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今年の箱根駅伝も、30%に迫る視聴率を記録、多くの人が冬の箱根路を駆け抜ける大学生ランナーを応援しました。

これは、数字だけなら昨年の野球日本シリーズやJリーグの優勝争いといったメジャーなプロスポーツのビッグマッチの視聴率を大きく上回るものです。

もちろん、視聴率だけでそのスポーツへ注がれるファンの熱量を測ることはできません。正月3が日というライバル番組が見当たらない特殊な日程が、多くの世帯で「とりあえず箱根駅伝でも見るか」とチャンネルを合わせる大きな原因になっているのかもしれません。

箱根路には、チャンスで何度も凡退する主軸打者や、絶好のシュートチャンスをミスしたストライカーへ浴びせられるような辛辣な罵声は聞こえてきません。

また、同じアマチュアスポーツでも高校野球の甲子園大会のように「こいつはプロでも通用するな」といったマニア期待の声もまず聞かれません。

穏やかな正月の二日間で優しく完結される、世界陸上や五輪に続く物語を誰も予感することなく、温かいまなざしでランナーを見守り、打たない主力打者や決定力のないストライカーに苛立つこともなく、安心して観戦できるスポーツイベントです。

1989年からTV完全中継された当時の箱根駅伝は、今では考えられないほどに地味で、関東の大学スポーツでもラグビーや野球に人気面で大きく引き離された存在でした。

それから30年。日本テレビと関東学生競技連盟の不断の努力と工夫の積み重ね、そしてランナーたちの大幅な競技力向上によって、ラグビーや野球はおろか、視聴率だけならプロ野球をも上回る最強のスポーツコンテンツに成長しました。

完全中継が始まった当時、大学で長距離を走っていた私からすると本当に感慨深いものがあります。

一方で、全体的には目覚ましい競技力アップを遂げた反面、箱根から世界陸上や五輪といった世界のステージで活躍するランナーの数は減っています。

この30年で、学生長距離の競技力ピラミッドは富士山型から、中腹が大きく膨らむ壺型に変形しています。全体的には競技力が向上、底上げされた一方で、頂上の高さはほとんど変わっていないのです。

もちろん、この30年で関東の大学、陸上長距離が経験した全体的な競技力向上はあらゆるスポーツを見渡しても歴史上例がないもので、その意義が大きいことは言うまでもありません。

この背景に、受験生獲得やイメージ・認知度の向上を狙った大学が大きな予算を割いて、長距離チームを強化したという露骨なコマーシャリズムが横たわっていることも、一概に悪いこととは言い切れません。

大学体育会の部活動の中で陸上部、正確には長距離チームにだけ予算が集中され、他の部活や陸上部の他の種目への投資が激減するのも、大学経営がビジネスである以上は仕方がないことです。

絶滅危惧種のように、マイナースポーツだからといってWWFが保護してくれるわけもなく、それぞれの部活が創意工夫して生き残っていくしかありません。

箱根駅伝、関東学生陸上競技連盟は、今のところの勝者なのです。

それでも、個々の大学だけでなくテレビやスポンサーも巻き込んだ、この巨大な投資が、東京箱根間を往復するわずか200キロ余りの局地で完結してしまう内向的なベクトルに偏り、箱根駅伝誕生の理念でもある「五輪で活躍できる長距離走者の育成」という地球規模の視点がボヤけてしまっているのだとしたら、少し残念な気もします。

箱根で完結する。

選手にとってはそれだけの魅力があり、大学側にとってもそれだけの価値を認める、素晴らしい大会に成長したからこそですが、丸二日間のロングラン中継の中で箱根駅伝だけでない、マラソンを中心とした長距離種目の現在の世界地図や歴史を紹介する、「箱根路の続きにある世界」を案内する時間が少しだけあっても良いかもしれません。

箱根路の向こう側まで走り続けるランナーを応援する、箱根のファンを世界に誘うコーナーがほんの少しだけあっても良いのかもしれません。

「箱根駅伝が日本の長距離界が低迷している元凶」と揶揄されることもありますが、それは全くの見当違いです。

もし今も箱根駅伝がラグビーや野球に後塵を拝する地味なポジションのままであったとしたら、そういう批判を受けることはなかったでしょう。。

関東陸連の地方大会にもかかわらず、国民的イベントにまで昇華したからこそ、その存在感にふさわしい役割、堅苦しい言葉を使うと責任が期待されているのだと思います。

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【私が箱根を走れなかったゆえの憧憬だけではないでしょう。往路優勝校に贈られる寄木細工のトロフィーの美しさ、ランナーの首にかけられるやはり寄木細工のメダルのおしゃれなこと…本当に素敵なトロフィーとメダルです。】

前置きが長くなりました。

箱根から世界を目指す若きランナーに目指して欲しいのは、「日本人1位」で世界の舞台の端っこに立つだけでなく、世界をねじ伏せる、世界に衝撃を与えるような圧倒的な存在です。

話が飛びますが、3年前にヤンキースタジアムでレッドソックス戦を観戦する機会がありました。

上原浩治がクローザーとして、敵地ヤンキースタジアムの9回裏のマウンドに上がり、地響きのようなブーイングの中でピシャリと抑えた姿に「360度全部敵のこんな雰囲気でよく投げられるね」と感心する私に、同行した阪神ファンの友人が「上原は甲子園でタイガース相手に何度も投げてるやん。あれに比べたらヤンキースタジアムのブーイングなんて蚊の羽音にも感じてへんわ」と当たり前だろと言わんばかりに答えました。

私も阪神ファン、野球ファンです。巨人時代の上原は憎たらしいだけの存在でしたが、異国のマウンドで堂々と投げるその姿は、自分のことのように誇らしく感じました。

メジャーリーグに優秀なプレイヤーを送り出し続ける日本のプロ野球のような逞しさと矜持を、箱根駅伝も手に入れることが出来たら、素晴らしいことだと思います。

近い未来の五輪の長距離種目で過酷な優勝争いをする日本選手に「大丈夫、あいつは箱根を走ってるからエチオピア人にもケニア人にも絶対負けないよ」そんな風に話せる日が来たら、泣くほど素晴らしいことだと思います。

ここからは、世界をねじ伏せ、衝撃を与えた超絶的な存在だったという点で、箱根路を走ったランナーが目指して欲しい、英国の女性ランナーと、オーストラリアの男性ランナーのお話です。

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2時間15分25秒。

今なお驚異的な女子マラソン世界記録は、15年間も更新されていません。

昨年4月にケニアのメアリー・ケイタニーが、世界歴代2位の2時間17分01秒でロンドンマラソンを走り抜けましたが、1位の記録とは1分46秒もの大きな差が開いています。

恐るべき、2時間15分25秒。

1952年ヘルシンキ五輪で2位に2分30秒以上の大差をつけて圧勝した人間機関車、エミール・ザトペックがゴールテープを切ったとき、スタートから2時間23分3秒が経っていました。

1960年ローマ五輪、裸足のアベベ・ビキラが世界記録で優勝、世界中に衝撃を与えたそのタイムが2時間15分16秒でした。

2時間15分25秒。これは、ヘルシンキのザトペックを2キロ以上も後方に置き去りにして、ローマのアベベを9秒差に追い詰めるタイムです。

今年の箱根駅伝の出場選手で、2時間15分でマラソンを走れるランナーが果たして何人いるでしょうか。

この恐るべき記録を打ち立てたのは、ポーラ・ラドクリフ。

1973年、英国チェシャー州ノースウィッチで生まれたラドクリフは、幼少期に喘息や貧血に悩まされながらも、ランニングを始めました。

本格的に競技に没頭するようになると、その才能はすぐに開花、1996年22歳のときにアトランタ五輪に出場、5000メートルで決勝まで進み、見事5位入賞を果たします。それから3年後のセビリア世界陸上では10000メートルで2位、銀メダルを獲得しました。

その後、5000メートルは14分29秒、10000メートルは30分1秒まで記録を伸ばし、いずれも英国歴代最高記録です。

マラソン挑戦は2002年4月、地元英国ロンドンマラソンがその舞台でした。優勝候補は、デフェンディングチャンピオンのデラルツ・ツル(エチオピア)。日本の土佐礼子ら強豪選手がスタートラインに居並びましたが、ラドクリフは圧倒的な強さを見せて、2時間18分56秒と当時世界歴代2位のタイムを初マラソンで叩き出して見せたのです。

当時の世界記録は、パリ世界陸上(優勝)とアテネ五輪(2位)で、野口みずきとデッドヒートを繰り広げたキャサリン・ヌデレバが持つ2時間18分47秒でしたが、その差はわずか9秒、市街地を42.195キロ走るマラソン競技においてその差は無いに等しいものでした。

それから半年後の10月、ラドクリフは大西洋を越えてシカゴマラソンに乗り込みます。世界記録保持者のヌデレバに、元日本記録保持者の渋井陽子ら豪華なメンバーが序盤から高速レースを展開しました。

小刻みに頭を前後に揺らすラドクリフ独特のランニングフォームは、長距離走の定石からは大きく逸脱した異端の走りでしたが、そのスピードは衰えることなく、ライバルたちを簡単に競り落とし、2時間17分18秒でフィニッシュラインを越えました。

ヌデレバの世界記録を、なんと1分29秒も更新する驚異的な世界記録でしたが、さらなる衝撃は翌年4月のロンドンマラソンで待ち構えていました。

ロンドンに帰ってきたラドクリフは、男子のペースメーカーが並走していたとはいえ、女子ではありえない5キロ16分前後のスプリットを刻み続け、半年前に自らが叩き出した驚異的な世界記録をさらに2分近くも更新、2時間15分25秒という信じられないタイムでゴールしたのです。

翌年に控えたアテネ五輪でラドクリフは圧倒的な優勝候補に挙げられました。世界歴代2位のヌデレバが自己ベストを出したとしても、ラドクリフのタイムとは3分以上、距離にして1キロ以上の途方もない差があったのですから、女子マラソンの興味は「2位以下のメダル、入賞争い」に焦点が当てられたのは当然でした。
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【TIMEXの掲示板が記した「2.15.25」。マラソンを少しでも知ってるファンなら誰もがその数字に戦慄しました。】

男子マラソンでこれに匹敵する衝撃を与えた世界記録は、1969年ベルギー、アントウェルペンで生まれた2時間8分33秒でしょう。

その時計を刻んだのは、オーストラリアのデレク・クレイトン。

クレイトンとラドクリフ、二人のキャリアには、数奇な符合がいくつもありました。

最初の符号は、二人とも信じられない世界記録を打ち立て、さらにその記録を自らで大幅に更新して見せたことです。
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【クレイトンが世界を震撼させた最初の42.195キロは、現在の福岡国際マラソンでした。驚異の世界記録の最初の目撃者は、幸運なことに日本のマラソンファンだったのです。】

ラドクリフは、ヌデレバを1分29秒も更新した自らの世界記録を、さらに1分53秒も塗り替えました。

クレイトンの最初の衝撃は1967年12月の国際マラソン(現在の福岡国際マラソン)、日本の重松森雄が持っていた2時間12分00秒の世界記録をあろうことか2分24秒も更新、2時間9分36秒でフィニッシュしたのです。

ザトペックの時代は〝人類の限界〟とみられた2時間10分の壁をあっさりと突き破り、1967年当時でも〝まだまだ先の未来の記録〟と考えられていた2時間9分台の世界に人類史上初めて足を踏み入れたのです。

その記録は、走った当人のクレイトンですらゴール直後は「何かの間違いだろう」と半信半疑だったほどの衝撃でした。

さらに、福岡からわずか18ヶ月後の1969年5月のアントウェルペンで自らの驚異的な世界記録を大きく塗り替える2時間8分33秒で走り、ラドクリフがやってのけたように立て続けに世界を震撼させたのです。

あれから50年経ちましたが、今の日本で2時間8分33秒でマラソンを走れば、たとえ優勝しなくとも「好記録」と祝福されるでしょう。そんな驚愕のタイムを50年前にマークしたのが、クレイトンでした。

その衝撃がラドクリフに劣らないどころか、それ以上だったことは想像に難くありません。

ネット社会の現在と比べると圧倒的に情報の少ない60年代、デレク・クレイトンの姿は数枚の白黒写真でしか伝えられませんでした。

YouTubeはもちろん、ビデオも一般的でなかった時代、その衝撃をもう一度確認することができるのは几帳面に新聞を切り抜いたスクラップブックを開くしかありませんでした。

それゆえ、クレイトンの強さへの想像は、その実像を超越して果てしなく膨らむばかりだったでしょう。

そう、ポーラとデレクは、当時の規格では到底考えられない、途轍もない世界記録を樹立、自らその記録を大幅に更新して世界を2度も驚かせたのです。

それなのに、世界が二人を手放しで歓迎することはありませんでした。

想像を絶する世界記録を目の当たりにしたとき、偏狭な凡人たちの反応は共通しています。

「ラドクリフはドーピングしているんじゃないか」。
「クレイトンが走った距離は短かったに違いない」 。

因縁ともとれる疑惑の目を投げかけたのです。

疑惑の根拠はたった一つだけ。二人が「驚異の記録」を打ち立てたからと言うだけでした。

人類が誇るべき驚異の記録を叩き出した二人は、喝采を浴びる一方で、魔女か悪魔の化身と見られてしまうのです。

「ポーラ・ラドクリフという魔女」と特集、その信じられない能力を畏怖する日本の専門誌までありました。

「驚異の世界記録2連発」という二人の奇妙な符合は 、その記録があまりにも衝撃的であったがゆえに「魔女か悪魔か」と暗鬼されてしまったときから一転、やるせなく、悲しい色彩を放った符合に変わってしまうのです。