三島由紀夫はスポーツに関する著述も多く、東京1964については朝日、読売、毎日、報知の各新聞で五輪関連の連載を持っていたようです。

私は1964年当時の日本列島が「高度経済成長を控えて希望に燃えていた」「戦後からの復興を世界にアピールする大舞台」という意識・社会背景から、国民のほとんどがオリンピック開催を万歳して歓迎していたと考えていました。

高校時代に、三島が「オリンピック反対論者の主張にも理はあるが、今日の快晴の開会式を見て、私の感じた率直なところは『やっぱりこれをやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる』ということだった」と書いたのを読んで、反対論者の勢力が決して小さいものではなかったことを知りました。

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ノーベル賞を逃した経緯から川端康成と決別、楯の会を結成した頃には、スポーツやボクシングにふれることは無くなってしまいました。

彼のパーソナリティというのは、その言動から悪い意味ばかりでなく非常に幼稚だったことが窺えます。

ボクシングが好きでファイティング原田の大ファンで、当時は〝戯作〟扱いだった漫画にも理解を示し「あしたのジョー」が読みたくて発売日前の少年マガジンを無心したり…。

叶わぬことですが「ノーベル賞なんて要らねぇ」、そんな啖呵を切って欲しかった。

それにしても、最近もスキャンダルもありましたがノーベル文学賞は腐ってます。ノーベル賞も所詮は承認団体です。

三島の年齢をとっくに超えてしまって、こういう時期にあらためて読み返すと、何だかいろんな感慨が湧いてきます。

「ファイティング原田vsエデル・ジョフレ」をリアルタイムはもちろん、ビデオも見たことがなく、原田はテレビ解説者としか知らなかった私に「原田の情熱とジョフレの完璧」がいかに凄まじいものかを、活字で伝えてくれたのが三島でした。

当時、小学生の私は「日本史上最高のボクサーは具志堅用高」と確信していましたが「具志堅の他に誰を知ってるの?」と聞かれたとしたら、10人も挙げられなかったはずです。

そんな、無知蒙昧の私に「原田とジョフレ」を教えてくれたのが三島でした。


・・・1965年5月18日。時しも五月。五月人形みたいな 、金太郎みたいな原田が勝った。日本の男児の、晴れやかな一本気と、不屈の闘志が勝った。

いったん失った世界選手権のかぶとが、いちばんかぶとの似合う顔に取り戻された。



…あまりにも有名な一節で恐縮です。


初めて読んだときは、ジョフレがいかに恐るべき世界王者か、そして三島がいかに原田を敬愛していたかが、押し寄せてくるような文章に酔いました。

大学生になってリング誌やスポーツイラステレイテッド誌で「純粋なボクサーとしての評価なら60年代最強はモハメド・アリではなくジョフレ」という記事を何度か目にして、ジョフレの強さ、つまりは原田の偉大さにあらためて感銘しました。

21世紀になってからは「黄金のバンタムを破った男」(百田尚樹) がジョフレを「パウンド・フォー・パウンド1位」と書いていましたが、私の知る限り当時はPFPの概念は知られていたものの、リング誌などでもランキングは発表していません。

当たり前と言えば当たり前、原田の時代は世界で1人のチャンピオンに、現在では考えられない納得できるランキングが存在していたのですから。

まあ、創作とはいえ、当時PFPがあればジョフレはアリと1位、2位を分け合う存在だったのは疑う余地がありません。

そして、オリジナル8ではないにせよ、1団体10階級の時代でジョフレに2連勝した原田がPFP1位評価を受けたであろうことも、まず間違いありません。

リング誌とスポイラ誌、そして三島由紀夫は、10代の私に「ファイティング原田とは何者か」を明白に突きつけてくれたのです。