当たり前の話ですが、誰もが時代に翻弄されて生きています。
もし、井上尚弥が生まれるのが60年早かったら、国民的英雄になっていたでしょうか?それとも1団体8階級時代の荒波に沈んで、世界王者になれないままリングを降りたのでしょうか。
時代背景と、その時代の代表的なボクサーから、このスポーツの地盤沈下の過程を辿ってみます。
①ZERO−ZERO〜白井義男から全てが始まった〜(1945〜59)
白井のホームリングは9試合を戦った後楽園球場。今では想像もできませんが、ボクシング人気はそれほど巨大で、世界戦はあらゆるスポーツの試合を圧倒する国民的イベントでした。
【メディア】(街頭)テレビ
【ボクシングヒーロー】白井義男
【国民的英雄】力道山 白井義男 長嶋茂雄
戦後、日本人が楽しむ観戦スポーツはプロ野球とお相撲、そして格闘技でした。
プロ野球と大相撲は「巨人、大鵬、卵焼き」のフレーズが語るように子どもにも人気のスポーツでした。それでも、女性の社会進出は今以上に遅れていた時代、スポーツに熱狂するのは大人も子どもも男性が中心。
大相撲はもちろん、プロ野球もドメスティックな構造で、世界と戦う日本人を応援できる舞台はプロレスかボクシングしかない時代でした。
プロレスが〝八百長〟と世間にバレてしまうと、主要メディアからスポーツとして認知されなくなると、世界で戦う日本人を応援できるのはボクシングのリングだけになります。
1957年、読売ジャイアンツ入りした長嶋茂雄の契約金は史上最高の1800万円、年俸200万円でした。
一方、1940年代から1950年代前半に活躍した、白井義男のファイトマネーはノンタイトルで500万円前後、世界戦で1000万円前後だったと伝えられています。
■日本の世界挑戦■
▶︎世界フライ級:「パスカル・ペレスvs米倉健志」(15ラウンド判定負け)/「ペレスvs矢尾板貞夫」(13ラウンドKO負け)
②ZERO−ONE〜ファイティング原田の時代(1960〜1969年)
1954年11月26日に白井が世界フライ級王座を失ってから、日本の世界タイトル奪還への挑戦が繰り返されます。
■日本の世界挑戦(60年代・Before原田vsキングピッチ)■
▶︎世界フライ級「ポーン・キングピッチvs関光徳」(15ラウンド判定負け)/「キングピッチvs野口恭」(15ラウンド判定負け)
▶︎世界バンタム級:ホセ・ベセラvs米倉」(15ラウンド判定負け)
▶︎世界フェザー級:「デイビー・ムーアvs高山一夫①」(15ラウンド判定負け)/「ムーアvs高山②」(15ラウンド判定負け)。
1950年代から続く世界挑戦失敗は「白井vsペレス」から数えて9試合。王者不在の暗いトンネルは8年もの長きに渡りました。
それでも、東京キー局の全てがゴールデンタイムにボクシング中継の番組を持ち、4回戦や新人王戦も注目試合は中継された時代です。世界戦に挑むボクサーの名前は最も有名なアスリートの一人だったでしょう。
当時のことは伝え聞いたり、活字や写真で知ることしかできませんが、世界タイトル奪還に日本が燃え盛っていたボクシング黄金時代だったことは想像に難くありません。
19歳のファイティング原田がキングピッチを11ラウンドKOして、世界タイトルを奪い返したとき、日本列島がどれほど沸き立ったことか。
矢尾板の突然の引退で降って湧いた世界挑戦。キングピッチが1位の海老原博幸ではなく、減量苦からバンタム級転向初戦で敗北していた原田を選んだ事実…原田もまた〝パッキャオ〟でした。
もし、矢尾板がジム会長の理不尽なパワハラに耐えかねて、試合直前に引退していなければ?
もし、原田がバンタム級転向試合で世界7位のエドモンド・エスパルサに勝っていたら?
1年前にエキシビションで矢尾板は原田を子供扱いしたといいます。矢尾板がキングピッチに挑戦していても、悲願の世界タイトル奪還は果たされていた可能性大でした。
そうなると、原田の世界挑戦が大幅に遅れるばかりか、フライ級での挑戦も叶わなかったでしょう。史上初のフライ〜バンタム2階級制覇の偉業はなかったことになります。
しかし、何の運命のいたずらか、19歳の少年は圧倒的不利と見られたリングに上がることになります。
「(当時のルール・環境で)現代のボクサーが原田に勝つのは不可能」(百田尚樹)という強さで、大番狂わせを起こします。
そして…原田の偉業にさらに輪をかけたスペクタルな続きがあることに、「8年ぶりの世界王者誕生!」に色めき立ったファンやメディアはまだ知る由もありませんでした。
【メディア】テレビ
【ボクシングヒーロー】ファイティング原田
【国民的英雄】ファイティング原田 長嶋茂雄
1960年に金田正一がプロ野球選手として史上初の年俸1000万円を突破、1969年には長嶋が4140万円までこの数字を更新します。しかし、長嶋はプロ野球界でも別格の存在で、多くの選手にとっては「1000万円プレーヤーなんて夢のまた夢」の時代でした。
世界王者になってからの原田のファイトマネーは4000〜6500万円といわれています。そして原田は、初戴冠のキングピッチ初戦(1962年10月10日)から、ジョニー・ファメション戦で(1970年1月6日)引退するまで35試合を戦いました。
「視聴率」が報酬のモノサシなら、長嶋が4140万円で原田は6500万円というのは、いくらなんでもあまりにも原田の金額が低すぎるように思えてきます。
■日本の世界挑戦(60年代・After原田vsキングピッチ)■
▶︎世界フライ級:「海老原博幸vsキングピッチ」(1ラウンドKO勝ち)/「オラシオ・アカバロvs高山勝義」(王者決定戦=15ラウンド判定負け)
▶︎世界バンタム級:「エデル・ジョフレvs青木勝利」(3ラウンドKO負け)/ライオネル・ローズvs桜井孝雄」(15ラウンド判定負け)
▶︎世界フェザー級:「シュガー・ラモスvs関光徳」(6ラウンドTKO負け)/「ジョニー・ファメションvsファイティング原田①」(15ラウンド判定負け)/「ファメションvs原田」(14ラウンドKO負け)/「西城正三vsラウル・ロハス」(15ラウンド判定勝ち)
▶︎世界ジュニアライト級:「フラッシュ・エロルデvs小坂輝男」(12ラウンドTKO負け)/「沼田義明vsエロルデ」(15ラウンド判定勝ち)/「小林弘vs沼田」(小林の12ラウンドKO勝ち)
▶︎世界ライト級:「カルロス・オルチスvs小坂輝男」(5ラウンドKO負け)
▶︎世界ジュニアウェルター級:「エディ・パーキンスvs高橋美徳」(13ラウンドKO負け)/「藤猛vsサンドロ・ポポロ」(2ラウンドKO勝ち)
「日本のボクシング黄金時代は1960年代」。それは、当時の断片的な情報だけでも、よくわかります。
もし、井上尚弥が生まれるのが60年早かったら、国民的英雄になっていたでしょうか?それとも1団体8階級時代の荒波に沈んで、世界王者になれないままリングを降りたのでしょうか。
時代背景と、その時代の代表的なボクサーから、このスポーツの地盤沈下の過程を辿ってみます。
①ZERO−ZERO〜白井義男から全てが始まった〜(1945〜59)
白井のホームリングは9試合を戦った後楽園球場。今では想像もできませんが、ボクシング人気はそれほど巨大で、世界戦はあらゆるスポーツの試合を圧倒する国民的イベントでした。
【メディア】(街頭)テレビ
【ボクシングヒーロー】白井義男
【国民的英雄】力道山 白井義男 長嶋茂雄
戦後、日本人が楽しむ観戦スポーツはプロ野球とお相撲、そして格闘技でした。
プロ野球と大相撲は「巨人、大鵬、卵焼き」のフレーズが語るように子どもにも人気のスポーツでした。それでも、女性の社会進出は今以上に遅れていた時代、スポーツに熱狂するのは大人も子どもも男性が中心。
大相撲はもちろん、プロ野球もドメスティックな構造で、世界と戦う日本人を応援できる舞台はプロレスかボクシングしかない時代でした。
プロレスが〝八百長〟と世間にバレてしまうと、主要メディアからスポーツとして認知されなくなると、世界で戦う日本人を応援できるのはボクシングのリングだけになります。
1957年、読売ジャイアンツ入りした長嶋茂雄の契約金は史上最高の1800万円、年俸200万円でした。
一方、1940年代から1950年代前半に活躍した、白井義男のファイトマネーはノンタイトルで500万円前後、世界戦で1000万円前後だったと伝えられています。
■日本の世界挑戦■
▶︎世界フライ級:「パスカル・ペレスvs米倉健志」(15ラウンド判定負け)/「ペレスvs矢尾板貞夫」(13ラウンドKO負け)
②ZERO−ONE〜ファイティング原田の時代(1960〜1969年)
1954年11月26日に白井が世界フライ級王座を失ってから、日本の世界タイトル奪還への挑戦が繰り返されます。
■日本の世界挑戦(60年代・Before原田vsキングピッチ)■
▶︎世界フライ級「ポーン・キングピッチvs関光徳」(15ラウンド判定負け)/「キングピッチvs野口恭」(15ラウンド判定負け)
▶︎世界バンタム級:ホセ・ベセラvs米倉」(15ラウンド判定負け)
▶︎世界フェザー級:「デイビー・ムーアvs高山一夫①」(15ラウンド判定負け)/「ムーアvs高山②」(15ラウンド判定負け)。
1950年代から続く世界挑戦失敗は「白井vsペレス」から数えて9試合。王者不在の暗いトンネルは8年もの長きに渡りました。
それでも、東京キー局の全てがゴールデンタイムにボクシング中継の番組を持ち、4回戦や新人王戦も注目試合は中継された時代です。世界戦に挑むボクサーの名前は最も有名なアスリートの一人だったでしょう。
当時のことは伝え聞いたり、活字や写真で知ることしかできませんが、世界タイトル奪還に日本が燃え盛っていたボクシング黄金時代だったことは想像に難くありません。
19歳のファイティング原田がキングピッチを11ラウンドKOして、世界タイトルを奪い返したとき、日本列島がどれほど沸き立ったことか。
矢尾板の突然の引退で降って湧いた世界挑戦。キングピッチが1位の海老原博幸ではなく、減量苦からバンタム級転向初戦で敗北していた原田を選んだ事実…原田もまた〝パッキャオ〟でした。
もし、矢尾板がジム会長の理不尽なパワハラに耐えかねて、試合直前に引退していなければ?
もし、原田がバンタム級転向試合で世界7位のエドモンド・エスパルサに勝っていたら?
1年前にエキシビションで矢尾板は原田を子供扱いしたといいます。矢尾板がキングピッチに挑戦していても、悲願の世界タイトル奪還は果たされていた可能性大でした。
そうなると、原田の世界挑戦が大幅に遅れるばかりか、フライ級での挑戦も叶わなかったでしょう。史上初のフライ〜バンタム2階級制覇の偉業はなかったことになります。
しかし、何の運命のいたずらか、19歳の少年は圧倒的不利と見られたリングに上がることになります。
「(当時のルール・環境で)現代のボクサーが原田に勝つのは不可能」(百田尚樹)という強さで、大番狂わせを起こします。
そして…原田の偉業にさらに輪をかけたスペクタルな続きがあることに、「8年ぶりの世界王者誕生!」に色めき立ったファンやメディアはまだ知る由もありませんでした。
【メディア】テレビ
【ボクシングヒーロー】ファイティング原田
【国民的英雄】ファイティング原田 長嶋茂雄
1960年に金田正一がプロ野球選手として史上初の年俸1000万円を突破、1969年には長嶋が4140万円までこの数字を更新します。しかし、長嶋はプロ野球界でも別格の存在で、多くの選手にとっては「1000万円プレーヤーなんて夢のまた夢」の時代でした。
世界王者になってからの原田のファイトマネーは4000〜6500万円といわれています。そして原田は、初戴冠のキングピッチ初戦(1962年10月10日)から、ジョニー・ファメション戦で(1970年1月6日)引退するまで35試合を戦いました。
「視聴率」が報酬のモノサシなら、長嶋が4140万円で原田は6500万円というのは、いくらなんでもあまりにも原田の金額が低すぎるように思えてきます。
■日本の世界挑戦(60年代・After原田vsキングピッチ)■
▶︎世界フライ級:「海老原博幸vsキングピッチ」(1ラウンドKO勝ち)/「オラシオ・アカバロvs高山勝義」(王者決定戦=15ラウンド判定負け)
▶︎世界バンタム級:「エデル・ジョフレvs青木勝利」(3ラウンドKO負け)/ライオネル・ローズvs桜井孝雄」(15ラウンド判定負け)
▶︎世界フェザー級:「シュガー・ラモスvs関光徳」(6ラウンドTKO負け)/「ジョニー・ファメションvsファイティング原田①」(15ラウンド判定負け)/「ファメションvs原田」(14ラウンドKO負け)/「西城正三vsラウル・ロハス」(15ラウンド判定勝ち)
▶︎世界ジュニアライト級:「フラッシュ・エロルデvs小坂輝男」(12ラウンドTKO負け)/「沼田義明vsエロルデ」(15ラウンド判定勝ち)/「小林弘vs沼田」(小林の12ラウンドKO勝ち)
▶︎世界ライト級:「カルロス・オルチスvs小坂輝男」(5ラウンドKO負け)
▶︎世界ジュニアウェルター級:「エディ・パーキンスvs高橋美徳」(13ラウンドKO負け)/「藤猛vsサンドロ・ポポロ」(2ラウンドKO勝ち)
「日本のボクシング黄金時代は1960年代」。それは、当時の断片的な情報だけでも、よくわかります。



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