絶対に笑われるから、あまり人には言わないようにしていますが、三島由紀夫の文体が好きでかなり影響を受けてしまっています。

なかなか、見破れないでしょうが、見る人が見たら猿真似はすぐバレちゃいます。



ずーっと昔。

高校時代に図書室にあった三島由紀夫の作品を全部読んでしまい、他の著作を探そうと授業を抜け出して梅田の紀伊国屋に行きました。

ちなみに当時、三島はとっくの昔に死んじゃって、私はリアルタイムに三島を見たことがありません。

バカ高校生の話を聞いてくれた優しい店員さんに「君は三島の作品を全て読んだことになる。だから未読の作品はないんだ」と告げられたときは、エーー?という軽い絶望に立ちくらみました。


もっと多作だと、勝手に思い込んでいたのです。

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高円寺の古本屋で見つけた週刊朝日1966年8月5日号。当時の定価と同じ50円で売られていました。素晴らしい!高円寺!

三島はファイティング原田の大ファンで、ボクシングジムに通い、「あしたのジョー」を読みたくて少年マガジンの発売日を楽しみにしていたーーというのは有名な話です。

そんなわけで、三島のボクシング話を引き出しながら、外野席から鋭い視線を投げた著名人のボクシング観にふれながらの、よもやま話です。



第一回は当然、三島由紀夫。

「青白き文学青年」だった三島は、30代になって「実践的スポーツ」に目覚め、ボデービルやボクシングにのめり込みます。

「ボデービル」。昔はボディビルではなく、ボデービルだったのです。ボディブローはもちろんボデーブロー。

学習院中等科時代は剣道、柔道、弓道、馬術が必須課目だったそうです…さすが学習院、馬術です。学校に馬がいたんでしょうね。

大阪でも超ガラの悪い中学校で野球と喧嘩に明け暮れていた品性下劣な私とは階層が違います。

ボクシングはもちろん会場で観るのも大好きで、報知新聞に観戦記を寄せていました。


=昭和39年3月1日:世界フェザー級選手権試合 王者シュガー・ラモスvs関光徳=

昭和39年、1964年。新幹線が開通してモハメド・アリが最初の世界ヘビー級王座に就き、そして東京五輪の年でした。

昭和の年次と全く同じ、わかりやすい年齢の三島は39歳。

当時の世界タイトルマッチは「世界選手権試合」と呼ばれることも多く、そこには現在のサッカー日本代表の大勝負で漂う「国際試合」の緊張感と何よりも威厳があったことは、当時を知らない私でも容易に想像できます。

王者のシュガー・ラモスはその強打でデイビー・ムーアを死に至らしめた事件は、ボブ・ディランにWho KIlled Davey Moore を詠みました。

そして、日本では力石徹がロープ最下段に後頭部を強打して、やはり不幸な最期を迎えたことを、ラモスvsムーアのエピソードを紹介して解説していました。

あの〝殺人パンチ〟のムーアに関が挑むのです。

関は3年前にわずか19歳で世界フライ級王者ポーン・キングピッチに挑戦するも完敗。これが3年越し2階級飛ばしの2度目の世界挑戦でした。

キングピッチ戦では6週間で20kg!という〝死の減量〟で極度の脱水症状。「5ラウンド以降は覚えていない」という、時代とはいえ眉をしかめるしかない愚かな減量です。

関は、減量苦が劇的に和らいだフェザー級で最高のコンディションで、カシアス・クレイが世界を揺るがす大番狂わせを起こしたニュースも届いて「関もいける!」という機運もありました。

しかし、リングサイドに座った三島は「広い肩幅に厚い胸、ボデービル型の上半身にバレエ・ダンサーの足を持ったキューバ人」と「いかにも日本人的な若者の顔との対照が、試合が始まる前から、なんとなくやりきれない気持ちを起こさせた」と冷徹な視線を2人に突き刺します。

6ラウンドに2度のダウンを奪われ、挑戦者コーナーがリングに入って棄権。関の夢はTKOで潰えます。

そして、三島は、相打ちを恐れずに打ち合い、散った関の姿に「狂言の『釣狐』ではないけれど、狐はある場合は、敢然と罠に飛び込むことで、彼自身が狐であることを実証する、それは狐の宿命、プロボクサーの宿命のごときものであろう」と結びました。

スポーツを書くことは、恐らく「破れざる者」を伝えることです。

その意味でも、秀逸な「関光徳」論です。

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フルハウスの蔵前国技館、そのリングサイドで三島はどんな表情で試合を見ていたのでしょうか。

声援を送ったり、席から立ち上がったり、そういう興奮した姿は想像できません。

多くの観戦記の字間からも、高揚した体温が読み取れません。

ただ、大ファンと認めるファイティング原田の試合になると、少しばかり体温が跳ね上がります。