フルマラソンという過酷な競技で世界を震撼させる驚異的な記録を打ち立てたばかりか、その記録をさらに大きく更新してみせたデレク・クレイトンと、ポーラ・ラドクリフは、その衝撃度が大き過ぎたがゆえに「距離が短かったに違いない」「どうせドーピングしているんだろう」と疑惑の目に曝されてしまいました。
「距離が短い」という疑惑は、2度も驚異的な世界記録を出したという事実を考えると、その2回の大会ともに距離が短かったという可能性は低く、2度の更新はそクレイトンやラドクリフの実力が本物であることを裏付ける説得力のある証拠の一つです。
「距離が短かった」ということは大会運営側の責任である一方で、「ドーピング」はアスリート(ドーピングした時点で彼らをアスリートと呼ぶことは憚られますが) の責任(先日のカヌー競技で起きた濡れ衣の例もありますが)です。
クレイトンが世界を2度驚かせた1960年代、ドーピングはすでに深刻な問題となっていましたが、現在ほど社会に認知されていなかったこともあり、疑惑の目はもっぱら「距離」に向けられました。
もし、今の時代にクレイトンのように世界記録(2時間2分57秒)を2分23秒上回る2時間00分34秒で走り、さらにその記録を1分3秒も縮める1時間59分31秒で更新するマラソンランナーが出現したら、その疑惑の目は「ドーピング」に集中することでしょう。
ラドクリフは、その疑惑の嵐に巻き込まれたのです。
2002年、最初の世界記録を樹立したラドクリフは、その年の英国国立放送BBCから年間最優秀選手賞に選ばれ、エリザベス女王からナイトの勲位、MBE(Member of the Most Excellent Order of the British Empire)を授与されました。
この頃から、引退する2015年までの13年間に及ぶ長い年月を、彼女はライバルやタイムだけでなく、ドーピング疑惑とも戦い続けてきたのです。

驚異の記録を出したがために向けられた、疑惑の目。
それも重い足かせになったのかもしれませんが、彼らの不幸は続きます。
1967年(福岡)国際マラソンで人類初の2時間10分斬りを果たしたクレイトンは、マラソン6戦6勝(途中棄権1試合を除く)の世界記録保持者として、1968年のメキシコ五輪に挑みました。
もちろん、圧倒的な優勝候補です。
しかし、2時間27分23秒、自己ワーストで7位に沈みます。酸素の薄い高地の影響から免れなかったとはいえ、自身の世界記録から約18分も遅れてしまったのです。
優勝したマモ・ウォルデのタイムは、やはり高地の影響を受けて2時間20分26秒でしたが、ウォルデの自己ベストはクレイトンの世界記録から6分以上も遅い2時間16分19秒でした。
翌1969年、アントウェルペンで2時間8分33秒で走り、自らの世界記録を更新、再び世界を驚かせたクレイトンは、72年のミュンヘン五輪までマラソンを10度走り優勝7回、2位、5位、棄権が1回ずつという驚異的な強さを見せつけました。
この4年間もクレイトンの世界記録2時間8分33秒が破られることはなく、2時間10分を切るサブテンランナーすら一人も現れませんでした。
そして迎えた1972年ミュンヘン五輪。このとき、クレイトン29歳。
メキシコの借りを返すときが、ついにやって来たのです。…そのはずでした。
しかし、五輪の舞台はまたしてもクレイトンに苛酷な現実を突きつけます。メキシコをさらに下回る13位、そのマラソン人生で唯一の二桁順位で敗れ去ったのでした。
完走した18レースで14度の優勝。メキシコ7位、ミュンヘン13位。そして2位と5位が1度ずつ。棄権4レースを含めても22戦14勝です。
やはり、五輪に縁が無かった瀬古利彦も15戦10勝と驚異的な数字を収め、世界最強と評価された時期もありました。しかし、瀬古は圧倒的なレースを見せることはなく、ギリギリの間合いで〝後の先〟を制する勝負強さは光っていましたが、世界記録は一度も出していません。
男子マラソン史上、最もセンセーショナルで、最も強いクレイトンでしたが、世界一の舞台で栄冠に輝くことは、ついに一度もなかったのです。
現在のように五輪を挟んで世界陸上が2年に一度開催される環境なら、クレイトンは世界チャンピオンに何度か輝いていたかもしれませんが、そんなことは誰にもわかりませんし、スポーツの世界でタラレバを語ることほど虚しいことはありません。
圧倒的な戦績を残しながら、たった2つのレースだけで惨敗を喫した、その2つともが五輪であったというのは単なる偶然とは考えにくいと感じる人も多いでしょう。
しかし、異様に勝負弱かったと考えるのも、推測の域を出ません。単純に巡り合わせが悪かっただけなのかもしれません。
ただ、間違いないことが一つだけあります。デレク・クレイトンが衝撃的な世界記録を2度も出した、偉大なマラソンランナーであるという事実です。
クレイトンに取り憑いた五輪の巡り合わせは、ラドクリフも苦しめました。 それも、より苛酷な形で。
「距離が短い」という疑惑は、2度も驚異的な世界記録を出したという事実を考えると、その2回の大会ともに距離が短かったという可能性は低く、2度の更新はそクレイトンやラドクリフの実力が本物であることを裏付ける説得力のある証拠の一つです。
「距離が短かった」ということは大会運営側の責任である一方で、「ドーピング」はアスリート(ドーピングした時点で彼らをアスリートと呼ぶことは憚られますが) の責任(先日のカヌー競技で起きた濡れ衣の例もありますが)です。
クレイトンが世界を2度驚かせた1960年代、ドーピングはすでに深刻な問題となっていましたが、現在ほど社会に認知されていなかったこともあり、疑惑の目はもっぱら「距離」に向けられました。
もし、今の時代にクレイトンのように世界記録(2時間2分57秒)を2分23秒上回る2時間00分34秒で走り、さらにその記録を1分3秒も縮める1時間59分31秒で更新するマラソンランナーが出現したら、その疑惑の目は「ドーピング」に集中することでしょう。
ラドクリフは、その疑惑の嵐に巻き込まれたのです。
2002年、最初の世界記録を樹立したラドクリフは、その年の英国国立放送BBCから年間最優秀選手賞に選ばれ、エリザベス女王からナイトの勲位、MBE(Member of the Most Excellent Order of the British Empire)を授与されました。
この頃から、引退する2015年までの13年間に及ぶ長い年月を、彼女はライバルやタイムだけでなく、ドーピング疑惑とも戦い続けてきたのです。

驚異の記録を出したがために向けられた、疑惑の目。
それも重い足かせになったのかもしれませんが、彼らの不幸は続きます。
1967年(福岡)国際マラソンで人類初の2時間10分斬りを果たしたクレイトンは、マラソン6戦6勝(途中棄権1試合を除く)の世界記録保持者として、1968年のメキシコ五輪に挑みました。
もちろん、圧倒的な優勝候補です。
しかし、2時間27分23秒、自己ワーストで7位に沈みます。酸素の薄い高地の影響から免れなかったとはいえ、自身の世界記録から約18分も遅れてしまったのです。
優勝したマモ・ウォルデのタイムは、やはり高地の影響を受けて2時間20分26秒でしたが、ウォルデの自己ベストはクレイトンの世界記録から6分以上も遅い2時間16分19秒でした。
翌1969年、アントウェルペンで2時間8分33秒で走り、自らの世界記録を更新、再び世界を驚かせたクレイトンは、72年のミュンヘン五輪までマラソンを10度走り優勝7回、2位、5位、棄権が1回ずつという驚異的な強さを見せつけました。
この4年間もクレイトンの世界記録2時間8分33秒が破られることはなく、2時間10分を切るサブテンランナーすら一人も現れませんでした。
そして迎えた1972年ミュンヘン五輪。このとき、クレイトン29歳。
メキシコの借りを返すときが、ついにやって来たのです。…そのはずでした。
しかし、五輪の舞台はまたしてもクレイトンに苛酷な現実を突きつけます。メキシコをさらに下回る13位、そのマラソン人生で唯一の二桁順位で敗れ去ったのでした。
完走した18レースで14度の優勝。メキシコ7位、ミュンヘン13位。そして2位と5位が1度ずつ。棄権4レースを含めても22戦14勝です。
やはり、五輪に縁が無かった瀬古利彦も15戦10勝と驚異的な数字を収め、世界最強と評価された時期もありました。しかし、瀬古は圧倒的なレースを見せることはなく、ギリギリの間合いで〝後の先〟を制する勝負強さは光っていましたが、世界記録は一度も出していません。
男子マラソン史上、最もセンセーショナルで、最も強いクレイトンでしたが、世界一の舞台で栄冠に輝くことは、ついに一度もなかったのです。
現在のように五輪を挟んで世界陸上が2年に一度開催される環境なら、クレイトンは世界チャンピオンに何度か輝いていたかもしれませんが、そんなことは誰にもわかりませんし、スポーツの世界でタラレバを語ることほど虚しいことはありません。
圧倒的な戦績を残しながら、たった2つのレースだけで惨敗を喫した、その2つともが五輪であったというのは単なる偶然とは考えにくいと感じる人も多いでしょう。
しかし、異様に勝負弱かったと考えるのも、推測の域を出ません。単純に巡り合わせが悪かっただけなのかもしれません。
ただ、間違いないことが一つだけあります。デレク・クレイトンが衝撃的な世界記録を2度も出した、偉大なマラソンランナーであるという事実です。
クレイトンに取り憑いた五輪の巡り合わせは、ラドクリフも苦しめました。 それも、より苛酷な形で。
コメント