「イチローの苦手なコースはどこや?」。

野村克也監督の質問に、スワローズのスコアラーは「イチローとしての話ならインハイです」と答えます。

データを見せられた野村は「インハイはヒットゾーンやないか。しかも本塁打も多い。こんなもん苦手なコースちゃうやろ!」と激昂しました。

スコアラーの「だからイチローとしてと言ったんです。他の打者との比較でいえば苦手なコースはどこにもありません」という言葉に、二人は沈黙しました。

普通の打者のヒットゾーンはストライクゾーンの内側の一部です。

しかし、イチローの場合は一部ではなくストライクゾーンは全てがヒットゾーン。それどころかストライクゾーンをボール一つはみ出たコースですら、イチローにとってはヒットゾーンでした。

高めのボール球をライトスタンドに叩き込み、ワンバウンドしたボールをすくって外野手の前に運ぶ。

後に「選球眼ではなく選球体。打てるかどうかは眼ではなく、体の反応が決める」と言い放った天才。

それでも、野村監督は「イチローはインハイが苦手。インハイを攻めたら打てない」と、あちこちで口にしてキャンペーンを展開します。

もちろん、ストライクゾーンで勝負するつもりはハナからありません。

速くて強いインハイを投げることができる投手を擁するスワローズには、ボール球での勝負でイチローを抑えるという、一縷の望みに賭けました。

それでも、野村監督が覚悟していたように「何試合までそれが通用するか」という問題でした。

パ・リーグの投手が打ち込まれ、2年連続で首位打者を許していた途轍もない打者です。

イチローがアジャストする前に、日本シリーズを終わらせなければならないのです。

太平洋戦争開戦前に「半年や1年の間は暴れてご覧にいれるが、2年、3年となれば(勝利できるか)まったく確信は持てない」と上層部に長期戦になると絶対に勝てないと忠告した山本五十六・連合艦隊司令長官のような気持ちだったでしょう。

イチローがアジャストする前に、日本シリーズを終わらせなければならない。

現在、多くの報道は野村監督の意図を知らずに、若いイチローが挑発に反応してしまったという内容になっていますが、イチローは間違いなくわかっていたはずです。

リーグ戦でも「ストライクゾーンで勝負してこない投手はつまらない」と不満を漏らしていたイチローにとって、ボール球で釣ってくるのは想定内のことだったでしょう。

ただ、イチローは四球で出塁しても非常に厄介な走者になります。一番打者を簡単に歩かせてくれるなら、選球眼で出塁すべきでした。

短期決戦でフォア・ザ・チームだけを考えるのであれば、一番打者のイチローは自分のプライドを優先すべきではありませんでした。

ただ、イチローは良い意味でも悪い意味でも、そんな選手ではありません。

もちろん、イチローが恐ろしくプライドが高いことまで、野村監督は見越していなくても、期待はしていたでしょう。

あのシリーズ、4勝1敗という星勘定ではスワローズが圧倒しましたが、第5戦ではイチローはスワローズの攻めに完全にアジャストしていました。

余裕の日本一ではなく、〝滑り込み〟の日本一でした。

27年後、イチローとは対極のフォア・ザ・チームに徹する若き三冠王が、やはり日本シリーズの舞台で苦しんでいます。

打率は2割を切り、本塁打も初戦のダメ押しの1本だけ。

シーズンでは三冠王。好機に好投手から面白いように大きな本塁打を打ち込んでいたバットが嘘のように湿っています。

どっしり構えて、どんな好投手でも甘いコースに魅入られたように投げさせ、簡単に仕留めていた村神様が打ち気にはやって三振、凡退するのは、散々やられたタイガースファンからすると見てられません。

短期決戦、村上の場合はイチローと逆にもっと自分勝手な部分を出しても良い気もします。

今日で終わらせてはいけません。

スポーツファンは同じ月に日本シリーズと、サッカーW杯を堪能出来る、そんな贅沢極まる秋を熱望しています。