赤煉瓦の建物が競うように建てられたのは、西欧への憧憬をほとばらせた明治維新からのことでした。

しかし、地震や高温多湿の気候に脆弱な赤煉瓦は、本来日本の風土に合ったものではありませんでした。

それでも赤煉瓦への愛情を止めることが出来なかった日本人でしたが、関東大震災に見舞われてようやくその危険性に目覚めます。

1868年の明治維新から、1923年の関東大震災の間、約55年の前後に建てられた赤煉瓦建設の多くは、純粋に煉瓦を積み上げた構造で、耐震性に大きな不安を抱える建物だったのです。

この“維新から大震災”の半世紀余りの時代に建てられた赤煉瓦のほとんどは関東大震災で崩落、全壊を免れた建物も解体・補強再建を余儀なくされ、当時の構造のまま残るものはありませんでした。


その後の時代を経て、補強がなされたとはいえ老朽化から取り壊された赤煉瓦建築も数え切れないほどあるでしょうし、現存するものは震災や取り壊しを免れたほんの一部に過ぎません。

それでも、喪われた赤煉瓦の勇姿は、錦絵や写真などからうかがうことが出来ます。

そんな、今となっては幻の赤煉瓦建築を訪ねる時間旅行に出発します。


第1回 牛ヶ淵・偕行社に江戸と明治を垣間見るのだ。

 



先日、仕事で訪れた九段下。

千鳥ヶ淵から牛ヶ淵、桜はまだ三分咲きでしたが、この辺りの桜はさすがに年季が入ってます、貫禄十分の幹に枝、姿格好が絵になってます。 

さて、九段下。

かつては飯田坂と呼ばれていましたが、あまりの急坂のため九つの段が築かれたことから九段坂とその名を変え、その坂を下り切ったところが九段下です。

1871年(明治4年)に靖国神社の燈籠として高燈籠(常燈明台:じょうとうみょうだい)が建設され、その高燈籠に隣接するように陸軍の将校クラブ、偕行社(かいこうしゃ)が建てられたのです。
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この偕行社の跡地はオフィスビルが建ち並び、偕行社の名残は千代田区の観光案内板で読み取れる程度しかありません。


その観光案内板で紹介されている錦絵が上の絵葉書です。

海老色の壁面はおそらく、赤煉瓦でしょう。

白く映えているのは花崗岩と思われます。

煉瓦の朱と花崗岩の白、このモダンなコンビネーションから発散されるのは、辰野式フリークラシックの香りですね。

大日本帝国軍の建物となれば、赤煉瓦はおそらくイギリス積み。
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そして、こちらが明治初期(1870年代)の九段坂を描いた錦絵(多色刷り浮世絵)です。

右手に茶屋が見えるこの風景は、江戸時代を思いっきり引きずっています。

そして…左手には常燈明台が聳えているではありませんか!

赤煉瓦とは関係のない建築物ですが1871年、明治4年に建てられた常燈明台が、大正を越え、昭和をまたいで、平成も耐えて、ついに四つ目の年号を迎えんとしているのです。
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建立された明治初期となんら変わらぬ姿で、平成の終わりを静かに見つめる常燈明台は、城石の如く積まれた土台に、上部は和洋折衷という、和の方に軸足を置いた異形の常夜灯です。

往時は九段坂から東京湾、房総半島までもが展望できたそうです。

品川に入る船の目印、すなわち灯台のような役割も果たしていたと伝えられています。

常燈明台、なんともロマンチックでやんす!