フロイド・メイウェザーjr.。

自らをマネー、銭ゲバと称する下劣な男。

自分こそがTBE、史上最高と吹きまくりメディアやファンから唾棄されるボクサー。

試合前のトラッシュトークは威勢が良いが、ゴングが鳴ると途端にデフェンシブになりブーイングを浴びるチキン。



…それでも、試合は全く面白くないが、天才的なセルフプロデュースで莫大なカネを稼いだことは事実です。

「The Best Ever はボクサーではなくセールスマンとしてなら認める」(ESPN)というように、彼は後世に偉大なビジネスマンとして記憶されるのかもしれません。
FullSizeRender
そんなマネーの出納帳の物語です。

1977年2月24日、フロイド・ジョイ・シンクレアはフロイド・メイウェザーを父親に、ロジャーとジェフを叔父に持つボクシング一家に生を受けました。

治安の悪いエリアで麻薬の売人もしていた父親から酷い虐待を受けながらも、物心つく前からボクシングの手ほどきを受け、1989年にフロイド・メイウェザーJr.に改名。

1993年にライトフライ級(48kg)で全米ゴールデングローブ大会でエリック・モレルを下して優勝。この年に父親はコカイン密輸の罪で実刑判決(懲役5年6ヶ月)を受け服役してしまいます。

翌1994年は階級をフライ級(51kg)に上げて同大会を2連覇。

当時メイウェザーは16歳、一つ年下のマニー・パッキャオがプロデビュー(1995年)したのと同じ年齢でした。

パックマンの8階級制覇が「前代未聞の偉業ではない」と語られるとき、その根拠の一つに「メイウェザーもほぼ同時期に同じような体重変化を辿ってきた(レベルの低い軽量級なら当時のメイウェザーならアルファベット団体のタイトルは獲れていた)」という理屈が挙げられています。

1995年にはフェザー級(57kg)にジャンプ。しかし、パン・アメリカン大会の国内予選で脱落、世界選手権でも2回戦で敗退と苦杯を舐めますが、全米選手権で優勝。

1996年の五輪イヤーでも全米ゴールデングローブをフェザー級で制覇、自国五輪(アトランタ)の代表の座を射止め、銅メダルに輝きます。

準決勝敗退でしたが、この試合は多くの人がメイウェザーの完勝と見ていました。当時のアマチュアは今以上に不可解な判定が、五輪のような大舞台でも厚かましいまでに繰り返されていました。

エリートアマであったことは間違いありませんが、アマ戦績は84勝8敗。けして、トップ中のトップであったわけではありません。

それでもトップランクと契約して「シュガー・レイ・レナードの後継者」の看板を引っ提げてプロ入り。

1996年にロバート・アポダカを迎えたデビュー戦は、2ラウンドTKOで仕事を終わらせますが、そのファイトマネーはわずか2500ドル、25万円に過ぎませんでした。

約20年前の1977年にレナードがプロ第1戦で受け取った4万ドル(当時のレートで640万円)と比べると、物価変動を考慮しなくても20分の1以下、しかもレナードの試合は全米地上波生中継され、CBSから1万〜2万ドルと言われるボーナスまで加算されていました。

レナードは〝後継者〟のメイウェザーとは全く次元の違う好待遇だったのです。

しかもこのとき、父親はまだ刑務所の中、デビュー戦とはいえ2500ドルの報酬にメイウェザーは昏くなります。

「どんな未来が待ち構えているかはわからなかったが、ジッとしていたらレナードになれないことだけはよくわかったよ」。

父親がレナードの踏み台にされ、叔父のロジャーは2階級制覇したもののフリオ・セサール・チャベスに粉砕され、ジェフはオスカー・デラホーヤに切り刻まれた意味を、若きメイウェザーは肌身に染みてわかっていました。

ファンやメディアは、まだ何一つ試されていないメイウェザーの未来を勝手に決めつけていました。

「メイウェザーは勝負弱い」「メイウェザーは打たれ弱い」「メイウェザーはカネにならない」…。

「私が勝利にこだわること。私が打たれ弱さを絶対に見せないこと。私がカネに固執すること。それらは私の身体を血液のように流れている。勝手なことを言うやつらを一人残らず黙らせなければならない」。

「こう話すと父親と叔父の敵討ちみたいに思われるが、そんな生易しいことじゃない。まったく逆だ。父親や叔父に、他の家庭のような特別な愛情はない。父親や叔父の影を背負わされるのは、まっぴら御免なんだ」。

デビュー当時、メイウェザーは「プリティボーイ」でしたが、その仮面の下にはすでに「マネー」の細胞が増殖を始めていたのです。