20世紀と21世紀の最大の違いは、情報の量と速さです。
ネットの恩恵は特にありがたく享受しているのは、ボクシングファンかもしれません。
ネットの恩恵は特にありがたく享受しているのは、ボクシングファンかもしれません。
20世紀でもモハメド・アリやシュガー・レイ・レナード、マービン・ハグラー、マイク・タイソンのメガファイトはテレビ東京系列などでほぼ生中継で観ることが出来ました。
しかし、その他の注目の試合は翌日の新聞に小さな結果記事で確認するのが最速でした。
そんな注目ファイトでも。翌日にわかるのは結果だけ。試合内容は専門誌の記事で識るしかなく、翌日の新聞で結果も扱われない試合となるとやはり専門誌で初めて読むことになるのです。
海外の試合のほとんど全ては「ボクシングマガジン」や「ワールドボクシング」(ボクシングビートの前身)の専門誌の記事でしか情報が出来なかったのです。
大学に進学すると図書館で楽しむことが出来た「リング誌」「KOマガジン」「スポーツイラストレイテッド」などの洋雑誌が大学に届くのは約1週間遅れ。
洋雑誌は読み物としては面白かったものの、ニュースとしての役割は日本の専門誌が100%果たしてくれていました。
愛すべき日本の専門誌からは「ボクシングマガジン」「ボクシングビート」の二大専門誌に、格闘技総合誌「ゴング」に、スポーツ総合誌「Number」の四誌を取り上げてゆきます。

まずは「ボクシングマガジン」。ボクマガは1956年6月、ベースボールマガジン社から創刊。
最古のボクシング専門誌・英国ボクシングニューズ誌から遅れること47年、それでも63年を超える歴史あるマガジンです。
ちなみに、ボクマガは「わが国最初の専門誌」ではありません。1934年に創刊された「ボクシング・ガゼット」が最初の専門誌です。
第1期「ボクシングマガジン」の歴史は6ヶ月の命で、月刊プロレスに吸収されて1957年1月から「プロレス&ボクシング」と二輪雑誌となります。
そして1964年、ベースボールマガジン社がガゼット社を吸収したことで「プロレス&ボクシング」から1972年に分離、1第2期ボクシングマガジン(当初のタイトルは「別冊プロレス&ボクシング」)がスタート。
ボクシングマガジンに飲み込まれたボクシング・ガゼットでしたが「ガゼット座談会」として、郡司信夫(ガゼット社の創始者)が司会進行を務めるコーナーとして生き残りました。
ガゼット座談会は、今やレジェンドな洋食レストラン「日本橋たいめいけん」で開催されるのがお決まりでした。
さて、このボクシング・ガゼットですが、なんと月2回発行でした。創刊当初の1934年は前の年に早稲田大学在学でプロデビューしたピストン堀口の全盛期。
【左から】1976年、1986年、1996年の「ガゼット座談会」。今、読み返しても「玄人の玄人による味わい深い座談会」でした。一番右は郡司の逝去を伝える1999年4月号。
ガゼット社はつぶれてしまいましたが、郡司は死ぬまでボクシング界の巨人であり続けました。
部数も伸びて、郡司はBGジムの経営にも乗り出します。BGはもちろんボクシング・ガゼット(Boxing Gazette)の頭文字をとったもの。
このジムに白井義男を迎えるのですから、郡司の日本ボクシング界への貢献度は計り知れません。
1952年にJBCが設立されると理事に就任、ランキング委員長や倫理委員など要職を歴任。1991年には文部大臣スポーツ特別功労賞、1998年には勲四等に相当する銀杯も贈られています。
1999年2月11日に腎不全で亡くなりますが(享年90歳)、体調を崩すまでは自身が解説するTBS系に関わらず、後楽園ホールの全興行に出向き4回戦からメインまで観戦し続けました。
「4回戦も世界王者も同じ汗を流してこのスポーツを支えてくれている」。その信条を口先ではなく行動でも具現してみせました。
ボクマガについて書く予定が郡司信夫がメインテーマになってしまいました。
しかし、ボクマガがガゼットの精神を受け継いで、その肉体に今なお郡司の血が流れていることに変わりはありません。
「1試合も欠かさず後楽園ホールに通い詰めた」。そんな情熱的な関係者は今は1人もいないでしょう。
最古のボクシング専門誌・英国ボクシングニューズ誌から遅れること47年、それでも63年を超える歴史あるマガジンです。
ちなみに、ボクマガは「わが国最初の専門誌」ではありません。1934年に創刊された「ボクシング・ガゼット」が最初の専門誌です。
第1期「ボクシングマガジン」の歴史は6ヶ月の命で、月刊プロレスに吸収されて1957年1月から「プロレス&ボクシング」と二輪雑誌となります。
そして1964年、ベースボールマガジン社がガゼット社を吸収したことで「プロレス&ボクシング」から1972年に分離、1第2期ボクシングマガジン(当初のタイトルは「別冊プロレス&ボクシング」)がスタート。
ボクシングマガジンに飲み込まれたボクシング・ガゼットでしたが「ガゼット座談会」として、郡司信夫(ガゼット社の創始者)が司会進行を務めるコーナーとして生き残りました。
ガゼット座談会は、今やレジェンドな洋食レストラン「日本橋たいめいけん」で開催されるのがお決まりでした。
さて、このボクシング・ガゼットですが、なんと月2回発行でした。創刊当初の1934年は前の年に早稲田大学在学でプロデビューしたピストン堀口の全盛期。
【左から】1976年、1986年、1996年の「ガゼット座談会」。今、読み返しても「玄人の玄人による味わい深い座談会」でした。一番右は郡司の逝去を伝える1999年4月号。
ガゼット社はつぶれてしまいましたが、郡司は死ぬまでボクシング界の巨人であり続けました。
部数も伸びて、郡司はBGジムの経営にも乗り出します。BGはもちろんボクシング・ガゼット(Boxing Gazette)の頭文字をとったもの。
このジムに白井義男を迎えるのですから、郡司の日本ボクシング界への貢献度は計り知れません。
1952年にJBCが設立されると理事に就任、ランキング委員長や倫理委員など要職を歴任。1991年には文部大臣スポーツ特別功労賞、1998年には勲四等に相当する銀杯も贈られています。
1999年2月11日に腎不全で亡くなりますが(享年90歳)、体調を崩すまでは自身が解説するTBS系に関わらず、後楽園ホールの全興行に出向き4回戦からメインまで観戦し続けました。
「4回戦も世界王者も同じ汗を流してこのスポーツを支えてくれている」。その信条を口先ではなく行動でも具現してみせました。
ボクマガについて書く予定が郡司信夫がメインテーマになってしまいました。
しかし、ボクマガがガゼットの精神を受け継いで、その肉体に今なお郡司の血が流れていることに変わりはありません。
「1試合も欠かさず後楽園ホールに通い詰めた」。そんな情熱的な関係者は今は1人もいないでしょう。

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