【読売新聞3月12日朝刊 あれからvol.33】1984年5月5日、鈴木さんは300勝投手に。けがで足を引きずりながら球場の薄暗い通路を歩く姿は、公共広告機構(現ACジャパン)のCMにもなった。「一度や二度の失敗で、人間、投げたらアカンのやで」と語りかけ、「投げたらアカン」は流行語にも選ばれた。
▶︎現役時代の鈴木啓示は、敵将の広岡達朗が「今、本物のエースと呼べるのは鈴木くらい」と評価していたように、プロ野球選手の「手本」でした。
その信念は「3コメ」。「投げ込め、打ち込め、走り込め」。
後年、中日の監督になった落合博満が「とにかく練習量が足りない」と同じ意味のことを言うのですが、ノックバットで自在に打球を操り、長時間練習に自ら付き合った落合と、試合前後に選手よりも優先してマッサージルームにこもった鈴木では、選手の敬服度が全く違いました。
それ以上に、強烈な個性を持つ才能を認めると一切口出ししなかった仰木彬の後任、投手陣が当時12球団で最も先進的な練習を実践していたというタイミングも、鈴木には不幸だったのかもしれません。
92年秋、魔術師と呼ばれた仰木彬さんの後を継いで監督に就任。球団生え抜きの監督は26年ぶりで、期待を一身に背負ったレジェンドの現場復帰だった。
「走り込みが足らん」「延々と走らせろ」。コンディショニングコーチだった立花龍司さんが思い出すのは、そんな鈴木さんの指示だ。
立花さんは近鉄にメジャー式のウェイトトレーニングを導入し、89年にリーグ優勝を果たした際、監督の仰木さんから「立花が来てくれたからだ」と称賛された。
(中略)だが、練習でのダッシュの本数などの科学的根拠や、故障部位を鍛える目的でウェイトトレーニングを重視していることを説明しても、鈴木さんは「走り込みが足らん」。
93年オフ、立花さんは自らチームを去った。
そして監督2季目、94年4月9日の開幕戦。「野茂と心中する」と公言してエースに託した西武戦で、完封勝利目前の九回にピンチを広げた野茂さんを降板させた。だが、継投した投手が悪夢の逆転サヨナラ本塁打を浴びた。
「気分の悪い思いをさせたな」。試合後、鈴木さんは野茂さんの部屋を訪ねてねぎらったが、返事はなかった。
▶︎現役時代の鈴木啓示は、敵将の広岡達朗が「今、本物のエースと呼べるのは鈴木くらい」と評価していたように、プロ野球選手の「手本」でした。
その信念は「3コメ」。「投げ込め、打ち込め、走り込め」。
後年、中日の監督になった落合博満が「とにかく練習量が足りない」と同じ意味のことを言うのですが、ノックバットで自在に打球を操り、長時間練習に自ら付き合った落合と、試合前後に選手よりも優先してマッサージルームにこもった鈴木では、選手の敬服度が全く違いました。
それ以上に、強烈な個性を持つ才能を認めると一切口出ししなかった仰木彬の後任、投手陣が当時12球団で最も先進的な練習を実践していたというタイミングも、鈴木には不幸だったのかもしれません。
92年秋、魔術師と呼ばれた仰木彬さんの後を継いで監督に就任。球団生え抜きの監督は26年ぶりで、期待を一身に背負ったレジェンドの現場復帰だった。
「走り込みが足らん」「延々と走らせろ」。コンディショニングコーチだった立花龍司さんが思い出すのは、そんな鈴木さんの指示だ。
立花さんは近鉄にメジャー式のウェイトトレーニングを導入し、89年にリーグ優勝を果たした際、監督の仰木さんから「立花が来てくれたからだ」と称賛された。
(中略)だが、練習でのダッシュの本数などの科学的根拠や、故障部位を鍛える目的でウェイトトレーニングを重視していることを説明しても、鈴木さんは「走り込みが足らん」。
93年オフ、立花さんは自らチームを去った。
そして監督2季目、94年4月9日の開幕戦。「野茂と心中する」と公言してエースに託した西武戦で、完封勝利目前の九回にピンチを広げた野茂さんを降板させた。だが、継投した投手が悪夢の逆転サヨナラ本塁打を浴びた。
「気分の悪い思いをさせたな」。試合後、鈴木さんは野茂さんの部屋を訪ねてねぎらったが、返事はなかった。
▶︎土井正三監督時代のイチローは、少ないチャンスで結果を出さないと代えられる、二軍に落とされるという不安と戦っていました。
しかし、仰木監督になると「俺はお前を絶対代えないから。打てなくてもお前のせいじゃない、俺の責任や」と言われ、練習や技術的なことについては本当に一切何も言われなかったそうです。
特別な才能に接するときに必要なことは、ひたすら信じることだけです。
仰木と同じく、三原脩の〝血脈〟を受け継ぐ栗山英樹は、大谷翔平に対してどんな驚愕のパフォーマンス(当時)を見せても、称賛の言葉は口にせず「翔平はダメ。こんなもんじゃない」と合格点を与えませんでした。
しかし、繰り返された、あの〝ダメ出し〟に聞こえる言葉が、信頼を表現する飛び抜けた最上級であったことは、誰もがわかっていました。
しかし、ほとんどの人が「あの驚愕のパフォーマンス(当時)がこんなもんじゃないって、大谷って本当にそこまで凄いのか?」と疑っていたのも事実です。
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さて。三原脩、です。
私は「西鉄ライオンズ」を知りません。
三原脩も西鉄ライオンズも、後付けで学習した「皮膚感覚のない記憶」です。ライオンズは、私にとって「クラウンライター」や「西武」でした。
「神様、仏様、稲尾様」は、伝説というよりも遠い歴史、1980年前後にプロ野球を見始めた私にとって〝地続き〟の出来事ではありませんでした。
人はどうしても、自分が見たときに線を引いてそれ以前とそれ以降を別の時代、世界だと認識します。
やはり80年代からボクシングに惹きつけられた私にとって、シュガー・レイ・レナードやマービン・ハグラー、マイク・タイソンは現代のカネロ・アルバレスやタイソン・フューリーと地続き、皮膚感覚のある記憶ですが、70年代以前のシュガー・レイ・ロビンソンや全盛期のモハメド・アリは活字や写真、動画で後付けしたもので、皮膚感覚のない記憶です。
スポーツの世界に「名匠」は存在するのでしょうか?。仰木監督は「イチローや野茂を育てた」と表現されることがありますが、そんなわけがありません。特別な才能は、最初からそこにあったのです。
一方で「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず 」という故事も真実でしょう。
永遠に続きます…。

コメント
コメント一覧 (1)
鈴木と野茂の確執は互いのどっちが正しい正しくないはともかく互いの野球哲学の対立だったように思う。結果的に野茂が信念を曲げず球界やマスコミを敵にまわしてもギャンブルに勝ちだし大フィーバーをおこしたから鈴木啓示の風当たりが悪くなった。
やっつけられるのが怖いから鈴木以外の人たちはすぐに手のひら返ししました。
フシ穴の眼
が
しました