。

ザトペックの時代は〝人類の限界〟とみられた2時間10分の壁をあっさりと突き破り、1967年当時でも〝まだまだ先の未来の記録〟と考えられていた2時間9分台の世界に人類史上初めて足を踏み入れたのです。

その記録は、走った当人のクレイトンですらゴール直後は「何かの間違いだろう」と半信半疑だったほどの衝撃でした。

さらに、福岡からわずか18ヶ月後の1969年5月のアントウェルペンで自らの驚異的な世界記録を大きく塗り替える2時間8分33秒で走り、ラドクリフがやってのけたように立て続けに世界を震撼させたのです。

あれから50年経ちましたが、今の日本で2時間8分33秒でマラソンを走れば、たとえ優勝しなくとも「好記録」と祝福されるでしょう。そんな驚愕のタイムを50年前にマークしたのが、クレイトンでした。

その衝撃がラドクリフに劣らないどころか、それ以上だったことは想像に難くありません。

ネット社会の現在と比べると圧倒的に情報の少ない60年代、デレク・クレイトンの姿は数枚の白黒写真でしか伝えられませんでした。

YouTubeはもちろん、ビデオも一般的でなかった時代、その衝撃をもう一度確認することができるのは几帳面に新聞を切り抜いたスクラップブックを開くしかありませんでした。

それゆえ、クレイトンの強さへの想像は、その実像を超越して果てしなく膨らむばかりだったでしょう。

そう、ポーラとデレクは、当時の規格では到底考えられない、途轍もない世界記録を樹立、自らその記録を大幅に更新して世界を2度も驚かせたのです。

それなのに、世界が二人を手放しで歓迎することはありませんでした。

想像を絶する世界記録を目の当たりにしたとき、偏狭な凡人たちの反応は共通しています。

「ラドクリフはドーピングしているんじゃないか」。
「クレイトンが走った距離は短かったに違いない」 。

因縁ともとれる疑惑の目を投げかけたのです。

疑惑の根拠はたった一つだけ。二人が「驚異の記録」を打ち立てたからと言うだけでした。

人類が誇るべき驚異の記録を叩き出した二人は、喝采を浴びる一方で、魔女か悪魔の化身と見られてしまうのです。

「ポーラ・ラドクリフという魔女」と特集、その信じられない能力を畏怖する日本の専門誌までありました。

「驚異の世界記録2連発」という二人の奇妙な符合は 、その記録があまりにも衝撃的であったがゆえに「魔女か悪魔か」と暗鬼されてしまったときから一転、やるせなく、悲しい色彩を放った符合に変わってしまうのです。
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大迫傑(25=ナイキ・オレゴンプロジェクト)が、ボストン・マラソンで2時間10分28秒の3位に入りました。

ボストンで日本人が表彰台に上がったのは87年に優勝した瀬古利彦以来、丁度30年ぶり。箱根駅伝のスター選手がマラソンで文句無しの〝一発回答〟を出したのは本当に久しぶりです。瀬古と同じ早稲田大学競走部出身のスピードランナー、日本のマラソン界で主流のスピード信者に取っても大迫は希望の星です。

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【1978年福岡国際マラソンでその名を日本中に知らしめた瀬古利彦はボストンとの相性も抜群でした。1979年(2位:2時間10分12秒)、1981年(優勝:2時間9分26秒=大会新記録)、1987年(優勝:2時間11分50秒)。大迫もボストンの優勝者にその名を刻んで欲しいものです。】

箱根駅伝への風当たりが強くなっている昨今、ほっと胸をなでおろしている関係者もいるかもしれません。童顔のスピードランナーは大学時代から箱根の先を見越し、日本の実業団を飛び出した〝異端者〟ではありますが。

ボストンマラソンはベルリンやシカゴなど記録を狙える平坦なコースを用意した新興大会ではなく、今回で121回を数える世界屈指の歴史を誇ります。そして、伝統のコースと開催日を頑固に守る大会であるがゆえに、記録を狙うランナーにとって過酷な環境が揃っています。

今回の記録、2時間10分28秒は世界のトップとはお世辞にも言えない時計です。凋落著しい、日本のレベルで見ても平凡なタイムですが、ボストンの特殊事情を考えなければなりません。

①まず、この大会には先導と風除けの役目をしてくれるペースメーカーが存在しません。25キロまでレースが動かないなんて予定調和がありません。ヨーイドンの瞬間からライバルたちとの抜け目のない戦い、駆け引きが始まるのです。

大迫は序盤からしっかり勝負に参加しました。「2時間12分くらいが目標」と語っていたことから、速い展開にならなかったのは幸運だったとも言えますが、初マラソンです。マラソンファンが大迫にリトマス紙を突き付けたように、大迫にとってもボストンは乾坤一擲の大勝負の舞台ではなく、テストマッチであったはずです。

「世界で戦えるのか?」を問うたリトマス紙は、レース後、はっきりと「YES」の色に変わりました。

②そして、ボストンマラソンが開催される「愛国者の日」、4月第三月曜日は、マラソンに適した気候になるとは限りません。今回もコース上は最高25度近くまで気温が上がったと言われています。20度を超えると、マラソンを走るパフォーマンスは、どんなに暑さに強いランナーでも大きく落ち込みます。

この気温ですからペースが上がらないのは仕方がないところでした。高速コースでエチオピアやケニア勢と互角に渡り合えるかというのは最終試験としても、東京五輪を見据えた場合、暑さへの耐性が証明されたことの意味は決して小さくありません。

③さらに、ボストンではマラソン最大の難所である30キロ過ぎからニュートンヒルの4つの坂がランナーを待ち受けているのです。ダメージが蓄積され、消耗しきったランナーが最後に挑む4つ目の坂こそが、あまりにも有名な「心臓破りの丘」です。

この30キロから35キロを15分30秒、35キロから40キロを15分07秒のスプリットを刻んで駆け上がったことは充分評価していいでしょう。同じスピードランナーの瀬古のような切れ味を見せることはできませんでしたが、初マラソンということを考慮すれば本人の言葉を待つまでもなく「マラソン適性はある」と認めて良いスプリットです。

オレゴンで大迫を指導するピート・ジュリアンも「マラソンで五輪に挑戦できることが今日はっきりとわかった。次は勝ちたい」とコメントしています。そうです、今度は勝つところ、記録も出して勝つところを是非見たいですね。やっぱり勝負事です、3位は負けなんです。大迫も時間が経って悔しさがこみ上げてきているはずです。

さあ、大迫がどこまでタイムを縮めることが出来るのか、非常に気になるところですが、今日は贔屓の引き倒しで、大迫にとって都合の良い「持久係数」をモノサシにしてその将来を予測してみます。

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【川内優輝の持久係数を大迫に当てはめると2時間02分02秒で走る潜在能力があることになりますが…1万メートルの世界記録はケネニサ・ベケレの26分17秒、ベケレに川内係数をはめ込むとマラソンを1時間56分で走っちゃうんです…困りますね】

マラソンのタイムを1万メートルのタイムで割った持久係数を見ると、4.72の大迫が大きなポテンシャルを秘めていることは一目瞭然です。

1万メートルの自己記録のペースでマラソンを走りきった時(そんなこと不可能ですが)の「持久係数4.2195」に近づけば近づくほど、肉体的限界点も近いということです。1万メートルの持ちタイムから、マラソンのタイムやどこまで記録が伸ばせるかを予測する一つの目安です。

反逆の公務員ランナー、川内優輝の持久係数が衝撃的です。4.42というのは、ほとんど限界点でしょう。自分をギリギリまで追い込むことが出来る、強靭な肉体と精神を持ち合わせているということの証明です。

この4.42 を大迫に単純に当てはめると、2時間02分02秒で走ることが出来ることになります。あくまで目安、机上の計算ですが、さらにスピードを磨けばそのゴールの時計はもっと速くなります。

もちろん、大迫と川内のマラソン潜在力は前者の方が大きいことは間違いないでしょうが、これを1万メートルで考えると川内の潜在力の方が大きいのも容易に想像できます。

大迫はもっと速くマラソンを走れるだろうし、それと同じように川内はもっと1万メートルが速いはずなんです。

持久係数は個人の特性も大きく、一種のまやかしですが、それでも久しぶりに次のレースが楽しみなマラソンランナーが現れてくれました。

12月の福岡国際には、2月の丸亀国際ハーフで大迫を振り切った神野大地もマラソンデビューします。

箱根で燃え尽きない、箱根をジャンピングボードにして世界に羽ばたくランナーがどんどん出てきてくれることを熱く熱く、期待しています!

けっぱれーー!
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1987年に日本テレビが生中継を開始した当時、ラグビーと野球に大きく水を開けられていた「第三の大学スポーツ」であった箱根駅伝は、いまや大学スポーツNo.1どころか、あらゆるスポーツの中でも最も視聴率を稼ぐ国民的な人気を獲得するまでに至っています。

その箱根路から生まれた最大のスター、柏原竜二選手が今日、引退を発表しました。「昨季度重なる怪我・故障をしてしまい、この発表をしている今でも完治しておらず復帰の目処がたたないことから、競技の第一線を退くことにしました」ということでした。

故障を抱えながら大きな期待を背負い続けた、その胸中は察して余りあります。マラソンロードには忸怩たる思いもあるでしょうが、柏原選手が箱根の五区山登りを快走した姿を陸上ファンが忘れることはないでしょう。

神と呼ばれたランナーが五輪や世界陸上を走ることなくシューズを脱いでしまったことで、箱根駅伝への風当たりが一層強くなるかもしれません。

曰く、駅伝とマラソンは別物だから、駅伝はマラソンにとって有害。
曰く、マラソンにつながるスピードを磨くべき若い時期にロードで長距離を走るのはマイナス。


【日テレで箱根駅伝の生中継が始まった頃までは、関東の大学生にとって箱根駅伝区間賞と、関東インカレの個人種目優勝は同列に近い価値がありました。今や箱根駅伝は「関東学生陸上競技連盟主催の地域駅伝」の枠では考えられない存在に膨れ上がってしまいました】

日本の男子長距離・マラソンが長期低迷のトンネルから抜け出せないでいることと、箱根駅伝の隆盛が同時進行していることは、偶然なんかじゃありません。

スポーツの本来あるべき姿は「よりレベルの高い舞台が、より注目・評価される」ということです。

野球の世界は高校野球が大学や社会人野球を凌駕する人気を誇っていますが、プロ野球というトップストーンがあるべきピラミッド構造をしっかりと維持してくれています。甲子園のスターよりも社会人No. 1選手の方が実力は上で、より厚遇でプロに迎えられることは、全ての野球ファンが納得、理解しています。

そして日本のプロ野球のさらに上には、メジャーリーグがそびえていることも誰もが知っており、この頂に登った選手が最も評価、尊敬さています。

一方で、長距離・マラソンの世界ではトップストーンである実業団の人気は、箱根駅伝とは比べるべくもなく、悲惨な状況です。

箱根の優勝校は誰でも知っているのに、遥かにレベルの高い実業団駅伝の優勝チームは誰も答えられないどころか、どこで行われているのかすら知られていません。

日本の長距離は、絶対にあってはいけないネジレの深みにハマっています。そして、そのピラミッドは醜く歪んで完全に崩落してしまった異常な状態がもう随分と長い間続いているのです。世界にはダイヤモンドリーグというメジャーが存在しますが、崩壊した日本の構造とは断絶され、そこには誰も目を向けません。

箱根駅伝だけが飛び抜けて注目され、よりレベルが高い実業団にファンは一顧だにしていないのです。

ランナーがより速く走ろうとのたうち回って練習するのは、より高い場所に行くためです。その場所は、当然、今立つ場所よりも華やかな場所でなければなりません。

大学生よりも、より高い舞台に選ばれて上がったのに、より過酷な練習に身を投じているのに、そこに当てられるスポットライトの照度が箱根と比べようもないほど暗かったとしたら?

それでも心の支えは、箱根路よりも遥かに明るい光を浴びることが出来るであろう五輪の表彰台です。しかし、その場所にたどり着く道筋までもが真っ暗闇で全く見えないとしたら?

東京五輪の代表決定まで実質あと2年。そんな短い時間で、大きな花を咲かせることが出来るとは到底思えません。暗くて長いトンネルの出口は全く見えてきません。

それでも、花が咲かない理由、トンネルに迷い込んだ理由は、もうわかっています。

箱根駅伝の次の舞台を、明確に作ることです。関東の大学生200人もが走る大会だけが飛び抜けて高い注目を集めることで崩落したピラミッドを、あるべき姿に戻さなくてはなりません。

「日本人1位」で代表に選ばれるような、負け犬製造機みたいな惨めな選考基準も即刻廃止すべきです。ヨーイドンの瞬間から優勝争いを放棄するのが当たり前の代表選手なんて誰も見たくもありません。

「スタート前から優勝争いを諦めて後方待機、先頭グループから脱落したランナーを拾って8位入賞を目指す」。そんな勇気のカケラも無い、卑屈な代表選手を毎回毎回送り出す必要があるのでしょうか?そんな代表の姿を見て育つ少年たちが、勇気あるアスリートに成長することが出来るでしょうか。

もう時間はありません。卑屈な選手を作り出しているのは、劣悪なシステムです。これを改革していかなければ、暗いトンネルの中で誰も笑えない喜劇がこれからも永遠に繰り返されるだけです。

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血と生い立ちと環境。

この3つが人柄を決める3つの要素だと、明石家さんまが大昔、よく話してました。コントやギャグの舞台ではなく、受験勉強の合間に聞いていた深夜ラジオでした。

アスリートの実力を決めるのもこの3つの要素と言えます。「血」は遺伝子、「生い立ち」はどういう育ち方をしたか、「環境」は練習内容。ケニアとエチオピアのトップランナーはほぼ例外なく弱肉強食のプロフェッショナルの「環境」で過酷な練習を繰り返し、母国の高地で生まれ幼い時から遠い遠い学校や井戸に走って往復する「生い立ち」を持ち、やはり同じような生活をしてきた両親からその「血」を受け継いでいます。

対して、日本マラソンの最高峰である実業団選手は、引退後もポストを約束されたサラリーマンとしての「環境」で、車社会とゲームや携帯電話に浸かりきった「生い立ち」、やはり同じような生活を送ってきた両親の「血」を受け継いでいます。

ケニアやエチオピアの高地民族でも標高の低い都心部に移住した人たち、その子供達からは優れたランナーが生まれていないことからも「血」は大きな問題ではなく、問題は「生い立ち」と「環境」です。そして、生い立ちですが、これも残念ながら変えようがありません。日本の子供達が車社会の中でゲームや携帯電話が身近にある部屋に引きこもった生活を送る傾向は、ますます強くなるでしょう。

つまり、2大国の超人たちを打ち負かすには「環境」(練習)しか残されていません。



公務員ランナー川内優輝や、青学監督の原晋が実業団ランナーに辛辣な言葉を浴びせていますが、これはもう仕方のないことです。実業団、特に男子は終身雇用で大企業に入ったサラリーマンなんです。90年代中頃にある取引先の企業との雑談の中で「女子マラソンブームに乗って我社でも女子陸上部を創設しようと思ったけど、予算オーバーで男子陸上部に鞍替えした」という話を聞きました。

なんとなく男子の方がお金がかかると思っていた私には意外なことでしたが、実は、男子と女子では女子の方がコストがかかるんです。前述のように男子は終身雇用が前提、つまり新入社員(の給料)からスタートします。しかし、女子は走れなくなったら指導者として残るほんの一部の人は別にして退社するのが普通です。そのため先払いの退職金として契約金が支払われることが多く、管理も一人部屋の寮などデリケートさが要求され、一人当たりに掛かる費用は男子よりも間違いなく多くなります。

実業団男子ランナーには大企業に所属するサラリーマンで「強くなってダイアモンドリーグやワールドマラソンメジャーズで賞金荒稼ぎして会社辞めたる!」なんて猛者はただの一人もいません。引退後の会社員としての生活も考えながら、会社が決めたスケジュールの国内大会を中心に粛々と走るサラリーマンそのものなんです。

終身雇用でない女子は短い競技人生で一花咲かせるぞ!という意識が強く、多くの独立心溢れる魅力的なランナーが生まれました。しかし、今、男子と同じく低迷、後退してしまっています。しかも男子とは事情が違い、エチオピアとケニアの攻勢が極めて脆弱で世界レベルも停滞といって良い状況にもかかわらず、です。なぜ、女子マラソンまで低迷してるかは、これはまた別の話としてどこかで書きます。

話があちこちに飛んで申しわけありません。本筋に戻ります。
前回、箱根駅伝の予選会と、関東の2部校のレベルが驚異的な成長を見せていることに触れました。この30年で、20キロレースで競う予選会突破のボーダーラインのタイムが約5分、その数字に綺麗に呼応して関東インカレ2部1万メートルの標準記録が約2分30秒も跳ね上がっているのです。

日本で最も視聴率を稼ぐスポーツイベント、箱根駅伝の人気を今更説明する必要はないでしょう。箱根を走ることは大学、特に知名度の低い大学にとっては関東はおろか全国に鮮烈に名前を売ることが出来る絶好の舞台です。そうした大学が箱根駅伝出場に投資を集中、長距離だけが傑出して強い新興大学が続々と箱根本戦を勝ち取っていきます。箱根人気は、留学生という名の助っ人をケニアやエチオピアから招くことも常態化させています。そして陸上競技全般に力を入れる名門の存在感が薄れていく中、関東学連は「インカレポイント」や「外国人制限」という悪法を打ち出します。

競技レベルが向上することは、スポーツにとっては絶対的な善です。日本人選手を保護するために外国人の出場人数を制限する、陸上競技全般に力を入れている大学の箱根予選のタイムからインカレポイントを引いて保護する、いずれもスポーツの本質を汚す暗愚な行為でした。同じことは高校駅伝にも実業団駅伝にも言えます。

新興大学による強烈な底上げがもたらした急激なレベルアップと、卓越した走力を持つ留学生ランナーの招聘。その反動としてインカレポイント導入や外国人ランナーを制限する、保護政策が進みます。保護される側が進歩しないのは当たり前です。これが、関東インカレ1万メートルの標準記録で1部が30年前とほとんど変わらないのに、2部が約2分30秒も上がって1部のタイムと同じになるというネジレを生み出しました。もっと分かりやすく言うと、箱根予選の突破タイムと2部校のレベルは飛躍的に上昇している一方で、学生トップ、ひいては日本のトップの実力は喜劇的なまでに伸び悩んでいるということです。

これが、箱根パラドックスの正体です。かつて「大砲」と表現された1万メートル28分台のランナーは、今では本戦で上位を狙う大学なら何人も抱えるライフルに過ぎません。しかし、27分台のランナーは今も昔も稀有な存在のまま、新たな世界基準となった26分台の扉に至っては、日本人はこじ開けるどころか、誰もノックすらできていないのが現状です。

1920年、約100年前に「世界で通用するランナーを育てる」という理念のもとに始まった箱根駅伝は皮肉にも、世界から目を背け「箱根で勝つことを究極のゴールとするランナーたち」を量産する大会へと変質してしまいました。

箱根を走る大学生はもちろん、実業団の選手たちには一片の責任もありません。彼らには目の前のレースを全力疾走するしか出来ません。

宗兄弟や瀬古利彦の時代は恵まれていました。全ての風景が新鮮な時代でした。練習はもちろんレースでも給水をこまめに取ることはしません、そんなことしたら体が重くなると考えられていたからです。そういえば私が走っていた80年代後半の箱根駅伝の予選会は、汗を拭くための水を含ませたスポンジがテーブルに用意されているだけで、給水はありませんでした。

ベルリン五輪を走った伝説的なエピソードで知られる中村清コーチは、無尽蔵の体力を誇るロバート・ド・キャステラを「ステーキの上にチーズを乗せたようなスタミナ」と評しましたが、今ならさしづめ「パスタに餅を絡めた」の方が正しい表現ですね。そんな中村も瀬古が初マラソンに挑む前には餅を毎食後(食事としてでは無く、食後のダメ押し的に)3個以上食べさせ、レースでは体が重くて走れなかったというから、何を食べるかも試行錯誤だったのでしょう。

宗茂が1978年別大で2時間9分5秒の世界歴代2位の記録を打ち立てた時、今ではありえない嘘のような話ですが一度も給水を取らずに!終盤失速してしまったのです。みんな試行錯誤で、のたうち回りながら、練習方法を模索し、確立して行く時代でした。そして、その目は常に世界をしっかりと見据えていました。

最も恵まれていたことは世界がすぐそこに見えていたことです。今とは真逆で、クレイトンが1969年に2時間8分33秒の大記録を出してから世界の方が停滞していたのです。世界は彼らが手を伸ばせばすぐ届くところで、じっと動かずに待っていてくれていたのです。そして、宗茂が狼煙を上げてから、日本人が次々と世界にチャージして行く姿を目撃するのですから「俺にも出来る!」「次は俺だ!」と奮い立たない方がおかしい状況です。

今の選手たちの記録が10年以上も低迷・後退している原因には、指導者の力不足も挙げられます。宗兄弟も瀬古も、そして最後の日本記録保持者、高岡も、女子でも高橋尚子や野口みずきもマラソン日本の現状を「今の選手は練習量が絶対的に足りない」と言い切っています。まともなやり方で世界に勝てないのは明らかで、「血」と「生い立ち」ですでに負けている以上、「環境」(練習)で上回るしか勝つ方法は残されていません。どうして、練習させられないのか?

前回、今の箱根駅伝と、ちょうどマラソン全盛期だった80年代の関東対抗戦グループのラグビーは恐ろしいほどよく似ていると指摘しました。日本マラソン全盛期に、ラグビーは人気だけあって世界では全く通用しなかったのに、本当に短い期間で立場が逆転しました。科学的な練習方法の導入や、外国人選手の積極的登用、ラグビーワールドカップ日本開催を控えてこうした強化策が打ち出され、大きなテコ入れが成功した形ですが、具体的には世界一の練習量を代表選手たちに実践させたことでした。

エディ・ジョーンズが初めて代表選手を見た時、全員が「自分たちは弱い」という思いに強烈に囚われてしまっていることに怒り狂ったといいます。死ぬほど練習してから言うなら分かるが、何もしてないくせに「自分たちは弱い」?どこまで腐ってるんだ?

「普通なら絶対に故障するという量と質だった」と口をそろえる狂気の練習量を選手たちが受け入れた理由は、単純なことでした。この練習を成し遂げれば、世界に通用するという確信です。合宿期には1日5回、深夜にも及ぶ練習に文句も言わずに食らいついたのは、この先に必ず世界があるという約束を信じることができたからです。「絶対に故障すると思ったがやり遂げた。今まではやる前から故障すると決めていた」。もちろん、そこにはジョーンズという世界最高のコーチの言葉が担保されていました。「世界で一番苦しい練習した君たちは負けてはいけない」。優れたモチベーターでもあるジョーンズでなければ、選手たちは反発したでしょう。

今のマラソン選手は練習量が足りない。栄光の時代を彩った元スター選手の言葉はマラソンというタイム競技では空虚に聞こえます。「そんな時代遅れの練習したら故障するし、その練習で出したあなた達のタイムも今では全く通用しない。それにあなた達のタイムなら故障しない、もっと楽な方法で出せるし、今の自分たちがやってるのはそういうこと」。指導者たちの言葉が信じられないのは現役選手だけの責任ではありません。指導者の言葉の問題も大きいはずです。ジョーンズのようなモチベーターを探すのは並大抵のことではありませんが、再び世界へ浮上するには、その言葉が約束手形に感じられる指導者の情熱が不可欠です。

日本のランナーたちも「日本人1位」と口にしながらも、世界が約束されるかもしれないと思ったら、どんなに苦しい練習でもついていく覚悟はあるでしょう。アスリートである限り、ヨーイドンから優勝を諦めて、どんどん離れる先頭グループを見ながら同じ日本人との醜い勝負に沈んでいく、毎回毎回そんなレースを繰り返すことに、心の底では嫌悪が渦巻いているはずです。そんなアスリートとして最大の屈辱を当たり前に受け入れてしまっては絶対にいけません。スタートから勝負を棄権する、あんな屈辱に慣れてしまっては絶対にいけないんです。

1983年の東京国際でジュマ・イカンガーを抑え、ロドルフォ・ゴメスを競り落とした瀬古の走りには、マラソンの枠を超えてスポーツの面白さが全て詰まっていました。2000年のシドニーでリディア・シモンとの一騎打ちを制した高橋尚子はマラソン日本の悲願をついに果たしました。

しかし、今の日本に最も必要なものを見せてくれているレースは2004年アテネの野口みずきです。彼女は1983年の瀬古、2000年の高橋のような絶対王者ではありませんでした。実際に2003年世界陸上ではケニアのキャサリン・ヌデレバに力負け、さらに2時間15分25秒の今なお傑出した世界記録を打ち立てたポーラ・ラドクリフという魔女までがアテネのスタートラインに並んだのですから、日本のエースとはいえメダルが取れたらもうけもの、みたいな状況です。30度を超える灼熱の中を先頭集団がハーフポイントを超え、サバイバルレースが予想された25キロ、あろうことか野口はロングスパートを仕掛けます。誰もが「早すぎる!あまりにも仕掛けが早すぎる!」と危ぶみました。

結果はご存知の通りです。

あの時、みんなメダルを期待していました。バルセロナから続く女子マラソンメダルのリレーをつないで欲しい、3位に入って欲しい、みんながそう願っていました。そう考えていなかったのは、ただ一人、野口みずきだけでした。金メダル以外は要らない。25キロ地点で鬼気迫るスパートを仕掛けたあの時、彼女は間違いなくそう雄叫びをあげていました。金メダルしか要らない、と。

あのままレースが進めば、地力とスピードで勝るラドクリフやヌデレバらの詰め将棋になるのは目に見えていました。野口が勝つには、どこかでしかも早いタイミングで、優勝候補たちが静かに大切に駒を並べてきた将棋台を一気にひっくり返す必要があったのです。野口みずきはあの時、確かに勇気の橋を渡りました。

あの時の野口の勇気と勝負根性は、今の日本マラソンで最も欠落したものです。今のランナーはみんな「自分たちは弱い」と世界を前に恐れおののき、萎縮した走りしかできていません。

ロスアンゼルス五輪のカール・ルイスの優勝タイムが10秒00。今のウサイン・ボルトと同様、当時の「カール・ルイス」は日本人とは持って生まれた才能が違いすぎて触れることもできない存在の象徴でした。当時の日本のスポーツファンはわずか15年後に日本人がその記録に並ぶなんてことは夢想だにしなかったでしょう。

「日本人がルイスに勝つなんて永遠に不可能」という当時の確信は実体のない幻想に過ぎず、競技の進歩を遅らせる足枷でしかありませんでした。100メートルと比べて競技人口や成熟度で劣ると見られるマラソンでは、日本人が世界に追いつく余地はもっと残されているはずです。日本人も2時間2分台、いいえ、2時間を斬って走る未来が間違いなく必ず来ます。問題はその未来までの時間をいかにして短縮するかです。記録を伸ばすということは、未来を手繰り寄せる作業なんです。

もし、確実にあるその未来を見ようともせずに、自分の足元だけしか見ずに「日本人は2時間6分あたりが限界」と諦めて、トップランナーが「日本人1位が目標」と念仏のように唱えていては10年後に来るべき未来も20年後、30年後へ逃げてしまうでょう。実際にもう15年近くも一歩も前に進めていないのです。このままでは100年後も「2時間9分台で日本人1位」なんてコントみたいなことをやっていても不思議ではありません。勇気と信念を持つことです。日本人は2時間6分が関の山、未来なんて無いと諦めるならそこで終わりです。

諦めた時に挑戦は終わります。そして、挑戦しないのであればアスリートではありません。

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先週のびわ湖毎日マラソンで、今シーズンの主要なマラソンレースが終わりました。予想通りの結果を低調というのが正しい評価かどうかはわかりませんが、今の男子マラソンは停滞を通り越して後退していると言われても仕方がない状況です。

世界のマラソンがエチオピアとケニアの2強に偏重し、2時間斬りに迫る高速化に突き進む中で、後退していては勝負になるわけがありません。実際、レベルの高い国際的な大会での日本人選手はスタートから勝負に参加することを諦めた惨めなレースを強いられています。アフリカの2大国の選手は「オギャーと産まれた時からものが違う」(小出義雄)から、「同じことをやっていては絶対に勝てない」(原晋)のは明らかです。

日本が世界のマラソンが仕掛けた“スパート”にどんどん離されていく中で、不思議な現象が起きています。箱根駅伝の人気沸騰です。この1年で振り返っても、箱根の視聴率はサッカー・クラブワールドカップの決勝に進んだ鹿島アントラーズとレアル・マドリードとの一戦をも凌駕して、スポーツ中継でナンバーワンの数字を叩き出しました。

そして日本テレビが全国中継に乗り出す前の80年代から、箱根のレベルもその注目度に正比例して驚異的な上昇を見せました。

当時、関東の大学で長距離を走っていた鈍足ランナーから見るとその急成長はにわかに信じられないほどです。80年代の箱根はシード10校、予選会からの勝ち上がり5校の計15校で本戦が争われていました。現在はシード11校、予選勝ち上がり9校の20校まで枠は広げられています。本戦はご存知の通り距離やコースの変更などがあり、当時との単純比較は出来ませんが、予選は大井埠頭から昭和記念公園に場所は移りましたが、距離はほぼ平坦な20キロのコースで変わっていません。予選会は各大学から14人まで出場でき、その上位10人の総合タイムで競います。

昨年行われた予選会で最後の11校目の切符をもぎ取ったのは日本大学で10時間16分17秒。一人平均では1時間1分37秒です。これは80年代の予選会なら十分優勝できるタイムです。つまり、80年代の箱根予選でトップ10の選手を同じ大学として、そのまま現代の予選会で走らせても到底本戦には進めないということで、隔世の感があります。当時は、一人平均1時間6分で走れば予選通過、参加校枠が増える5回ごとの記念大会なら1時間7〜8分で走れば予選通過でしたから、東京大学や慶応大学は、ここを狙って戦力を整え記念大会枠をほぼ毎回掴み取っていました。

1時間12分と1時間7分なら、個人ではなく駅伝チームとして考えると決して小さな差ではないとはいえ、既存の陸上部、長距離ブロックチームの枠組みの中でもいくらでも詰めようがあります。しかし、これが1時間6分と1時間1分になると同じ5分差でも、もはやまともな発想ではどうこうできる差ではありません。

私は鈍足でしたが、それでも箱根予選は100位前後で、私よりも遅いランナーも数えるほどでしたが箱根を走るのを正月のコタツの中で情けなく眺めていました。今も昔も箱根予選は約50校、650人が走りますが、当時の私が今の予選会を走れば400位台、私より遅いランナーが箱根を走るなんてことは絶対に起こりえません。



【関東インカレ1987のパンフレッットから:1部1万メートル】

この30年で、関東大学長距離のレベルが飛躍的に伸びたもう一つの指標に関東インカレの標準記録があります。1987年当時の1万メートルの標準記録は1部で29分47秒、2部で31分55秒でした。しっかし、瀬古利彦の27分台というのはこれは今見てもしびれますね。

この数字が2017年になるとどうなるかといえば1部で29分30秒、2部で29分30秒になります…。1部と2部の標準記録が同じわけがないだろ!?と思われるでしょうが、同じなんです。1部の標準記録はわずか17秒ハードルが上がっただけなのに、2部はなんとあろうことか2分25秒も跳ね上がっているのです。

20キロを走る箱根予選突破の目安のタイムが5分、関東インカレ2部1万メートルの標準記録が約2分30秒速くなっていること、これは偶然ではなく、必然の一致です。

1987年の関東インカレ2部1万メートルの大会記録は29分33秒、現在の標準記録を切れていないのです。今の日本の長距離界に何が起きているのか、箱根駅伝のレベルは異常なまでに飛躍したのにもかかわらず、どうして男子長距離、特にマラソンが悲惨なまでに凋落したのか。「箱根パラドックス」の原因の一端が、この摩訶不思議な数字に隠されています。

ちなみに80年代の大学スポーツでの箱根駅伝のポジションは今とは全く違います。六大学を筆頭にした大学野球の方がはるかにメジャーで、それ以上に早慶明を中核にしたラグビー対抗戦が最高の花形種目、テレビ視聴率も非常に高く、ちょうど今の箱根がオーバーラップします。箱根と同じく「全日本の大会ではない」「実業団の方がレベルは高い」にもかかわらずその人気は全国区で圧倒的なものでした。そして学生を含めた当時の日本ラグビーが「世界レベルでは箸にも棒にもかからない」という一点を振り返っても、今の長距離界と恐ろしいまでに酷似していました。

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