野茂英雄が太平洋を渡った1995年。
私たちには新しい家族が加わり、米国に赴任していたり、新婚旅行で 西海岸を訪れた友人知人からLAドジャースの野茂グッズ、赤ちゃん用の洋服や靴下、ヨダレかけが続々と送られてきました。
インターネットなどまだ浸透する以前の時代でしたが、米国でもNOMOマニアが当たり前に大騒ぎしていることは、スポーツイラストレイテッド誌で何度も大特集されるのを読み、子供たちが野茂のモノマネをするハリウッド映画のワンシーンを見ても「皮膚感覚」で伝わってきました。
私たちには新しい家族が加わり、米国に赴任していたり、新婚旅行で 西海岸を訪れた友人知人からLAドジャースの野茂グッズ、赤ちゃん用の洋服や靴下、ヨダレかけが続々と送られてきました。
インターネットなどまだ浸透する以前の時代でしたが、米国でもNOMOマニアが当たり前に大騒ぎしていることは、スポーツイラストレイテッド誌で何度も大特集されるのを読み、子供たちが野茂のモノマネをするハリウッド映画のワンシーンを見ても「皮膚感覚」で伝わってきました。
「日本人が頑張ってどうこうなる世界じゃない」(広岡達朗)という仮説は、完全な間違いでした。
「必ず泣いて帰ってくるから、そのときに日本の球界は野茂を受け入れてはいけない」(広岡)と決めつけていた圧倒的多数派たちは口をつぐみ、多くのメディアが180度方向転換、野茂の応援に回り、野球ファンは拍手喝采しました。
しかし「手の平返し」は「英雄への大絶賛」だけでは終わりません。
「魔女狩り」です。その標的は口を閉ざし、姿を消した広岡らではなく、フィールドで指揮を執っていた鈴木啓示に向けられます。
近鉄は前の年リーグ2位でしたが、1995年5月2日のキャンドルスティックパークから吹き荒れた竜巻は日本にも上陸、魔女狩りに便乗した一部選手たちは大バッシングを受ける鈴木に公然と反発、チームは空中分解を余儀なくされます。
抵抗できなくなった弱者、昨日までの強者を袋叩きにしても良いと公認されたとき、人間はどこまでも醜くなることが出来る、それを証明するような〝鈴木叩き〟が始まりました。
寄ってたかって叩く魔女狩りは、現在のネット社会につながる人間の闇です。
寄ってたかって叩く魔女狩りは、現在のネット社会につながる人間の闇です。
それでも、当時のコーチ陣でも一部の人は「鈴木監督は孤独で苦しんでいた。私たちも、もっと出来ることがあったのに何も出来なかった。味方になれなくて申し訳なかった」と吐露しています。
仕方がありません。あの当時、鈴木啓示を擁護するような言動をとろうものなら、自分も魔女に吊し上げられてしまいます。
仕方がありません。あの当時、鈴木啓示を擁護するような言動をとろうものなら、自分も魔女に吊し上げられてしまいます。
しかし、鈴木啓示は大多数の中に紛れ込んでいた一人の魔女ではありませんでした。 あたかもそうであるかのような、激しい非難を浴びましたが、鈴木啓示こそが大多数の意見を代表する象徴だったのです。
鈴木と立場を同じくした球界の主流派たちは、キャンドルスティックパークの衝撃を見て手の平を返しました。手の平を返すこともできず、隠れることも出来なかった鈴木は8月8日、シーズン途中で監督を解任されてしまいます。
あのキャンドルスティクパークから、わずか3ヶ月と6日しか経っていませんでした。
鈴木と激しく対立して近鉄を去った立花龍司は「野茂君はプロ入りした頃から、アメリカを夢見ていた。大リーグの剛腕たちの映像を自ら編集し、ビデオテープが擦り切れるほど見ていた。憧れのまなざしで『俺なんてちっぽけや』と。監督との確執はきっかけの一つにすぎない」と、メジャー行きは野茂の中では〝既定路線〟だったと、鈴木との確執で野茂がメジャーを目指したわけではないと語っています。
もし、鈴木啓示が「仰木彬と野茂、イチロー」「稲尾和久と落合博満」「栗山英樹と大谷翔平」のような信頼関係を野茂との間に築けていれば、監督としても大成功していたでしょう。
ですが、しかし…野茂の太平洋越えは1995年よりも、大幅に遅れていたかもしれません。

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フシ穴の眼
が
しました