ゲンナディ・ゴロフキンがアベル・サンチェスと袂を分かち、新たなトレーナーとして選んだのがジョナサン・バンクスでした。

 バンクスはアマチュア時代から米国を代表する重量級で、プロ転向後もWBO北米クルーザー級王座を獲得、20連勝14KOの快進撃。

2009年2月27日にはIBFクルーザー級王者トマス・アダメクに挑戦、善戦虚しく8ラウンドTKOに散りますが、その後は1分けを挟んで9連勝。

2012年11月17日、今度はヘビー級ホープ、WBCインターナショナル/WBO北米ヘビー級王者セス・ミッチェルを大番狂わせの2回KOで下し、再重量級のトップ戦線に躍り出ました。

しかし、このキャリア最大の勝利をバンクスは心の底から喜ぶことが出来ませんでした。

1ヶ月前の10月25日、恩師エマニュエル・スチュアードが結腸癌のため死去していたのです。

バンクスが最後に見舞ったときに殿堂入りのトレーナーは「お前は番狂わせを起こす。打ち合えばお前の勝ちだ」と見事に〝予言〟。

「お前がチャンピオンになるとウラジミール・クリチコと対決することになるなあ…。そうなると俺はどっちのコーナーにも付けないから天国から二人を応援するよ」とバンクスに笑いかけました。

「ウラジミールとは戦えない。でもそこを目指します」と答えると「それまではウラジミールのことを頼んだ。お前しか彼のトレーナーは出来ない」と託されたのです。

そこからバンクスの二足のわらじがスタートしました。
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プールの底でウラジミルとバンクスがスパーリング。これはモハメド・アリの有名なワンショットへのオマージュ。ウラジミルは敬虔なアリ信者として有名です。


そして、セス・ミッチェルとの再戦を判定で落とし、2014年にアントニオ・ターバーに敗れて引退。

5年足らずのトレーナー歴でウラジミールの他にも、現在は女子のレジェンド、セシリア・ブレークフスも指導しています。

このラインナップにGGGが加わるわけです。クロンクの哲学がどんな化学反応を起こすのか、それがプラスなのかマイナスなのか、楽しみで仕方がありません。

ただ、ここで私が書くまでもなく、クロンクは劇薬です…。



このバンクスは、当然ながらスチュワード、クロンクの血統を継ぐトレーナーです。

ボクシング史上、最も偉大なトレーナーの一人が68年の生涯で築き上げたレガシーの物語です。

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1944年ウェストバージニア州ボトムクリーク生まれのエマニュエル・スチュアードは、クリスマスプレゼントでボクシンググローブをもらったことで、このスポーツに引き込まれていきます。

両親の離婚をきっかけに、母に連れられミシガン州デトロイトに引っ越してきたのは12歳のとき。

モーターシティはその名を冠したアリーナがあるように、偉大なジョー・ルイスのホームです。近所のカトリック・ユース・オーガニゼーションでボクシングを習うことになったのは自然の流れでした。

しかし、13歳のときにこの施設が閉鎖。ルイスが創設した有名なブリュースター・レクリエーションセンターに練習の場所を移します。

1963年、全米ゴールデングローブ・バンタム級で優勝したスチュワードは94勝3敗の戦績を引っさげプロ転向を考えましたが、マネージャーもトレーナーも見つけることが出来ませんでした。

カリフォルニアのエディ・ファッチのグループから「こっちでキャリアを積み重ねないか?」とオファーが届きましたが、家族と兄弟を置いてデトロイトを離れるわけにはいきませんでした。

ボクシングへの未練はありましたが、家族を支えるためにデトロイト・エジソン社の建設現場で働き始めたスチュワードは1964年にマリー・スティールと結婚。
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米国の結婚、夫婦では稀有なことですが、マリーは最後の瞬間までスチュワードに添い遂げます。

持ち前の頭の回転に豊かな発想を上司に評価されたスチュワードは電気工事師に抜擢され、すぐに主任に昇格。サラリーマンとしても出色の才能を見せます。

そして1969年の夏、離れて暮らしていた15歳の弟ジェームスをデトロイトに呼び寄せたときに、止めたはずの時計が動き始めました。

「兄さん、ボクシングを教えてくれ」。

二人は一番近くにあったジムを練習場所に選びました。

スチュワードが持っていた最も優れた才能は、電気工事師でもサラリーマンでもありませんでした。

兄の指導を受けたジェームスは、わずか5ヶ月の練習でデトロイトのゴールデングローブで優勝を飾るのです。

ジェームスは〝ベイビー・アリ〟の異名でモーターシティの英雄になりました。

その噂はあっという間に米国東北部に広がります。

「クロンクジムにとんでもないトレーナーがいるらしい」。

そう、二人が門を叩いたジムこそクロンクでした。エマニュエル・スチュワードが開祖と勘違いされることの多いクロンクは、1920年代に建てられた赤煉瓦のリクリエーションセンターがその前身です。
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クロンクの名はデトロイト市議会議員のジョン・F ・クロンクがその由来で、当時この地域にはクロンクの血筋であるポーランド移民のコミュニティがあったのです。

The center was used by the community for general recreation. The two-story 1920’s building was made of red brick with rust stains weeping from metal grills covering the windows. 

1971年にはデトロイトのゴールデングローブを総なめ、クロンクは最優秀チームのタイトルを獲得しました。

デトロイト・エジソン社はスチュワードにさらに昇格となる月額5000ドルのポストを用意しましたが、週35ドルのパートタイムジョブでしかなかったクロンクのヘッドコーチの道を選択します。

けして豊かな生活ではなかったにもかかわらず「大企業の好待遇を断りトレーナーに専念したい」と相談するスチュアードに妻マリーは「私もそれが良いと前から思ってたわ」と後押しします。

これまでもマリーはエジソン社の仕事も、ボクシングのトレーナーのことも何も知りませんでしたし、口出しもしませんでした。
まさに日本の「夫唱婦随」を地で行く夫婦でした。

1970年代、
10〜15歳の若い才能を短期間でたちまちチャンピオンに仕立てるスチュワードの手腕は米国アマチュアボクシング界を席捲します。

72年にはクロンクの若いタレントを選抜した ESCOT(
Emanuel Steward’s Champions Of Tomorrow)ボクシングクラブを創設。

そのときのメンバー集合写真には当時13歳、痩せっぽっちのデュアン・トーマスの顔も見つけることが出来ます。13年後にトーマスはジョン・ムガビをノックアウトしてWBCジュニアミドル級王者に就くのです。

そして、セピアの写真にはもっと痩せっぽっちの15歳の少年も写っていました。あどけない表情の仲間たちの中で、少年の眼光はギラついていました。そこに立っていたのは、一撃で対戦相手をその毒牙にかける、若き日のモーターシティ・コブラでした。

まだ70年代も半ばに差し掛かっていないというのに「70年代に世界で最も成功を収めたボクシングクラブ」と絶賛されたクロンクでしたが、そのサクセスストーリーがまだイントロを奏で始めたばかりだとは、世界中の誰一人として気づきませんでした。