「世界王者が2人もおるのはおかしいわ。世界一は1人にせんとあかん」(渡辺二郎)。

承認団体が分裂してから10年が過ぎた1980年代はじめ…日本のボクシング界は今と同じく承認団体が決めた複数の王者をシレッと受け入れていました。

それは、ファンも同じでした。

「WBAとWBCの二つの団体に世界チャンピオンが1人ずつ合計2人いる。それがプロボクシング」。

その歪さを既成概念として受け入れることに、メディアもファンも慣れきっていました。

そんな時代に渡辺は統一戦を熱望したのです。

私がジュニアバンタム級の存在を知ったのと、渡辺を知ったのはきっとほとんど同時でした。 
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「さよなら」。私たちは不幸にも、その言葉を2度、渡辺二郎に送ることになるのでした。

ジュニアバンタム級の歴史を簡単に振り返ります。

ジュニアバンタム(115lb)は、WBCの中南米とアジアの会員から「フライ(112lb)とバンタム(118lb)との6lbの差が大き過ぎる」という声があがったことからWBCが1980年に初代王者を認定しました。

1980年に創設されたジュニアバンタム級はストロー(1987年)、スーパーミドル(1984年)に先立つ三番目(※)に新しいクラスです。

※を付けたのは、1980年にはジュニアバンタム級だけでなく、クルーザー級も創設されており、どちらが先か?は微妙だからです。

初代王者は、ジュニアバンタム(2月2日:◯ラファエル・オロノ=15ラウンド判定=⚫︎李承勲)がクルーザーのWBA(2月9日:◯オジー・オカシオ=15ラウンド判定=⚫︎ロビー・ウィリアムス)と、WBC(3月31日:◯マービン・カメル=15ラウンド判定=⚫︎メート・パルロフ)よりも早く誕生しています。

しかし、WBCのカメルvsパルロフは前年1979年12月8日に決定戦を行って引き分け、王者誕生ならずという経緯がありました。

初代世界王者誕生か、それとも最初のタイトルマッチ実施か、どちらを起点とするかで変わってくるのです。

まあ、どうでもいいことです。

そんな、40年の歴史を歩んできたジュニアバンタム級で史上ただ1人の Undisputed Champion 渡辺次郎の対戦相手を確認しましょう。

ジュニアバンタム級の生まれた1980年といえば、リング誌のBEST FIGHTER POLL がスタートした年です。

階級の細分化が進み世界王者の価値が低下する中で、年度ごとにPFPの10人を選定することでボクシングの権威を取り戻そうとしたものでしたが、ファンはPFP1位にしか目が行きませんでした。

そのため「BEST FIGHTER POLL の1位=実質的なPFP1位=」と「 FIGHTER OF THE YEAR」との違いが曖昧になったことから、2017年をもって廃止(当時のリング誌は経営難から月刊誌から年9回発行の変則季刊に転落、誌面のリストラを強いられのが本当の廃止理由かもしれません)。

毎年1月号で大特集していた BEST FIGHTERS IN THE WORLD もこの時期になくなりました。どちらも興味深い企画で毎年楽しみにしてただけに残念ですが、仕方ありません。

史上初めて部外者(MMAのロンダ・ラウジー)や日本人(井上尚弥)を単独カバーで起用するなど〝迷走〟中ですが、長年の愛読者としては心中するつもりで暖かく見守るしかありません。

リング誌がまだ元気一杯でKOマガジンやボクシング・イラストレイテッドなどライバル誌も発行されていた80年代、日本で最も輝いたボクサーが渡辺でした。

渡辺が戦った世界戦14試合(12勝8KO2敗)の中には殿堂入りはもちろん、BEST FIGHTER POLL 10傑に数えられたボクサーもいません。

世界初挑戦は1981年4月22日。韓国ソウルに乗り込んでWBC王者・金喆鎬に挑みましたが、UD判定負け。

渡辺は26歳でしたが、プロ入りが24歳のときでしたからわずか2年(10戦全勝7KO)のキャリアで頂上にアタックしたのでした。

金は初代王者オロノを敵地ベネズエラで9ラウンド逆転KOで倒したしぶといファイター。

オロノは水増し階級の初代王者ということで過小評価されていますが、金との再戦で6ラウンドTKOで雪辱。パヤオ・プーンタラトにSDでベルトを奪われますが、このクラスで史上最強の呼び声高いカオサイ・ギャラクシーをして「キャリア最強打者」と言わしめた猛者でした。

そのオロノと激闘を繰り広げた金に3−0のUDで跳ね返された渡辺でしたが、アウエーで採点されたスコアは1点差が2人、残る1人は2点差(143−142/147−146/148−146)と超僅差。その数字通りの紙一重の戦いを完全敵地で繰り広げたのです。

日本の個性派、ジャッカル丸山や石井幸喜らを撃破して5度防衛した金は、けして弱い王者ではありません。

そして、翌年1982年4月8日。WBAに照準を移した渡辺はラファエル・ペドロサに圧勝。念願のチャンピオンベルトを腰に巻きました。

ペドロサは殿堂入りのフェザー級王者エウセビオを従兄弟に持つものの、ボクサーとしては世界基準ぎりぎりの実力でした。

初代王者グスタボ・バリャスを母国パナマに引っ張り込んでSDでタイトルを奪いますが、ルイス・エスタバ、具志堅用高とジュニアフライ級の強豪王者にも敗退した〝手垢〟のついたボクサーでした。

初防衛戦はそのバリャス。この時点での黒星はペドロサに盗まれた1敗だけ、57勝21KO1敗1分と素晴らしい戦績を誇り、年齢も渡辺よりも3歳若い24歳。

しかし、円熟の巧さを見せたのはプロ17戦目の日本人サウスポーの方でした。

9ラウンド終了TKOに沈んだMandrake(幻覚を見せる毒花)の異名を持つアルゼンチン人が大阪府体育館で見たのは幻覚ではなく厳しい現実でした。

2度目の防衛戦、大熊正二とのコンバーテッド・サウスポー対決も12ラウンドTKOで仕事を終わらせます。続いてルイス・イバネスを8ラウンドで片付けて3度目の防衛に成功。

ロベルト・ラミレス、権順天、セルソ・チャベスを退けて防衛のテープを6まで伸ばすと1984年7月5日、大阪城ホールでWBC王者パヤオ・プーンタラトとの完全統一戦のリングに上がります。

この試合はWBAが「渡辺がリングに上がった瞬間にタイトルを剥奪する」と警告していましたが、統一の事実に固執した帝拳との話し合いで「試合終了後に剥奪」に変更。

パヤオは、モントリール1976でライトフライ級銅メダルを獲得していますが、これはタイ初の五輪メダルでした。

試合は高度な技術戦の末にSDに。117−112/115−113/113−115で渡辺の手が挙がりましたが、渡辺が「ボクシングは相手が一枚上。相手は納得してへんやろ」というままの内容でした。

再戦の舞台は熊本県体育館。

初戦とは打って変わって終始主導権を握った渡辺が、11ラウンドTKOで決着をつけました。

その後に成し遂げた日本人として史上初の敵地防衛(韓国・vs尹石煥)はおまけのようなものです。

1986年3月30日、伊丹スポーツセンター。ヒルベルト・ローマンの技巧に屈して約4年間の治世が終わります。

リング上で「今、何がしたいですか?」と聞かれて「メロン、食いてぇ」と笑った渡辺は妙にサバサバしてて、子供心にも「引退するんだろうな」と思って見ていました。




 「(大先輩の原田が減量について語ることに口を挟み)減量が苦しい、厳しいはゆうたらあかんよ。普段から節制してたらええねん。試合終わって暴飲暴食するから後で苦しいねん」。 

「(ボクシング関係者がジュニア階級はレベルが低いと目の前で発言したとき)我慢したよ、大人やから。ただ、ジュニアとか名前やろ、名前でレベルを決めるなっちゅうねん。見てからゆうんやったらなんぼでも受け入れるけどな」。

「(GOサインを出したセコンでに向かって)相手の生き死には一番近いとこにいる俺がわかってる」

非常にわかりやすい言葉を使うのも、クレバーな渡辺の特長でした。

現実のキャリアが証明しているように、リングの上で彼をノックアウトすることは不可能でした。

恐ろしく頭が良くて、懐の深い渡辺が、途轍も無い才能の持ち主だったことは誰もが認めるでしょう。

それなのに…。

あれほどリング上で強かった彼なのに、リングの外で絶対負けてはいけない相手に、敗れてしまったのです。