一昨日。

6月の日本選手権を最後に休養していた桐生祥秀が、10月から再始動すると自身のYouTubeチャンネルで報告しました。

休養の理由については「プレッシャーと病気」があったことを明らかにしています。

「10年やってきて、楽しいことばかりじゃなかった。モチベーションを保つことが難しくなり、プレッシャーと病気の2つが休養の原因」。

桐生は洛南高校3年時の2013年、当時日本人国内最高、歴代2位の10秒01をマーク。

桐生の「10年」とは、ここから始まったものでしょう。

当時の日本記録は、1998バンコク・アジア大会で伊東浩司が刻んだ10秒00。

このときから「誰が日本人初の9秒台を出すのか」が、大きく注目され続けます。

スポーツ史上に残る最高のエポック、その一つに数えられる「9秒台」は、陸上競技を超えた日本スポーツの悲願です。

そこに忽然と現れたのが、まさかの高校生。桐生祥秀でした。

しかも、洛南高のグラウンドは直線で100メートルが取れない!そんな環境で桐生は練習していたのです。

誰もが「最初に9秒台を出すのは桐生」と確信しました。

高3までは「走ることが楽しかった」という天真爛漫の高校生が「(大会で優勝しても)10秒1ではスタンドからため息が聞こえ、記者の人になぜ9秒台が出なかったのかと何度も聞かれる」ことに、疲れてゆきます。

あんなに楽しかった走ることは、いつの間にか苦痛になっていました。

大学2年生の時には、難病である潰瘍性大腸炎と診断され、その原因は「ストレス」と医師に告げられます。

勝利、タイム、見ず知らずの多くの人が自分に巨大な期待をかけて、叶わなかったときは幻滅されるのです。

「早熟だっただけで、本当は才能がない」「気持ちが弱い、勝負弱い」「チヤホヤされて調子に乗ってる」…。

何も知らない赤の他人のくせに、見えないところからごちゃごちゃ言うな!

そう思えずに、真摯に自分と向き合う人。

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大坂なおみ。

シモーン・バイルス。

萩野公介。

武尊。

エイドリアン・ブローナー。


萩野は「僕は天才スイマーじゃない」とカメラの前で声を絞り出しました。


世の中には、スポーツなんかよりも遥かに大切なことが溢れています。

自分が何のために戦っているのか?どうしてこんなに苦しいのか?

人間であれば、当たり前の思考です。

ましてや、人生の多くを犠牲にし、そのスポーツに全身全霊を捧げてきたトップアスリートなら、なおさらです。



フロイド・メイウェザーが「全てはカネのため」という〝一神教〟を唱えるのは、すぐそこに口を開く深い闇に飲み込まれないための方便だったのかもしれません。

お前らのためじゃない、自分のため、カネのためだけに戦っているんだ!

試合が面白くない?チキンだ?負けるとこが見たい?勝手にほざいておけ!

俺は面白い試合や勇気を見せて、お前らを喜ばせることなんてしない。カネのために勝つ、それだけだ。それ以外には、何もない!

「俺が史上最高だ!アリもロビンソンも負けている。俺は誰にも負けていない!」。

わざわざ、メディアもファンも、ボクシングの世界を敵に回すようなことを口走ったのは、本当に恐ろしいもの、自分を闇に引き摺り込む悪魔が、人々の敵意ではなく期待の姿をしていることを、無意識に見抜いていたのかもしれません。

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もちろん、マイナー競技で〝民度〟の低いボクシングと、一般的にも名前が知られた〝優等生〟が求められるバイルスや大坂なおみとはプレッシャーの種類が全く違います。

一方で、メジャー競技でも大谷翔平のように全く〝それ〟を感じさせないアスリートも、極めて稀ですが、います。

昨年オフ、あらゆるテレビやメディアの誘いを断ってトレーニングに励み続けた、あの礼儀知らずで不遜な28歳もまた、野球教という一神教の、敬虔にもほどがある信者です。




100メートルで史上初めて9秒台で走り抜けた日本人は、2017年9月9日の桐生祥秀でした。

あのとき、彼が解放されたと喜んだ私は、なんて浅はかだったことか。

あれからも、彼は苦しみ続けていたのです。




かつて「お前らにミケランジェロの気持ちが分からんか!」と、記者のペンをヘシ折った伊良部秀輝を、私はずっと軽蔑していました。

日本の不人気球団からニューヨーク・ヤンキースに鳴物入りで入団した伊良部が、どれほどのプレッシャーに苦しみ、どれほどの非難轟々に晒されたのか、その目で見てきたというのに。

鋼鉄の肉体を持つアスリートでも、心は鋼鉄ではありません。

何度も感情の破綻を晒してきたメイウェザーはもちろん、〝それ〟とは全く無縁に思える大谷翔平ですら、孤独な心の奥底にピンと張りつめたタイトロープを渡っているに違いありません。



それでも、私たちは彼らを応援します。応援したいのです。




桐生!もう一回、日本記録を取り返そうぜ!