モントリオール五輪の国内予選決勝で敗れた村田英次郎は1976年、19歳でプロデビューしました。
WBA(本部パナマ)とWBC(本部メキシコ)の二団体が定着、そしてジュニアフェザー級とジュニアフライ級が相次いで新設された時期でした。
「水増し階級は世界王者の価値を貶める」と国内外で警鐘が鳴らされましたが、それでも13階級、二団体、世界王者は26人しかいなかったのです。
そして、5月8日にカルロス・サラテがWBC王座に就き、WBAにはアルフォンソ・サモラが君臨、1889年に創設されたバンタム級は史上最高の盛り上がりに向けヒートアップしていた、1976年とはそんな時代です。
当時のバンタム級世界ランキングを見渡すと、ジュニアフェザーが誕生間もないこともありウィルフレド・ゴメスや、フェザー級で19連続防衛を果たすエウセビオ・ペドロサら未来の殿堂選手もその名を刻んでいました。
村田英次郎の才能はプロでも開花します。
デビューしたその年にプロ3戦目ながら、現役の日本バンタム級チャンピオン沼田剛から8回負傷TKO(沼田がバッティングによるカットで出血したため主審がストップ)の金星を挙げます。
2ラウンドにフラッシュダウンを奪われたこともあり、7回までのスコアは三者ともに3ポイントのリードを沼田に与えていました。しかし、ダウン後も冷静にボクシングを組み立てた村田の拳からは、栴檀の香りが漂っていました。
「羨ましいぜ。おめぇは本物の野良犬だ。力一杯キバをむいて何かに噛みつこうとしている。それこそが本物の野良犬の証拠さ。…俺も見つけるつもりだぜ。俺だけの〝力石徹〟をよ!」〜(少年院仲間の)ゲリラの旦那
右のクロスカウンターを極め技に快進撃を続ける村田英次郎は、東洋太平洋王座を4度防衛した勢いのまま1980年6月11日、最初の世界戦に挑みます。
WBC世界バンタム級タイトルマッチ、舞台は日本武道館。ボクシングの世界戦があらゆるスポーツの中で飛び抜けて大きなイベントだった最後の時代です。
王者ルペ・ピントールは前年に議論を呼ぶスプリットデジションとはいえ、あのサラテから王座を奪っており、村田の劣勢が予想されていました。
結果は三者三様のドロー。
終盤失速したものの、序盤は必殺の右クロスでピントールの腰を落とし、ビッグネームと互角に渡り合った村田に世界奪取の期待が膨らみます。
東洋太平洋王座の防衛回数を6に伸ばした翌1981年4月5日、今度はWBA王者ジェフ・チャンドラーに挑みます。
これが二度目の防衛戦となるチャンドラーは村田と同い年の24歳。25勝12KO無敗1分のレコードでしたが、軽量級への関心が今以上に低かった母国米国では全くの無名。貨物列車に自動車を積み込む仕事で生計を立てていました。
二度目の世界戦、村田は更に世界へ接近します。1ラウンドに右ストレート一閃、チャンドラーの顎を貫きました。しかし、詰めのパンチが続かない。これが村田英次郎の弱点でした。
警戒心を強めたチャンドラーは、村田の打ち終わりを狙うボクシングに切り替えます。引いて戦う相手への攻め口を持たない村田は、見せ場を作れないまま15ラウンド終了のゴング。またもや三者三様の引き分け。
8ヶ月後、今度は敵地アトランティックシティのサンズカジノホテル特設リングに乗り込みます。しかし、卓越した適応能力を持つチャンドラーは村田のカウンター攻撃を読み切って、終始試合をリード。13ラウンドに右のアッパーカットで二度のダウンを奪って日本期待の星をストップしました。
1983年9月11日後楽園ホール、チャンドラーとの三度目の対決はもはや不要でした。2、3ラウンドにダウンを奪われた村田は、第2戦で致命傷となった右アッパーにはこの試合でも対応できず、10ラウンドにこのパンチを乱打されて試合終了。
ピントールとチャンドラー。バンタム級史上に残るビッグネームと2試合を引き分けた村田でしたが、ついに世界を掴むことは出来ませんでした。
WBA(本部パナマ)とWBC(本部メキシコ)の二団体が定着、そしてジュニアフェザー級とジュニアフライ級が相次いで新設された時期でした。
「水増し階級は世界王者の価値を貶める」と国内外で警鐘が鳴らされましたが、それでも13階級、二団体、世界王者は26人しかいなかったのです。
そして、5月8日にカルロス・サラテがWBC王座に就き、WBAにはアルフォンソ・サモラが君臨、1889年に創設されたバンタム級は史上最高の盛り上がりに向けヒートアップしていた、1976年とはそんな時代です。
当時のバンタム級世界ランキングを見渡すと、ジュニアフェザーが誕生間もないこともありウィルフレド・ゴメスや、フェザー級で19連続防衛を果たすエウセビオ・ペドロサら未来の殿堂選手もその名を刻んでいました。
村田英次郎の才能はプロでも開花します。
デビューしたその年にプロ3戦目ながら、現役の日本バンタム級チャンピオン沼田剛から8回負傷TKO(沼田がバッティングによるカットで出血したため主審がストップ)の金星を挙げます。
2ラウンドにフラッシュダウンを奪われたこともあり、7回までのスコアは三者ともに3ポイントのリードを沼田に与えていました。しかし、ダウン後も冷静にボクシングを組み立てた村田の拳からは、栴檀の香りが漂っていました。

右のクロスカウンターを極め技に快進撃を続ける村田英次郎は、東洋太平洋王座を4度防衛した勢いのまま1980年6月11日、最初の世界戦に挑みます。
WBC世界バンタム級タイトルマッチ、舞台は日本武道館。ボクシングの世界戦があらゆるスポーツの中で飛び抜けて大きなイベントだった最後の時代です。
王者ルペ・ピントールは前年に議論を呼ぶスプリットデジションとはいえ、あのサラテから王座を奪っており、村田の劣勢が予想されていました。
結果は三者三様のドロー。
終盤失速したものの、序盤は必殺の右クロスでピントールの腰を落とし、ビッグネームと互角に渡り合った村田に世界奪取の期待が膨らみます。

これが二度目の防衛戦となるチャンドラーは村田と同い年の24歳。25勝12KO無敗1分のレコードでしたが、軽量級への関心が今以上に低かった母国米国では全くの無名。貨物列車に自動車を積み込む仕事で生計を立てていました。
二度目の世界戦、村田は更に世界へ接近します。1ラウンドに右ストレート一閃、チャンドラーの顎を貫きました。しかし、詰めのパンチが続かない。これが村田英次郎の弱点でした。
警戒心を強めたチャンドラーは、村田の打ち終わりを狙うボクシングに切り替えます。引いて戦う相手への攻め口を持たない村田は、見せ場を作れないまま15ラウンド終了のゴング。またもや三者三様の引き分け。
8ヶ月後、今度は敵地アトランティックシティのサンズカジノホテル特設リングに乗り込みます。しかし、卓越した適応能力を持つチャンドラーは村田のカウンター攻撃を読み切って、終始試合をリード。13ラウンドに右のアッパーカットで二度のダウンを奪って日本期待の星をストップしました。
1983年9月11日後楽園ホール、チャンドラーとの三度目の対決はもはや不要でした。2、3ラウンドにダウンを奪われた村田は、第2戦で致命傷となった右アッパーにはこの試合でも対応できず、10ラウンドにこのパンチを乱打されて試合終了。

村田英次郎は「悲運のボクサー」と言われました。
あと一歩で世界王者に届かなかった不運。ジャッジが迷ったラウンドがひっくり返っていたら…王者がピントールやチャンドラーでなければ…。
スポーツの世界でタラレバほど虚しいものはありません。
しかし、現代では「村田英次郎」は存在しえません。世界王者は同じ階級に四人以上存在することも珍しくありません。穴王者はよりどりみどりです。
「無冠の帝王」なんて言葉も今や死語です。そんなボクサーは とっくにどこかの穴王者を倒してます。
そして、村田がデビューした1976年当時はまだ黄金時代の残り火がチロ付いていたボクシング市場でしたが、引退試合となったチャンドラー第3戦を戦った1983年には今に続く下り坂を転がり始めていました。
しかしその後、凋落一途の日本ボクシングに、バンタム級で刹那のヒーローが現れます…辰吉丈一郎です。
そして、村田がデビューした1976年当時はまだ黄金時代の残り火がチロ付いていたボクシング市場でしたが、引退試合となったチャンドラー第3戦を戦った1983年には今に続く下り坂を転がり始めていました。
しかしその後、凋落一途の日本ボクシングに、バンタム級で刹那のヒーローが現れます…辰吉丈一郎です。
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